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戻らない時を振り返る
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あの人との未来を手放したのはもうずっと前。
私たちは確かに愛し合っていたはずなのに、視線の先にあるものが違い始めたのは一体いつの頃からだったんだろう?
何事もなく繰り返される日常の中で、私はあなた以外の居場所を見つけ、あなたは私以外の安らぎを求めた。
何度も触れ合ったはずの温もりも忘れてしまうほど離れてしまったお互いの距離を埋めることはできなかった。
だからさよなら。
私の愛した人。
永遠の愛を誓った証の指輪を外して、私の薬指にはあなたと過ごした日々の長さを物語る跡と、神様への誓いに背いた罪だけが残った。
何度も忘れようとしたのに今もまだ私は、あなたと過ごした幸せだった日々と裏切られた日の悲しみの狭間でさまよっている。
午後のオフィスはなんとも言い難い緊迫感に包まれて、パソコンに向かう人たちも電話に出る人もどことなく殺伐としている。
重大な取り引きをモノにできるかどうかの結果が知らされる大事な日だ。
もうじきその返事の電話がかかってくる頃だろう。
この数ヶ月間の努力が報われるのか、水の泡と化してしまうのか。
部下たちは血走った目でパソコンのマウスを握りしめている。
気持ちはわかるんだけどさ。
やるだけのことはやったんだし、ちょっと落ち着こうよ。
今更ジタバタしたところでどうにもならないんだから。
そんな必死な姿はもっと早く見たかったな。
それにしても今日もいい天気だ。
窓から射し込む陽射しをブラインドで遮ってしまうのがもったいないくらい。
今日みたいな日に家で布団を干せたらきっと気持ちがいいんだろう。
ここ最近、休日はいつも天気が悪くて思うように洗濯物が乾かない。
前に布団を干したのはいつだったっけ?
そんなことを考えながら席を立って伸びをした。
「みんなさぁ……ちょっと落ち着こうよ。今更必死になったって何も変わらないよ?」
上司の私がこんな性格だから部下たちは不安なのかも。
そう思わなくはないけれど、ホントのことを言ったまでだ。
みんなが不安そうな表情を浮かべながら私を見ている。
あと数分もすればおのずと結果は表れる。
『果報は寝て待て』なんて諺、みんな知らないのかな?
「篠宮課長は緊張とかしないんですか?」
「んー……しないねぇ。それより今はコーヒー飲みたい。ついでに言うとタバコも吸いたいね」
小銭とタバコを持ってオフィスを出ようとすると、電話のベルが鳴った。
素早く受話器を上げて応対した金城くんが突然立ち上がった姿を視界の端にとらえた。
「ありがとうございます!!はい、精一杯務めさせていただきます!!」
電話の相手に見えるわけでもないのに、金城くんは腰を直角に折り曲げる勢いでお辞儀をした。
何度見てもおかしな光景だ。
「ほら、結果は出たじゃない」
深々と頭を下げながら電話を切った金城くんを、みんなが取り囲んだ。
結果はわかっているのにハッキリとした言葉で聞きたいんだろう。
「やりましたよ!!オリオン社の『みなとまち花と光のプロムナード』のプロデュースは我が社に決定です!」
「おおっ!!やったな!!」
「頑張った甲斐がありましたね!」
私は部下たちの歓喜の声を背に、口元に笑みを浮かべながらオフィスを出た。
自販機でコーヒーを買って喫煙室に向かった。
今日はきっと狂喜乱舞した部下たちがお祝いに飲み会を開こうとか言い出すはずだ。
確かにみんな、この数ヶ月頑張ったもんな。
右も左もわからなかった新人が先輩たちの背中を追うほど、先輩社員たちはどんどん頼もしくなっていく。
上司の私はもちろん部下のフォローやアドバイスはするけれど、心の中では高みの見物だ。
次はどう動くのか、クライアントの希望をどんな形で実現させるプランを提示できるのか、毎日が面白かった。
