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1巻
1-3
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「お兄様もお付き合いが大変そうね。でも、女のひととばかり仲良くしているわけじゃなくてよかったわ」
バルコニーから緩やかに続く階段を下り、レオーネは舗装された石畳の道を歩く。
兄に言われた通り、大木を背にしたところに置かれたベンチに腰掛けると、ようやくほっと息がつけた。
相変わらずコルセットは苦しいが、酒と香水の匂いから解放されたことで、幾分か気分がマシになった気がする。人目がないのをいいことに、レオーネは背もたれに寄りかかってぐたっと力を抜いた。
「王都だとあんまり星が見えないわね。あちこち明かりがついたままだからかしら?」
見上げた藍色の夜空は、ぼんやりと煙っている感じがする。今日は朝から晴れていたのに、まるで曇りの日のようだ。
領地では曇りの夜は要注意だった。暗がりに紛れて、国境の向こうから他国の間諜や密売人などが入り込んでくることがあるのだ。
領地を任されている長兄ゴートは天気を読むのに長けているため、こうした夜には必ず警備を増やしていた。実際、曇りの日に怪しい人間を捕まえたことは数知れない。
日々そんな兄を見ているレオーネが、意識せず周りの気配を探ってしまうのは、もはや習慣みたいなものだった。
――と、そのときだ。おかしな気配を茂みの向こうから感じた。
レオーネはとっさにドレスの裾を片手でまとめ上げ、その場にさっと身を伏せる。姿勢を低くしたまま茂みへ近づき、向こうへ顔をのぞかせた。
――そこには、暗めの外套を着込んだ者が三人立っていた。
背恰好からして、全員大人の男だろう。外套だけなら防寒のためと言い訳できるが、フードまで被っているのはいかにも怪しい。
(こんな大勢の招待客が集まっている舞踏会の会場のすぐ側で、堂々と悪巧み――?)
ひとより勘が優れているレオーネだから気づけたが、普通なら誰も気づかないだろう。それくらい、彼らは宵闇に溶け込んでいた。
レオーネはいっそう感覚を鋭くして耳を澄ませる。かすかだがぼそぼそという話し声が聞こえてきた。
「これが例の……ものを見つけるのは……、……少し……」
「では、引き続き……を……、……」
様子を窺っていると、一人が手を差し出し、もう一人へなにかを渡しているのが見えた。
さらに言葉を交わしたあと、三人のうち二人は建物から離れるように身を翻し、なにかを受け取った一人は城へ向かって歩き出す。
(なにかの取引かしら? 『ものを見つける』とか言っていたし)
――明らかに怪しい。
レオーネは城へ歩き出した一人がこちらに近づいてくるのを察し、思い切ってその前に飛び出した。
「――待ちなさい、怪しい奴! 国王陛下のお城でなにをしているの⁉」
いきなり立ちはだかったレオーネに、相手は驚いた様子で足を止めた。
飛び出したはいいものの、相手は武器を持っているかもしれない。レオーネは目についた枝をひっ掴み、力任せに折った。
そして、それを剣代わりにしっかり構える。
対する相手は、狼狽える様子もなければ逃げる様子もなく、両手を腰の脇に下げた状態で立ち尽くしている。
そのうちレオーネの大声に反応して、衛兵が鎧をガチャガチャ言わせながら走ってきた。
「なんの騒ぎだ! いったいなにがあった⁉」
きつい口調で問いただす衛兵たちに、レオーネが状況について答えようとする。
だがそれより先に、外套を着込んだ男が大きくため息をついた。男がフードに手をかけようとしたので、レオーネは慌てて声を張る。
「動くな! 外套は衛兵が預かるからそれまで……って、え?」
レオーネの声など聞こえないとばかりに、男は無造作にフードを払い、首もとの紐を解いて外套を脱いだ。衛兵の持つランプに照らし出されたその顔は、息を呑むほど整っている。
それと同時に、衛兵たちが「ひっ!」と喉の奥から小さな悲鳴を漏らした。
「こっ、これはっ、国王陛下!」
「――へ?」
衛兵たちの絶叫に、レオーネは間の抜けた声を出す。
ぽかんとする彼女の前で、衛兵たちは慌てて槍を引き、その場に膝を突いて深く頭を垂れた。
レオーネは大いに戸惑い、今一度男の顔をじっと見つめる。
ランプに照らされた漆黒の髪、高い鼻筋、気難しそうに引き結ばれた唇。そして印象的な紫紺の瞳――
「……ギ、ギルバート、さま……⁉」
記憶にある王太子時代の彼と、目の前の男の端整な顔立ちが合致した瞬間――レオーネは引き攣った声を上げて卒倒しそうになった。
「おい、おまえ! 恐れ多くも陛下のお名前を呼ぶなど……!」
「よい。面倒を起こすな」
衛兵が気色ばむのに、ギルバートは表情を変えることなく短く命令する。
その威厳ある声に、衛兵はすぐに「はっ」と引き下がった。
衛兵をたった一言で従える姿に、レオーネは背筋を震わせ息を呑む。
国王らしい言動に自然と畏怖を覚える一方で、彼女は大いにときめいていた。
(……なんていうか、まさに『ひとの上に立つために生まれてきた方』って感じがするわ!)
