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『蟻が死んじゃった?』
時は少し遡って、秀から蟻の巣観察キットをもらって数週間後。順調に巣を作り始めていたはずの蟻が、一匹、また一匹と動かなくなってしまったのだ。
餌はブルーのゼリーそのものだから大丈夫だと聞いていたけれど、何が原因なのか分からず秀に聞いたのだ。
『もしかしたら寿命だったのかもしれない。もう帰してあげた方が良いのかも』
そう言われて、冬哉は残念に思いながらも蟻を捕まえた公園に行って、逃がしてあげた。空になった観察キットを持ち帰って、せっかくもっと秀とこれについてお話できると思ったのにな、と寂しくなった。
「次は木村で」
指揮科の先生の声がして、ハッと冬哉は現実に戻ってきた。リアンの特別授業の最中に、集中力を切らして他のことを考えていたらしい。
(バカ! 集中しないと……)
冬哉は返事をして、学生の指揮でフルートソロの部分を演奏する。
曲はビゼーの『アルルの女』よりメヌエットだ。ゆったりとしていて有名なこの曲は、公開授業としても良い選曲だと思う。ゆったりだから丁寧さが求められるし、有名だからボロが出ればすぐに分かってしまうからだ。
リアンは学生の横で、指揮棒の振り方を指示しながら一緒に振っている。呼吸、表情、見やすい指揮棒の振り方……意外と指揮者は演技派じゃないと務まらない。
何度か同じ所をさらっていると、リアンと目が合った。するとリアンはウインクをし、冬哉は戸惑う。
(えっと……今のはどういう意味かな?)
「木村、色目使ってんじゃねーよ」
後ろの席の学生がボソリと呟いた。とりあえず集中、と演奏に専念していると、あっという間に授業は終わり、リアンはまた拍手で見送られた。
「無事乗り切ったな……」
春輝がホッとしたように呟く。冬哉も力なく笑うと、ソロを吹いたもう一人の先輩に声を掛けられた。
「あんな音で、どうして私の方がソロの時間が短いのか……本当に意味が分からない」
気の強い女子学生だったようで、そんな捨て台詞を吐いて去っていく。それはリアンに聞いてくれと冬哉は思ったけれど、実際に言うと面倒な事になるので止めた。
その後、楽器を片付けていると、指揮科の先生から呼び出しを受けた。何だろうと思って指定された場所に行くと、レッスン室でリアンが待っているのだ。
「ああ、初めまして冬哉」
綺麗な日本語で、しかも笑顔で右手を差し出してくるリアンはとても嬉しそうだ。何故面識もないのに、と不思議がって右手を出して握手をすると、早速だけど、とリアンは話を切り出す。
「残念だよ冬哉」
「……え?」
「私が聴いた君の音はこんなものじゃなかった。そもそも君は、大学なんていう、型にはまった所にいるべきじゃないんだ」
君も薄々気付いているだろう? と聞かれ、何故リアンがそんな事を言ってくるのだろう、とますます不思議に思う。確かに大学にいて学べることはある。けれど、どこかつまらなくなってきていて、もっと楽しく演奏できる場所はないのか、と感じていた。
「大学に入って、君の個性が死んでいるようなら、通う意味はあるのかと、君の先生に進言したところだよ」
けど、とリアンは続ける。
「さっきの君の音は上の空だったね。何を考えていたのかな?」
「……いえ、すみません……」
冬哉が他のことを考えていたことを、しっかりと見抜いていたリアンに、冬哉はドキリとして俯いた。謝って欲しい訳じゃないよ、とリアンは甘いマスクをさらにとろけるような笑顔にする。
「冬哉……」
リアンは近付き、冬哉の顔を覗き込むように前かがみになった。顔の距離が近付いて冬哉はキュッと唇を結ぶと、リアンは急に真顔になる。
「恋にうつつを抜かしてないで、さっさと縁を切って私に付いてきなさい」
「……っ」
