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懺悔

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門倉との電話を切って席に戻ると、光が所在なさげにビールを飲んでいた。
本当はあのまま逃げてしまいたかったんだけどな。
そんなことできるわけもないし、仕方なく自分の席に着いた。

「あ……電話、終わった?」
「ああ……うん」

見ればわかるようなことをいちいち聞くということは、光も相当落ち着かないんだと思う。

こんな風に光と二人で向かい合って座るのは何年ぶり?
離婚する時も向かい合って話したりはしなかった。
光が離婚届と結婚指輪を置いて出ていった後、電話で離婚の話を済ませたから。

よくよく考えたら、光の様子がおかしくなってからは向かい合って食事をすることもしなくなった。
いつも私の目を避けて顔を合わせないようにしていたんだと思う。
5年間の結婚生活のうちの後半の2年ほどは、夫婦関係も冷えきっていた。
それなのに今頃になって会って話したいなんて、光は一体どういうつもりなんだろう?

さっきから二人とも黙り込んだままうつむき加減でビールを飲んでいる。
沈黙が重くて落ち着かない。
話があるって言ったのは光なんだから、さっさと切り出してくれればいいのに。

ビールを飲みながらチラリと光の様子を窺った。
ちょっと痩せた?
髪形変えたんだ。
あの頃より少し大人っぽくなった。
5年近くも経てば当たり前か。
左手の薬指に指輪はしていない。
再婚はしなかったのかな。
あの人とはまだ続いているんだろうか。

二人して黙り込んだままひたすらビールを飲み続けていると、女子大生風の若い店員が光の注文した料理を運んできた。

「お待たせしましたーっ、こちら豚の角煮になりまーすっ!」

いやいや、角煮になるのかよ!
いい歳してるんだから、せめて接客中だけでも正しい日本語使おうよ!
これから角煮になるなら今現在のこれはなんなの?
豚なの?ねぇ、豚なの?
私の目にはどう見ても豚の角煮に見えるんだけど!

……と、心の中でどうでもいいことに突っ込みを入れてみたりする。
ダメだ、私も緊張しすぎてどうかしてる。

「ビールのおかわり二つお願い」
「はぁいっ、喜んでぇ!生中2丁追加のご注文いただきましたぁーっ!!」
「ハイッ、喜んでーっ!!」

なんだか今日はいつもに増して店員たちが元気で賑やかだ。
いそいそとバックヤードに戻ったかと思うと、あっという間にビールのおかわりを運んできてくれた。

「お待たせしましたぁー、こちら生中になりまーすっ!」

それもこれから生中になるのか?
だったら今現在のこれは生じゃない小なのか?
一度気になり出すと『こちら~になります』という間違った敬語もどきの言葉遣いが、どうしようもなく気になってしまう。

「こちらお下げしておきますねぇ」

空いた皿やジョッキを手に彼女はいそいそとバックヤードに戻った。
返事とか語尾を伸ばす口調は多少気になるけれど、彼女は働き者で元気だけはいいらしい。

……どうでもいいか、そんなこと。
それより何より今は目の前にいる光の話がなんなのか、その方が大事だ。
少し息を整えて正面を向くと、光が笑いを堪えていた。

「……なに?」
「いや……瑞希がすごい顔して店員の女の子見てたから、おかしくてつい」

堪えきれなくなったのか、光がおかしそうに笑った。
笑った顔は昔と同じだ。

「仕事柄なのかな。なんだか若い部下を見てるような気になっちゃって……」
「瑞希らしいね」

光にとっての私らしさって……なんだ?
寝ても覚めても仕事のことで頭が一杯の仕事人間とか……どうせそんなところだろう。
光はまだ笑っている。

「そんなに笑うことないでしょ」
「ごめんごめん。相変わらず仕事頑張ってるんだなって……」

相変わらずって……それはどう捉えればいい?
仕事頑張ってる私を誉めてるの?
それとも仕事しかできない女だって呆れてる?
喜んでいいのか落ち込んでいいのかわからない。

