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1巻
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しおりを挟む第一章 淑女教育の始まり
――馬車の車輪が回るガラガラという音が異様に大きくなっている。
それに気づいたジェシカ・フォン・グランティーヌは、うつむけていた顔を上げた。
窓の外を見ると、屋敷に戻るはずの馬車が深い森の中を疾走していた。
驚きに息を呑んだジェシカは、視界を覆っていたヴェールを脱ぎ捨てる。その拍子に、まとめていた薄茶色の髪がふわりと揺れた。
「ど、どうして……。なんでこんなことになってるの?」
ジェシカは急いで御者台に通じる小窓を開ける。
「あの! どうしてこんなところを走って……ッ」
だが小窓は外からぴしゃりと閉められた。明らかな拒絶に、ジェシカは思わず首をすくめてしまう。
馬車はガタガタと絶え間なく揺れ、バランスを崩しそうになった彼女はとっさに窓枠にしがみつく。自分の身になにが起きているのかまるでわからなくて、ジェシカは湧き上がる恐怖に白い頬を引き攣らせるのだった。
飾り気のない黒いワンピースにリボンを合わせたジェシカは、葬儀の帰りだった。
弔われたのは彼女の祖父で、この辺り一帯を治める領主グランティーヌ伯爵である。
つい最近まで、ジェシカは自分が伯爵の孫娘であることを知らずに暮らしていた。
というのも、グランティーヌ伯爵の嫡男であった父が、庶民である母と駆け落ちしたことで勘当されたためだ。以来、父は貴族の生まれであることを隠して生きていたらしい。
憶測であるのは、祖父の使いが自分を迎えにきたとき、両親はすでに馬車の事故でこの世のひとではなくなっていたからだ。
『すまなかったな、ジェシカ。わたしがもっと早く二人と和解していれば、こんな悲しみの中でおまえと会うこともなかったであろうに……』
祖父はそう言って涙を流しながら、ジェシカをしっかり抱きしめてくれた。
祖父の抱擁は、たった一人残されて塞ぎ込んでいたジェシカの心を温かくしてくれた。
そして彼女は、新たに家族となった祖父のもとで暮らすことになった。それが今から二年前のことである。
だがその祖父も病で亡くなり、再び一人取り残されたジェシカは、葬儀のあいだずっと失意の底に沈んでいた。おかげでこんな見知らぬ場所にくるまで、異常に気づけなかったのだが。
馬車はスピードを上げ、どんどん森の奥へ入っていく。
(どうしよう。このまま乗っていても絶対いいことはない気がする。……いっそ飛び降りる? ううん、このスピードじゃ大怪我をして終わりよ)
だがこのまま乗車し続けるのも明らかに危険だ。どうすれば……!
そのとき、馬車の速度が徐々に落ち始め、やがて完全に停車した。
ジェシカは馬車の外に逃げようとする。だが外からすぐ扉が開いて、御者の大きな手に腕を強く掴まれた。ジェシカはとっさに扉の手すりにしがみついて抵抗する。
「やめて、離してよッ!」
「ええい、おとなしくしろ!」
力ずくで外に引きずり出され、乱暴に後ろ手を取られる。ジェシカは痛みにうめきながらキッと御者を睨みつけた。
「なにをするの! わたしをいったいどうするつもり!?」
「心配するな。ちょっとおれたちときてもらうだけだ」
その言葉は御者ではなく、少し離れたところに待ち構えていた二人の男たちから返ってきた。
ぎょっとしたジェシカは、男たちの様相を見て一気に血の気が引く。
筋骨隆々であちこちに傷痕が見て取れる、明らかに堅気ではない雰囲気の男たちだ。
彼らのうしろには長旅ができそうなほど大きな幌馬車が停まっていて、ジェシカは「こいつらについていったらまずい!」と本能的に感じた。
「はなっ、離して……! 離してよ! やめて!」
「依頼は先に伝えた通りだ。この娘を自力では戻ってこられない場所まで連れて行ってくれ」
「わかってるよ。残りの報酬、期待してるぜ」
暴れるジェシカを易々と押さえ込んだ御者に、ならず者という表現がぴったりの男たちが答える。
それを聞く限り、どうやら前々からジェシカを連れ去る計画があったらしい。
(いったい誰が? どうしてわたしを……)
だが驚いている暇はない。とにかくここから逃げなければ!
