社内恋愛狂想曲

櫻井音衣

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立ち止まって涙を拭うと、渇いた笑いが口からもれた。

「はは……いい歳して情けないな……」

涙が止まるまで、うつむいて歩き続けた。
本気で好きになる前で良かった。
今ならまだ、偽婚約者のことはなかったことにできるだろう。
そうすれば三島課長は好きな人と堂々と付き合えるし、本物の婚約者として周りのみんなに紹介できる。
私も束の間の甘い夢を見せてもらったと思えばいいだけだ。
軽く吹けば一瞬で消える頼りない灯火のような、あまりにも短い夢だったけれど。


駅のトイレで涙が止まるのを待って、なんとか終電間際の電車に乗り込んだ頃には、すでに日付が変わっていた。
鞄の中で何度かスマホが震えていたような気はしたけれど、相手が誰であっても電話やトークのメッセージに応えるほどの気力はなかった。
電車の中でぼんやりと窓の外を眺めながら考える。
好きになった人に好きな人や恋人がいるなんてよくあることだし、私にはそれを責める権利などないのだから、三島課長には今まで通りに接することにしよう。
それに私のこの気持ちも、裏切られて傷付き弱っていたところを優しくされて、勘違いしただけのものなのだと思う。
もし三島課長に本物の婚約者を紹介される日が来たとしても、笑って祝福しよう。


電車を降りると、いつもより時間が遅いせいで辺りは暗くて静かだった。
普段の帰り道なら営業している飲食店も、すでに閉店して灯りが消え、本通りから筋をひとつ入ると人通りもほとんどない。
こんな時間に一人で夜道を歩くのは不安で気味が悪いので、周りを警戒しながら足早に家路を急いだ。
ようやくマンションの前にたどり着き、家の鍵を出そうと鞄のポケットを探っていると、駐車場の方から車のドアが閉まる音がした。
こんな時間に帰ってくる人は他にもいるんだなと思いながらマンションに入ろうとしたところで、すぐ後ろに人の気配を感じ、肩をつかまれて体がこわばり声も出ない。

「志織!」

聞き慣れた声におそるおそる振り返ると、私の肩をつかんでいたのは三島課長だった。

「あ……」

ホッとしたのと同時に、どうしてここに三島課長がいるのかと混乱して、言葉が出て来なかった。

「ずっと前にうちを出たはずなのに帰りが遅いから心配した。おまけに何度電話しても出ないし」

あの人は?
どうしてここにいるの?
そう聞きたい気持ちをグッとこらえて、散らかった頭の中でうまいいいわけを考える。

「電車でうたた寝して、乗り過ごしたら遅くなってしまって……」
「だから送るって言ったのに。なんで勝手に帰った?」

そんなこと、いちいち聞かないで欲しい。
あの人を見たときに私の手を離したのは、あの人に私との関係を誤解されたくなかったからだってことくらいわかるから。

「お客様がいらしてたので……。伝え忘れてましたけど……あの方、昨日も夜遅くに訪ねて来られたんです。だからよほど大事な用なんじゃないかって思って」
「そうか……。あの人は昔の同僚で、また本社に戻ることになったからって挨拶に来ただけなんだ。気を使わせて悪かった」

その言葉が嘘を含んでいるということはすぐにわかった。
同じ部署で働いていた私は、三島課長がいくら親しい同僚でも、名前で呼び捨てにしたりしないことくらい知っている。
女性ならなおさらだ。
おそらくあの人とは、ただの同僚以上の関係だったのだと思う。
だけどそれは私には関係のないことだから、詮索したりはしない。

「いいんです、全然気にしてませんから」

私が少し笑ってそう答えると、三島課長は険しい顔をしてため息をついた。

「これ、お土産。さっき渡しそびれたから」

三島課長はお土産の入った紙袋を差し出した。
受け取ると紙袋はずっしりと重かった。

「わざわざすみません……。こんなにたくさん、ありがとうございます」
「全然気にしなくていいよ。俺がしたくてしただけだから」

その言葉はいつもと違ってつっけんどんで、どことなくトゲがあるように感じた。
私は何か気に障るようなことを言っただろうか?

「志織が無事に帰って来たことも確認できたことだし……お土産も渡したから、そろそろ帰るよ」
「はい、ありがとうございました」

私がお礼を言って軽く頭を下げると、三島課長は私の頭を撫でようとした手を止めた。

「やっぱり志織は……全然気にしてないって言うんだな」
「えっ……?」
「いや、なんでもない。おやすみ、早く寝ろよ」

ポンポンと私の頭を軽く叩いて、三島課長は私に背を向ける。
三島課長の何か言いたげな様子が気になったけれど、私はあえて引き留めることはしなかった。



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