「門倉さんから聞いたけど、課長なんだって?」
「ああ……うん」

門倉から聞いたって、一体何をどこまで?
光に変なことを吹き込んではいないか心配で、妙な汗が背中を伝った。

「すごいな、瑞希は」
「……私には仕事しかないから」

ちょっとイヤな言い方だったかな。
私は光みたいに他の人に心の拠り所を求めることは出来なかった。
光にはきっとつらい時に支えてくれる優しい誰かがそばにいるんだろう。
離婚してからの5年間、誰とも付き合わず恋愛もしていないと言ったら、光は驚くだろうか。

このまま当たり障りのない会話をしていても埒が明かない。
直接会ってまで話したかったことはなんなのか、思いきって聞いてみよう。

「あの……」
「瑞希、あの時はごめん。本当に悪かった」

光は私の言葉を遮ってそう言うと、深々と頭を下げた。
予想外の展開に驚き言葉が出てこない。
私は呆然と光のつむじを眺めている。

「うまくいかないことを全部瑞希のせいにしてた。何も話さなかったくせに、なんで瑞希は俺の気持ちに気付いてくれないんだろうって。情けないけど、瑞希は俺のことより仕事が大事なんだって子供みたいに拗ねてた。本当にごめん」

……なんで今頃になってこんなこと言うかな。
あの時ちゃんと本音をぶつけてくれていたら、もっと違う形におさまっていたかも知れないのに。

「あの……頭上げてくれる?」

そんなに派手に頭を下げられたら、周りの客にジロジロ見られている気がして居心地が悪い。
光は頭を上げてまっすぐに私の顔を見た。

「離婚してからしばらくしてやっと冷静に物事を考えられる状態になって……全面的に俺が悪かったって気付いたんだ。ずっと謝りたいと思ってたけど、瑞希の連絡先も住所も変わった後だったからどうしようもなくて……」
「……うん」

離婚届を出してから2週間後に二人で暮らしたマンションを引き払った。
それと同時に私は携帯電話の番号を変えた。
離婚についての話は済んでいたし、もう光と会うことはないだろうと思ったから。
それ以外にも私の居所や連絡先を知る手立てはあっただろうに、そこまでは考えなかったのかな。

「もう会うつもりはなかったからね……。こうして光が目の前にいるのが今もまだ不思議」
「瑞希の会社で偶然会った時は人違いかと思ったよ。ずいぶん変わったから」

そうでしょうとも。
光の好みとは真逆の女になろうとしたんだから。

「5年近くも経てば人間変わって当然だと思うよ。私は変わったって言っても見た目は髪形変えて少し老けたくらいで、中身はたいして変わってない」
「昔は腰ぐらいまで髪伸ばしてかわいかったけど……瑞希はショートも似合うんだな。大人っぽいし……綺麗になった」

これは罪悪感から出たお世辞かな?
今更別れた元妻を誉めても何も出ないのに。

「離婚してから……瑞希はどうしてた?」

光はためらいがちに尋ねた。
これだけ見た目が変わったのだから、さぞかしいろんなことがあっただろうと思っているのかも。

「どうも何も……私には仕事しかないから。ずっと仕事して2年前に課長になった」
「うん……そうか」

面白みの欠片もない私らしい返事に呆れたかな。
だけど本当のことだから仕方がない。

「……光は?」
「俺は……」

口ごもる光の目の前で、わざと光の嫌いなタバコに火をつけた。
ゆっくり煙を吐き出すと、光は少しだけ悲しそうな顔をしていた。
瑞希は俺のせいで変わっちゃったんだな、とか思ってたりして。