「離して! 誰か! 誰か助けて――ッ!」
「こんな森の奥で叫んだって誰もきやしない……、ぐあっ!?」
ニヤニヤしながらジェシカの腕を掴んだ男が、次の瞬間うめき声を発して身体をくの字に折った。ジェシカの目に、男の野太い腕に突き刺さった短剣が映る。
銀色の刃と飛び散る血に息を呑んだ直後、ダララッ! と馬の蹄の音が聞こえてきた。
「伏せろッ!」
蹄の音とともに飛んできた声に、ジェシカは反射的に従う。頭を抱えてしゃがみ込んだ瞬間、頭上をブンッと風が吹き抜けた。
「うわあああッ!」
「てめっ、なにしやがる……、ぅぎゃああ!」
ガツン、ドゴッ――、と辺りに耳障りな音が響き渡る。
目の前にならず者の一人が倒れ込んできて、ジェシカは悲鳴を上げて後ずさった。
すると彼女の視界を遮るように、黒いマントがバサッと音を立てて翻る。
いつの間にか、一人の青年が彼女を護るように目の前に立っていた。
(いったい誰――? どこかの騎士?)
彼が剣を提げているのが見えて、ジェシカはとっさにそう思った。
見知らぬ騎士はかすかに身を沈めて剣を抜き放つと、残りの二人に素早く飛び込んでいく。
御者の男は悲鳴を上げて逃げ出したが、もう一人のならず者は「野郎!」と口汚く罵りながら短剣を構えた。
だが騎士と一、二度打ち合っただけで、ならず者の短剣が宙を舞う。次の瞬間には、男はあっけなく打ち倒されていた。
騎士はそのまま逃げた御者へ突進し、跳び蹴りを食らわせて逃走を阻止する。
それは驚くほどあっという間の出来事だった。
(……た、助かった、の?)
地面にへたり込んだジェシカは、黒ずくめの騎士が御者を引きずってこちらへ戻ってくるのを呆然と見つめた。
彼は気を失った御者を倒れたならず者たちのところに放り投げ、パンパンと手を叩くと、ジェシカに向かって声をかけてくる。
「グランティーヌ伯爵の孫娘だな?」
そろそろと顔を上げたジェシカは、騎士が思いがけず若いことに驚かされた。
同時に、こちらを見つめる藍色の瞳は射貫くような鋭さで、ついひるんでしまう。
ジェシカは必死に自分を奮い立たせて、逆に問いかけた。
「そ、そういうあなたは誰ですかっ?」
……声が上擦ってしまうのは、なんとも情けなかったけれども。
騎士はその問いには答えず、膝をついてジェシカと視線を合わせると、おもむろに彼女の顎を持ち上げた。
「ひっ……、な、なにっ?」
突然の無礼に恐怖が募る。しかし騎士は淡々と事務的に尋ねてきた。
「怪我はないな?」
「お、おかげさまで……っ」
「ならいい」
そのまま間近から見つめられ、居心地の悪さといたたまれなさに、ジェシカは冷や汗を流した。
(いったい、なんなの――?)