たまに自信をなくしてへこたれそうになる者もいたけど、そこをなんとか掬い上げてやるのも上司の仕事だから、悩みを聞いて励まして、時には叱ったりもした。
部下たちのことは信頼している。
そうでなければ大きな仕事を任せるなんて到底できない。
この取り引きは実績のある他社に比べ、まだ歴史の浅い我が社にとって不利な状況から始まった。
みんなまだ若いけど仕事への情熱は人一倍だから、その一生懸命さと熱意にクライアントも心を動かされたのかも知れない。
ひとつのことに一生懸命に突っ走れる若さって素晴らしい。
数年前の私にもあの人に対してそんな気持ちがあれば、私たちは別々の道を歩むことはなかったのかも知れない。
予想通り、仕事の後でお祝いに飲み会を開こうと言う流れになった。
こういう時、この課のチームワークは抜群だ。
指名せずとも誰かが率先して幹事を買って出る。
今日の幹事は早川さんと田村くんらしい。
きっと二次会まで盛り上がるんだろうな。
私は遠慮させてもらうつもりだけど。
もう部下たちほどは若くないし、賑やかな酒の席は少々疲れてしまうから。
「来年結婚することになりました!」
お祝いの飲み会の席でお酒が入っていい気分になったからか、私の隣に座っていた早川さんが突然そんなことを言い出した。
付き合って2年ほどになる彼氏がいると言う話は聞いているし、年齢的にもそろそろお年頃だから、結婚が決まったと聞いても特別驚いたりはしない。
「もちろん結婚後も仕事続けるんですよね?」
「彼は私に仕事辞めて家庭に入って欲しそうだけど私は続けるつもりでいるよ。この仕事好きだし、せっかく頑張ってきたんだもん」
「ですよね!良かったぁ」
早川さんは入社7年目の29歳。
明るくハキハキとした性格のムードメーカーで仕事もできるし、若い社員の多いこの課では頼もしい存在だと思う。
仕事に関してはなんの不満も不安もないけれど、結婚しても彼女は今と変わらず頑張れるだろうか?
ほとんどの場合、結婚して環境が大きく変わるのは男性より女性の方だ。
残業で帰りが遅くなることや休日出勤も余儀なくされることが高い頻度である仕事だけに、それが原因で二人の間に亀裂が生じたりはしないか。
早川さんの夫になる人が、妻の仕事に対する理解がある人ならいいのだけど。
あんなにつらい思いは大事な部下に味わって欲しくはないから。
「とりあえず……仕事のことはお互いにちゃんと納得できるまで話し合った方がいいよ。曖昧なままで結婚するとちょっとしたことで状況が悪くなった時に、だからあの時言っただろうとか、俺と仕事どっちが大事なんだとか責められてうまくいかなくなる」
「もしかして篠宮課長の離婚の原因って……」
真剣な顔をして私の言葉を聞いていた早川さんが声を潜めた。
若い社員の中には私に離婚歴があることを知らない者もいるからだろう。
「私は仕事も主婦業も頑張ったけど、妻であることをおろそかにしてしまったらしい。だからうまくいかなくなって別れた」
「そうなんですね……」
「もうずっと前のことだからね。今ならきっとうまくこなせることも、あの頃は私も彼も若かったから自分のことで手一杯だったんだと思う」
あの頃の私たちは相手に対する小さな不信感が少しずつ膨らんで、離婚する少し前にはほんの些細なことでさえ許せなくなっていた。
お互いに相手を思いやれなくなって、うまくいかないことの責任をなすりつけ合っていたように思う。
私たちの気持ちはいつしか冷えきって、違う方向に向かっていた。
今になって振り返ると、なぜあんなに自分の枠に相手をはめ込んでしまおうとしたのか、どうして話し合って解決しようとしなかったのか、後悔することばかりだ。
「脅かしたみたいで悪いけど……早川さんには幸せになって欲しいからさ。お互いに歩み寄ったり譲り合ったりする気持ちだけは忘れないようにしてね」
「肝に銘じておきます」
二次会を断って家路に就いた。
