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二章 (ポーディングの街編)

16.カリンの囁き

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 ルーラ・カリン
 それはこの女の本名だ。俺が生きて帰ることを、刀に誓って宣言したのがこの女。
 俺にとっては成り行きだったのだが、「戦士の誓い」はかなり重い意味を持っているらしい。
 カエムによると、戦士の誓いを果たせない場合、戦の女神から天罰が下るという。
 俺がトロールに負けて死んでいたら、この女も無事ではなかっただろう。会ったばかりの俺に何故そんなことを……


 ビールはジョッキ半分は残っていただろうか。それが彼女の喉の奥に音を立てて流れ込んだ。
 普段は酒を飲まないのだろう。空になったジョッキをテーブルに置く頃には、呂律が回らないほどに酔っていた。
 しかしまだ意識はあるようで、俺の腹を指で押しながら言う。
「あなたしゃまはえーゆうさまぁ~」
「……なんて?」
 何か言っているが、聞き取れない。
「わたしをまもったゃぁひとぅ~」
「……お前、酔ってるだろ」
「よってぇないよぉ~う」

 この女……こんなに間抜けな奴だっけ?
「ぅおい!わたしはまぬけぇしゃないぞぅ?」
 心が読んだように叫ぶ彼女は、テーブルを掴む手を離して、遂に俺に背中を預けてきた。
 酔っていて、支えがないとスライムのように床に転がってしまう。
 仕方がなく、両手で支える姿勢を保つ。

 ここが酒場でよかった。こんな状況の男女をつまみ出す人はいないし、姿勢を正せと注意する輩もいない。
 幸い、こんな状態の人はカリン以外にもいるようだ。

 今日の酒場はトロール討伐を祝う人で溢れている。冒険者だけでない。普段魔物と関わることがない人も、酒を飲んで祝っている。
 俺がここに来てから、かれこれ5時間。明るかった空の色も、もう暗い。
 酒に呑まれて転がる人。それを抱えて持ち帰る人。特大のジョッキで飲み比べを始める人。
 沢山の人が、入れ代わり立ち代わり飲んでいる。

 それを見ていると、もっとビールを飲みたくなってきた。
 あちらで飲み比べをしている人たちに加わろうか。
 少しばかりカリンを1人にしても、攫われることはないだろう。
 腕の中のカリンを机に預けようとする。
 しかし、離れない。俺の服を両手で掴んでいるようだ。

 握りしめたカリンの片手を掴み、少し緩める。
 その手は赤ん坊のように小さく、とても剣を振っているものとは思えなかった。

 もしかして……
 俺は恐ろしいことに気がついた。本当だとすれば、俺が絶望の淵に立たされるもの。
 それは、カリンが本当は戦士ではない、という可能性だ。

 勇者パーティでのトラウマが蘇る。カリンがあいつら同様に、俺を嘲笑うために近づいたのだとしたら……?
 まんまと戦士の誓いをする俺を馬鹿にして、みんなで笑っているとしたら……?
 急に怖くなる。
 また……裏切られるのか?

 少し入っていた酒も一瞬で抜けて、最悪の可能性を想像する。
 カリンを抱えているこの状況も、仕組まれているかもしれない。
 そう思えば、大商人であるカエムは、なぜC級の俺を専属冒険者にしたんだ?
 命の恩人とはいえ、他にやり方はたくさんあったはずだ。
 領主様は?先遣隊は本当にトロールの存在に気がついていなかったのか?
 それも全て、俺を嘲笑うためのものだったとしたら……

 疑心暗鬼になっている自分に気がついた。
 少し冷静になろう。
 そもそも、カリンが戦士でないと決まったわけではない。
 俺は何故こんなことを考えていたんだ……?
 
 これは……そう、あの男が俺に残した呪いだ。鑑定不可能な、解呪不可能なものが、俺の心をむしばんでいる。

 ふと、俺の手の中に温かいものがあることに気がついた。
 解こうとしていたカリンの手を、俺はずっと握っていたようだ。
 腕の中で寝ているカリンを見る。何か寝言を言って、ぐっすりと寝ている。
 そんな彼女に、一切の暗い感情はないように感じた。

 落ち着け。安心しろ。大丈夫なはずだ。全て上手くいく。
 覚悟を決めて、赤ん坊のように小さく丸い手を開いてみる。
 開かれたその手のひらは、紛れもなく戦士の手そのものであった。
 幾多の戦場を駆け抜けた歴戦の強者。汗、血を流し、人々を守ってきた手。剣を振るうその手には、幾つもの潰れたマメができている。
 彼女の手のひらは強くて大きい。そして俺の希望そのものであった。
 いつの間に酒が回ったのだろうか。思わず涙が溢れる。
 俺は彼女の手を握ったまま、いつまでも泣いていた。


「あ……あの……ルイスどうしたの?」
 目を覚ましたカリンが驚いた顔をしている。
 俺を真っ直ぐに見つめるその瞳を見て、思わずカリンを抱きしめた。
「ちょ……なに!どうしたの!」
「カリン!君は俺を裏切ってなんかいなかった!」
「うらぎり?……そんなわけないでしょ!」
 俺の腕の中でカリンは抜け出そうと必死であったが、その様子はどこか嬉しそうでもあった。

「おい!カリンを落とした男がいやがる!」
「なんだと!どこのどいつだ!」
「おい、あれじゃないか!」
「この野郎っ英雄の次は美女かよ!」
 酒場の笑い声が一気に大きくなる。
 カリンは状況を理解していないようで、混乱している。
 いやそれどころか、この状況を理解しているのは、この場でただ1人、俺だけだろう。
 そう、俺だけが知っていればいい。俺だけが喜べばいいんだ。
 俺だけが、過去の呪いから解放されたことを祝っていればいい……


 「良かったね」
 突然、カリンが耳元でささやいた。

 心臓が一瞬、ドクンと波打つのを感じる。耳元まで聞こえたその鼓動は、おそらく目の前の彼女にも聞こえただろう。
 ようやく分かった。俺はこの子のことを信じていいんだ。彼女なら……カリンなら……
 心の中で、何かが破裂した。無意識のうちに押さえ込んでいた何か。
 とか、とかで済ませていたこと全てが、許される感じ。
 気がついたら、俺はカリンを抱いて唇をつけていた。
 カリンも顔を赤くして俺に抱きつく。
 酒場が沸き上がった。

 俺は耳の遠い老人にまで届くような声で叫ぶ。
「おい!今、この時間から俺の奢りだぁ!好きに飲んでくれ!」
 野郎どもの唸るような雄叫びが湧き上がる。

 酒場の夜はまだ終わらなそうだ。
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