サディスティックなプリテンダー

櫻井音衣

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最後にもう一度だけ

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一人きりになると、僕はその場に座り込んで頭を抱えた。
悲しそうな杏さんの顔が目に焼き付いて離れない。
僕はどうすれば良かったのか?
本当は杏さんを思いきり抱きしめて、好きだと言いたかった。
夢じゃなくて本当に、この手で杏さんを抱いて僕だけのものにしたいと思った。
だけど杏さんは『本当の恋人にするみたいに優しくして欲しい』って言ったんだ。
僕がどんなに本気で杏さんを想っても、これ以上ないくらい優しく抱いても、僕は杏さんの本物の恋人にはなれない。
杏さんとの思い出を増やすほど、明日からの一人の生活はつらくなる。
杏さんの心に汚点を残さないためにも、お互いが傷付かないためにも、きっとこれで良かったんだと思う。
体だけを重ねたって、杏さんが僕を好きだと言ってくれなければ意味がないと気付いたから。


翌朝。
僕はいつも通り二人分の朝食と弁当を用意した。
蓮根のはさみ揚げやカボチャの煮付け、卵焼きとほうれん草のごま和え、タコさんウインナーにリンゴのウサギ、刻んだ梅とシソとちりめんじゃこのおにぎり、それからいつものように具だくさんの味噌汁。
杏さんが好きだった料理と、杏さんへの僕の想いを弁当箱に目一杯詰め込んだ。
杏さんに僕の料理を食べてもらうのは、きっとこれが最後だ。
住む世界の違う杏さんとはもう二度と会えないかも知れないけれど、たまには僕が作った料理と一緒に僕の事も思い出してくれるといいな。


僕が会社に行く時間になっても、杏さんは部屋から出てこなかった。
夕べの事が気まずくて顔を合わせづらいのかも知れない。
最後くらい一緒に朝食を食べたかったな。
僕は合い鍵をテーブルの上に置き、静かに頭を下げて部屋を出た。
さよなら、杏さん。
恋人のふりはもうできないけれど、僕が勝手に杏さんの事を好きでいる事くらいは許されるかな。
伝える事さえできなかったこの想いが、いつか自然と思い出に変わるまで。


その日、社内では杏さんの退職が告げられた。
突然現れた新しい部長はちょっと偉そうな50代のメタボなおじさんだった。
メタボ部長はあれこれ偉そうに口出しするばかりで、これと言ってたいした働きはしない。
若くて美人で仕事のデキる部長だった杏さんとの差がありすぎて少し戸惑う。
いつも仏頂面で仕事には厳しかったけど部下の事はよく見ていて、美人なのに自分の細かい事にはあまり関心がなくて、ホントに変わった人だった。
これからは杏さんがデスクでカロリーバーをかじっている姿も、朝のオフィスの床に寝転がっている姿も見ることはない。
僕の作った料理を珍しそうに眺める姿も、料理を口に入れて瞬きする姿も、食べ終わった後に穏やかな顔で手を合わせる姿も、もう二度と見られない。
僕の作った料理はどれも美味しいって言ってくれたっけ。
僕が作ったから美味しいんだよ、って。
僕が作った料理をもっと食べたかった、って。
できればこの先もずっと二人で向かい合って食卓を囲んで、杏さんに僕の作った料理を食べて笑って欲しかった。
もう二度と聞く事のない『美味しかった、ありがとう』という杏さんの言葉を、最後にもう一度聞きたかった。


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