離婚の原因を早川さんに話したせいか、私は自宅に着くまであの時のことを思い出していた。
元夫の勝山 光とは大学時代に知り合って二十歳の頃から付き合い始め、卒業と同時に結婚した。
新婚の頃は慣れない家事に戸惑い、お互いに新入社員で仕事を覚えることに必死だったけど、家に帰れば二人で過ごせることにホッとした。
しばらく経って家事と仕事に慣れてくるとほんの少しの余裕も生まれ、相手を労り思いやることもできた。
ままごとみたいな結婚生活を送っていたあの頃が、おそらく一番幸せだったと思う。
けれどそんな暮らしは長くは続かなかった。
入社して3年ほど経った頃、光の様子がおかしいと気付いた。
だんだん笑わなくなり食欲もなく痩せて蒼白い顔をして、朝になると胃痛や吐き気などを訴え、夜は何かに怯えた様子で布団の中で震えていた。
そしてある日、無断欠勤が続いていることを光の職場からの電話で初めて知った。
その頃の私は入社して初めて任された大きな仕事に必死になっていたから、光の話を聞きもせず、明日からちゃんと出社してとにかく職場の人たちに謝れと言った。
今になって思えば、光はあの時きっと私に失望というか絶望したんだろう。
『瑞希は俺より仕事が大事なんだな』
哀しそうに目を見開いた光の顔と力なく呟いた一言を今でも鮮明に覚えている。
光が会社を辞めたと知ったのは翌月の月末。
給与振り込みがなかったことで夫の退職に気付いた自分にショックを受けた。
なぜ光が突然そうなってしまったのか、一体何を考えているのか、さっぱりわからなかった。
それもそのはずだ。
私は一度も光と向き合おうとしなかったのだから。
新しい仕事を探すこともせずフラフラしている光にイライラしていた私はどう接していいのかわからず、自分の居場所を仕事に求めた。
家庭を顧みず仕事に没頭して、次々と任された大きな仕事を成功させた。
仕事をしている時は光のことを考えずに済んだし、誰もが私を必要としてくれた。
私の知らないうちに光は再就職先を見つけ、そこで出会った女性に安らぎを求めた。
結婚してちょうど5年が経った頃、離婚を切り出したのは光だった。
『瑞希は仕事があればいいんだろ?俺なんか必要ないもんな』
そう言って光は署名捺印した離婚届と結婚指輪を置いて出ていった。
とりあえず主婦業だけはこなしていたけれど、妻としての役割を放棄していたのだから、そうなっても仕方がない話なのかも知れない。
そう思えるようになるには時間がかかった。
光との離婚からもうじき5年。
今はもう光とは会っていないし連絡も取り合っていないから、彼が今どこで何をしているのか何も知らない。
離婚した後、私たちの大学時代の共通の友人と会った時に光がなぜ会社へ行けなくなったのか、その時私に対してどんな気持ちを抱いていたのかを知った。
そんな大事な話を光本人ではなく他人の口から聞かされたことがつらかった。
私たちは確かに愛し合っていたはずなのに、どこでどう進む道を誤ってしまったのだろう?
あの時少しでも光に寄り添う気持ちが私にあれば、もう少し違った結果になっていただろうか?
どんなに悔やんでもしょうがないけれど、私は今もまだ結婚指輪を処分できずにいる。
二人で笑い合えたあの頃に戻ることはもうできないのに。
電車を降りて自宅まで歩きながら、小さな亀裂が取り返しのつかないほどの破綻を招いた瞬間を思い出した。
本当は思い出したくもない光景だ。
それなのにその光景は今でも私の脳裏に鮮明に焼き付いて離れない。
あの時の私は光に裏切られたことに対するショックで、いっそ何もかもぶち壊してやろうかと思う反面、これでもう光との実のない夫婦関係を終わりにできるという妙な安堵をおぼえた。
光が別の人を選ぶ前から、私たちの関係は冷めきって破綻していた。
ただ別れを切り出すきっかけがなかっただけだと思う。
私は仕事の忙しさにかまけて光と向き合おうとしなかったし、時間も気持ちもすれ違いの生活が続いていたから。
光は今頃どこでどうしているだろう?