自分は助かったのだろうか、それともこの男からも逃げたほうがいいのだろうか。混乱するジェシカの前で、騎士がふっと柔らかく微笑んだ。
一瞬にしてぴんと張り詰めた空気が和む。驚くジェシカに、騎士が小さく呟いた。
「あの頃から多少は成長しているが、まだまだ垢抜けないな」
「……は……?」
そのとき、ジェシカの背後から「おーい」と、こちらを呼ぶ声が聞こえてきた。
振り返ると、一台の馬車がガタゴトと近づいてくる。
騎士がすっくと立ち上がり、馬車に向かって軽く手を振る。すると、馬車の窓から顔を出していた人物がにっこりと笑って手を振り返してきた。
ジェシカたちの前でぴたりと停まった馬車から、その人物はすぐに下車してくる。
「大丈夫かい?」
彼はへたり込んだままのジェシカに、さりげなく手を差し伸べてくれる。騎士よりはいくらか年上だろう。なんとも柔和な雰囲気の男性だった。
「……どうやらあんまり大丈夫という雰囲気じゃなさそうだね。なにがあったの?」
ジェシカを助け起こしながら、倒れているならず者たちを見つけた男性は騎士に尋ねる。いつの間にか幌馬車から縄を見つけてきた騎士が、男たちを縛り上げつつ、それに答えた。
「彼女を連れ去ろうとしていた。御者も協力的だったから、最初からここで落ち合う計画だったんだろう」
「なるほど。グランティーヌ伯爵が懸念していた通りになったということか……。やっぱり護衛は必要みたいだね」
「そのようだ」
騎士と男性は顔を見合わせてうんうんと頷き合っている。
襲われた当事者であるというのに、さっぱり話についていけないジェシカはつい口を挟んだ。
「あの、すみませんが、あなた方はいったい……?」
「おっと失礼。自己紹介がまだだったね」
振り返ったのは、あとからやってきた男性のほうだった。
「初めまして、ジェシカ嬢。僕はユーリー・グレフ・アルジェード。今はヒューイ子爵を名乗っているよ。こっちは王国騎士団に所属している僕の弟で、リジオンというんだ。よろしくね」
「はぁ、どうも……」
名前を聞いても貴族社会に疎いジェシカには、彼がどのような人物なのかいまいちよくわからない。だが王国騎士団というのは、庶民にも広く知られるこの国最高の軍組織だ。そこに所属している騎士様というなら、信用できるひとたちなのだろうか。
「僕は普段は法務省に勤めているんだ。今日はグランティーヌ伯爵の生前の願いに従い、その遺言を伝えるため、お屋敷へお邪魔するところだったんだよ」
「お祖父様の遺言?」
ユーリーの思いがけない言葉にジェシカは目を見開く。彼は頷き、懐から懐中時計を取り出した。
「おっと、もうこんな時間だ。ジェシカ嬢、申し訳ないが一緒にきてくれないかな。詳しい説明は移動しながらしていくから」
背に手を添えられ、馬車に乗るよう促される。
だがジェシカは素直に頷けなかった。ユーリーは法務省に勤める立派な人物らしいが、本当にそれを鵜呑みにしてしまっていいのだろうか?
ジェシカの不安が伝わったのか、ならず者どもを縛り終えたリジオンが、「心配するな」と声をかけてきた。
「おれもユーリーも、伯爵には子供の頃から世話になっている。恩ある伯爵の孫娘に妙な真似はしない。王国騎士団の名にかけて誓う」
リジオンはそう言って、胸に刺繍された記章に拳を当てる。
騎士が自らの身分に誓う行為は、とても神聖で厳かなこととされている。破ることは決して許されないだけに、彼が本気でジェシカを安心させようとしていることが伝わってきた。
ジェシカは二人を見ておずおずと頷く。
「急かしてしまってすまないね。じゃあ、行こうか」
ユーリーの手を借り、彼の馬車に乗り込む。
馬に乗ったリジオンがぴたりと隣につくと、馬車はゆっくりと走り出したのだった。
* * *
グランティーヌ伯爵家が治めるリディル領は、アスガール王国の王都から南に下ったところにある穏やかな土地である。平地が多いため、たくさんの種類の野菜や麦が植えられており、領民の大半は農業に従事して慎ましく暮らしていた。
伯爵邸はそんな領地のほぼ中央に位置している。
三階建ての瀟洒な建物だが、今は馬車寄せ場に多くの馬車が停まっていた。いずれも伯爵の葬儀に参列した親族たちのものだろう。
ユーリーの手を借り馬車を降りたジェシカは、見慣れた景色にひとまずほっと息をつく。