「再婚はしなかったの?……あの人と」

歯に衣着せてもしょうがないから、単刀直入に尋ねた。
光は少し驚いたのか、ばつの悪そうな顔をしている。

「彼女とは……あれから半年くらいで別れた」
「……たった半年で?」
「彼女には遠距離恋愛中の彼氏がいて、後腐れなく遊べる浮気相手が欲しかっただけなんだ。既婚者の俺ならお互い本気にならないからちょうどいいって。俺が離婚して状況が変わったし、彼氏が戻ってくるから別れようって、あっさりと」
「ふーん……」

そんな女と付き合ってたのか、光は。

「本気で好きだったの?……彼女のこと」
「最初は瑞希への当て付けというか……瑞希には俺なんか必要ないんだからもういいや、浮気してやれって、やけになって付き合い始めたんだけど……」
「浮気が本気になったわけね」
「……うん」

彼氏のいる人と一時の遊びのつもりで付き合って、本気になって私と離婚した上に、彼女にも捨てられたわけだ。
ずっと一緒にいたいと言って結婚した私より、光をただの浮気相手だと思っていた彼氏持ちの女の方が良かったっていうことか。
光にとって私はその程度の存在だったんだな。

「ごめん……こんなこと今更聞きたくなかったよな」
「聞きたいって言えば嘘になるけど……私が聞いたことだから」

悪かったと思ってるなら、嘘でもいいからもう少しまともないいわけをしてくれればいいのに。

ずっと一緒にいたいって先に言ったのは光だった。
先に心変わりしたのも光だった。
人の気持ちなんていつ変わるかわからない。
ずっと変わらないと信じていたのはもう昔のことだ。

今更だけど惨めだな。
できればこんなこと聞きたくなかった。
もうここにいたくない。

「まさか、今更こんなこと話すために私に会おうと思ったの?だったらもう話は済んだでしょ」

短くなったタバコを灰皿の上でもみ消して、タバコケースと伝票を手に取り立ち上がろうとした。

「違う、まだ話したいことがあるんだ」
「光は話せばスッキリするのかも知れないけど、今更そんなこと聞かされた私はどうすればいいの?もう何も聞きたくない」

立ち上がって席を離れた私の腕を光が強い力で掴んだ。

「待って瑞希!お願いだから!」

またジロジロ見られてる……。
まるで見世物だ。
人前で痴話喧嘩してるカップルみたいで恥ずかしい。

「痛いよ……離して」
「あ……ごめん」

光は慌てて手を離し、私の手から伝票を取ろうとした。

「俺が払うから」
「いい。ほとんど私の分だから私が払う。恥ずかしいからとにかく早くここ出よう」

会計をカードで素早く済ませて店の外に出た。
店を出たのはいいけれど……これからどうしようか。
まだ話したいことがあると言われても、外で人目を気にせず落ち着いて話せる場所なんて知らないし、室内で二人きりになるのは避けたい。

腕時計を見ると時刻は既に9時半を回っている。
ここからまっすぐ自宅に帰っても10時を過ぎてしまう。
それより何より何時だろうが構わないけど、とにかく帰りたい。
早く光のいない場所で一人になりたい。