一体何を言われているんだ、と冬哉は思った。恋をしているなんてどこで分かったのか、とか縁を切れ、とか私に付いてきなさいとはどういう意味だ、とそれぞれ考える。
「音が悪くなるような相手なら、ろくな奴じゃないんだろう?」
リアンは冬哉の顎に手を当て、指で柔らかな唇をなぞった。その瞬間ゾワッと鳥肌が立ち、リアンの手を振り払う。
「ふざけるな!」
冬哉はリアンを睨んだ。真顔になったリアンは身体を起こすと、次の瞬間には大きな声を上げて笑い出す。何なんだ、と思っていると、彼は何だ、縁を切るのは嫌なんじゃないか、と言った。
「恋は甘いだけじゃないよ冬哉。苦しい恋も、全て君の音の材料だ」
するとリアンはますます気に入った、と冬哉にあるパンフレットを渡す。そこにはリアンが立ち上げる予定の楽団と、楽団員募集の文字があった。まさか、と思ってリアンを見るとウインクされた。
「そう、君をスカウトに来たのさ。私も日本に住む目処が立ったし、日本を中心に活動しようと思っててね」
君はもう、演奏家として充分やっていける技量も場数も踏んでいる、大学を辞めて私の楽団に入らないかい? と言われて、冬哉は急に目の前が晴れた気がした。音楽に携わっていてこんなにワクワクしたのは久しぶりで、春輝の音を初めて聴いた時以来だ、と二つ返事でリアンに伝えた。これなら……この道なら演奏家としてやっていける、冬哉はそう確信した。
「あ、でも……」
冬哉は視線を落とす。するとリアンは何か心配事でも? と首を傾げた。
「私事で申し訳ないのですが、祖父が亡くなった事で色々と揉めてまして……」
大学を辞めたとしてもバタバタしているのは変わりなく、すぐに仕事として動けるか確約ができない、と話す。すると彼はうーん、と考えた後、こうしよう、と提案してきた。
「それが落ち着くまで君の仕事はセーブしよう。そしてその間は、ある程度の収入も保証する」
契約書にもそう足しておこう、と言われそこまで期待されているのなら、と冬哉は頷く。
「恋の方も、キチンとしておくんだよ? 音に影響出たら、私の面目丸つぶれだ」
「う、……はい」
冬哉は後日きちんとした契約を結ぶと約束し、連絡先も交換して、リアンと別れる。春輝が心配して近くで待っていてくれていたので微笑みかけると、春輝も笑った。
「悪い話じゃなかったみたいだな」
「うん。僕、学校辞めるよっ」
それを聞いた春輝が、驚いてとてつもなく大きな声を上げたのは、言うまでもない。
時は少し遡って、秀から蟻の巣観察キットをもらって数週間後。順調に巣を作り始めていたはずの蟻が、一匹、また一匹と動かなくなってしまったのだ。
餌はブルーのゼリーそのものだから大丈夫だと聞いていたけれど、何が原因なのか分からず秀に聞いたのだ。
『もしかしたら寿命だったのかもしれない。もう帰してあげた方が良いのかも』
そう言われて、冬哉は残念に思いながらも蟻を捕まえた公園に行って、逃がしてあげた。空になった観察キットを持ち帰って、せっかくもっと秀とこれについてお話できると思ったのにな、と寂しくなった。
「次は木村で」
指揮科の先生の声がして、ハッと冬哉は現実に戻ってきた。リアンの特別授業の最中に、集中力を切らして他のことを考えていたらしい。
(バカ! 集中しないと……)
冬哉は返事をして、学生の指揮でフルートソロの部分を演奏する。
曲はビゼーの『アルルの女』よりメヌエットだ。ゆったりとしていて有名なこの曲は、公開授業としても良い選曲だと思う。ゆったりだから丁寧さが求められるし、有名だからボロが出ればすぐに分かってしまうからだ。
リアンは学生の横で、指揮棒の振り方を指示しながら一緒に振っている。呼吸、表情、見やすい指揮棒の振り方……意外と指揮者は演技派じゃないと務まらない。
何度か同じ所をさらっていると、リアンと目が合った。するとリアンはウインクをし、冬哉は戸惑う。
(えっと……今のはどういう意味かな?)