が、安堵できたのはその一瞬だけだ。すぐに、開け放たれた玄関から女性の金切り声が聞こえてくる。
「まったく、いったい何時間待たせる気なの!? あんな小娘など待たずとも、食事なりなんなり用意するべきでしょう!」
ジェシカが玄関ホールに足を踏み入れたとき、伯爵家の家令に詰め寄っていたのは、伯母のベリンダだった。
以前から彼女と折り合いの悪いジェシカは、つい「げっ」と呟いてしまう。
それをしっかり聞きつけたベリンダは、鬼の形相でジェシカのほうを振り返ってきた。
「まぁ! わたくしたちをこれだけ待たせておいて、よくものこのこと顔を出せたこと!」
彼女の言葉に合わせて、そこに集まっていた他の親族が剣呑な視線を向けてくる。
思わずひるんだジェシカに対し、ベリンダは親族を代表するかのようにフンと鼻を鳴らした。
「いったいどこで寄り道をしてきたのかしら? ヴェールをしていないどころか、そんなに髪をぼさぼさにして。おまけになにをしたら服がそんなことになるの?」
ジェシカはとっさに、ほこりだらけのスカートを両手で押さえた。
確かに今のジェシカの恰好は、あまり褒められたものではない。
ヴェールは自分で取り去ったが、ならず者たちのせいでまとめていた髪は解け、服もあちこち汚れている。こんなことなら、せめて馬車の中で髪くらいは整えておくべきだったと後悔した。
「まったく、忌々しいこと。このまま帰ってこなくてもいっこうに構わなかったのに」
……ベリンダにはこれまでも顔を合わせるたびに嫌みばかり言われてきたから、今さらなにを言われても傷つきはしない。しかし、このときばかりは彼女の言葉を聞き流せなかった。
ならず者と通じていたらしい御者のことが脳裏を過る。
まさか――という思いにジェシカは戦慄した。
(あのひとたち、伯母さんの命令で動いてたりしないわよね……?)
「――彼女が遅れた理由は、わたしから説明させていただきます。なのでどうかこれ以上、彼女を責めないでやってくれませんか?」
強張ったジェシカの肩をぽんと叩いて、それまでずっとうしろに控えていたユーリーがにこやかに親族たちの前に進み出た。
ジェシカを睨みつけていた親族たちは彼を見た途端に息を呑んで、なぜか一歩後ずさる。
「まっ、まぁ……! あなた様は、アルジェード侯爵家のご嫡男様!?」
ベリンダもさっと顔色を変えてユーリーを凝視した。
「アルジェード、侯爵家?」
先ほど彼は、子爵を名乗っていると言っていたが、本当は侯爵家の嫡男だった……!?
さすがのジェシカも『侯爵』が貴族の中でも上位に位置するというのは知っている。驚くジェシカの隣で、ユーリーは親族たちに向け軽く一礼した。
「皆様、ご機嫌麗しく。今日は弟も一緒です」
「お、弟君というと、王国騎士団でも名高いリジオン卿……!?」
ベリンダがそう息を呑んだところで、件のリジオンが玄関から入ってきた。
「失礼、この家の警備を確認しておりました。遅くなって申し訳ない」
ともすれば兄のユーリーより堂々とした態度で、リジオンは軽く目礼した。
黙り込んだ親族たちを見て、この兄弟が貴族社会では有名人であることを、ジェシカはようやく認識する。どうやら自分はすごいひとたちに助けてもらったらしい。
「ど、どうしてお二人がこちらに……。それに、リジオン卿は国境にいらっしゃったのでは?」
「ちょうど長期休暇中です」
リジオンがさらっと答える。その横で、ユーリーがぐるりと周囲を見回して家令に尋ねた。
「どこか全員が集まれる場所があるといいのだけど?」
「それでしたら、食堂がよろしいかと……」
ユーリーの目が逸れるなり、それまで蛇に睨まれた蛙状態だった親族たちが、一斉に鋭い視線をジェシカに向けてきた。
(いや、わたしを睨まれても困るのだけど)
ジェシカが口元を引き攣らせると、うしろからくいっと腕を引かれた。驚いて振り返ると、いつの間にかリジオンがそばにいて、彼女の手を自分の腕にかけさせる。
「では皆さん、行きましょうか」
親族たちににこりと微笑みかけ、リジオンはスマートな仕草でジェシカをエスコートしていく。
顔を上げると、リジオンの藍色の瞳とバッチリ目が合ってどきりとした。