今でもあの人と一緒にいるだろうか。
離婚してからの私はとらわれるものも失う物もなくなって、何かに取りつかれたように更に仕事に励んだ。
あれから恋愛なんてしていないし、したいとも思わない。
出会いとか誘いが全くなかったわけでもないけれど、とてもそんな気にはなれず断った。
まだ32歳だというのに、女としては見事に枯れているなと自分でも思う。
両親から再婚する気はないのかとか、一生一人でいるつもりなのかとうるさく聞かれるのが煩わしくて、最近は実家から足が遠のいている。
兄と妹はそれぞれ結婚して円満な家庭を築いているし、両親にとっては待望の孫も生まれたのだから、私が無理に再婚しなくても何ら問題ないだろう。
同じ過ちを繰り返してまた心に深い傷を負うくらいなら、一生一人でいた方が気が楽だ。
ようやく自宅に帰り、シャワーを済ませて冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出した。
タブを開けて勢いよく喉に流し込むと、炭酸の泡が喉の奥で弾ける刺激に少し涙目になった。
部下たちとの賑やかな飲み会の後のたった一人の二次会だ。
バッグからタブレットを取り出し、明日からの仕事の資料を肴にビールを飲む。
資料に目を通していると、捨てられずタンスの奥の小箱に眠らせたままの結婚指輪がなんとなく気になった。
今更そんなものを眺めても仕方ないのに、立ち上がってタンスの奥を漁った。
小箱を開けると二つの結婚指輪がリングピローに納められている。
二つ揃っているのに、なんだかやけに寂しそうだ。
この指輪を選んだ時のことは今も覚えている。
二人してジュエリーショップのショーケースに貼り付くようにして、長い時間をかけて選んだ。
結婚式で指輪の交換をした時には、これでやっと光と夫婦になれると思って嬉しかった。
結婚式が終わって夫婦として初めての夜、光はベッドで私を腕枕しながら指輪をしげしげと眺めた。
『このデザインならいくつになっても違和感無さそうだな』
そう言ってからたった5年でこの指輪を外す時が来るとは夢にも思わなかった。
もうこの指輪を薬指にはめることはない。
それなのに私は持っていても意味のないものを、いつまでこうして大事に取っておくのか。
光と別れてもうじき5年。
光との結婚生活も5年で終わった。
そろそろ過去を全て拭い去る時期なのかも知れない。
私たちは確かに愛し合っていたはずなのに、視線の先にあるものが違い始めたのは一体いつの頃からだったんだろう?
何事もなく繰り返される日常の中で、私はあなた以外の居場所を見つけ、あなたは私以外の安らぎを求めた。
何度も触れ合ったはずの温もりも忘れてしまうほど離れてしまったお互いの距離を埋めることはできなかった。
だからさよなら。
私の愛した人。
永遠の愛を誓った証の指輪を外して、私の薬指にはあなたと過ごした日々の長さを物語る跡と、神様への誓いに背いた罪だけが残った。
何度も忘れようとしたのに今もまだ私は、あなたと過ごした幸せだった日々と裏切られた日の悲しみの狭間でさまよっている。
午後のオフィスはなんとも言い難い緊迫感に包まれて、パソコンに向かう人たちも電話に出る人もどことなく殺伐としている。
重大な取り引きをモノにできるかどうかの結果が知らされる大事な日だ。
もうじきその返事の電話がかかってくる頃だろう。
この数ヶ月間の努力が報われるのか、水の泡と化してしまうのか。
部下たちは血走った目でパソコンのマウスを握りしめている。
気持ちはわかるんだけどさ。
やるだけのことはやったんだし、ちょっと落ち着こうよ。
今更ジタバタしたところでどうにもならないんだから。
そんな必死な姿はもっと早く見たかったな。
それにしても今日もいい天気だ。
窓から射し込む陽射しをブラインドで遮ってしまうのがもったいないくらい。
今日みたいな日に家で布団を干せたらきっと気持ちがいいんだろう。
ここ最近、休日はいつも天気が悪くて思うように洗濯物が乾かない。
前に布団を干したのはいつだったっけ?
