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それから月をまたいで十一月の頭に、旭は静かに息を引き取った。山場と言われた日を乗り越えたので、冬哉は少し期待したけれど、意識が戻ることはなかった。
旭の葬儀は盛大に行われ、こんなにも多くの人の生活を支えていたんだな、と冬哉は改めて旭の偉大さを実感する。
そして葬儀も終わり、親戚一同で食事をしているところに弁護士を名乗る男が来た。やはり旭は何の対策もなく逝く人ではなかったか、とホッとしたけれど、旭の遺言では樹には会社を譲らないとあって、大いに揉めた。それもそうだろう、樹は経営そっちのけで私腹を肥やそうとしていたのだから。代わりに雅樹が後を継ぎ、事業や会社の後継ぎの話は終わる。
しかし問題は資産だ。旭名義の土地や財産は旭の子供に平等に分けられるべきだが、何故かそこに冬哉の名前が入っていたのだ。それにまた樹は猛反対し、またあれこれと言われる羽目になってしまった。
樹は裁判を起こしてやると息巻いていて、その時はそれで話は終わったけれど、やっぱりすんなりいかないのか、とうんざりする。
そして悪い事は重なるようで、リアンの特別授業でのフルートソロ候補に、四年生の先輩と冬哉が挙げられる。旭の事でバタバタしていて、授業もろくに出ていないくせにどうして、と嫉妬されてしまった。
「リアン先生と寝たんじゃないの?」
そんな声が同期の間で上がり始めた時には、リアンの授業の直前になっていて、冬哉は食堂の机にため息とともに突っ伏した。
「冬哉……大丈夫?」
「うん……」
色々あり過ぎて頭がパンクしそうだ、と冬哉はふわふわの天然パーマの髪をくしゃくしゃと掻く。滅多に見せないイライラした態度に、春輝は驚いていた。
「嫉妬して文句言う時間があれば、少しは練習すれば? って思うよね」
「う、うん……冬哉、顔怖い」
冬哉は春輝を見る。鋭い視線にう、と息を詰まらせた彼は、誤魔化すように笑って明後日の方向を見た。
「あ、秀さんはあれからどうなった?」
こともあろうに空気が読めない春輝は、そんな事を聞いてくる。は? と冬哉は彼を睨むと、春輝は首を竦めた。
冬哉は一つため息をつくと、スマホを取り出しメッセージを見せる。
「『どうした? 何かあった? 原因が俺なら、会わないという理由を教えてくれ』……って、すごく心配してるじゃん」
これ、返信した方がいいんじゃないの? という春輝からスマホを受け取ると、そのままそれをしまった。
「もういい。もう全部めんどくさい……」
「冬哉……」
冬哉は再び机に突っ伏すと、学と莉子の言葉を思い出す。
心配しなくていい、樹の事は任せておけ。
そうよ、あなたは今しかできない事をやればいいの。
それはずっと言われてきた言葉だ。だからフルートに打ち込めた。けれど、それで両親を苦しめてはいないか? とずっと思っていた。本当は、跡を継いで欲しいんじゃないか、親戚にあれこれ言われる事が苦痛なのではないのか、と……自分だけ音楽の世界に逃げても良いのか、と。
だからこそ、冬哉はこの道で成功しなくてはいけなかった。旭や両親、雅樹が守ってくれたこの道を、冬哉は通らなければいけないんだと。
恋愛なんてしている場合じゃない。
冬哉は顔を上げる。練習するから帰る、と言って立ち上がると、春輝は慌てて止めようとした。
「冬哉待ってよ。そんな顔で練習なんかしても、ろくな事にならないぞ?」
「……そんな顔って何?」
春輝は立ち上がって、冬哉と視線を合わせる。
「冬哉は俺が大変な目に遭った時、そんな音でコンクール出て欲しくないって言ったよな? それ、今の冬哉にそのまま返す」
冬哉は思わず春輝を睨んだ。人を睨むなんてそうそうしないので、春輝はほら、と頭を撫でる。
「絶対音に出る。それでリアン先生の前で吹いたら冬哉の立場、もっと悪くなるよ」
それはもっともだ、と冬哉は思った。肝心な時に最高のパフォーマンスができなかったら、もっと悪い事を言われるだろう。
冬哉は春輝に感謝した。とりあえず落ち着こうと、長く息を吐くと春輝に微笑んで礼を言う。
「ありがとう春輝」
「……いや。冬哉がそうなるのって珍しいから。オレにもっと相談してくれたら、嬉しいんだけど?」
「……うん、そのうちね」
本当かなぁ、と春輝は笑った。とりあえず、冬哉が笑ったので安心したようだ。
とりあえず、やっぱり練習するから帰るという冬哉を、今度は春輝は止めなかった。本当に良い子だなと思うのと同時に、今度春輝の恋人には、絶対泣かすなと釘を刺さないとな、と誓う。
そしてあっという間の特別授業当日。朝からピリピリしたホールで、学生たちはリアンを待っていた。
リアンは音楽業界では割と有名な指揮者で、比較的若いながらもその腕はベテラン指揮者に引けを取らず、今業界では人気な指揮者の一人だ。
冬哉は名前くらいは知っていて、日本のテレビ番組にも出ていたのを観たことがあるけれど、甘いマスクに常に微笑みをたたえたその顔は、なるほど人気が出るわけだ、と思った。
親日家というのも知られていて、暇さえあれば日本に来ているという噂だが、多分冬哉の演奏を聞いた時も、プライベートで来ていたのだろう。
