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小さなしこり
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真っ暗な部屋の中で、紫恵は壁の方を向いたままため息をついた。
怒っていたのはこっちなのに、逆に逸樹が怒るなんておかしい。
逸樹があんなに怒るなんて思わなかった。
ちゃんと話を聞けば良かったかもとか、そんなに怒らなくてもとか、疑ってしまったことを謝るべきかななどと、とりとめもない思いがぐるぐると頭を巡る。
こんな些細なことでつまらない喧嘩はしたくない。
だけど逸樹が焦っていたことや心当たりがあることで、紫恵が不快になったのは事実だ。
こちらから謝るのはどうにも腑に落ちない。
「結婚して何年経ってても……好きだから不安になるの……」
紫恵は逸樹に届くことのない涙混じりの小さな声で呟いた。
逸樹は苛立たしげに、リビングのラグの上に長い手足を投げ出しゴロリと横になった。
帰ったら一晩中紫恵を抱きしめていようと思っていたのに、もうそんな気持ちも失せてしまった。
どんなに『愛してる』と言っても、紫恵は自分を信用してくれていないのだと思うと、ひどく悲しくて虚しかった。
抱きつかれたのは不可抗力だ。
他の女とやましいことなんてしていないし、疑われるようなことは何ひとつない。
それを証明するために四六時中一緒にいるわけにもいかないし、どんなに言葉にしたところで、紫恵が信じてくれなければどうにもならない。
何もしていないのに疑われるくらいなら、先輩たちと一緒に本当にあの店に行けば良かったかもなんて、ヤケ気味になった頭でそんなことを思ったりする。
自分にはやましいことなど何ひとつないのだから、紫恵が謝ってくるまで本当のことは話さないでおこう。
そんなことを考えているうちに、長かった出張の疲れがドッと押し寄せ、逸樹はリビングのラグの上でそのまま眠りに落ちた。
翌朝。
逸樹が目覚めると、体にはブランケットが掛けられていた。
目を凝らして壁時計を見ると、時間はまだ8時になる少し前。
紫恵はベランダで、逸樹が持ち帰った洗濯物を干している。
いつもなら紫恵に気付かれないようにそっと近寄って、後ろから抱きしめて驚かせたりするのに、今日はとてもそんなことができる雰囲気じゃない。
逸樹はあの汚れは落ちたのだろうかと考えながら起き上がった。
少しすると洗濯物を干し終えた紫恵がリビングに戻ってきて、少しばつが悪そうな顔をして目をそらした。
「……おはよう」
明らかにいつもより元気のない紫恵の声。
「……おはよう」
逸樹もなんとなく気まずくて目をそらした。
「もうすぐののちゃんが来るけど、私はあと1時間くらいしたら出掛けるから」
「うん」
「食事は適当に済ませて」
「……わかった」
紫恵はそれだけ言うと昨日のことには触れず、よそ行きの服に着替えて出掛ける支度をし始めた。
いつもの紫恵なら温めれば食べられるように食事の支度をして出掛けるのに、やっぱりまだ怒っているのかも知れない。
そう思うと、逸樹の胸にまた夕べの苛立ちが蘇る。
「今日は確か同窓会だったよな。俺のいない所で、ゆっくり羽伸ばしてくれば」
逸樹はドレッサーの前で化粧をしている紫恵に向かって、思わずイヤな言い方をした。
だけど言ってしまってから少し後悔した。
紫恵は鏡を見ながら一瞬その手を止めた。
「……いっくんは私のいない所で、ゆっくり羽伸ばしてたんだ」
「しーちゃんがそう思ってるなら、もうそれでいい。俺が何言ったって、どうせ信じないんだから」
「だったら私ももう何も聞かない。いっくんのしたいようにすればいい」
「わかった、好きにするよ」
逸樹は立ち上がって洗面所へ向かった。
売り言葉に買い言葉で、大人げなく心にもないことを言ってしまった。
鏡に映る自分はひどい顔をしている。
冷たい水で洗った顔をタオルで拭いていると、リビングから紫恵が小さくしゃくりあげるのが聞こえた。
こんなつまらないことで意地を張って紫恵を泣かせてしまうなんて。
やっぱり本当のことを話して、さっきの言葉は本心じゃないと言って謝ろうと思いながら洗面所を出ようとすると、玄関のドアが閉まる音がした。
家を出る時間にはまだ早いはずなのに、よほど一緒にいたくなかったのか。
