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葛藤〜道端の人形〜

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「葛藤」


 愛と欲望にまみれた薄汚いビルが並ぶ新宿駅。赤や白、黄色に光る騒がしい路上。まるで眠りを知らない街のようだ。電話をしながら歩くサラリーマンに、駅前で熱唱するシンガーソングライター、スカートを短く折り曲げてゲラゲラ笑う女子高校生の集団…。
その中にポツリ、彼女は頭を抱えて歩いている。俯く小さな影には小粒の雨が流れている。息苦しいマスクの中から声にならなない声が聞こえる。
“信じるってなんなの…”
この情報量の多い街で彼女はひたすらに歩いた。

***


彼女はいつだって、ロマンに溢れるステキな恋愛に憧れていた。
小さい頃、恋愛と言うものはいつだって純白で綺麗な存在だと思っていた。
漫画や小説を読みながら「いつか私もあんな風な恋愛がしたい」だとかを本気で考えていた。でも、それは浅はかで愚かな考え方だったことに気づく。
大人になるにつれて、ステキな恋愛というものは、綺麗なことばかりではないことを学んだ。
愛とか恋に確かな答えなどないことは分かる。恋愛の本質なんて知らない。
だけど彼女は思う、
汚さという影が美しい光を生み出すグロテスクこそ恋愛の全てなのかもしれない。

****

「電気消そうか」
オレンジ色の品のある光が薄闇に消える。暖かいようで冷たい指が触れて体が疼く。ふかふかな白に包まれながら汚れていく。
始まりは悲しさの埋め合わせだった。好ましくない関係だと言うことを承知の上で悪夢の入り口を通り抜けた。寂しさの埋め合わせなんてくだらない。あっけなく終わって、後で後悔するだけなのに。でもなぜだか心が弱っている時、善悪の判断が鈍る。とにかく目の前の塊が全ての悪事を忘れさせてくれるような気がしてならなかった。

「大丈夫、すぐに消えるから」
低く太い声が耳元で囁く。
目頭から熱い何かが流れ落ちる。

「さよなら、和くん…」
聞こえない声を脳内に巡らせた。

今から二週間前の早朝、付き合っていた彼氏が、愛人とともに姿を消した。連絡の一切が途絶えてしまった和くんと言う名の優しくて暖かかった人。全てが偽りの愛で成り立っていた事実を知って、自分が惨めで愚かに思えた。そして寂しくて切なかった。こういう感情で痛めつけてくるのならば、もっともっと痛い目にあってこの感情を東京湾にでも沈めてやりたいと願った。

願ってしまったが故に悪夢が始まったのだが…。


スモークツリーが淡く咲き誇る5月。新宿駅の時計塔が美しく見えるテラスが大好きな私は、毎日のように黄昏ることが増えた。前々から黄昏ることはあったが、最近は失恋のための黄昏だ。暗闇の中から時計塔の輝きを見つめていると、何だか気持ちが楽になる。
そう言う日々の中で彼と出会ったのだ。
いつものようにテラスの白いベンチで珈琲を飲んでいた時だった。
「ここ、綺麗ですよね」
低くて暖かい声が私に向けられた。
「すいません、いきなり。僕も最近よくここに来てこの時計塔見るんですよ。何度かあなたが目に入って一度声をかけてみたいと…。迷惑ですよね、本当すいません」
誤ってばかりの印象を持つその男性は、悲しさを抱えているようにも見える。スーツを綺麗に着こなしているが、ネクタイの動揺が見受けられる。きっとこの人は真っ直ぐで素直な人だと思う。そして最近慌ただしい心情を味わっている。
「綺麗ですね」
私も少し気になって会話を始める。耳元に小さなピアスが上品に空いているのが目に入る。大人しい喋り方との温度差が著しい。彼は私と同様に失恋をしたらしい。そしてこの黄昏場所を見つけたのだ。遠距離という隔たりが彼女の浮気を招き、別れを導いたと話していた。それから私たちは似た者同士であると錯覚をした。だからお互いに話すことで静かに寂しさから解放しようと努力した。そしてそれが徐々に間違った慰め合いに陥ったのだ。
煌びやかなようで薄汚い町の奥に潜む俗愛な建物の一室。私たちは寂しさを癒すためだけに一つになった。例えるなら純白なミルクに珈琲が注がれていく瞬間だった。私も彼も甘さの中の苦さを好んだ。ここには寂しさを埋める以外の感情は芽生えてはいけない。前に進めば結果は同じ。お互いそれを理解しているから。

そうしてミルクと珈琲は同じマグカップに注がれる日々が続いた。
二人は俗愛者になった。

友達でも恋人でもない曖昧な関係。二人の間違った世界が居場所を作る。梅雨を越してもうすぐ夏を迎えようとしている。人が心地の良い夢を見ている時、覚めたくないと願う気持ちがすごく分かる。この俗愛があれば傷つくことも嘆くこともないのだろうと愚かな考えが頭の中に巡るようになった。


時は刻々と流れ、夏の暑さが増す8月に突入した。私は母の頼みで石川県の祖母の家に1ヶ月滞在することになった。畑仕事の手伝いの為に送り込まれたのだ。しばらくの間、行っていなかっただけなのに、田舎の空気に懐かしさを覚える。昼間は畑の手伝いに夜はリモートバイト。のどかな街で忙しく過ごした。気づけば東京へ帰る3日前になっていた。いつも通り畑の仕事を手伝い帰宅をすると、祖母が近所の手作りドーナッツを買ってきてくれた。

