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トラウマと禊

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杏さんは少し苦しそうに、大きく息を吐いた。

「食に関する会社を経営している事もあって、食事の時間は特に厳しかった。私は昔から偏食で食が細くて、食べるのがとにかく遅くてな」

確かに杏さんは少食で、食べるのが遅い。
それは昔から変わっていないらしい。

「有澤家は同居の親族全員で食事をするんだが、うちには食事に関する厳しいルールがあってな。テーブルマナーはもちろん、食事中は私語厳禁、出された食べ物を残してはいけないし、全員が食べ終わるまで席を立ってはいけない」

ドラマなんかでよく見る大富豪の家そのものだ。
そんな食卓、杏さんでなくても息がつまってしまうだろう。

「ただでさえ時間に追われて忙しいのに私が食べ終わるまで席を立てないから、みんながイライラしているのが子供心にわかってな。それがものすごいストレスで、食事の時間は地獄だった」

杏さんがいつも『食事に時間をかける意味がわからない』と言うのは、幼少期の食事の記憶がトラウマになっているからだろうか。

「必死で頑張ったんだが……そのうち食べ物をまったく受け付けなくなって、人目が怖くて部屋から一歩も出られなくなった。それでもみんなと食卓につかなくて済むのが嬉しかった。5歳の頃の話だ」
「5歳の頃……」

幼い子供が物を食べられないより身内と食卓に着く事の方がつらいなんて、そのつらさは僕には想像もつかない。
きっと杏さんは、幼いながらに相当苦しんだんだろう。

「そんな事があって、今でも人と食事をするのは苦手だ。仕事の付き合いで食事をする時もできるだけ量の少ない懐石料理の店を選ぶようにしている」

それを聞いて、一緒に飲みに行った時に杏さんが枝豆を注文した事を思い出した。

「だから杏さん、自分のペースでチビチビ食べられるのがいいって言ってたんですね」
「そうだな」

杏さんはゆっくりお茶を飲んだ。
幼少期のつらい経験を思い出したせいか、杏さんはとても苦しそうな顔をしている。

「空腹は感じても、食べたいとはあまり思わない。ちゃんとした食事なんかしなくても、必要最低限のカロリーと栄養さえ摂っていれば生きていけるしな」
「だからカロリーバーですか?」
「材料を揃えたり、作ったり食べたり、食事に時間をかける必要がなければ、その時間を別の事に使えるだろ?」
「だからって、それでは寂しいでしょ……。食べるのは人間の基本ですよ。人間の体を作ってるのは食べ物ですからね」

僕がそう言うと、杏さんは少し笑った。

「昔、ばあやにもそんな事を言われたな。鴫野、ばあやみたいだぞ」
「ばあや……ですか……」

ばあちゃんに育てられた僕は、いつの間にやらすっかりばあやキャラだ。
自分では健全な成人男性だと思っていたから、なんとなく複雑な気持ちになる。

「何も食べられなくなった時も、ばあやだけは私の体を心配して、少しでも食べられそうな物を考えて用意してくれてな。一口でも食べられると、よく頑張ったと言って抱きしめてくれたんだ」

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