こんな状態で行かせるわけにはいかないと、逸樹が慌てて玄関に向かおうとした時、チャイムの音が部屋に鳴り響いた。
怒っていたのはこっちなのに、逆に逸樹が怒るなんておかしい。
逸樹があんなに怒るなんて思わなかった。
ちゃんと話を聞けば良かったかもとか、そんなに怒らなくてもとか、疑ってしまったことを謝るべきかななどと、とりとめもない思いがぐるぐると頭を巡る。
こんな些細なことでつまらない喧嘩はしたくない。
だけど逸樹が焦っていたことや心当たりがあることで、紫恵が不快になったのは事実だ。
こちらから謝るのはどうにも腑に落ちない。
「結婚して何年経ってても……好きだから不安になるの……」
紫恵は逸樹に届くことのない涙混じりの小さな声で呟いた。
逸樹は苛立たしげに、リビングのラグの上に長い手足を投げ出しゴロリと横になった。
帰ったら一晩中紫恵を抱きしめていようと思っていたのに、もうそんな気持ちも失せてしまった。
どんなに『愛してる』と言っても、紫恵は自分を信用してくれていないのだと思うと、ひどく悲しくて虚しかった。
抱きつかれたのは不可抗力だ。
他の女とやましいことなんてしていないし、疑われるようなことは何ひとつない。
それを証明するために四六時中一緒にいるわけにもいかないし、どんなに言葉にしたところで、紫恵が信じてくれなければどうにもならない。
何もしていないのに疑われるくらいなら、先輩たちと一緒に本当にあの店に行けば良かったかもなんて、ヤケ気味になった頭でそんなことを思ったりする。
自分にはやましいことなど何ひとつないのだから、紫恵が謝ってくるまで本当のことは話さないでおこう。
そんなことを考えているうちに、長かった出張の疲れがドッと押し寄せ、逸樹はリビングのラグの上でそのまま眠りに落ちた。
翌朝。
逸樹が目覚めると、体にはブランケットが掛けられていた。
目を凝らして壁時計を見ると、時間はまだ8時になる少し前。
紫恵はベランダで、逸樹が持ち帰った洗濯物を干している。
いつもなら紫恵に気付かれないようにそっと近寄って、後ろから抱きしめて驚かせたりするのに、今日はとてもそんなことができる雰囲気じゃない。
逸樹はあの汚れは落ちたのだろうかと考えながら起き上がった。
少しすると洗濯物を干し終えた紫恵がリビングに戻ってきて、少しばつが悪そうな顔をして目をそらした。
「……おはよう」
明らかにいつもより元気のない紫恵の声。
「……おはよう」
逸樹もなんとなく気まずくて目をそらした。
「もうすぐののちゃんが来るけど、私はあと1時間くらいしたら出掛けるから」
「うん」
「食事は適当に済ませて」
「……わかった」
紫恵はそれだけ言うと昨日のことには触れず、よそ行きの服に着替えて出掛ける支度をし始めた。
いつもの紫恵なら温めれば食べられるように食事の支度をして出掛けるのに、やっぱりまだ怒っているのかも知れない。
そう思うと、逸樹の胸にまた夕べの苛立ちが蘇る。
「今日は確か同窓会だったよな。俺のいない所で、ゆっくり羽伸ばしてくれば」
逸樹はドレッサーの前で化粧をしている紫恵に向かって、思わずイヤな言い方をした。
だけど言ってしまってから少し後悔した。
紫恵は鏡を見ながら一瞬その手を止めた。
「……いっくんは私のいない所で、ゆっくり羽伸ばしてたんだ」
「しーちゃんがそう思ってるなら、もうそれでいい。俺が何言ったって、どうせ信じないんだから」
「だったら私ももう何も聞かない。いっくんのしたいようにすればいい」
「わかった、好きにするよ」
逸樹は立ち上がって洗面所へ向かった。
売り言葉に買い言葉で、大人げなく心にもないことを言ってしまった。
鏡に映る自分はひどい顔をしている。
冷たい水で洗った顔をタオルで拭いていると、リビングから紫恵が小さくしゃくりあげるのが聞こえた。
こんなつまらないことで意地を張って紫恵を泣かせてしまうなんて。
やっぱり本当のことを話して、さっきの言葉は本心じゃないと言って謝ろうと思いながら洗面所を出ようとすると、玄関のドアが閉まる音がした。
家を出る時間にはまだ早いはずなのに、よほど一緒にいたくなかったのか。
こんな状態で行かせるわけにはいかないと、逸樹が慌てて玄関に向かおうとした時、チャイムの音が部屋に鳴り響いた。
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