するとホールの入口からリアンがやってくる。公開授業なので、一般の人も観客席にいるが、みんな拍手で出迎えた。
旭の葬儀は盛大に行われ、こんなにも多くの人の生活を支えていたんだな、と冬哉は改めて旭の偉大さを実感する。
そして葬儀も終わり、親戚一同で食事をしているところに弁護士を名乗る男が来た。やはり旭は何の対策もなく逝く人ではなかったか、とホッとしたけれど、旭の遺言では樹には会社を譲らないとあって、大いに揉めた。それもそうだろう、樹は経営そっちのけで私腹を肥やそうとしていたのだから。代わりに雅樹が後を継ぎ、事業や会社の後継ぎの話は終わる。
しかし問題は資産だ。旭名義の土地や財産は旭の子供に平等に分けられるべきだが、何故かそこに冬哉の名前が入っていたのだ。それにまた樹は猛反対し、またあれこれと言われる羽目になってしまった。
樹は裁判を起こしてやると息巻いていて、その時はそれで話は終わったけれど、やっぱりすんなりいかないのか、とうんざりする。
そして悪い事は重なるようで、リアンの特別授業でのフルートソロ候補に、四年生の先輩と冬哉が挙げられる。旭の事でバタバタしていて、授業もろくに出ていないくせにどうして、と嫉妬されてしまった。
「リアン先生と寝たんじゃないの?」
そんな声が同期の間で上がり始めた時には、リアンの授業の直前になっていて、冬哉は食堂の机にため息とともに突っ伏した。
「冬哉……大丈夫?」
「うん……」
色々あり過ぎて頭がパンクしそうだ、と冬哉はふわふわの天然パーマの髪をくしゃくしゃと掻く。滅多に見せないイライラした態度に、春輝は驚いていた。
「嫉妬して文句言う時間があれば、少しは練習すれば? って思うよね」
「う、うん……冬哉、顔怖い」
冬哉は春輝を見る。鋭い視線にう、と息を詰まらせた彼は、誤魔化すように笑って明後日の方向を見た。
「あ、秀さんはあれからどうなった?」
こともあろうに空気が読めない春輝は、そんな事を聞いてくる。は? と冬哉は彼を睨むと、春輝は首を竦めた。
冬哉は一つため息をつくと、スマホを取り出しメッセージを見せる。
「『どうした? 何かあった? 原因が俺なら、会わないという理由を教えてくれ』……って、すごく心配してるじゃん」
これ、返信した方がいいんじゃないの? という春輝からスマホを受け取ると、そのままそれをしまった。
「もういい。もう全部めんどくさい……」
「冬哉……」
冬哉は再び机に突っ伏すと、学と莉子の言葉を思い出す。
心配しなくていい、樹の事は任せておけ。
そうよ、あなたは今しかできない事をやればいいの。
それはずっと言われてきた言葉だ。だからフルートに打ち込めた。けれど、それで両親を苦しめてはいないか? とずっと思っていた。本当は、跡を継いで欲しいんじゃないか、親戚にあれこれ言われる事が苦痛なのではないのか、と……自分だけ音楽の世界に逃げても良いのか、と。
だからこそ、冬哉はこの道で成功しなくてはいけなかった。旭や両親、雅樹が守ってくれたこの道を、冬哉は通らなければいけないんだと。
恋愛なんてしている場合じゃない。
冬哉は顔を上げる。練習するから帰る、と言って立ち上がると、春輝は慌てて止めようとした。
「冬哉待ってよ。そんな顔で練習なんかしても、ろくな事にならないぞ?」
「……そんな顔って何?」
春輝は立ち上がって、冬哉と視線を合わせる。
「冬哉は俺が大変な目に遭った時、そんな音でコンクール出て欲しくないって言ったよな? それ、今の冬哉にそのまま返す」
冬哉は思わず春輝を睨んだ。人を睨むなんてそうそうしないので、春輝はほら、と頭を撫でる。
「絶対音に出る。それでリアン先生の前で吹いたら冬哉の立場、もっと悪くなるよ」
それはもっともだ、と冬哉は思った。肝心な時に最高のパフォーマンスができなかったら、もっと悪い事を言われるだろう。
冬哉は春輝に感謝した。とりあえず落ち着こうと、長く息を吐くと春輝に微笑んで礼を言う。
「ありがとう春輝」
「……いや。冬哉がそうなるのって珍しいから。オレにもっと相談してくれたら、嬉しいんだけど?」
「……うん、そのうちね」
本当かなぁ、と春輝は笑った。とりあえず、冬哉が笑ったので安心したようだ。
とりあえず、やっぱり練習するから帰るという冬哉を、今度は春輝は止めなかった。本当に良い子だなと思うのと同時に、今度春輝の恋人には、絶対泣かすなと釘を刺さないとな、と誓う。
そしてあっという間の特別授業当日。朝からピリピリしたホールで、学生たちはリアンを待っていた。
リアンは音楽業界では割と有名な指揮者で、比較的若いながらもその腕はベテラン指揮者に引けを取らず、今業界では人気な指揮者の一人だ。
冬哉は名前くらいは知っていて、日本のテレビ番組にも出ていたのを観たことがあるけれど、甘いマスクに常に微笑みをたたえたその顔は、なるほど人気が出るわけだ、と思った。
親日家というのも知られていて、暇さえあれば日本に来ているという噂だが、多分冬哉の演奏を聞いた時も、プライベートで来ていたのだろう。
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