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第一章 初依頼、初仕事 一話一万文字
記憶の断片
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「今日は後頭部がやけにツイてねぇなぁ……お祓い目的に塩でもかけとくか」
そう言って、アレクは哀しげに溜め息を吐きながら、自分の後頭部を慰藉するように撫でた。
最近、運が味方してくれないなぁ――なんて思っていたアレクだったが、今日ばかりは本当に運が悪い。寝ていた木の枝が折れて落下する、自分の縄張りがゴミまみれになっているし血痕もある、窃盗犯を捕まえようとしたら思い切り地面に叩き付けられる、おかげで商い通りの石床は亀裂まみれ、そして真上から人が落ちてくる――まだまだあるのだが、大まかな不運はこれぐらいだ。
「私、幽霊種のお祓いができるので、よければしてあげましょうか?」
「皮肉で言ったんだよ! なんなら自分自身をお祓いしておけ!」
不運を祓ってみせようと意気込むのは、アレクの真上から落下してきた少女。
身長は140センチにも満たぬ小柄さで、アレクと同じように紫紺の双眸が印象的な少女だ。フードを外すとふくらはぎ近くまである髪は、双眸と同じく艶のある紫紺色をもっていて、彼女のやや童顔な顔と相まってよく似合っている。そこで服装が薄汚れたローブなのが残念なところだが、それを差し引いても絶世の美女として申し分ない。
「死神種にお祓いなんてちゃちなもの、全然一切全く何も効きませんよ~」
だが、悲しいことに性格が残念だ。みてくれだけは天使のように美しいのだが、悲しいことに性格が残念だ。別に腹黒いというわけではなく、むしろ天真爛漫で純粋さがあるのだが、その純粋さがどうやら汚れているらしかった。――所謂、無意識に人を挑発しやすいタイプなのだ。そのうえたちが悪いのは彼女が死神種であるという事実。悪魔種ぐらいのレベルでないと、黙らせることは難しいだろう。
「なんで死神がこの国に来てんだよ……」
「それは私――リアが万事屋で、とある盗賊さんから依頼を受けたからですよ~」
彼女――リアが語る通り、万事屋として生活しているようで、報酬は生物の生命力を依頼に応じて貰うらしい。過去の書物で、死神種が生命を糧としていることが確かに記されていて、それを知っていたアレクは万事屋の報酬が命であることは予想できた。
盗賊の依頼を受けて、女性からネックレスを盗んだのはリアで相違ない。彼女がアレクと衝突してピクピクと痙攣していたとき、リアは震えた声でそう自白していたのだ。
「俺がお前をとっ捕まえようとしても、ネックレスは盗賊の手に渡っているし、俺はお前に勝てない……か」
「ええ、絶対に勝てませんね」
これが、最上位種と塵芥の埋められぬ壁だ。それは王都で過ごすような生温い一般人に限らず、アレクにも当てはまることである。それほどまでに死神種という種族は、生物に死を誘うことに富んだ種族なのだ。
「――――そういやお前、なんで俺の後をつけてきたんだ? そのまま依頼を終えてどこかに逃げてりゃ、こんなことにならなかったのによ」
「私の心が赤髪を揺らしてプンプン怒りながら、あいつを追いかけるぞ~なんて言っていたので、追いかけちゃいました」
赤髪を揺らしてプンプン怒りながら――という発言から、アレクはそれが誰であるかを把握した。石床に亀裂が入るほどまでに彼を叩き付けた、あのイライラ顔の少女のことだ。燃えているような真っ赤な双眸を輝かせ、整った顔を憤怒に染めていた、あの少女。
「仲間を心と表現するとは、随分と斬新だな。それで一つ疑問があるんだが、あの赤髪の少女……えーと」
「ロアといいます」
「そのロアってやつ……なんで俺の前に現れねぇんだよ。追いかけるぞ~って言ったの、あいつだろ」
その質問を聞いたリアは、口に手を当ててクスクスと笑った。
「いや、その……貴方の出した音に驚いて、逃げてしまったといいますか……」
「……あー、わかった」
アレクは残念なことを聞いたと額に手を当てて、憂いの漂う表情で苦笑をこぼす。あんなにおっかない少女が音に驚く様子など、彼には全く想像できない。
「んでお前、万事屋やってるって言ってたな。どこまでの範囲で何でも屋やってんだ?」
「言葉のとおり、何でもです」
「だから、何でもの範囲を……」
「何でもです」
アレクは気付く。自分の言う『何でも』と彼女の言う『何でも』のニュアンスが、明らかに異なっていることに。
「……なんでも?」
「はい。犯罪から援助交際まで、なーんでも」
笑顔で言い放つ彼女の言葉を脳内で咀嚼し、アレクは心の底から震慄した。
リアは、本当に何でもするのだ。極端な話、強盗も殺人も身体を売ることさえ、やってのけてしまうのだ。そこで不意に浮かんだアレクの疑問は、
「……お前、非処女なのか」
「何でもするとは言いましたが、それをしたとは言っていないんですよねぇ……」
アレクは胸を撫で下ろし、無性に湧いた安心感に息を吐いた。
「けど、お前が何でもするって言ったとして、その……性的な依頼をする奴はいなかったのか?」
「いましたよ。ただし、依頼報酬は前払い百年分でしたけどね」
「死刑と変わらねぇじゃねえか」
それはそれは、処女を失わない訳だ。その前に相手は死ぬのだから。言い方を変えれば、安楽死の依頼に等しい行為だ。死神が生物を優しく安らかに死へ誘ってくれるのかは定かではないが、リアのような美少女の養分になるだけマシなのかもしれない。
「要は依頼の内容に応じて、依頼報酬が変化するということですよ。殺人なら何年分、窃盗なら何ヶ月分――って感じで」
依頼は何でも受けてやる。ただし、その分の命を貰う。受けたくない依頼はほぼ一生分貰うからな――というわけだ。つまり、無難で楽な依頼になるほど、報酬は楽になる。だとすれば――――
