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20 心機一転

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 目が覚めると、永井はいなかった。しんとした病室には遥しかおらず、一気に不安が押し寄せる。

 まさか、さっきのは夢だったのでは、と。

 すると、控えめにドアが開いた。そこからそっと入ってきたのは永井で、遥はホッとして力が抜ける。

「起きたのか。……どうした?」

 遥の表情を見て何かあったのかと尋ねてくる永井。遥は首を小さく振った。

「あの……」

 本当に、このひとは自分の恋人としてここにいるのか? なぜ、こんなことに首を突っ込もうと思ったのか? 聞きたいことが沢山あるのに、上手く言葉として出てこない。

「……素のきみはこんなに大人しいんだな」

 初めに突っかかってきたのが嘘のようだよ、と永井は遥の頭を撫でる。

「『小井出遥』はワガママで尊大で、気まぐれで……挑戦することが大好きなキャラクターなんです」

 これも、谷本に指示されたものだった。それでも実力と容姿で、みんなに慕われている。実際、そう振舞ってある程度支持者もいた。

 永井も、『小井出遥』のことが好きだから、恋人契約を持ち出したのだろうか? 谷本と離れた今、遥はもう永井と仲良くしなくてもいいし、舞台にも出られないから、本来はもう接点すらなくなるはず。

「……騙されたな……」
「え……」

 永井がふい、と顔を逸らした。やっぱり、永井は俳優の『小井出遥』の方が好きだったんだ、と視線を落とす。

「すみません……恋人契約は、もう継続することは難しいです。なので……」
「ああ、そうだな。では改めて、きちんとした恋人として立候補してもいいか?」

 え、と遥は顔を上げた。ばちっと視線があったけれど、永井は気まずそうに視線を逸らす。表情が出ないと思っていたけれど、今は彼から動揺が伝わる。けれど、冗談を言うひとではないし、どちらかといえば真面目なひとだ。だから、遥は本気で永井の意図が読めなかった。

「でも、いま騙されたって……」
「ああ。顔合わせの時も、居酒屋で飲んだ時も、そのあとも全部芝居で、素のきみを見せてもらえてなかったと……」

 ぽかんと口を開けたまま、遥は永井を見つめた。これはもしかして、初めから自分が目的で出資を……いや、雅樹に近付いたのでは、と思ってしまう。

「さすがだ。私もそれなりに人を見る目があると思っていたが……」
「あ、いえ……決して意識して演じていた訳じゃあ……」

 何だか永井が苦笑しているように見えたので、遥は慌てて否定した。もう長年『小井出遥』として生きてきたので、素を出す機会がなかっただけなのだ。

 すると、遥の言葉に思うところがあったのか、永井の眉がさらに下がる。意外と表情豊かなのかな、と思ってじっと見ていると、またふい、と顔を逸らされてしまった。

「その、じっと見てくるのは癖なのか?」
「え? あ、いえ、すみません……」
「いや、謝って欲しい訳じゃない」

 それでだ、と永井は遥の右手を握った。咄嗟にその手を引こうとしたけれど、ぎゅっと握られ、中指と人差し指の根元にできた、赤黒い跡をなぞられる。

「傷付いたヨウを私は支えたい。恋人として、新しい所属事務所の社長として」
「……え?」

 先程から、永井の言葉は遥の想像を越えていた。困惑するばかりで言葉が出ない遥に、永井はベッドのそばに跪く。

 過去に出演した映画のワンシーンみたいだな、と思った。当時の遥はもちろん、彼女役の女性の手を取り、その手に口付けする役をやっただけだけれど。まさか現実で、素のヨウとしてやられる側になるとは思いもしなかった。

「きみが子役の時から、ずっと追いかけていた。きみに近付いた理由は、木村さんと利害が一致したからだ」
「りがい……」

 思考が追いつかなくて、遥は永井の言葉をオウム返しするしかない。

 利害? 利害って何だ? と思って、気付いてしまう。

 遥の予想は当たっていた。永井は、やはり谷本から遥を引き離すために近付いたのだ。しかも、彼は子役時代からのファンだという。

「なかなか木村さんに繋がるツテができなくてね。やっと知り合えたと思ってヨウの話をしたら、個人的に食事に誘われて……」

 雅樹は、永井がどれだけ遥を好きか、試していたという。そして、顔合わせあとの居酒屋に行く前、雅樹にこう言われたらしい。

「遥はお酒の相手も、そのあと二人きりになったあとの相手も上手ですよと言われたんだ」
「……あの社長……」

 その言葉を見事「床上手」と捉えてしまった永井は怒り、品良く食事をする遥に、自分が誘われていると思ってさらにムカついたらしい。だから居酒屋では少し不機嫌そうだったのか、と遥は納得した。

「自分の所属俳優を何だと思っているんだ、と言ったら、真面目な永井さんなら遥を任せられそうだとニコニコしていたよ」

 してやられた、と永井は言っている。それに関しては遥も同情せざるを得ない。雅樹は永井を遥のファンだということを利用して谷本のことを話し、協力を仰いだということだ。

「社長の考えそうなことですね……」
「ああ。しかし、その口車に乗っても構わないと思うほど、私は遥……ヨウが好きなんだ。きみになら、どんな無理難題を言われても、叶えてあげたいと思うほどに」

 そう言って、永井は遥の手の甲に口付けをする。

「だから、新規で立ち上げる私の個人事務所に来て欲しい」

 眼鏡の奥の瞳は真っ直ぐに遥を見ていた。やはり表情からはあまり感情は見えないけれど、真剣なのは伝わってくる。

 そして、遥が勢いで退所すると言った言葉に、雅樹が直ぐに動いた理由もこれだったのか、と納得した。そして永井の、恋人契約の時に出されたもうひとつの契約も。

 永井の会社のイメージキャラクター。それはこういう意味だったのかと。

 事務所を新たに、今度は誰の言いなりでもない『小井出遥』を多くのひとに見せることができたら……。

 ワクワクした。しばらく休養が必要なのも、切り替えるのに丁度いいと思ったのだ。正直、不安がないと言えば嘘になるけれど、やってみせる、と遥は思う。

 なぜなら『小井出遥』は挑戦が好きなキャラクターなのだから。

「永井さん」

 遥は永井を真っ直ぐ見た。

「正直、僕は永井さんに惹かれていました。けど、ここにきて、それはただ単に優しさに飢えていただけなのかもって思っています」

 永井さんといると、これ以上なく安心するのは確かです、と遥は続ける。

「永井さんはここまでして僕を救ってくれました。僕はその恩を報いたい」

 永井は小さく頷いた。今はそれでいい、そう言われた気がする。

「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」

 そう言って、遥は頭を下げた。

 本当の意味で、遥の人生はここからがスタートだ。
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