そんなことを考えながら席を立って伸びをした。
「みんなさぁ……ちょっと落ち着こうよ。今更必死になったって何も変わらないよ?」
上司の私がこんな性格だから部下たちは不安なのかも。
そう思わなくはないけれど、ホントのことを言ったまでだ。
みんなが不安そうな表情を浮かべながら私を見ている。
あと数分もすればおのずと結果は表れる。
『果報は寝て待て』なんて諺、みんな知らないのかな?
「篠宮課長は緊張とかしないんですか?」
「んー……しないねぇ。それより今はコーヒー飲みたい。ついでに言うとタバコも吸いたいね」
小銭とタバコを持ってオフィスを出ようとすると、電話のベルが鳴った。
素早く受話器を上げて応対した金城くんが突然立ち上がった姿を視界の端にとらえた。
「ありがとうございます!!はい、精一杯務めさせていただきます!!」
電話の相手に見えるわけでもないのに、金城くんは腰を直角に折り曲げる勢いでお辞儀をした。
何度見てもおかしな光景だ。
「ほら、結果は出たじゃない」
深々と頭を下げながら電話を切った金城くんを、みんなが取り囲んだ。
結果はわかっているのにハッキリとした言葉で聞きたいんだろう。
「やりましたよ!!オリオン社の『みなとまち花と光のプロムナード』のプロデュースは我が社に決定です!」
「おおっ!!やったな!!」
「頑張った甲斐がありましたね!」
私は部下たちの歓喜の声を背に、口元に笑みを浮かべながらオフィスを出た。
自販機でコーヒーを買って喫煙室に向かった。
今日はきっと狂喜乱舞した部下たちがお祝いに飲み会を開こうとか言い出すはずだ。
確かにみんな、この数ヶ月頑張ったもんな。
右も左もわからなかった新人が先輩たちの背中を追うほど、先輩社員たちはどんどん頼もしくなっていく。
上司の私はもちろん部下のフォローやアドバイスはするけれど、心の中では高みの見物だ。
次はどう動くのか、クライアントの希望をどんな形で実現させるプランを提示できるのか、毎日が面白かった。
たまに自信をなくしてへこたれそうになる者もいたけど、そこをなんとか掬い上げてやるのも上司の仕事だから、悩みを聞いて励まして、時には叱ったりもした。
部下たちのことは信頼している。
そうでなければ大きな仕事を任せるなんて到底できない。
この取り引きは実績のある他社に比べ、まだ歴史の浅い我が社にとって不利な状況から始まった。
みんなまだ若いけど仕事への情熱は人一倍だから、その一生懸命さと熱意にクライアントも心を動かされたのかも知れない。
ひとつのことに一生懸命に突っ走れる若さって素晴らしい。
数年前の私にもあの人に対してそんな気持ちがあれば、私たちは別々の道を歩むことはなかったのかも知れない。
予想通り、仕事の後でお祝いに飲み会を開こうと言う流れになった。
こういう時、この課のチームワークは抜群だ。
指名せずとも誰かが率先して幹事を買って出る。
今日の幹事は早川さんと田村くんらしい。
きっと二次会まで盛り上がるんだろうな。
私は遠慮させてもらうつもりだけど。
もう部下たちほどは若くないし、賑やかな酒の席は少々疲れてしまうから。
「来年結婚することになりました!」
お祝いの飲み会の席でお酒が入っていい気分になったからか、私の隣に座っていた早川さんが突然そんなことを言い出した。
付き合って2年ほどになる彼氏がいると言う話は聞いているし、年齢的にもそろそろお年頃だから、結婚が決まったと聞いても特別驚いたりはしない。
「もちろん結婚後も仕事続けるんですよね?」
「彼は私に仕事辞めて家庭に入って欲しそうだけど私は続けるつもりでいるよ。この仕事好きだし、せっかく頑張ってきたんだもん」
「ですよね!良かったぁ」
早川さんは入社7年目の29歳。
明るくハキハキとした性格のムードメーカーで仕事もできるし、若い社員の多いこの課では頼もしい存在だと思う。
仕事に関してはなんの不満も不安もないけれど、結婚しても彼女は今と変わらず頑張れるだろうか?