「明日も仕事があるし、もう遅いから帰りたいんだけど」
「えっ……話の続きは?」
「話はもういいよ。帰るね」

背を向けて足早に歩き出すと、光は私を追い掛けてまた腕を掴んだ。

「待って。もう少しだけでいいから」

光は私の腕を離そうとしない。

「だから痛いって……」
「ごめん、でもどうしても聞いてほしい」

私が話を聞くまで離さないつもり?
一緒にいた頃は何も言わずに自分から離れて行ったくせに、今頃になって必死で引き留めて話を聞けなんて勝手過ぎる。

「……勝手だよね」
「ごめん。勝手なのはわかってる」
「……わかってるなら離して。もういいでしょ?」

振りほどこうとしても光は私の腕を強く掴んだまま離さない。

「離してよ……」
「ずっと後悔してた、なんで瑞希とちゃんと向きおうとしなかったのかって。俺は自分のことでいっぱいになりすぎて逃げてばっかりで……」

何も聞きたくない。
耳を塞ぎたいのに、光はそれを許してくれない。

「ずっと一緒にいようって約束したのに俺は……!」
「もう聞きたくない!!光に私の気持ちなんてわからないよ!」

ありったけの力を振り絞って光の手を振り払い、涙がこぼれそうになるのを堪えて駆け出した。

「瑞希!!」

後ろで私を呼ぶ光の声が聞こえたけれど、振り返らずにひたすら走った。
いつの間にかこぼれ落ちて頬を伝う涙を手の甲で拭った。

駅のそばに辿り着く頃には、私の頬は涙でぐちゃぐちゃだった。
ひどい顔だな。
こんな状態じゃ電車にも乗れない。
少し落ち着いてから電車に乗ろうと、駅の化粧室で涙を拭いて化粧直しをした。
鏡に映る私は情けない顔をしている。
いい歳してみっともない。

そうだ、あの時の泣き顔に似てる。
光と付き合って1年が過ぎた頃、光の部屋で大喧嘩したことを思い出した。
きっかけは些細なことだったと思う。

そう、本当に些細なことだ。
確か他の女の子に気を持たせるようなことをするなとか、あいつに色目を使うなとか。
売り言葉に買い言葉で、つまらない嫉妬が引き起こした喧嘩だった。
些細な喧嘩のはずが他の関係のないことまで引き合いに出して大喧嘩になり、お互い意地になって一歩も引かなくて、ついには別れ話にまで飛躍した。
本気で別れたいわけじゃないのに素直に謝ることができず、もう別れようと言い合って泣きながら光の部屋を飛び出した。
本当は好きだから別れたくなんてないのに、どうして素直に謝れなかったんだろうとか、もう嫌われたかなとか、私と別れてあの子と付き合うのかなとか、悲しくて悲しくて涙をボロボロこぼしながら歩いた。

あの頃の私にとって光と別れることは、世界の終わりに匹敵するほどの絶望だったんだと思う。
それくらい光のことが好きで好きでどうしようもなくて、他に何もなくても光がいればそれでいいとさえ思っていた。

しばらく歩いたところで光が追い掛けてきて私の腕を掴んで引き寄せた。

『ごめん、やっぱり別れたくない。瑞希が好きだから』

光は今にも泣き出しそうな顔でそう言った。
そして私の泣き顔を見て光まで泣き出した。

『ごめん、瑞希。泣かせてごめんな。俺には瑞希しかいないよ。好きだからずっと俺のそばにいて』

嫌われたわけじゃなかったと安心して、好きだと言ってくれたことが嬉しくて、また涙がこぼれた。

『仲直りしてくれる?』

光は少し照れ臭そうにシャツの袖で涙を拭いて、私の涙を指先でそっと拭った。

『私も光が好き。ずっと一緒にいたい』

しゃくりあげながら素直な気持ちを伝えると、光は優しく頭を撫でて手を繋いでくれた。
手を繋いで光の部屋に戻り、好きだよと言いながら何度も何度も仲直りのキスをした。

あの頃は喧嘩しても仲直りして、また手を繋げた。
好きだから一緒にいたいという単純な理由だけで、お互いに意地を張ることをやめて素直になれたんだ。
だけど今はもう何もかもが違うから、腕を掴んで引き留められても、何度ごめんと謝られても、もう二度と手を繋いで同じ道を歩くことはできない。

ちゃんと向き合おうとしなかったのも、自分のことでいっぱいになりすぎて逃げてばかりいたのも、何も言わなかったのも光だけじゃない。
私も同じだ。
私もずっとうまくいかないのを光のせいにして、言いたいことも言えないまま目をそらしていた。

私たちの関係が壊れたのは光だけのせいじゃない。
だけど私は、光に一度も謝れなかった。
どうして私は素直になれないんだろう?




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