「……じゃあ、俺から依頼を一つ出そう」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「過去に出会った恩人に会いたいと……そうですね、ざっと三日分ほどですかね」
アレクの依頼を受けた直後、しばらくの間に思案気な表情を浮かべたリアは、依頼報酬の内容を軽快な口調で言った。それに対して、アレクは意外だとでも言いたげな表情を浮かべて、小首を傾げる。
「てっきり数ヵ月は毟り取られると思ってたんだが、案外安いんだな」
「まぁ、ただの捜索ですし……なんなら、もう一日減らしましょうか?」
「いや、遠慮しておく」
ただの捜索だ――と依頼報酬を僅か三日で済ませる彼女だが、アレクは恩人の住居がどこにあるのか、一切思い出せないのだ。最初の頃はまだ鮮明に憶えていたのだが、月日を重ねるうちにその記憶は忘却の彼方へ追いやってしまった。今となっては、自分の顔面をぶん殴りたいほどに後悔している。
「――んでだ、お前はどうやって俺の恩人を探すつもりだ? 地道に情報収集でもして、地道に探してくつもりか?」
素朴に湧いた質問を聞いたリアは、『何を言っているんだ、こいつは』と絵に描いたような表情を浮かべた後、嘲るような笑みを浮かべて溜め息を吐いた。その顔が妙にも腹立たしいので、一発お見舞いしてやりたいと思うアレクだが、一応は依頼人の立場なので歯を食いしばって耐える。
「死神種の力を侮ってもらっては困ります。いちいち情報収集なんて面倒なことをせずとも、貴方の記憶を辿ればよい話ですからね」
「記憶を辿る……?」
今し方、恩人の住居への道程を知らぬと言ったアレクの発言に対して、記憶を辿ればよいと胸を張るリアの発言は矛盾しているように思える。それに記憶を辿るということはいわば、記憶に対する情報収集に変わりないはずなのだ。それも矛盾につながっている。しかし、リアは得意げに人差し指を振った。
「今、頭の中で『結局、俺から情報収集するんじゃねぇか。しかも、道憶えてねぇし』な~んてことを思いましたよね?」
「ああ、大体合ってる。あともう一つ、一発ぶん殴ってやりてぇを加えると満点だ」
いちいちの挙動がアレクには心底腹が立つ。自分がイライラしていることを素っ気なく言うが、リアはそれを無視した。
「そこで、貴方の額の微精霊接続神経と、私の額の微精霊接続神経を干渉させます。そして、私が記憶干渉をすることによって、貴方の見てきた光景を洗いざらい覗かせていただくのです。脳というものは万能なもので、かなりの記憶容量があることが証明されていますし、二十年ほどの記憶なら欠損なく見られるでしょう」
「――――俺が見てきた……記憶」
アレクの表情が強張り、彼は周囲の大気が凍結する音を聞いた気がした。それはリアにも感じ取れたことで、彼女もこの方法が禁忌に近いことなのではないかと悟り始めた。この方法は、アレクの人生をすべて覗き見る。彼にとって嫌なことも、悲しいことも、覗き見てしまう。
「……やめておきましょうか?」
「……いや、大丈夫だ」
その代わり――とアレクは続く。
「記憶を覗いた後、絶対俺に同情なんてすんなよ」
死神に劣らぬ殺気に近い何かを撒き散らし、アレクは虚空を見据える双眸でリアを見つめる。
リアの額に、冷や汗がにじみ出た。これまでに感じたことのない畏怖のようなものを覚え、彼女の心臓が震えるように鼓動を速めてゆく。しかし、死神であるということだけはあって、リアの表情には一切の乱れが生じていない。
「――わかりました、同情なんてしません。……では」
リアはアレクの前へ歩み寄り、彼の眼前に立つ。しかし、そのままリアは動くことなく、アレクの顔を見つめているだけだ。心なしか、少し怒っているような気がする。
「身長差を考えてください! 貴方と私では40センチ近く差があるんですよ!」
どうりで怒るはずだ。額と額を合わせることもできないし、最上位種が塵芥に見下ろされるとなれば屈辱的だろう。
アレクはぷりぷりと愛らしく憤怒するリアを見て、少しだけ心が楽になった気がした。
「それはすまんかった。――よいしょと」
緩慢に跪き、アレクの身長はリアの身長に等しい高さになる。そして、両者の双眸が互いの心を見透かすように見つめあい、リアの小さな額はアレクの額へ。冷えた彼女の額が彼の額に押し付けられ、アレクは自分の記憶が吸い取られてゆくような感覚を確かに感じていた。
リアの脳内に情報が流れ込んでゆく。滝のように、ぞくぞくと神経が情報を吸収してゆく。
そして、アレクは傍らに思った。覗き見るとは言っていたが、神経が記憶を通して情報を得ている時点で、これも情報収集に変わりねぇよな――と。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
肺に激痛が走るほどに、悲鳴をあげる両足に鞭を打って走っていた。赤褐色の凸凹した地面を両足が交互に踏み続け、空虚な空間で足音が尾を引いて響き渡る。それは速い間隔で幾度も繰り返され、その度に実感する地面の感触は氷盤のように冷たい。踵がその氷盤に着地した直後、順番に土踏まずや母指球がペタリと押し付けられるときの感覚。その感覚を脳の片隅に放置しておくだけでも、自身に纏わり付く嫌悪感は凄まじい。
駆けている際の吐息は、驚くほど雪のように真っ白だった。走っている洞窟の中が死ぬほど寒いので、当然と言えば当然の話ではある。激しい運動に身体が酸素を求めて呼吸を繰り返し、凍てつく大気を取り込んでは肺が激痛に喘ぐ。肺が凍結したのではないかと錯覚しそうになるときがあるが、幸いなことに未だ肺は凍っていない。
至極当然なことなのだが、外界から光が差し込まないので洞窟の中は真っ暗だ。右手に握ってある松明がなければ、瞼を閉じているときと視界は変わらないだろう。
