サディスティックなプリテンダー

櫻井音衣

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やっと笑ってくれたのに

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「……妙な事に巻き込んで悪かった」

杏さんの声がいつになく弱々しい。
急にこんな事を言い出すなんて、今回の盗作騒動でよほど参っているのかも。

「何言ってるんですか、そんなに改まって。杏さんらしくないです」

僕が少し笑ってそう言うと杏さんは突然ビールをすごい勢いで飲み干して、膝の上で空き缶をギュッと握りしめた。

「会社を辞めて有澤の家に戻る事にした」

唐突なその言葉に、僕は耳を疑った。

「えっ?それって……」
「今回の盗作騒動は私には身に覚えのない事だが、私が有澤の人間だと社内に知れ渡ってしまったからな。いくら無実を訴えても疑いの目は避けられない。会社から自主退職するよう遠回しにほのめかされた」
「そんな……」

杏さんは何も悪くないのに、なぜ会社を辞めなければいけないんだ。
全然納得いかない。
僕は思わず杏さんの手を強く握りしめた。

「杏さんが会社を辞める事なんてない!ここで辞めたら今回の事が杏さんのせいにされてしまいます!!杏さんは何も悪くない!!」

杏さんは少し驚いた顔をしてから、僕の手をもう片方の手でポンポンと叩き小さく笑った。

「ありがとう。そうかも知れないけれど……もういいんだ。社長の手前もあるし、どちらにしろ私は会社を辞めなければいけなかったから」
「……どうして……」
「お祖父様が来月いっぱいで会長職を退く事になったんだ。心臓に病を抱えているらしい」

この間イチキの御曹司がここに来た時に、お祖父様が心臓の病気で、療養のために会長職を退く事を知らされたと杏さんは言った。
お祖父様が会長職を退く事で、現社長である杏さんのお父さんが会長職を引き継ぐらしい。
そんな事はずっと先の事だと思っていた杏さんは、家の事は弟に任せるつもりで家を出た。
けれど歳の離れた弟はまだ大学生で、この大企業を継ぐにはあまりに若すぎると、会長はじめ重役たちが満場一致で杏さんを後継者に推したそうだ。

「育ててもらった恩もある。大学卒業後から今まで、私のやりたいようにさせてもらった事にも感謝しているし……そろそろ現実と向き合う時が来たんだ」

杏さんはそう言って少し寂しそうに笑った。

「だけど……有澤家に帰ると杏さんは、市来さんと……」
「そうだな。穂高の兄が市来家を継ぐことが決まっているから、穂高を婿養子としてうちに迎える事になるらしい」

杏さんは自分で選んだ好きな仕事も捨てて、本当の恋愛をしたこともないまま自分の幸せもあきらめて、突き付けられた現実に抗うのをやめてしまうつもりなんだ。

「それで……杏さんは幸せですか……?」
「決められた相手と結婚して家を継ぐのは、有澤家の第一子として生まれた時から決まっていた。それに抵抗して今まで自由にさせてもらっただけでも幸せだと思わないとな」

そんなこと本気で思っているはずがない。
恋をした事もないままで決められた相手と結婚するなんて、いくらなんでも悲しすぎるじゃないか。
いつもは仏頂面の杏さんが、さっきからずっと笑っている。
その笑顔が痛々しくて、僕は杏さんの手を握りしめた。

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