ほとんどの場合、結婚して環境が大きく変わるのは男性より女性の方だ。
残業で帰りが遅くなることや休日出勤も余儀なくされることが高い頻度である仕事だけに、それが原因で二人の間に亀裂が生じたりはしないか。
早川さんの夫になる人が、妻の仕事に対する理解がある人ならいいのだけど。
あんなにつらい思いは大事な部下に味わって欲しくはないから。
「とりあえず……仕事のことはお互いにちゃんと納得できるまで話し合った方がいいよ。曖昧なままで結婚するとちょっとしたことで状況が悪くなった時に、だからあの時言っただろうとか、俺と仕事どっちが大事なんだとか責められてうまくいかなくなる」
「もしかして篠宮課長の離婚の原因って……」
真剣な顔をして私の言葉を聞いていた早川さんが声を潜めた。
若い社員の中には私に離婚歴があることを知らない者もいるからだろう。
「私は仕事も主婦業も頑張ったけど、妻であることをおろそかにしてしまったらしい。だからうまくいかなくなって別れた」
「そうなんですね……」
「もうずっと前のことだからね。今ならきっとうまくこなせることも、あの頃は私も彼も若かったから自分のことで手一杯だったんだと思う」
あの頃の私たちは相手に対する小さな不信感が少しずつ膨らんで、離婚する少し前にはほんの些細なことでさえ許せなくなっていた。
お互いに相手を思いやれなくなって、うまくいかないことの責任をなすりつけ合っていたように思う。
私たちの気持ちはいつしか冷えきって、違う方向に向かっていた。
今になって振り返ると、なぜあんなに自分の枠に相手をはめ込んでしまおうとしたのか、どうして話し合って解決しようとしなかったのか、後悔することばかりだ。
「脅かしたみたいで悪いけど……早川さんには幸せになって欲しいからさ。お互いに歩み寄ったり譲り合ったりする気持ちだけは忘れないようにしてね」
「肝に銘じておきます」
二次会を断って家路に就いた。
離婚の原因を早川さんに話したせいか、私は自宅に着くまであの時のことを思い出していた。
元夫の勝山 光とは大学時代に知り合って二十歳の頃から付き合い始め、卒業と同時に結婚した。
新婚の頃は慣れない家事に戸惑い、お互いに新入社員で仕事を覚えることに必死だったけど、家に帰れば二人で過ごせることにホッとした。
しばらく経って家事と仕事に慣れてくるとほんの少しの余裕も生まれ、相手を労り思いやることもできた。
ままごとみたいな結婚生活を送っていたあの頃が、おそらく一番幸せだったと思う。
けれどそんな暮らしは長くは続かなかった。
入社して3年ほど経った頃、光の様子がおかしいと気付いた。
だんだん笑わなくなり食欲もなく痩せて蒼白い顔をして、朝になると胃痛や吐き気などを訴え、夜は何かに怯えた様子で布団の中で震えていた。
そしてある日、無断欠勤が続いていることを光の職場からの電話で初めて知った。
その頃の私は入社して初めて任された大きな仕事に必死になっていたから、光の話を聞きもせず、明日からちゃんと出社してとにかく職場の人たちに謝れと言った。
今になって思えば、光はあの時きっと私に失望というか絶望したんだろう。
『瑞希は俺より仕事が大事なんだな』
哀しそうに目を見開いた光の顔と力なく呟いた一言を今でも鮮明に覚えている。
光が会社を辞めたと知ったのは翌月の月末。
給与振り込みがなかったことで夫の退職に気付いた自分にショックを受けた。
なぜ光が突然そうなってしまったのか、一体何を考えているのか、さっぱりわからなかった。
それもそのはずだ。
私は一度も光と向き合おうとしなかったのだから。
新しい仕事を探すこともせずフラフラしている光にイライラしていた私はどう接していいのかわからず、自分の居場所を仕事に求めた。
家庭を顧みず仕事に没頭して、次々と任された大きな仕事を成功させた。
仕事をしている時は光のことを考えずに済んだし、誰もが私を必要としてくれた。
私の知らないうちに光は再就職先を見つけ、そこで出会った女性に安らぎを求めた。
結婚してちょうど5年が経った頃、離婚を切り出したのは光だった。
『瑞希は仕事があればいいんだろ?俺なんか必要ないもんな』
そう言って光は署名捺印した離婚届と結婚指輪を置いて出ていった。
とりあえず主婦業だけはこなしていたけれど、妻としての役割を放棄していたのだから、そうなっても仕方がない話なのかも知れない。
そう思えるようになるには時間がかかった。
光との離婚からもうじき5年。
今はもう光とは会っていないし連絡も取り合っていないから、彼が今どこで何をしているのか何も知らない。
離婚した後、私たちの大学時代の共通の友人と会った時に光がなぜ会社へ行けなくなったのか、その時私に対してどんな気持ちを抱いていたのかを知った。
そんな大事な話を光本人ではなく他人の口から聞かされたことがつらかった。
私たちは確かに愛し合っていたはずなのに、どこでどう進む道を誤ってしまったのだろう?