まさかこんな至近距離でお会いできるなんて……と、感動に打ち震えそうになるが、あいにくのんきにときめいている場合ではない。
「おまえ、どこの娘だ? 見たところ王妃選びの宴にやってきた者らしいが」
レオーネはハッと我に返り、慌てて背筋をシャキッと伸ばした。
「は、はい。今宵の舞踏会に参加させていただいております、フィディオロス伯爵の娘、レオーネと申します!」
陛下にお会いできた嬉しさと、しでかしてしまった失態による恐慌のあまり、レオーネはドレスの裾をつまむ淑女の礼ではなく、胸に右の拳を当てる騎士の礼を取ってしまっていた。
おまけに淑女らしい蝶が舞うような囁き声ではなく、遠くまで指揮を飛ばせるような張りのある声で答えてしまう。
だがそのおかげで「ああ、フィディオロス将軍の娘か」とあっさり信じてもらえた。今ばかりは父や兄たちの教育に感謝するレオーネである。
「将軍の娘であろうと、陛下に得物を向けるなどとうてい看過できることでは……!」
衛兵の一人に言われ、レオーネは拳を握るのと逆の手で、未だ枝を持ったままであることに気づいて血の気が引いた。
「こ、これは違います! 陛下をどうこうしようとしたわけではなく……いや、怪しい者と思い込んでいたので、牽制のために……、えっと、あの……っ!」
焦るあまり、説明すればするほどに墓穴を掘っている気がする。
あわあわと手を振りながら目を泳がせるレオーネに、衛兵は厳しいまなざしで武器を向けてくる。
ギルバートは眉一つ動かさないが、それでもレオーネを不審人物と思っているのは明らかだ。腕を組んでじっと彼女を睨め付けてくる。
「舞踏会の参加者なら、付き添いの人間がいるはずだ。付き添いはどうした?」
「あっ……! 次兄が、会場に。わたしはその、人酔いを起こしてしまい、外で涼んでいたのです……っ」
ギルバートが顎を動かすと、衛兵の一人がすぐさま会場へ向かう。きっとセルダムを連れてくるつもりだろう。
もう一人の衛兵もなにやら指示を受けてどこかに走って行く。その結果、この場にはレオーネとギルバートだけが残された。
(どうしよう、陛下と二人きり……!)
ときめいている場合ではないが、まったく意識しないでいるというのも無理な話だった。
緊張と焦りでいっぱいいっぱいのレオーネに対し、ギルバートは冷たい視線を寄越してくる。
「わたしの行動に対し、臣下の娘であるおまえが口出しすることはできない。それはわかるな?」
「は、はい、もちろんです……っ」
「ならば今見たものは、いっさい他言無用。誰かに話せば即座に縄を打つ」
(ひ――っ!)
