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最後にもう一度だけ
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翌日の夜。
杏さんが珍しくキッチンにやってきて、晩御飯の後片付けを済ませた僕に黙って何かを差し出した。
僕が受け取る事を躊躇していると、杏さんは僕の手を取って手の中のそれを握らせ静かに笑った。
「なんですか……これ」
てのひらに感じる形から、それがなんなのかはわかっていた。
これを僕に渡すということは、いよいよこの生活が終わるということだ。
それを認めるのが怖かった僕は、握りしめた手を開く事もできないまま尋ねた。
「鴫野が前に住んでいた部屋の鍵だ。この部屋に来た時のように、明日鴫野が会社に行っているうちに引っ越しを済ませておく。長いこと世話になったな」
突然突き付けられた言葉に僕は茫然と立ちすくみ、手の中の鍵を握りしめる。
「婚約者のふりももう終わりだ。いろいろ我慢させて悪かった。これで鴫野は自由だ。誰と付き合っても咎められる事はない」
これで終わりなんだ。
もう偽物の婚約者としても杏さんのそばにはいられない。
「……鴫野との生活は……楽しかった。鴫野のおかげで、生まれて初めて食事の時間が楽しみだと思えた。ありがとう」
僕と一緒に生活する前は「食事に時間をかけることの意味がわからない」と言っていた杏さんがそう言ってくれた事はとても嬉しいのに、二人で向かい合って食事をする事はもうないと言われたようで、ただ悲しくて胸が痛む。
本当はずっと杏さんのそばにいて、毎日杏さんのために料理を作りたい。
「杏さん……僕は……」
『あなたが好きです』と言いかけて、その言葉を飲み込んだ。
僕の気持ちを知ったところで、杏さんにとっては何ひとついいことなんてない。
「ひとつだけ……鴫野に謝らないといけない事がある」
僕が謝らなければならない事はあったけれど、杏さんから謝られるような事なんてあっただろうか?
僕にはまったく思い当たる節がない。
「……なんですか?」
僕が尋ねると、杏さんは小さく息をついて目をそらした。
「本当は……何もなかったんだ」
「何もなかった……って……?」
「私が送っていったあの夜……鴫野は私を襲ったと思っていたようだけど、実際は鴫野の思うような事は何もしていない」
「……えっ?」
杏さんの話によると、僕は杏さんをベッドに押し倒し強引にキスをして、ほんの少し肌に触れて眠ってしまったらしい。
つまりは夢の前半が実際に僕がした事の記憶で、後半は本物の夢、そこから先は僕の憶測だったと言うことだ。
「だったら……シーツに付いてた血の跡は……」
「ああ、それは多分鼻血だな」
「鼻血?!」
「眠ってしまった鴫野の体の下から這い出た時に、寝返りを打とうとしたおまえの肘が私の鼻に激しく命中したんだ。ベッドを汚さないように、すぐにハンカチで押さえたつもりだったんだが……」
僕が杏さんに鼻血が出るほど激しく肘鉄を食らわしただって?!
シーツの血の跡が杏さんの破瓜の証ではないことにホッとしたものの、やはり女性の大事な顔になんて事をしてしまったんだと申し訳ない気持ちになる。
杏さんが珍しくキッチンにやってきて、晩御飯の後片付けを済ませた僕に黙って何かを差し出した。
僕が受け取る事を躊躇していると、杏さんは僕の手を取って手の中のそれを握らせ静かに笑った。
「なんですか……これ」
てのひらに感じる形から、それがなんなのかはわかっていた。
これを僕に渡すということは、いよいよこの生活が終わるということだ。
それを認めるのが怖かった僕は、握りしめた手を開く事もできないまま尋ねた。
「鴫野が前に住んでいた部屋の鍵だ。この部屋に来た時のように、明日鴫野が会社に行っているうちに引っ越しを済ませておく。長いこと世話になったな」
突然突き付けられた言葉に僕は茫然と立ちすくみ、手の中の鍵を握りしめる。
「婚約者のふりももう終わりだ。いろいろ我慢させて悪かった。これで鴫野は自由だ。誰と付き合っても咎められる事はない」
これで終わりなんだ。
もう偽物の婚約者としても杏さんのそばにはいられない。
「……鴫野との生活は……楽しかった。鴫野のおかげで、生まれて初めて食事の時間が楽しみだと思えた。ありがとう」
僕と一緒に生活する前は「食事に時間をかけることの意味がわからない」と言っていた杏さんがそう言ってくれた事はとても嬉しいのに、二人で向かい合って食事をする事はもうないと言われたようで、ただ悲しくて胸が痛む。
本当はずっと杏さんのそばにいて、毎日杏さんのために料理を作りたい。
「杏さん……僕は……」
『あなたが好きです』と言いかけて、その言葉を飲み込んだ。
僕の気持ちを知ったところで、杏さんにとっては何ひとついいことなんてない。
「ひとつだけ……鴫野に謝らないといけない事がある」
僕が謝らなければならない事はあったけれど、杏さんから謝られるような事なんてあっただろうか?
僕にはまったく思い当たる節がない。
「……なんですか?」
僕が尋ねると、杏さんは小さく息をついて目をそらした。
「本当は……何もなかったんだ」
「何もなかった……って……?」
「私が送っていったあの夜……鴫野は私を襲ったと思っていたようだけど、実際は鴫野の思うような事は何もしていない」
「……えっ?」
杏さんの話によると、僕は杏さんをベッドに押し倒し強引にキスをして、ほんの少し肌に触れて眠ってしまったらしい。
つまりは夢の前半が実際に僕がした事の記憶で、後半は本物の夢、そこから先は僕の憶測だったと言うことだ。
「だったら……シーツに付いてた血の跡は……」
「ああ、それは多分鼻血だな」
「鼻血?!」
「眠ってしまった鴫野の体の下から這い出た時に、寝返りを打とうとしたおまえの肘が私の鼻に激しく命中したんだ。ベッドを汚さないように、すぐにハンカチで押さえたつもりだったんだが……」
僕が杏さんに鼻血が出るほど激しく肘鉄を食らわしただって?!
シーツの血の跡が杏さんの破瓜の証ではないことにホッとしたものの、やはり女性の大事な顔になんて事をしてしまったんだと申し訳ない気持ちになる。
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