サディスティックなプリテンダー

櫻井音衣

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初めてのデート

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家に帰ると杏さんは思っていた通り言葉少なく、僕の作った夕飯をゆっくりと口に運んだ。
そして入浴を済ませると、いつものようにソファーに座ってノートパソコンに向かい、キーボードを叩いて何やら文字を打ち込んでいた。
ビックリするほどいつも通りだ。
これが杏さんの通常運転だということも、誰も見ていないところで僕に笑顔を向ける必要なんてないということもわかっているけれど、さっきまで無邪気に笑っていた杏さんと同一人物とはとても思えないほどの仏頂面に、自分が偽物の婚約者でしかない事を改めて思い知らされる。
それでもほんの少しの時間でも、杏さんが楽しそうに笑ってくれて良かったと思っている不可解な自分に苦笑いした。


僕が入浴を済ませてリビングに戻ると、杏さんはソファーの上で寝息をたてていた。
目一杯遊んで疲れたのかな?
初めての遊園地は驚きと初体験の連続で、息をつく暇もなかったんだろう。
それとも、僕との慣れない恋人ごっこに疲れたのかも。
動かすと起こしてしまいそうで、僕は自分の部屋から持ってきた布団を杏さんの体にそっと掛けた。
杏さんは社泊の翌朝に見るより少しあどけない寝顔をしている。
……かわいいな。
いつかは僕だけに、演技じゃなく本当の笑顔を見せてくれたらいいのにと思っている僕は、どうかしてる。
きっと、今日があまりに楽しかったから、ちょっと勘違いしているだけなんだ。

気が付けば僕は、杏さんに食べてもらいたくて、杏さんに喜んで欲しくて、杏さんのために栄養のあるものをと考えて料理を作っている。
杏さんは気に入ってくれるかなとか、たくさん食べてくれるといいなと思いながら杏さんのために料理を作る時間は楽しい。
そうして僕が作った料理を食べて静かに笑う杏さんの顔を見ると、僕の心はじんわりとあたたかくなって、もっともっとその顔が見たいと思うんだ。
『こんな生活早く終わればいい』と思っていたはずなのに、いつか終わりが来ることを寂しく感じるようになるなんて、思いもしなかった。
いつの間にか杏さんの存在が僕の中でそれほど大きくなっていたのだと初めて気付く。
杏さんとの生活が今の僕にとって当たり前のようになっていることが、少し怖い。

時計の針は間もなく12時を指そうとしている。
日付が変わるまでのほんのわずかな時間、もう少しだけ恋人ごっこの続きをしようか。
ねぇ杏さん、今日の僕は上手にあなたの恋人を演じられたかな?
恋人同士のデートのしめくくりは、おやすみのキスだよ。

「杏、おやすみ」

僕は杏さんが目を覚まさないように小さく呟いて、その柔らかそうな唇に唇を近付けた。
だけど唇が触れ合う直前で躊躇して、やめる。
……やめておこう。
眠っている杏さんにこんな事をしたってしょうがない。
僕だけが勝手に杏さんを愛しく想っても、どうにもならないんだから。
時計の針が12時を指し、恋人ごっこの時間の終わりを告げる。

「所詮は偽物だもんな……」

僕は思わずそう呟き、そっと杏さんの髪を撫でて自分の部屋へ戻った。
好きでもない渡部さんとはあれだけ何度もキスをしたのに、僕は眠っている杏さんの唇に触れる事もできなかった。



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