国王陛下の鋭い眼光を前に、レオーネは竦み上がる。
父や兄も本気で怒ったときはかなり怖いが、彼らの怒りが火山の噴火だとすると、ギルバートの怒りは猛吹雪か雪崩かといった感じだ。
――絶対零度のまなざしとは、こういうものを言うのだろう。
「場合によっては、おまえの父と兄も罪に問うことになるぞ」
「つ、罪?」
「おまえが間諜でないという証拠はないからな。フィディオロス家がなにかよからぬ企みをしていないとも限らない」
「そ、そんな……! フィディオロス家に限って、そんなことはありえません!」
そこはしっかり否定しなければいけないところだ。
将軍職にある父はもちろん、兄たちも全員陛下から剣を授かり、王国騎士になった忠臣だ。この国、ひいては陛下への忠誠心は人一倍あると自負している!
(わたしの軽率な行動のせいで、陛下への忠誠心を疑われるなんて……!)
後先考えずに飛び出したことが悔やまれる。
同時に、こんなことで疑いを持たれるなんて、という反発心が芽生えてきた。
「父を始め、兄弟もわたしも、陛下に忠誠を誓っています!」
「本当だな?」
不意にギルバートの長い指がレオーネの顎にかかる。そのまま顔を上向かせられ、至近距離で見つめられ、思わずレオーネは胸中で叫んだ。
(へ、陛下の顔がっ、大変にお綺麗なご尊顔がっ、ち、ち、近い――っ‼)
憧れの陛下に間近から見つめられるという状況に、詰問されている現実が吹っ飛びそうになる。
顔を真っ赤にして今にも目を回しそうなレオーネを、不信感いっぱいの表情で見つめるギルバートだったが……
「――まぁ! 陛下ったら、こんなところでなにをしているかと思えば……!」
突如、どこからか華やかな声が聞こえてきて、二人は揃ってそちらに目を向ける。
見れば、会場にいるはずの王太后が、口元を手で押さえ大きく目を見張っていた。そのうしろには美しいドレスに身を包んだ女性たちが、ずらりと付き従っている。
ほどなく彼女たちの背後から、先程どこかへ走って行った衛兵が弱り切った顔で姿を現した。
(だ、だ、だれ……っ?)
王太后様はとにかく、この女性の集団はいったい……
だがレオーネの戸惑いをよそに、こぼれんばかりに目を見開いた王太后が、みるみるうちに満面の笑みを浮かべた。
「今日どころか明日もお出ましにならないと聞いてがっかりしていましたが……、陛下が会場に足を運ばなかったのは、そこにいる娘と逢い引きするためだったのですね⁉」
「……あ」
(逢い引きぃいいいい⁉)
あまりのことに、レオーネは口をあんぐりと開けたまま固まる。
そんな彼女の周りを囲うようにして、王太后のうしろにいた女性たちが次々とレオーネの顔をのぞき込んできた。
「なるほど、こういうすれてなさそうな純朴な娘が陛下の好みだったのですね」
「どうりで侯爵家以上の令嬢たちには見向きなさらないわけだわ」
「みんな澄ましていて外面は完璧ですものね。でも陛下は、発展途上の娘をご自分で躾けるおつもりなのだわ」
「きゃあっ、なんだか背徳的な感じ!」
女性たちは思い思いのことを口にして、勝手にきゃいきゃいはしゃいでいる。
「申し訳ありません、陛下。わたしが駆けつけたときには、すでに王太后様は会場を飛び出しておられまして……」
そんな中、衛兵が申し訳なさそうにこそっと伝えてくる。どうやら彼は陛下に王太后を足止めしろと命じられていたらしい。
ギルバートは再び大きなため息をついた。
「……母上、それに姉上方も、勝手に盛り上がられては困ります」
――姉上方! ということはこの女性たちは……王女様ということだ!