少々の時を経て、駆けていた凸凹の地面を踏破。次に待ち構えていたのは、人間の手によって粗雑に作られた岩の階段だ。職人からすれば嘲弄ものな出来具合だが、階段を上るという点に於いては問題なし。急ぐ足は速度を低下させることなく、苦痛ながらも階段に順応して上ってゆく。しかし、段差は大して高低差がないのだが、階段を上る際の負担は通常の道と比較して重い。気付けば、最初は速度の衰えなかった走りも鈍くなり、足音の鳴る間隔は徐々に徐々に広がっていた。
刹那、呼吸器官にコルクを詰められたかのような錯覚を覚え、無意識に身体は走ることを拒絶する。横隔膜が伸縮を繰り返して繰り返し、悪心の入り混じった咳が幾度も吐き出された。激しい咳で口内に溜まっていた唾が散布され、地面に付着した唾液が松明に照らされる。
極寒の空気に耐えて酸素を深く取り込み、額を伝う脂汗を手の甲で緩慢に拭う。そして、歯軋りをたてて双眸を疼痛に歪めながらも、再び目指す先に向かって足を動かした。
再び駆け始めてから、二分近くの時が流れたころだ。永遠に続くかと思われた階段に終止符が打たれ、上り終えた先にあったのは外界へ続く通路だった。磁石に引き寄せられるように足が動き、洞窟の外へと羸弱な身体が向かってゆく。
苦痛の果てに辿り着いた先にあったのは、天地を破壊の渦へと変えてゆく巨大な戦場だった。完全に荒廃した大地の上で繰り広げられる、戦場という概念を嘲るような規格外の殺し合い。膨大な熱量を含んだ大爆発が発生しては大地を裂き、大爆発が空で発生しては天空を容易く截断する。そんな規格外の暴力を受けた巨大な龍たちは、瞬時にしてその身体を残滓一つ残すことなく消滅した。その光景を目撃したであろう戦場を取り巻く#蝙蝠_こうもり__#の群衆は、羽を雄々しく羽ばたかせて歓喜に震えているように見える。
ゆっくりと視線の先を上げて見ると、広大な空が黒雲によって全てを埋め尽くされていることに気付いた。全方位を舐め回すように確認しても、空の片鱗一枚すら視認することができない。視界に映るのは黒雲の集大成と多い頻度で発生する雷の様子ばかりで、自然豊かなものなど全く見当たらない。微量ながらも自然らしさが唯一ある点を言えば、一部の黒雲から雨が降り注がれていることである。尤も、その雨粒は黒色に染まっていて汚らわしい。
星に暴力を振り撒く戦場を傍観したまま、体感にして数分の時が流れたときだ。視界に映る大地の遥か向こう側で、紫紺色をもつ巨大な何かが蠢いていることに気付いた。外観は粘着質でスライムを彷彿とさせる形をしており、
そのスライムのようなものは徐々に巨大化していた。
その過程を注視している最中、注意力が散漫になっていたのだろう。断崖絶壁の真上で佇んでいた身体は、気付いたときには断崖絶壁の鼻先へ。亀裂の入る微かな音を耳が捉えたころには、身体が凄まじい浮遊感によって包まれていた。脳が唐突すぎる状況変化に反応できず、置かれている今の状況さえも把握できない。
先ほどまで自分の佇んでいた崖が、あっという間にしてどんどん遠のいてゆく。迫る大地を背にして落下してゆき、呆けていた脳は徐々に状況を理解してゆく。そして、背中が大地に到達するまでの秒未満の間、
「ぁ……」
死を前に悲鳴すらあげることなく、一つの命が簡単に潰えた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
――――ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ。
草木も眠る丑三つ時、荒廃した街中を駆け巡るアレクの心中は、『ヤバイ』の三文字がひたすらに羅列されていた。その羅列は自分自身も数えられる量ではなく、心中に収まっているのかさえも怪しいレベルで、それほどまでに己の身が危惧されるべき状況であることを表している。
底を尽きぬ焦りに身体が微かな震慄を覚え、心臓の鼓動は速さを増してゆき、紫紺の双眸は闇の中で淡く輝いている。普通の人間にはないこの特性が、今では命を左右するほどまでに最悪なデメリットだった。
「クソが!」
アレクの真後ろにあった巨大廃墟が、凄まじい爆発音をたてて崩壊。ドミノ倒しのように次々と破砕されてゆく石たちは、互いの摩擦による音で大気を震わせた。直後、複数もの影が月光に照らされて、彼を追いかけていることが確認できる。その追跡者たちはアレクと同じ茶色いローブに身を包んでいて、顔はフードを被っているためわからない。
複数の追跡者は掌をアレクに向けて、煌びやかな光を放出する玉を放った。そして、その光玉は空気中で直線を描いてアレクの真横を通り過ぎ、過ぎた先にある廃屋に直撃。刹那、微かに放出される光が弱まったかと思うと、廃屋は突如爆発した光玉に巻き込まれた。
爆発の衝撃で宙を舞う幾つもの欠片は、美しい弧を描きながら地上へ雨のように降り注がれる。
巻き上げられた土塊は粉塵を撒き散らし、散布された粉塵は華麗に宙を舞う。
「武器一つ持たねぇ素っ裸状態で、肉食動物と追いかけっこしてる気分だ! これほど絶望的な状況は、そうそうねぇだろうなぁ!」
駆ける両足に更なる鞭を打ち、微精霊接続神経を大気中の微精霊と干渉させ、アレクは地面が陥没するほどの勢いを以て跳躍した。跳躍した先は、かつて病院だった巨大廃墟の天井だ。そして、アレクの後を追う追跡者も軽快な跳躍で彼の眼前に迫る――が、
「俺からのプレゼントだ!」
追跡者に向けたアレクの人差し指の先に、紫紺色に輝く微精霊が群れを成して集結し、一つのエネルギーとなったそれは晦冥を裂いた。直線を描く光線が迫る追跡者に直撃し、二人の内の片方は墜落。そしてもう片方の追跡者は、着地をすると同時に身体全体で組み付き、共に天井から飛び降りた。
