パドックで会いましょう

櫻井音衣

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恋人ごっこ

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「タラシ込むなんて人聞き悪いですね。僕にはそんな高度な技術ありません」

恋愛経験のない僕に、そんなのできるわけがない。
もしできるなら、僕はねえさんをタラシ込みたいんだけど……そう簡単にはいかないだろうな。
そんなことを思いながら、食べ頃に焼けた肉をねえさんの皿に入れてあげると、ねえさんはニコッと八重歯を覗かせて笑った。

「自覚してやってるやつは、ただのタラシや。アンチャンはそんなやつとちゃうって、わかってるよ」

ねえさんは箸でつまんだ肉にタレをつけて、僕の方へ差し出した。

「アタシもたまには優しくしたらんとな」
「え?」

ポカンとしている僕の方へ、ねえさんは身を乗り出して、うんと腕を伸ばしている。

「ちょっとだけ恋人ごっこでもしてみよか。ほらアンチャン、口開けて」
「ええっ……」

これって……いわゆる『あーんして』ってやつ?
夢?夢なのか?!
ねえさんの方からそんなことをしてくれるなんて!!
いや、もう夢でもなんでもいい!!

「早よ。腕疲れるやん」
「は、はい……」

おそるおそる口を開くと、ねえさんは僕の口に肉を入れてくれた。

「美味しい?」
「美味しいです……」

ねえさんの食べさせてくれた肉がまずいわけないよ!
こんなに美味しい肉を食べたのは生まれて初めてだ!

「言うても、アンチャンの奢りやけどな!」

ねえさんはいたずらっぽく笑って、今度は自分の口に肉を運んだ。
あ、その箸……今、僕の口に付きましたけど……!
直接キスをしたわけでもないのに、僕は顔を赤らめた。
そんなことはまったく気にも留めない様子で、ねえさんは美味しそうに肉を食べている。

「ほらアンチャン、焦げる焦げる!」
「あっ、はい!」

僕は慌ててトングで肉をひっくり返した。
こんな些細なことにさえ動揺している僕は、やっぱり子供みたいだ。
それでも僕はねえさんに会うたびにドキドキして、ねえさんが僕に笑ってくれるだけで、たまらなく嬉しい。


お腹いっぱい焼肉を食べて、いつもよりゆっくりとビールを飲んだ。
ねえさんはジョッキの生ビールを何杯もおかわりして、かなり酔っている。
焼肉屋を出ると、ねえさんはおぼつかない足取りで、陽気に笑っていた。
一人で帰れるかな?
送ってあげられたらいいんだけど、僕はねえさんの住んでいる場所を知らない。
ねえさんはどこに向かおうとしているのか、フラフラしながら歩く。
今にも転んでしまいそうで危なっかしい。
見かねた僕は、ねえさんの体を支えた。
僕の背が低いから、ねえさんの綺麗に整った顔がすぐ目の前にあることにドキドキする。

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