高貴な方々に取り囲まれて、レオーネは再び倒れそうになった。
ありえない状況に、もうどうすればいいのかさっぱりわからない。
――とにかく逢い引きが誤解であることを説明しなくては……
その思いから必死に口を開こうとしたとき、今度は別の衛兵に連れられ、兄のセルダムが駆けつけてきた。
「陛下! それに王太后様っ……? 妹がなにかご迷惑をっ……?」
ずらりと並ぶ面々を見て、セルダムは真っ青になっている。慌ててギルバートの前に膝を突き頭を垂れてから、恐る恐る問いかけてきた。
だがギルバートが答える前に、王太后がなにかに気づいた様子で目を瞬かせる。
「あら、あなたは確か、フィディオロス将軍のところの息子よね? 何度か見たことがあるわ。あなたの妹ということは、この令嬢は将軍の娘なのね?」
視線で問われたレオーネはビクビクしながらも頷く。すると王太后は再び顔を輝かせて、ぽんっと手を打ち合わせた。
「まぁ、素晴らしいわ! フィディオロス将軍の娘なら言うことはないわね。将軍の献身と忠誠は前王陛下の頃から揺るぎないもの! 重鎮たちも反対することはないと思うわ」
父が褒められるのは嬉しいが、この状況で言われると、なにやら危機感めいたものを覚えて仕方がない。
歩み寄ってきた王太后は、キラキラした瞳でレオーネの手を取り言った。
「フィディオロス家のお嬢さん、わたくしの権限で王城にあなたの部屋を用意させます。あなたは今日から陛下の婚約者として、王城で暮らしなさい!」
「……えっ、えぇええええ――ッ⁉」
王太后に対し悲鳴を上げるのは失礼だとわかっている。でも、言われた内容が内容だけに、叫ばずにはいられなかった。
「そ、そんな……! 王太后様、誤解です、わたしは陛下と逢い引きなどしておりません……!」
慌てて言い募るレオーネをさらっと無視して、王太后はにっこりとギルバートに微笑みかけた。
「あなたも好いている者は近くに置いていたほうが安心でしょう? この子のことはわたくしにすべて任せてちょうだい!」
国王に、というよりは息子に言い聞かせる口調で、王太后はこれ以上ない笑顔で自分の胸元をぽんっと叩く。
言われたほうのギルバートは、うんざりした面持ちで口を開きかけた。
――が、なぜだか途中で口をつぐみ、少しのあいだ黙り込む。そして……
「……母上のお望みのままに」
と答えたではないか!
(へ、陛下、どうしてですか! さっきまでのアレは逢い引きじゃなく詰問でしたよね⁉)
しかしギルバートはもう話は終わりだとばかりに、さっさと建物のほうへ歩いて行ってしまう。
おかげで残された王太后と王女たちは、今まで以上にはしゃいだ声を上げた。
「まさかこんなに早く陛下のお妃候補が見つかるなんて!」
「国中の貴族の娘を集めて舞踏会を開いた甲斐がありましたね、お母様!」
「その通りね! おまけに白のドレスということは、今日が社交界デビューだったのね? つまり陛下は涼みにきたこの娘を見初めて、即迫ったということだわ。……あぁ、なんてロマンチックなの!」
王女たちと王太后は頬に手を当てうっとりしている。
レオーネは視線でセルダムに助けを求める。だがセルダムもなにがなんだかわからないらしく、戸惑い顔のまま膝を突いて固まっていた。
そうこうするうちに、王太后は満面の笑みでレオーネをぎゅっと抱きしめてくる。
「さぁ、そうと決まれば善は急げよ。すぐひとをやって、あなたを部屋に案内させます。明日からお妃教育を始めますからね。大丈夫、心配はいりません。わたくしが責任をもって、あなたを王妃にふさわしい立派なレディにしてみせますから。大船に乗ったつもりでいらっしゃい!」
「いえ、あの、ですから、わたしは陛下とそういう関係ではなく……!」
このままでは本当に取り返しがつかなくなってしまう、と控えめに抵抗を試みるが「またまた、そんなことを言って!」「照れているのね、可愛いわぁ」とまったく取り合ってもらえず、レオーネはあれよあれよという間に王城に引きずり込まれてしまったのだった。
第二章 国王陛下の不名誉な噂
王城に連れていかれるレオーネを慌てて追いかけてきた兄セルダムは、王太后から直々に、妹が王妃の筆頭候補になったと聞かされて、文字通り卒倒しそうになっていた。
「と、とにかくおれは、急いで父上にこのことを知らせてくる。レオーネが王妃の筆頭候補なんて……えらいことになった。そのあとは、領地の兄上にも伝えに行くから」
そう言って挨拶もそこそこに、セルダムは頭を抱えながら王城を出発していった。
これ以上ないほどふらつく兄を見送ったレオーネは、王太后の案内で王城の一室に通された。
どうやら貴婦人が使う部屋らしく、明るい色の壁紙と絨毯に彩られた、かなり広い部屋だ。
なにしろ、居間だけではなく、応接間や音楽室、衣装室までついている。浴室も当然のように完備されていて、一番奥まったところには天蓋付きの寝台が置かれた寝室があった。
客間にしては豪華すぎないか……?