「――――ッ!」
浮遊感が身体を包み込み、刹那にして地面はどんどん迫ってゆく。しかし、アレクはどこのどいつかもわからん犯罪者と心中をする気などさらさらない。彼は追跡者の見えぬ顔面を人殴りし、距離を離して受け身の態勢へ。
――その直後だった。
「ングッ!?」
アレクの右腕が青い炎を受けて、腕が徐々に死に始めたのは。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
視界は朧気で朦朧としていて、不鮮明で曖昧模糊でおぼつかなくて、誰かに抱かれていることだけしかわからなかった。その誰かの腕の中は、睡魔を誘うくらいに温かくて安心できて、天国が存在するならここのことを言うのだろう。
「――名前は決めた?」
「ああ、名前は最初から決めてた」
明瞭としない聴覚だったが、そのように聞こえた。綺麗で優しい声とカッコよくて優しい声が、隣同士から交互に放たれていた。
気付けば小さな額を撫でられていて、
「――――――」
何かを話しかけられていた気がした。でも、その言葉が理解できなくて、意識は闇の中へ落ちていった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今日の空模様はやけに荒んでいて、見渡す限りは青空が見当たらなかった。遠方は既に雨が降っていて、ここ一帯はまだ雨が降っていないのだが、直にここも降り始めることだろう。
王都へ向かうなら、早めに出たほうが良いだろう――とアレクは判断した。
アレクは今日、富豪アーブラハム・バイヤーの領地を出て、王都で生活をする。これ以上、恩人の世話になる訳にはいかない。
「……本当に、行ってしまうのね」
雲の集大成を傍観していたアレクの背から、寂寥感を感じさせる少女の声が聞こえた。アレクが緩慢に振り向いた先にいたのは、黄緑色の双眸と黄色がかった肩ほどまでの髪をもった、やや高身長で優艶さの感じられる少女だ。激しい感情を表面には出さない彼女だが、先ほどの発言といい声の調子といい、アレクとの別れを悲しんでいるようすが感じ取れた。
「お前にこれ以上世話になるのは、お前が許しても俺が許さねぇ。人間ってもんは不思議なもんでな……心があるから、十分な生活ができても全てが充実できる訳じゃない。身体は健康的で飯が美味くとも、ちょっとした罪悪感なんてものがあれば、その生活が苦しくなる」
「で、でも……私は全然迷惑なんかじゃ」
「ソフィ」
自分が迷惑になっている――そう語るアレクの発言を否定しようとする少女だったが、その言葉も自分の名を呼ぶ彼によって遮られた。彼女――ソフィの名を呼んだときのアレクの表情は、微笑を浮かべて嬉々としていながらも、どこか違う感情をもっているような複雑な表情だった。
「これはお前の問題じゃなく、俺の問題なんだ。どれだけお前が、俺のことを迷惑じゃないなんて否定しようが、そう簡単に解決するものでもねぇ。罪悪感っつーのはな、大抵は自分自身で解決するしかねぇんだ。お前が俺のことを迷惑だと思っていたら、俺の心に罪悪感は募る。お前が俺のことを迷惑だと思っていなくとも、俺の心に罪悪感は募る」
ソフィは声を詰まらせて、悟った。自分が何をどう言おうとも、アレクがこの土地を去りたいという思いは変わらないし、彼が変えさせてくれない。彼が理由をもって行動を起こそうと決断しているのなら、それを妨げるのは無粋の極みだ。
「アレクって性格は良いけど、色々と面倒くさいのね」
だから、ただ見送ることにした。
「……俺が面倒な奴なのは自覚してるけどよ、それでもド直球すぎねぇか? 多少は力強さに関して自信はあっても、心は割と脆いんだよ」
アレクは肩を落として憂いの滲み出た表情を浮かべるが、そんな彼とは裏腹にソフィの表情は、満面の笑みを顔面に刻んでいた。黄緑色の双眸を細めて、白い肌を仄かに朱に染めて、彼女はアレクの頬をいたずら気につついていた。しかし、アレクは面倒そうな顔をしながらもその指は除けず、それがソフィにはなんだか嬉しかった。
「あ、そういえば」
頬をつついていた指を止めて、ソフィはアレクに渡さなければならない物があることを思い出した。彼女は自分で編んだ服の右ポケットをごそごそと探り、右ポケットではなく左ポケットにあることを再び思い出し、脳内で『私のバカ』と罵りながらも左ポケットへ手を突っ込んだ。そして取り出された物は、高級な風格を醸し出している黒色の革財布だった。
ソフィはアレクの右手を手に取って、彼の掌に黒い革財布をポンと置く。
「これは私からのプレゼント。大切に使ってよね」
黒色の革財布を紫紺の双眸で注視したまま、アレクは鳩が豆鉄砲をくらったような表情を浮かべた。それは本当に可笑しな顔で、まるで両目が点々になっているようだった。
プレゼントに対する幻滅ではなく、プレゼントに対する驚愕であることは自明。ソフィは心の底から彼にプレゼントをして良かったと思った。
「……ありがとな」
感謝の言葉を以て、ソフィの頭部を撫でるアレク。大きくはないが雄性さのある掌が滑らかな髪に触れ、ソフィは自分の心が満たされてゆくのを感じた。そして、これが最後になってしまうことを思考の隅に押さえつけて、今だけはそれを思い出さないように心掛けた。
「それじゃあ……行ってらっしゃい」
「……ああ、行ってくる」
ソフィに背を向けて彼女の見送りを受け、アレクは寂寥の感が胸に込み上がる感覚を覚えながら、王都へ向かって駆けだした。
作者
「どうも、未だに文章の雰囲気が確定していない作者です。電子書籍で文章力の高い作家を見かけると、自分に自信がなくなってしまうことがたまにあります。処女作出したばっかで何言ってんだ、こいつ――と自分でも思っていますが、やはり憧れてしまいますね。文章力が高い作家はなんとなく、あ~読みやすいなぁと引き込まれて本の世界に入り込めます。私も読者をこの物語に引き込めるように精進します!」
