社内恋愛狂想曲

櫻井音衣

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「私、結婚するって兄ちゃんたちに言うの忘れてた」
「そうだろうと思って、私が言っておいたわよ。それから千絵ちゃんにもね。千絵ちゃんビックリしてたわよ。詳しく話を聞きたいから、今度ゆっくり話そうって。産後の里帰りで当分は実家にいるから、潤さんと一緒に実家の方に遊びに来てって言ってたわ」

そうか、産院にお見舞いに行ったときは護に浮気されたばかりで将来のことに悩んでいて、その後連絡をしていないから、潤さんとのことは話していないんだった。
あれからまだ何か月も経っていないのに、結婚すると言ったら千絵ちゃんが驚くのも無理はない。
いまさらだけど、よく考えるとものすごいスピード婚だと思う。

「積もる話もあると思いますが……そろそろ参りましょうか」

ゆうこさんが腕時計を見ながら少し申し訳なさそうにそう言った。
壁掛け時計を見ると、時刻は2時半になろうとしている。

「そうですね。行きましょうか」

席を立って玄関に向かおうとすると、ゆうこさんが母に頭を下げる。

「これから親子共々よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
「ところで君枝さん、例の……」
「ああ、あれね。用意してあるわ。今持ってくるから、ちょっと待って」

一体なんの取り引きをしているんだろう?
母はキッチンへ行って小さな紙袋持ってくると、ゆうこさんに手渡した。

「これは……」

ゆうこさんは紙袋の中を覗いて、子どものように目を輝かせている。

「ゆうこさん、この間のお菓子がずいぶん気に入ったようだったから、今日のお礼と言ってはなんだけど入れておいたの。おうちでゆっくり召し上がって。いろいろお話ししたいから、またいつでもご主人と一緒に遊びにいらしてね」
「ありがとうございます。主人にもそう伝えます」

私と潤さんは母親たちを見てポカンとしている。
いつの間に二人はこんなに仲良くなったんだろう?
母親というのは対人スキルも高いんだろうか。
ゆうこさんは大事そうに紙袋を抱えて、小走りで私たちの方へ近付いてくる。

「お待たせしました。それでは参りましょう」

車が出発したあともゆうこさんが母に言っていた『例の……』と言うのはなんだったのかがとても気になった。

「ゆうこさん、志織のお母さんとずいぶん仲良くなったんですね」

潤さんが何気なく尋ねると、ゆうこさんは前を向いてハンドルを握りながら、楽しそうに笑ってうなずいた。

「ええ、昨日電話でお話ししたときにすっかり盛り上がってしまって。とても素敵な方ですよ」

素敵な……?どの辺が?
私の母はせっかちで口が達者で大雑把で、どう考えてもゆうこさんのような育ちのいい人に『素敵な方』と言われるほど上品な奥様ではない。
それにゆうこさんと盛り上がるような共通の趣味とか話題があったんだろうか?
気になる……ものすごく気になる……。

「へぇ……。どんな話で盛り上がったんです?」
「主にお料理の話ですね。先日いただいたお料理がとても美味しかったので、わたくしもレシピを調べて作ってみたんですが、君枝さんのように美味しくは作れなかったんです。そのことを話すとコツを教えてくださって、他にも作ってみたい料理があると言ったらレシピをメモしておくと……。先ほどお菓子と一緒にそれをいただいたんです」

なるほど、家庭料理なら母の得意分野だ。
母は若い頃にお菓子作りに凝っていた時期もあったらしく、私たちが子どもの頃には誕生日やクリスマスのケーキも手作りだった。

「それに編み物がとてもお上手なんです。先日お伺いしたときに君枝さんが着ていた手編みのセーターがとても素敵だったので、どちらのお店で買われたのかと聞いたんですが、ご自分で編んだとおっしゃって。わたくしも挑戦してみたいと言ったら、教えてあげるからいつでも遊びに来てと……。とてもおおらかで面倒見の良い優しい方ですね」

おおらかで面倒見の良い優しい方……?
たしかに娘の私とは正反対で、器用で要領が良いとは思うけど、大雑把で世話焼きでお節介な母が、ゆうこさんの目にはそう映ったらしい。
アネゴ肌の母にとって、素直に頼ったり甘えたりできるゆうこさんは、とても庇護欲が掻き立てられる存在になるのではないだろうか。
なんにせよ、両家の母親同士が仲良くできるのはいいことだ。


脳内の完璧な地図を駆使して最短ルートを走ったのか、ゆうこさんは私も潤さんも知らない道をスイスイ進み、予定よりも時間にかなりの余裕があったので、私の住んでいたマンションの近くの役所に立ち寄り、私の転出届を出した。
そしてゆうこさんが運転中に「この調子でいくと4時過ぎには着く」と言っていた通り、4時10分頃に役所に着いた。

「いよいよだな」
「うん……緊張するね」

駐車場で車を降りて、私と潤さんは緊張のあまり深呼吸をする。
そんな私たちを見たゆうこさんは、ほんの一瞬おかしそうに笑いをこらえたあと、私と潤さんの肩に手を添えて微笑んだ。

「お二人とも、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。まずは戸籍課の窓口で婚姻届を提出しましょう」

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