あの時少しでも光に寄り添う気持ちが私にあれば、もう少し違った結果になっていただろうか?
どんなに悔やんでもしょうがないけれど、私は今もまだ結婚指輪を処分できずにいる。
二人で笑い合えたあの頃に戻ることはもうできないのに。
電車を降りて自宅まで歩きながら、小さな亀裂が取り返しのつかないほどの破綻を招いた瞬間を思い出した。
本当は思い出したくもない光景だ。
それなのにその光景は今でも私の脳裏に鮮明に焼き付いて離れない。
あの時の私は光に裏切られたことに対するショックで、いっそ何もかもぶち壊してやろうかと思う反面、これでもう光との実のない夫婦関係を終わりにできるという妙な安堵をおぼえた。
光が別の人を選ぶ前から、私たちの関係は冷めきって破綻していた。
ただ別れを切り出すきっかけがなかっただけだと思う。
私は仕事の忙しさにかまけて光と向き合おうとしなかったし、時間も気持ちもすれ違いの生活が続いていたから。
光は今頃どこでどうしているだろう?
今でもあの人と一緒にいるだろうか。
離婚してからの私はとらわれるものも失う物もなくなって、何かに取りつかれたように更に仕事に励んだ。
あれから恋愛なんてしていないし、したいとも思わない。
出会いとか誘いが全くなかったわけでもないけれど、とてもそんな気にはなれず断った。
まだ32歳だというのに、女としては見事に枯れているなと自分でも思う。
両親から再婚する気はないのかとか、一生一人でいるつもりなのかとうるさく聞かれるのが煩わしくて、最近は実家から足が遠のいている。
兄と妹はそれぞれ結婚して円満な家庭を築いているし、両親にとっては待望の孫も生まれたのだから、私が無理に再婚しなくても何ら問題ないだろう。
同じ過ちを繰り返してまた心に深い傷を負うくらいなら、一生一人でいた方が気が楽だ。
ようやく自宅に帰り、シャワーを済ませて冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出した。
タブを開けて勢いよく喉に流し込むと、炭酸の泡が喉の奥で弾ける刺激に少し涙目になった。
部下たちとの賑やかな飲み会の後のたった一人の二次会だ。
バッグからタブレットを取り出し、明日からの仕事の資料を肴にビールを飲む。
資料に目を通していると、捨てられずタンスの奥の小箱に眠らせたままの結婚指輪がなんとなく気になった。
今更そんなものを眺めても仕方ないのに、立ち上がってタンスの奥を漁った。
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二つ揃っているのに、なんだかやけに寂しそうだ。
この指輪を選んだ時のことは今も覚えている。
二人してジュエリーショップのショーケースに貼り付くようにして、長い時間をかけて選んだ。
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結婚式が終わって夫婦として初めての夜、光はベッドで私を腕枕しながら指輪をしげしげと眺めた。
『このデザインならいくつになっても違和感無さそうだな』
そう言ってからたった5年でこの指輪を外す時が来るとは夢にも思わなかった。
もうこの指輪を薬指にはめることはない。
それなのに私は持っていても意味のないものを、いつまでこうして大事に取っておくのか。
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