そう言って、アレクは哀しげに溜め息を吐きながら、自分の後頭部を慰藉するように撫でた。
最近、運が味方してくれないなぁ――なんて思っていたアレクだったが、今日ばかりは本当に運が悪い。寝ていた木の枝が折れて落下する、自分の縄張りがゴミまみれになっているし血痕もある、窃盗犯を捕まえようとしたら思い切り地面に叩き付けられる、おかげで商い通りの石床は亀裂まみれ、そして真上から人が落ちてくる――まだまだあるのだが、大まかな不運はこれぐらいだ。
「私、幽霊種のお祓いができるので、よければしてあげましょうか?」
「皮肉で言ったんだよ! なんなら自分自身をお祓いしておけ!」
不運を祓ってみせようと意気込むのは、アレクの真上から落下してきた少女。
身長は140センチにも満たぬ小柄さで、アレクと同じように紫紺の双眸が印象的な少女だ。フードを外すとふくらはぎ近くまである髪は、双眸と同じく艶のある紫紺色をもっていて、彼女のやや童顔な顔と相まってよく似合っている。そこで服装が薄汚れたローブなのが残念なところだが、それを差し引いても絶世の美女として申し分ない。
「死神種にお祓いなんてちゃちなもの、全然一切全く何も効きませんよ~」
だが、悲しいことに性格が残念だ。みてくれだけは天使のように美しいのだが、悲しいことに性格が残念だ。別に腹黒いというわけではなく、むしろ天真爛漫で純粋さがあるのだが、その純粋さがどうやら汚れているらしかった。――所謂、無意識に人を挑発しやすいタイプなのだ。そのうえたちが悪いのは彼女が死神種であるという事実。悪魔種ぐらいのレベルでないと、黙らせることは難しいだろう。
「なんで死神がこの国に来てんだよ……」
「それは私――リアが万事屋で、とある盗賊さんから依頼を受けたからですよ~」
彼女――リアが語る通り、万事屋として生活しているようで、報酬は生物の生命力を依頼に応じて貰うらしい。過去の書物で、死神種が生命を糧としていることが確かに記されていて、それを知っていたアレクは万事屋の報酬が命であることは予想できた。
盗賊の依頼を受けて、女性からネックレスを盗んだのはリアで相違ない。彼女がアレクと衝突してピクピクと痙攣していたとき、リアは震えた声でそう自白していたのだ。
「俺がお前をとっ捕まえようとしても、ネックレスは盗賊の手に渡っているし、俺はお前に勝てない……か」
「ええ、絶対に勝てませんね」
これが、最上位種と塵芥の埋められぬ壁だ。それは王都で過ごすような生温い一般人に限らず、アレクにも当てはまることである。それほどまでに死神種という種族は、生物に死を誘うことに富んだ種族なのだ。
「――――そういやお前、なんで俺の後をつけてきたんだ? そのまま依頼を終えてどこかに逃げてりゃ、こんなことにならなかったのによ」
「私の心が赤髪を揺らしてプンプン怒りながら、あいつを追いかけるぞ~なんて言っていたので、追いかけちゃいました」
赤髪を揺らしてプンプン怒りながら――という発言から、アレクはそれが誰であるかを把握した。石床に亀裂が入るほどまでに彼を叩き付けた、あのイライラ顔の少女のことだ。燃えているような真っ赤な双眸を輝かせ、整った顔を憤怒に染めていた、あの少女。
「仲間を心と表現するとは、随分と斬新だな。それで一つ疑問があるんだが、あの赤髪の少女……えーと」
「ロアといいます」
「そのロアってやつ……なんで俺の前に現れねぇんだよ。追いかけるぞ~って言ったの、あいつだろ」
その質問を聞いたリアは、口に手を当ててクスクスと笑った。
「いや、その……貴方の出した音に驚いて、逃げてしまったといいますか……」
「……あー、わかった」
アレクは残念なことを聞いたと額に手を当てて、憂いの漂う表情で苦笑をこぼす。あんなにおっかない少女が音に驚く様子など、彼には全く想像できない。
「んでお前、万事屋やってるって言ってたな。どこまでの範囲で何でも屋やってんだ?」
「言葉のとおり、何でもです」
「だから、何でもの範囲を……」
「何でもです」
アレクは気付く。自分の言う『何でも』と彼女の言う『何でも』のニュアンスが、明らかに異なっていることに。
「……なんでも?」
「はい。犯罪から援助交際まで、なーんでも」
笑顔で言い放つ彼女の言葉を脳内で咀嚼し、アレクは心の底から震慄した。
リアは、本当に何でもするのだ。極端な話、強盗も殺人も身体を売ることさえ、やってのけてしまうのだ。そこで不意に浮かんだアレクの疑問は、
「……お前、非処女なのか」
「何でもするとは言いましたが、それをしたとは言っていないんですよねぇ……」
アレクは胸を撫で下ろし、無性に湧いた安心感に息を吐いた。
「けど、お前が何でもするって言ったとして、その……性的な依頼をする奴はいなかったのか?」
「いましたよ。ただし、依頼報酬は前払い百年分でしたけどね」
「死刑と変わらねぇじゃねえか」
それはそれは、処女を失わない訳だ。その前に相手は死ぬのだから。言い方を変えれば、安楽死の依頼に等しい行為だ。死神が生物を優しく安らかに死へ誘ってくれるのかは定かではないが、リアのような美少女の養分になるだけマシなのかもしれない。
「要は依頼の内容に応じて、依頼報酬が変化するということですよ。殺人なら何年分、窃盗なら何ヶ月分――って感じで」
依頼は何でも受けてやる。ただし、その分の命を貰う。受けたくない依頼はほぼ一生分貰うからな――というわけだ。つまり、無難で楽な依頼になるほど、報酬は楽になる。だとすれば――――
「……じゃあ、俺から依頼を一つ出そう」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「過去に出会った恩人に会いたいと……そうですね、ざっと三日分ほどですかね」