「木村、色目使ってんじゃねーよ」
後ろの席の学生がボソリと呟いた。とりあえず集中、と演奏に専念していると、あっという間に授業は終わり、リアンはまた拍手で見送られた。
「無事乗り切ったな……」
春輝がホッとしたように呟く。冬哉も力なく笑うと、ソロを吹いたもう一人の先輩に声を掛けられた。
「あんな音で、どうして私の方がソロの時間が短いのか……本当に意味が分からない」
気の強い女子学生だったようで、そんな捨て台詞を吐いて去っていく。それはリアンに聞いてくれと冬哉は思ったけれど、実際に言うと面倒な事になるので止めた。
その後、楽器を片付けていると、指揮科の先生から呼び出しを受けた。何だろうと思って指定された場所に行くと、レッスン室でリアンが待っているのだ。
「ああ、初めまして冬哉」
綺麗な日本語で、しかも笑顔で右手を差し出してくるリアンはとても嬉しそうだ。何故面識もないのに、と不思議がって右手を出して握手をすると、早速だけど、とリアンは話を切り出す。
「残念だよ冬哉」
「……え?」
「私が聴いた君の音はこんなものじゃなかった。そもそも君は、大学なんていう、型にはまった所にいるべきじゃないんだ」
君も薄々気付いているだろう? と聞かれ、何故リアンがそんな事を言ってくるのだろう、とますます不思議に思う。確かに大学にいて学べることはある。けれど、どこかつまらなくなってきていて、もっと楽しく演奏できる場所はないのか、と感じていた。
「大学に入って、君の個性が死んでいるようなら、通う意味はあるのかと、君の先生に進言したところだよ」
けど、とリアンは続ける。
「さっきの君の音は上の空だったね。何を考えていたのかな?」
「……いえ、すみません……」
冬哉が他のことを考えていたことを、しっかりと見抜いていたリアンに、冬哉はドキリとして俯いた。謝って欲しい訳じゃないよ、とリアンは甘いマスクをさらにとろけるような笑顔にする。
「冬哉……」
リアンは近付き、冬哉の顔を覗き込むように前かがみになった。顔の距離が近付いて冬哉はキュッと唇を結ぶと、リアンは急に真顔になる。
「恋にうつつを抜かしてないで、さっさと縁を切って私に付いてきなさい」
「……っ」
一体何を言われているんだ、と冬哉は思った。恋をしているなんてどこで分かったのか、とか縁を切れ、とか私に付いてきなさいとはどういう意味だ、とそれぞれ考える。
「音が悪くなるような相手なら、ろくな奴じゃないんだろう?」
リアンは冬哉の顎に手を当て、指で柔らかな唇をなぞった。その瞬間ゾワッと鳥肌が立ち、リアンの手を振り払う。
「ふざけるな!」
冬哉はリアンを睨んだ。真顔になったリアンは身体を起こすと、次の瞬間には大きな声を上げて笑い出す。何なんだ、と思っていると、彼は何だ、縁を切るのは嫌なんじゃないか、と言った。
「恋は甘いだけじゃないよ冬哉。苦しい恋も、全て君の音の材料だ」
するとリアンはますます気に入った、と冬哉にあるパンフレットを渡す。そこにはリアンが立ち上げる予定の楽団と、楽団員募集の文字があった。まさか、と思ってリアンを見るとウインクされた。
「そう、君をスカウトに来たのさ。私も日本に住む目処が立ったし、日本を中心に活動しようと思っててね」
君はもう、演奏家として充分やっていける技量も場数も踏んでいる、大学を辞めて私の楽団に入らないかい? と言われて、冬哉は急に目の前が晴れた気がした。音楽に携わっていてこんなにワクワクしたのは久しぶりで、春輝の音を初めて聴いた時以来だ、と二つ返事でリアンに伝えた。これなら……この道なら演奏家としてやっていける、冬哉はそう確信した。
「あ、でも……」
冬哉は視線を落とす。するとリアンは何か心配事でも? と首を傾げた。
「私事で申し訳ないのですが、祖父が亡くなった事で色々と揉めてまして……」
大学を辞めたとしてもバタバタしているのは変わりなく、すぐに仕事として動けるか確約ができない、と話す。すると彼はうーん、と考えた後、こうしよう、と提案してきた。
「それが落ち着くまで君の仕事はセーブしよう。そしてその間は、ある程度の収入も保証する」
契約書にもそう足しておこう、と言われそこまで期待されているのなら、と冬哉は頷く。
「恋の方も、キチンとしておくんだよ? 音に影響出たら、私の面目丸つぶれだ」
「う、……はい」
冬哉は後日きちんとした契約を結ぶと約束し、連絡先も交換して、リアンと別れる。春輝が心配して近くで待っていてくれていたので微笑みかけると、春輝も笑った。
「悪い話じゃなかったみたいだな」
「うん。僕、学校辞めるよっ」
それを聞いた春輝が、驚いてとてつもなく大きな声を上げたのは、言うまでもない。
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