それでふと思い出したのだ。

幼い頃、お母さんが作ってくれるドーナッツが大好きだったこと。特に真ん中の大きな穴から空を除くのが楽しくてたまらなかった。
「ねえ知ってる?ドーナッツの穴は食べられるのよ。」
いつだったか、お母さんが小麦粉と卵、それにバターを取り出しながら教えてくれたことがある。ボウルにそれらを無造作に入れて生地作り上げる。生地を次々と形成していく。そして最後に形にするのには足りない量の生地を丸めて、
「ほら、これよ!」
と、教えてくれた。幼かった私はこれがドーナッツの穴なのだと思っていた。

でも今思えばそれはただの生地の塊。ドーナッツの穴ではない。
ドーナッツの空洞が埋まることは昔も今も決してなかった。

それで気づいたのだ。

なにかの空白を埋めることは容易なことではない。
たくさんの時間と葛藤と勇気だとかが必要なんだと思う。
だからこそ瞬時の埋め合わせではダメなのだ。

なぜだか彼との関係が恐ろしく冷たく感じて急に涙が出てきた。
「そんなに美味しかったのかい?」
祖母が不思議そうに顔を覗き込んできた。
「うん、すっごく。」
美味しかった。美味しすぎて無くなるのが怖かった。でも一番怖いのは美味しさに溺れて依存をすることだ。私は自ら彼との関係を終わりにしなければいけない。


だから東京に戻ったその日、伝えた。
「もう曖昧な関係はやめたい」
寂しさの埋め合いは何も生まれない。だからこそ私たちは自分自身で立ち上がるしかないことをきちんと伝えた。でも、彼は納得しなかった。
「急にそれは悲しいし、離れたくない。信じてほしい」
動揺する彼の涙交じりの声が伝わってくる。こういうのはずるいと思う。

結局、私たちは終われなかった。

「信じてほしい」の言葉。繰り返し脳裏に染み付く。何を信じて欲しかったのかはよく分からない。だけれども、なんだかわからない何かを信じて彼を恋愛として見ることにした。
正直あまり好きなところがなかった。強いて言うなら優しく抱き寄せてくれるところ。温もりが好きだった。曖昧な感情から無理矢理に好きを見つけだした。私はつくづく愚かだと思う。好きとかそう言う感情って頑張ってるくるものじゃないのに。彼の放った言葉の意味を勝手に解釈をして感情を操作した。こうすることの中で彼を好きになった。

一方で彼は間違った方へとさらに変化した。寂しさを埋める代わりに自分の欲を埋めるだけの都合の良い扱いをしてくるようになった。

それでも素直に信じた。

でも、あの時に戻れるなら言いたいことがある。
「なんで解放してくれなかったの?」
きっと関係を辞めたいと告げた日、ようやく手に入れた都合の良いおもちゃを手放したくなかっただけなのかもしれない。

今日も色あせた塊が小さな部屋の小さな机の横にいる。「こっちにおいで」といつもと同じ布団に招かれる。彼の俗物にまみれた温もりが後ろからじわじわ伝わる。

頑張っていた笑顔も最近はよく引き攣る。
そしてついに気持ち悪くなった。彼の隣に眠り込むのを体が拒絶する。
ベットから少し離れた冷たい床が私にはちょうど良かった。床に体温が移っていくように、僅かに身体に住み着いた狂った愛も私の身から消えていってくれる感じがしたから。
「ねえ、いつになったら…」
ポツリと呟いた。

それからズルズルとクリスマス直前を迎えたある日のこと。

悲しいくらいに街が綺麗に見えたあの日の夜。いつもと同じ小綺麗で二人には少し狭い部屋の中。
「電気消そうか」
リモコンに手を伸ばす彼。いつものような声で始める。でも、いつもより激しく痛いくらいに重ね合わせてくる目の前の塊。使えなくなったおもちゃを最後に噛み締めるみたいに扱ってくる。さっきまでの時間だとか全部無かったかのように、男という生物的本能をむき出しに痛めつけてきた。始まりの日と同じ、涙交じりの重なり合い。

“ねえ、もう私は君のことそれほど好きじゃないよ…”

信じて欲しいの言葉をひたすらに信じていた自分自身のことが好きだっただけ。愚かな私はようやく頭の中に終点が見えた。全てが終わってから隣で眠りにつく彼を置き去りにわたしはその場から飛び出した。

サヨナラ

冷たいドアに手をかけた時、彼が寝返りを打った。

***

使い古された人形が路上にポツリと転がっている。騒がしい街でその人形に気づく者は誰一人といるはずもなく、皆スタスタと歩き去っていく。ただ一人彼女だけは人形の方へ歩いた。
「頑張ったよね」
何もかもがボロボロのそれを抱き上げて、彼女の一番お気に入りの場所まで運んだ。
幻想的に光る時計塔の見えるベンチの上、カバンの中の小さな裁縫道具を取り出し、針に糸を通す。それから彼女が身につけていたお気に入りの服を破いて、大きく開いてしまった右側を丁寧に縫い合わせた。
そうしてしばらくして
彼女の影はボロボロの人形と共に亡くなった。

嘘と愛から逃げたが故に
彼女は自分自身を殺めた。
薄汚く凍え切った心を捨て、綺麗に生き返るために。




    





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