アレクの依頼を受けた直後、しばらくの間に思案気な表情を浮かべたリアは、依頼報酬の内容を軽快な口調で言った。それに対して、アレクは意外だとでも言いたげな表情を浮かべて、小首を傾げる。
「てっきり数ヵ月は毟り取られると思ってたんだが、案外安いんだな」
「まぁ、ただの捜索ですし……なんなら、もう一日減らしましょうか?」
「いや、遠慮しておく」
ただの捜索だ――と依頼報酬を僅か三日で済ませる彼女だが、アレクは恩人の住居がどこにあるのか、一切思い出せないのだ。最初の頃はまだ鮮明に憶えていたのだが、月日を重ねるうちにその記憶は忘却の彼方へ追いやってしまった。今となっては、自分の顔面をぶん殴りたいほどに後悔している。
「――んでだ、お前はどうやって俺の恩人を探すつもりだ? 地道に情報収集でもして、地道に探してくつもりか?」
素朴に湧いた質問を聞いたリアは、『何を言っているんだ、こいつは』と絵に描いたような表情を浮かべた後、嘲るような笑みを浮かべて溜め息を吐いた。その顔が妙にも腹立たしいので、一発お見舞いしてやりたいと思うアレクだが、一応は依頼人の立場なので歯を食いしばって耐える。
「死神種の力を侮ってもらっては困ります。いちいち情報収集なんて面倒なことをせずとも、貴方の記憶を辿ればよい話ですからね」
「記憶を辿る……?」
今し方、恩人の住居への道程を知らぬと言ったアレクの発言に対して、記憶を辿ればよいと胸を張るリアの発言は矛盾しているように思える。それに記憶を辿るということはいわば、記憶に対する情報収集に変わりないはずなのだ。それも矛盾につながっている。しかし、リアは得意げに人差し指を振った。
「今、頭の中で『結局、俺から情報収集するんじゃねぇか。しかも、道憶えてねぇし』な~んてことを思いましたよね?」
「ああ、大体合ってる。あともう一つ、一発ぶん殴ってやりてぇを加えると満点だ」
いちいちの挙動がアレクには心底腹が立つ。自分がイライラしていることを素っ気なく言うが、リアはそれを無視した。
「そこで、貴方の額の微精霊接続神経と、私の額の微精霊接続神経を干渉させます。そして、私が記憶干渉をすることによって、貴方の見てきた光景を洗いざらい覗かせていただくのです。脳というものは万能なもので、かなりの記憶容量があることが証明されていますし、二十年ほどの記憶なら欠損なく見られるでしょう」
「――――俺が見てきた……記憶」
アレクの表情が強張り、彼は周囲の大気が凍結する音を聞いた気がした。それはリアにも感じ取れたことで、彼女もこの方法が禁忌に近いことなのではないかと悟り始めた。この方法は、アレクの人生をすべて覗き見る。彼にとって嫌なことも、悲しいことも、覗き見てしまう。
「……やめておきましょうか?」
「……いや、大丈夫だ」
その代わり――とアレクは続く。
「記憶を覗いた後、絶対俺に同情なんてすんなよ」
死神に劣らぬ殺気に近い何かを撒き散らし、アレクは虚空を見据える双眸でリアを見つめる。
リアの額に、冷や汗がにじみ出た。これまでに感じたことのない畏怖のようなものを覚え、彼女の心臓が震えるように鼓動を速めてゆく。しかし、死神であるということだけはあって、リアの表情には一切の乱れが生じていない。
「――わかりました、同情なんてしません。……では」
リアはアレクの前へ歩み寄り、彼の眼前に立つ。しかし、そのままリアは動くことなく、アレクの顔を見つめているだけだ。心なしか、少し怒っているような気がする。
「身長差を考えてください! 貴方と私では40センチ近く差があるんですよ!」
どうりで怒るはずだ。額と額を合わせることもできないし、最上位種が塵芥に見下ろされるとなれば屈辱的だろう。
アレクはぷりぷりと愛らしく憤怒するリアを見て、少しだけ心が楽になった気がした。
「それはすまんかった。――よいしょと」
緩慢に跪き、アレクの身長はリアの身長に等しい高さになる。そして、両者の双眸が互いの心を見透かすように見つめあい、リアの小さな額はアレクの額へ。冷えた彼女の額が彼の額に押し付けられ、アレクは自分の記憶が吸い取られてゆくような感覚を確かに感じていた。
リアの脳内に情報が流れ込んでゆく。滝のように、ぞくぞくと神経が情報を吸収してゆく。
そして、アレクは傍らに思った。覗き見るとは言っていたが、神経が記憶を通して情報を得ている時点で、これも情報収集に変わりねぇよな――と。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
肺に激痛が走るほどに、悲鳴をあげる両足に鞭を打って走っていた。赤褐色の凸凹した地面を両足が交互に踏み続け、空虚な空間で足音が尾を引いて響き渡る。それは速い間隔で幾度も繰り返され、その度に実感する地面の感触は氷盤のように冷たい。踵がその氷盤に着地した直後、順番に土踏まずや母指球がペタリと押し付けられるときの感覚。その感覚を脳の片隅に放置しておくだけでも、自身に纏わり付く嫌悪感は凄まじい。
駆けている際の吐息は、驚くほど雪のように真っ白だった。走っている洞窟の中が死ぬほど寒いので、当然と言えば当然の話ではある。激しい運動に身体が酸素を求めて呼吸を繰り返し、凍てつく大気を取り込んでは肺が激痛に喘ぐ。肺が凍結したのではないかと錯覚しそうになるときがあるが、幸いなことに未だ肺は凍っていない。
至極当然なことなのだが、外界から光が差し込まないので洞窟の中は真っ暗だ。右手に握ってある松明がなければ、瞼を閉じているときと視界は変わらないだろう。