今さらながらに、彼の容姿が整っていることに気づかされる。恰好こそ黒ずくめで恐ろしいが、黒い髪が縁取る顔はすっきりと男らしく、それでいて息を呑むほど秀麗だった。
「あ、あのっ、別にエスコートしていただかなくても、一人で歩けますから……!」
「遠慮しなくていい。おれがしたくてしていることだ。それとも針の筵の中、一人でいるほうがいいのか?」
「うっ……」
うしろの親族たちからは、相変わらず非友好的な視線がビシビシ向けられている。
「……エスコートを、お願いします」
彼の腕に添えた手にきゅっと力を込めると、リジオンがくすりと笑った気配がした。
「――さて、全員そろいましたね」
食堂に集まった人々は、それぞれ長テーブルについた。
上座である暖炉に近い席にユーリーがつき、そのすぐ隣にジェシカ、さらに隣にリジオンが座る。
重々しい空気の中で、ユーリーは手にしていた鞄から書類を取り出した。
「こちらが、グランティーヌ伯爵が生前に遺された遺言状です。伯爵の意向により、古くから家同士の付き合いがあり、なおかつ法務次官を務めるわたしが遺言状を預かることになりました」
親族たちはなにも言わず書類を見つめている。異様な雰囲気にジェシカは唾を呑んだ。
「それでは、読み上げさせていただきます。――『わたし、グランティーヌ伯爵家十八代当主ザウバッハは、伯爵家の跡継ぎとして、孫娘のジェシカ・フォン・グランティーヌを指名する。爵位、および財産はジェシカの夫となる者が受け継ぐこと。ジェシカが夫を迎えるまでは、アルジェード侯爵家嫡男、ユーリー・ヒューイ子爵を後見人として指名する』、以上」
「はい……?」
――『伯爵家の跡継ぎとして、孫娘のジェシカ・フォン・グランティーヌを指名する』
予想外の遺言状の内容に、思わずジェシカはあんぐりと口を開けた。
(わたしが……、伯爵家の跡継ぎ……!?)
なにかの間違いではないだろうか?
だが、そう思ったのはジェシカだけではなかったらしい。
しんと静まった広間は、次の瞬間、蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
「――じょ、冗談じゃないわ! こんな平民上がりの小娘に、この名門伯爵家を継がせるなんて!! お父様はいったいなにを考えていらっしゃるの!?」
その中でもベリンダの甲高い声はよく響いた。これまで以上に険悪なまなざしで睨みつけられ、さしものジェシカもびくついてしまう。
だが、騒然とする親族たちに対し、ユーリーは平然とした態度で口を開いた。
「育ちがどうあれ、ジェシカ嬢は間違いなくグランティーヌ伯爵のご長男、アラン様のご息女です。アラン様は正式な手順を踏み、ジェシカ嬢の母君と結婚しています。そのときの教会に連絡し、二人の婚姻誓書を確認済みです。また、当時暮らしていた町の人々や、出産に立ち会った産婆に確認し、ジェシカ嬢が間違いなくお二人のお子であることも証明されています」
いったいいつの間にそんな調査をしたのか。ただただ驚くジェシカだが、ユーリーは穏やかな物腰で淡々と話を進めていく。
「この遺言状は国の法に則り正式な手順で作成されたものですので、どんな事情があろうと内容が覆ることはありません。よって、こちらにいらっしゃるジェシカ嬢が、グランティーヌ伯爵家の正当な跡継ぎになります。彼女が婿を取るまでは、わたしが後見人としてしっかり支えていくことをここにお約束いたしましょう」
「し、しかし、血筋がいくら正しかろうが、育ちが卑しいことに変わりはありません!」
ベリンダが引き攣った声で反論してきた。
「こんな娘が伯爵家の者として社交界に出ていったら、いい笑いものです。伯爵家だけでなく、我々親族まで恥をかくことになりますわ!」
他の親族たちも同調するように深く頷いている。
その散々な言われ方に、ジェシカはなんだかムカムカしてきた。突然の話に混乱しているとはいえ、一方的に『育ちが卑しい』と見下されれば、怒りも湧いてくるというものだ。
すると、それまでずっと黙っていたリジオンが不意に口を開いた。
「それでは、ジェシカ嬢がどこに出しても恥ずかしくない立派なレディになれば、跡継ぎを名乗っても問題ないということでよろしいですか?」
「なっ……」
親族たちが大きく息を呑んだ。そんな中、ベリンダの近くに座っていた壮年の男が声を上げる。
