上 下
16 / 32

16 聞き分けのいい子

しおりを挟む
 遥、これはお母さんとの秘密ね。

 ふわふわと、心地よい気分で遥は母の言葉を聞いていた。

 遥はまだ十歳にもならない年齢。甘えん坊の遥が珍しくその欲求が満たされた時の記憶だ。

 母の優しい手が頬を辿り、母の頬が額や頬に触れられる。愛してると囁かれて、自分はちゃんと母親に愛されているんだ、と思った。嬉しくて、遥は笑う。

「好きだから、こうするのよ。これは私の遥への、愛情表現なの」

 そう言った母は、顔を近付けた。

「──っ!」

 ハッと目を覚ました遥は飛び起きる。

「……え?」

 ヒヤリとした。今のはいつの記憶だ? 自分と谷本がそういう関係になったのは、遥が思春期を迎えてからだと思っていたのに、とサッと血の気が引く。忘れていただけなのか、思い出したくないことまで思い出してしまった。

 まだ朝方なのか、いつもの自分の部屋は薄暗い。しかも隣に温かい体温があり、それが誰なのか考えたくなくて素早くベッドから降りる。

 浴室に入り鍵をかけ、シャワーを浴びる。どういう流れであそこに谷本がいたのか、考えたくなかった。ただ分かるのは、自分の足でまた地獄に戻って来てしまった、ということだけだ。

 遥、ごめんなさい! 私がキツく当たりすぎた、反省するからどこにも行かないでちょうだい! 私をひとりにしないで……!

 昨晩の谷本の声が蘇り、吐き気がする。頻度はそれほどないとはいえ、血の繋がった肉親と繋がってしまった嫌悪感と不快感、罪悪感に何度もえづいて吐く。

 助けて欲しいと永井に対して思ったのに、自ら手を離したのは自分だ。永井は呆れているだろうと思うと、今度こそ絶望した。

 けれど、ひとりにしないでという母を遥は放っておけない。唯一の家族であり、今まで公私共に支えてくれたひとなのだ。

 あなただけが私の家族なの!

 谷本の泣き縋る声が頭から離れない。

 この、抜け出せない沼からどうしたら脱出できるのだろう? 昨日みたいに、無理やり離ればなれにされるのはもう嫌だ。

 遥はシャワーを浴びながら、まだ胃がムカムカした気がした。自分の中の汚いものを出したくて、指を口の中に突っ込む。

「僕は……『小井出遥』なんだから……」

 明るくて、人懐っこくて、わがままで、猫みたいに気まぐれで。それが本当の遥で、今の状態の自分は、本当の自分ではない。

 永井との契約を破棄したからこそ、この舞台は成功させなければ。そしてもっと役者として頑張って、谷本が自分から離れてくれるようにならなければ。

 遥はそう心に誓い、もう一度頭からシャワーを浴びた。

◇◇

 それから約半月後、舞台稽古も大詰めになり、通しでのリハーサルが増えていく。遥は順調に主役として立ち回り、周りとの信頼も得ていた。

「遥さん、こう見えて寂しがり屋なんですよー」
「ちょっと、そんなこと言ったら『かまってあげるー』ってひとがいっぱい来ちゃうでしょー?」

 急遽始まった番組も、公演が始まる前まで。遥は少し寂しさを覚えつつ、キャストと仲良く談笑している。

「いよいよ公演が始まります。それでは劇場でお待ちしてまーす!」

 カメラに向かって手を振ると、録画停止ボタンを押す。そのままそれをスタッフに渡し、稽古に戻ろうとしたところで永井と雅樹の姿を見つけて、笑顔で谷本の元へ行く。

「どうだった?」
「まずまずね。あなた以外はライバルなんだから、あんまり仲良くするのもどうかと思うわ」

 思った通りの返答がきて、遥は笑う。これでも、谷本の機嫌はいい方だ。もちろん表面上だけだよ、と小声で言う。

 あれから、永井と雅樹が揃って現場に来ることが増えた。谷本から遥を引き離す作戦が失敗に終わり、向こうも躍起になっているらしい。だから遥は彼らをそれとなく避けている。

「遥」

 そこへ、雅樹がやってきた。遥は谷本を庇うように背中に押しやると、「なに?」と笑顔で対応する。

「きみ、衣装合わせでサイズ直しすると聞いたよ。きちんと食べているかい?」
「ああ、ここのところ消費カロリー半端ないから、食べても痩せちゃうんだよね。でも、適正体重だから問題ないよ」