少々の時を経て、駆けていた凸凹の地面を踏破。次に待ち構えていたのは、人間の手によって粗雑に作られた岩の階段だ。職人からすれば嘲弄ものな出来具合だが、階段を上るという点に於いては問題なし。急ぐ足は速度を低下させることなく、苦痛ながらも階段に順応して上ってゆく。しかし、段差は大して高低差がないのだが、階段を上る際の負担は通常の道と比較して重い。気付けば、最初は速度の衰えなかった走りも鈍くなり、足音の鳴る間隔は徐々に徐々に広がっていた。
刹那、呼吸器官にコルクを詰められたかのような錯覚を覚え、無意識に身体は走ることを拒絶する。横隔膜が伸縮を繰り返して繰り返し、悪心の入り混じった咳が幾度も吐き出された。激しい咳で口内に溜まっていた唾が散布され、地面に付着した唾液が松明に照らされる。
極寒の空気に耐えて酸素を深く取り込み、額を伝う脂汗を手の甲で緩慢に拭う。そして、歯軋りをたてて双眸を疼痛に歪めながらも、再び目指す先に向かって足を動かした。
再び駆け始めてから、二分近くの時が流れたころだ。永遠に続くかと思われた階段に終止符が打たれ、上り終えた先にあったのは外界へ続く通路だった。磁石に引き寄せられるように足が動き、洞窟の外へと羸弱な身体が向かってゆく。
苦痛の果てに辿り着いた先にあったのは、天地を破壊の渦へと変えてゆく巨大な戦場だった。完全に荒廃した大地の上で繰り広げられる、戦場という概念を嘲るような規格外の殺し合い。膨大な熱量を含んだ大爆発が発生しては大地を裂き、大爆発が空で発生しては天空を容易く截断する。そんな規格外の暴力を受けた巨大な龍たちは、瞬時にしてその身体を残滓一つ残すことなく消滅した。その光景を目撃したであろう戦場を取り巻く#蝙蝠_こうもり__#の群衆は、羽を雄々しく羽ばたかせて歓喜に震えているように見える。
ゆっくりと視線の先を上げて見ると、広大な空が黒雲によって全てを埋め尽くされていることに気付いた。全方位を舐め回すように確認しても、空の片鱗一枚すら視認することができない。視界に映るのは黒雲の集大成と多い頻度で発生する雷の様子ばかりで、自然豊かなものなど全く見当たらない。微量ながらも自然らしさが唯一ある点を言えば、一部の黒雲から雨が降り注がれていることである。尤も、その雨粒は黒色に染まっていて汚らわしい。
星に暴力を振り撒く戦場を傍観したまま、体感にして数分の時が流れたときだ。視界に映る大地の遥か向こう側で、紫紺色をもつ巨大な何かが蠢いていることに気付いた。外観は粘着質でスライムを彷彿とさせる形をしており、
そのスライムのようなものは徐々に巨大化していた。
その過程を注視している最中、注意力が散漫になっていたのだろう。断崖絶壁の真上で佇んでいた身体は、気付いたときには断崖絶壁の鼻先へ。亀裂の入る微かな音を耳が捉えたころには、身体が凄まじい浮遊感によって包まれていた。脳が唐突すぎる状況変化に反応できず、置かれている今の状況さえも把握できない。
先ほどまで自分の佇んでいた崖が、あっという間にしてどんどん遠のいてゆく。迫る大地を背にして落下してゆき、呆けていた脳は徐々に状況を理解してゆく。そして、背中が大地に到達するまでの秒未満の間、
「ぁ……」
死を前に悲鳴すらあげることなく、一つの命が簡単に潰えた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
――――ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ。
草木も眠る丑三つ時、荒廃した街中を駆け巡るアレクの心中は、『ヤバイ』の三文字がひたすらに羅列されていた。その羅列は自分自身も数えられる量ではなく、心中に収まっているのかさえも怪しいレベルで、それほどまでに己の身が危惧されるべき状況であることを表している。
底を尽きぬ焦りに身体が微かな震慄を覚え、心臓の鼓動は速さを増してゆき、紫紺の双眸は闇の中で淡く輝いている。普通の人間にはないこの特性が、今では命を左右するほどまでに最悪なデメリットだった。
「クソが!」
アレクの真後ろにあった巨大廃墟が、凄まじい爆発音をたてて崩壊。ドミノ倒しのように次々と破砕されてゆく石たちは、互いの摩擦による音で大気を震わせた。直後、複数もの影が月光に照らされて、彼を追いかけていることが確認できる。その追跡者たちはアレクと同じ茶色いローブに身を包んでいて、顔はフードを被っているためわからない。
複数の追跡者は掌をアレクに向けて、煌びやかな光を放出する玉を放った。そして、その光玉は空気中で直線を描いてアレクの真横を通り過ぎ、過ぎた先にある廃屋に直撃。刹那、微かに放出される光が弱まったかと思うと、廃屋は突如爆発した光玉に巻き込まれた。
爆発の衝撃で宙を舞う幾つもの欠片は、美しい弧を描きながら地上へ雨のように降り注がれる。
巻き上げられた土塊は粉塵を撒き散らし、散布された粉塵は華麗に宙を舞う。
「武器一つ持たねぇ素っ裸状態で、肉食動物と追いかけっこしてる気分だ! これほど絶望的な状況は、そうそうねぇだろうなぁ!」
駆ける両足に更なる鞭を打ち、微精霊接続神経を大気中の微精霊と干渉させ、アレクは地面が陥没するほどの勢いを以て跳躍した。跳躍した先は、かつて病院だった巨大廃墟の天井だ。そして、アレクの後を追う追跡者も軽快な跳躍で彼の眼前に迫る――が、
「俺からのプレゼントだ!」
追跡者に向けたアレクの人差し指の先に、紫紺色に輝く微精霊が群れを成して集結し、一つのエネルギーとなったそれは晦冥を裂いた。直線を描く光線が迫る追跡者に直撃し、二人の内の片方は墜落。そしてもう片方の追跡者は、着地をすると同時に身体全体で組み付き、共に天井から飛び降りた。
「――――ッ!」
浮遊感が身体を包み込み、刹那にして地面はどんどん迫ってゆく。しかし、アレクはどこのどいつかもわからん犯罪者と心中をする気などさらさらない。彼は追跡者の見えぬ顔面を人殴りし、距離を離して受け身の態勢へ。