「ちょ、ちょっと待ってください」
男はやや荒い動作で席から立ち上がった。
「ベリンダの言う通り、その娘は長らく庶民として育ちました。たとえ教育を受けようとも、生まれながらの貴族令嬢のようにはとうていなり得ないと思います」
きっぱり言い切った男に、リジオンがかすかに目を細めた。
「ほぅ……。貴殿は確か、ラスビーゴ男爵でしたか。鷹狩りの名手と宮廷でも評判の方だ。伯爵の一族の方だったのですね」
ラスビーゴ男爵と呼ばれた男は軽く目を見開く。まさかリジオンが自分を知っているとは思わなかったようだ。
表面上は穏やかな笑みを浮かべながら、その実、鋭い視線で見つめてくるリジオンに、ラスビーゴ男爵はひるむ様子を見せつつ気丈に反論を続けた。
「貴族の令嬢は幼い頃から専属の家庭教師のもとで、礼儀作法を始めとする様々な教養を身につけます。たとえ国一番の教師をつけたとしても、物心ついたときから学んでいる娘と、急ごしらえで仕込まれた娘とでは、明確な差がつくでしょう」
「なるほど。男爵は彼女が立派な淑女になれるはずがないとお考えなのですね」
「まぁ……はっきり言えばそうです」
頷く男爵に向かって、リジオンはなぜか不敵に笑った。
「逆に言えば、彼女が伯爵家を継ぐにふさわしい令嬢になれたら、なんの問題もないということですね?」
「えっ……、いや、それはそうだが、この娘に限ってそのようなこと……」
「無理だと思われますか? 本当に?」
妙な自信を感じさせるリジオンの言葉に、男爵の眉間に皺が寄る。
そこでおもむろにリジオンが居住まいを正した。全員の視線を一身に受けつつ、多少穏やかだった声音をがらりと変えて、真剣味を帯びた声で話し始める。
「ジェシカ嬢が伯爵家の跡取りと認められるのは、規定により、三ヶ月後の王宮舞踏会にて国王陛下に拝謁したあととなります。それまでに、彼女には伯爵家の名にふさわしい令嬢になることはもちろん、わたしの婚約者として、相応の教養を身につけてもらいます」
リジオンの隣でそれを聞いたジェシカは、ぽかんと口を開けた。
(……こんやくしゃ? このひと今、婚約者って言った?)
親族たちも一様に目を瞠り、リジオンとジェシカを忙しなく見やった。
「こっ、こここ、婚約ですってっ? あなた様と、そこにいる娘がっ?」
ベリンダが親族を代表するように、ひっくり返った声で確認する。
リジオンは「そうです」と大真面目に頷いた。
「伯爵は大切な孫娘が我が侯爵家の者と結婚し、この家を継ぐことを望んでいました」
途端に親族たちの目の色が変わる。いずれもひどく狼狽え衝撃を受けた様子だった。驚きを通り越し呆然としているジェシカの目には、そんな彼らの表情が入ってくることはなかったが。
「兄のユーリーはすでに結婚していますが、幸いわたしはまだ独身です。次男という点で、ジェシカ嬢との縁組みになんら問題はありません。ねぇ、兄上?」
リジオンに話を振られたユーリーは、ちょっと驚いた様子ながら満面の笑みで頷いて見せた。
「ええ、弟の言う通りです。皆様も我が弟の評判は宮廷などでお聞き及びでしょう。伯爵家にとってもこれ以上の縁組みはないかと」
「……それは、まあ、そうですが……」
ベリンダが歯切れの悪い様子でもごもごと呟く。リジオンだけならまだしも、ユーリーまでがこの縁組みを押してくるとなると、反論は難しいようだ。
だがそこに、再びラスビーゴ男爵が口を出してくる。
「せっかくのお申し出ですが……伯爵家の者としては賛同できかねます。庶民出の娘に、侯爵家から婿をもらうなど……ましてそれが国王陛下の覚えもめでたいリジオン卿であるなど、下手をすれば我々が恥知らずの謗りを受けかねません」
どうやら男爵は遠回しにこの縁談を断ろうとしているらしい。
(というか、そもそもどうして、わたしが遺言状通りに行動することが当然のように話が進んでいるのよ)
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私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
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