 嘘ではなかった。激しいダンスに戦闘シーン、歌にと舞台をやるにはかなりのカロリーを消費する。

「社長、遥はこの舞台を成功させるために頑張っているんですよ? そんな些細なことで水を差さないで欲しいです」

 谷本が口を挟んだ。案の定雅樹は眉根を寄せる。珍しい彼のそんな表情で、本気で遥のことを案じているのだと分かった。

「些細なこと? 舞台本番前にサイズダウンするほど痩せているのに、心配しない訳がないでしょう」
「遥の言う通り、消費カロリーが高いだけです。食事も私が管理しているのに、何が不満なんです?」
「いつもの遥なら、それも見越して体型をキープしているはず。だから心配している」
「まぁまぁ社長、僕がもう少し気を付ければよかったよ」

 遥は落ち着けとでも言うように両手を上げた。こんな所で揉めて欲しくない、と言うと雅樹はため息をつく。

「遥、最近は随分聞き分けがいいじゃないか。それが余計に……」
「うるさいな。……これでいい? 本番前で気が立ってるのに、僕の周りで騒がないでよ」

 遥は雅樹の発言を遮り、雅樹の望み通り反発する姿勢を見せてあげる。そして黙った雅樹を無視し、谷本を連れて控え室に向かった。

 ここのところ雅樹と谷本は、こんな感じで堂々といがみ合っているので、疲れる、とため息をつく。

 今言った言葉は半分は本当だ。舞台に集中したいのに、余計な心配事は増やして欲しくない。

「遥……私怖い……またあのひとたちが遥を連れ去るんじゃないかって……」
「ん、大丈夫だよ……」

 二人きりになったとたん擦り寄ってくる谷本を、遥は頭を撫でて慰める。谷本もあれから、こうして甘えてくることが多くなった。

 そして慰めと称して母親に触れる度、身体の中に汚いものが溜まる感触がするのだ。

「ごめん、トイレに行ってくる」

 すぐ戻るから、と言って不安げな谷本を残しトイレに行くと、個室に入る。そしてそのまま、思い切り指を口の中に突っ込んだ。

 遥が痩せた理由は単純だ。食べたものを吐き出しているから。しかし、雅樹に気付かれるほど痩せているとは思わず、遥は肩で息をしながら生理的に浮かんだ涙を拭う。

 そう、いつもの遥ならこの時期はカロリーも多く摂って体重をキープしている。なのにここのところ、谷本と接触があった時は、身体の中の汚いものを出すかのように吐いてしまうのだ。

 抑えられないこの衝動は、既に治療が必要な程度だとは理解している。けれど、芋づる式にすべてを話さなければならなくなるため、谷本にも隠していた。

「……」

 深呼吸をし、ある程度落ち着くと個室を出る。手と口を洗おうと足を踏み出した時、視界がぐらついた。

(やば……)

 そう思った時にはもう遅く、したたかに肩を打ち付ける。視界が回り起き上がれず、目を閉じて平衡感覚が戻るのを待った。

 まずい、本番前なのにこんなことになるなんて。

「遥!?」

 そんなことを思っていると、酷く安心する声がする。永井の声だ。どうしてこんなにタイミングよく来るのだろう、と思う。

 ああ、舞台を成功させなきゃいけないのに、こんな所で倒れている場合じゃない。

 そう思いながら、遥の意識は落ちていった。
しおりを挟む
感想 31

あなたにおすすめの小説

兄が届けてくれたのは

くすのき伶
BL
海の見える宿にやってきたハル(29)。そこでタカ(31)という男と出会います。タカは、ある目的があってこの地にやってきました。 話が進むにつれ分かってくるハルとタカの意外な共通点、そしてハルの兄が届けてくれたもの。それは、決して良いものだけではありませんでした。 ハルの過去や兄の過去、複雑な人間関係や感情が良くも悪くも絡み合います。 ハルのいまの苦しみに影響を与えていること、そしてハルの兄が遺したものとタカに見せたもの。 ハルは知らなかった真実を次々と知り、そしてハルとタカは互いに苦しみもがきます。己の複雑な感情に押しつぶされそうにもなります。 でも、そこには確かな愛がちゃんと存在しています。 ----------- シリアスで重めの人間ドラマですが、霊能など不思議な要素も含まれます。メインの2人はともに社会人です。 BLとしていますが、前半はラブ要素ゼロです。この先も現時点ではキスや抱擁はあっても過激な描写を描く予定はありません。家族や女性(元カノ)も登場します。 人間の複雑な関係や心情を書きたいと思ってます。 ここまで読んでくださりありがとうございます。