――その直後だった。
「ングッ!?」
アレクの右腕が青い炎を受けて、腕が徐々に死に始めたのは。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
視界は朧気で朦朧としていて、不鮮明で曖昧模糊でおぼつかなくて、誰かに抱かれていることだけしかわからなかった。その誰かの腕の中は、睡魔を誘うくらいに温かくて安心できて、天国が存在するならここのことを言うのだろう。
「――名前は決めた?」
「ああ、名前は最初から決めてた」
明瞭としない聴覚だったが、そのように聞こえた。綺麗で優しい声とカッコよくて優しい声が、隣同士から交互に放たれていた。
気付けば小さな額を撫でられていて、
「――――――」
何かを話しかけられていた気がした。でも、その言葉が理解できなくて、意識は闇の中へ落ちていった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今日の空模様はやけに荒んでいて、見渡す限りは青空が見当たらなかった。遠方は既に雨が降っていて、ここ一帯はまだ雨が降っていないのだが、直にここも降り始めることだろう。
王都へ向かうなら、早めに出たほうが良いだろう――とアレクは判断した。
アレクは今日、富豪アーブラハム・バイヤーの領地を出て、王都で生活をする。これ以上、恩人の世話になる訳にはいかない。
「……本当に、行ってしまうのね」
雲の集大成を傍観していたアレクの背から、寂寥感を感じさせる少女の声が聞こえた。アレクが緩慢に振り向いた先にいたのは、黄緑色の双眸と黄色がかった肩ほどまでの髪をもった、やや高身長で優艶さの感じられる少女だ。激しい感情を表面には出さない彼女だが、先ほどの発言といい声の調子といい、アレクとの別れを悲しんでいるようすが感じ取れた。
「お前にこれ以上世話になるのは、お前が許しても俺が許さねぇ。人間ってもんは不思議なもんでな……心があるから、十分な生活ができても全てが充実できる訳じゃない。身体は健康的で飯が美味くとも、ちょっとした罪悪感なんてものがあれば、その生活が苦しくなる」
「で、でも……私は全然迷惑なんかじゃ」
「ソフィ」
自分が迷惑になっている――そう語るアレクの発言を否定しようとする少女だったが、その言葉も自分の名を呼ぶ彼によって遮られた。彼女――ソフィの名を呼んだときのアレクの表情は、微笑を浮かべて嬉々としていながらも、どこか違う感情をもっているような複雑な表情だった。
「これはお前の問題じゃなく、俺の問題なんだ。どれだけお前が、俺のことを迷惑じゃないなんて否定しようが、そう簡単に解決するものでもねぇ。罪悪感っつーのはな、大抵は自分自身で解決するしかねぇんだ。お前が俺のことを迷惑だと思っていたら、俺の心に罪悪感は募る。お前が俺のことを迷惑だと思っていなくとも、俺の心に罪悪感は募る」
ソフィは声を詰まらせて、悟った。自分が何をどう言おうとも、アレクがこの土地を去りたいという思いは変わらないし、彼が変えさせてくれない。彼が理由をもって行動を起こそうと決断しているのなら、それを妨げるのは無粋の極みだ。
「アレクって性格は良いけど、色々と面倒くさいのね」
だから、ただ見送ることにした。
「……俺が面倒な奴なのは自覚してるけどよ、それでもド直球すぎねぇか? 多少は力強さに関して自信はあっても、心は割と脆いんだよ」
アレクは肩を落として憂いの滲み出た表情を浮かべるが、そんな彼とは裏腹にソフィの表情は、満面の笑みを顔面に刻んでいた。黄緑色の双眸を細めて、白い肌を仄かに朱に染めて、彼女はアレクの頬をいたずら気につついていた。しかし、アレクは面倒そうな顔をしながらもその指は除けず、それがソフィにはなんだか嬉しかった。
「あ、そういえば」
頬をつついていた指を止めて、ソフィはアレクに渡さなければならない物があることを思い出した。彼女は自分で編んだ服の右ポケットをごそごそと探り、右ポケットではなく左ポケットにあることを再び思い出し、脳内で『私のバカ』と罵りながらも左ポケットへ手を突っ込んだ。そして取り出された物は、高級な風格を醸し出している黒色の革財布だった。
ソフィはアレクの右手を手に取って、彼の掌に黒い革財布をポンと置く。
「これは私からのプレゼント。大切に使ってよね」
黒色の革財布を紫紺の双眸で注視したまま、アレクは鳩が豆鉄砲をくらったような表情を浮かべた。それは本当に可笑しな顔で、まるで両目が点々になっているようだった。
プレゼントに対する幻滅ではなく、プレゼントに対する驚愕であることは自明。ソフィは心の底から彼にプレゼントをして良かったと思った。
「……ありがとな」
感謝の言葉を以て、ソフィの頭部を撫でるアレク。大きくはないが雄性さのある掌が滑らかな髪に触れ、ソフィは自分の心が満たされてゆくのを感じた。そして、これが最後になってしまうことを思考の隅に押さえつけて、今だけはそれを思い出さないように心掛けた。
「それじゃあ……行ってらっしゃい」
「……ああ、行ってくる」
ソフィに背を向けて彼女の見送りを受け、アレクは寂寥の感が胸に込み上がる感覚を覚えながら、王都へ向かって駆けだした。
作者
「どうも、未だに文章の雰囲気が確定していない作者です。電子書籍で文章力の高い作家を見かけると、自分に自信がなくなってしまうことがたまにあります。処女作出したばっかで何言ってんだ、こいつ――と自分でも思っていますが、やはり憧れてしまいますね。文章力が高い作家はなんとなく、あ~読みやすいなぁと引き込まれて本の世界に入り込めます。私も読者をこの物語に引き込めるように精進します!」
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