銀の森の蛇神と今宵も眠れぬ眠り姫

哀木ストリーム
BL
小さな国に、ある日降りかかった厄災。 誰もが悪夢に包まれると諦めた矢先、年若い魔法使いがその身を犠牲にして、国を守った。 彼は、死に直面する大きな魔法を使った瞬間に、神の使いである白蛇に守られ二十年もの間、深い眠りに付く。 そして二十年が過ぎ、目を覚ますと王子は自分より年上になっていて、隣国の王女と婚約していた。恋人さえ結婚している。 そんな彼を大人になった王子は押し倒す。 「俺に女の抱き方教えてよ」 抗うことも、受け止めることもできない。 それでも、守ると決めた王子だから。 今宵も私は、王子に身体を差し出す。 満月が落ちてきそうな夜、淡い光で照らされた、細くしなやかで美しいその身体に、ねっとりと捲きつくと、蛇は言う。 『あの時の様な厄災がまた来る。その身を捧げたならば、この国を、――王子を助けてやろう』 ユグラ国第一王子 アレイスター=フラメル(愛称:サフォー)(28) × 見習い魔術師 シアン = ハルネス(22)

【完結】あなたに撫でられたい~イケメンDomと初めてのPLAY~

金色葵
BL
創作BL Dom/Subユニバース 自分がSubなことを受けれられない受け入れたくない受けが、イケメンDomに出会い甘やかされてメロメロになる話 短編 約13,000字予定 人物設定が「好きになったイケメンは、とてつもなくハイスペックでとんでもなくドジっ子でした」と同じですが、全く違う時間軸なのでこちらだけで読めます。

45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる

よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です! 小説家になろうでも10位獲得しました! そして、カクヨムでもランクイン中です! ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。 いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。 欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・ ●●●●●●●●●●●●●●● 小説家になろうで執筆中の作品です。 アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。 現在見直し作業中です。 変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。

【完結】運命さんこんにちは、さようなら

ハリネズミ
BL
Ωである神楽 咲(かぐら さき)は『運命』と出会ったが、知らない間に番になっていたのは別の人物、影山 燐(かげやま りん)だった。 とある誤解から思うように優しくできない燐と、番=家族だと考え、家族が欲しかったことから簡単に受け入れてしまったマイペースな咲とのちぐはぐでピュアなラブストーリー。 ========== 完結しました。ありがとうございました。

【完結】嘘はBLの始まり

紫紺(紗子)
BL
現在売り出し中の若手俳優、三條伊織。 突然のオファーは、話題のBL小説『最初で最後のボーイズラブ』の主演!しかもW主演の相手役は彼がずっと憧れていたイケメン俳優の越前享祐だった! 衝撃のBLドラマと現実が同時進行! 俳優同士、秘密のBLストーリーが始まった♡ ※番外編を追加しました!(1/3)  4話追加しますのでよろしくお願いします。

【完結】僕の大事な魔王様

綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
BL
母竜と眠っていた幼いドラゴンは、なぜか人間が住む都市へ召喚された。意味が分からず本能のままに隠れたが発見され、引きずり出されて兵士に殺されそうになる。 「お母さん、お父さん、助けて! 魔王様!!」 魔族の守護者であった魔王様がいない世界で、神様に縋る人間のように叫ぶ。必死の嘆願は幼ドラゴンの魔力を得て、遠くまで響いた。そう、隣接する別の世界から魔王を召喚するほどに……。 俺様魔王×いたいけな幼ドラゴン――成長するまで見守ると決めた魔王は、徐々に真剣な想いを抱くようになる。彼の想いは幼過ぎる竜に届くのか。ハッピーエンド確定 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2023/12/11……完結 2023/09/28……カクヨム、週間恋愛 57位 2023/09/23……エブリスタ、トレンドBL 5位 2023/09/23……小説家になろう、日間ファンタジー 39位 2023/09/21……連載開始

【完結】もふもふ獣人転生

  *  
BL
白い耳としっぽのもふもふ獣人に生まれ、強制労働で死にそうなところを助けてくれたのは、最愛の推しでした。 ちっちゃなもふもふ獣人と、攻略対象の凛々しい少年の、両片思い? な、いちゃらぶもふもふなお話です。 本編完結しました! おまけをちょこちょこ更新しています。

処理中です...