あっけにとられるレオーネだったが、「疲れたでしょうから、今日のところはお休みなさいな」と言われ、質問する機会を逃してしまう。
詳細はまた明日、と言われればそれ以上食い下がることもできず、レオーネは困惑したまま、去って行く王太后を頭を下げて見送った。
部屋にいた世話係だという女性たちは、終始にこやかながら、「もっと狭い部屋のほうが落ち着くんですけど……」というレオーネのささやかな希望を、さらっと聞き流した。
それどころか、食い下がろうとしたレオーネを半ば強制的に浴室に押し込めて、どんな香りが好きかだとか、お気に入りの香油はあるかだとか質問攻めにしてくる。
「特になにも。それより、あの、部屋をですね……」
「ではこちらのバスソルトを入れますね! 香油はこちらを使いましょう!」
レオーネは早々に、これはなにを言っても無駄だと天を仰いだ。
いつもの三倍は長いだろう入浴を終え、ローブを着て居間に行くと食事が用意されていた。
食事を終えて一人にしてほしいと告げると、女性たちはすぐに退室していった。レオーネはようやくほーっと長々と息をつく。
こんな豪華な部屋を用意されたことから考えても、どうやら自分は本当に『ギルバート陛下のお妃候補』として滞在することになってしまったようだ。
(うぅ、どうしてこんなことに……)
王国騎士団の入団試験を目的としてきたのに、まさかお妃候補になってしまうとは。
天蓋付きのふかふかの寝台は、寝心地はとてもいいのだが、そもそもの居心地が悪いせいで、ちっとも眠気がやってこない。
おかげでレオーネは長い時間、寝台の上で悶々と過ごすはめになるのだった。
――もしかして王宮で起きたことは全部夢で、目が覚めたら伯爵家の屋敷にいるかも。
という期待をして眠りに落ちたわけだが、その期待も虚しく、レオーネは寝心地最高の寝台の上で目を覚ました。
重たいため息をつきつつ起き上がり、毎朝の日課である体操を黙々と行う。ちょうどそれが終わった頃に、世話係の女性が起こしにやってきた。
ぬるま湯で洗顔し、化粧水や乳液をひたすら顔に擦り込まれたあと、朝食が用意してある居間へ案内される。
とにかく食べないと体力も気力も保たないと思ったレオーネは、カリカリのベーコンや卵料理、焼きたてのパンやサラダ、スープをしっかり胃に収めた。
もともと何日か王城に滞在する予定だったので、数日分のドレスやアクセサリーは持ってきていた。それらは昨夜のうちに部屋へ運び込まれたらしい。衣装室に吊るされていたドレスはいずれも見覚えのあるものだ。そこから適当なものを選んで身支度を行う。
そうしてすべての用意が整い一息ついたところで、王太后から「今からそちらに向かう」という連絡があった。
昨日は結局、逢い引きは誤解だということをきちんと伝えられなかった。自分には騎士になりたいという志もある。それを今度こそしっかり話さねばと、レオーネは意気込んだ。
ほどなく、王太后が部屋にやってくる。彼女だけでなく、王女様方、そして老齢の宰相も一緒に入室してきた。
客室の居間はかなり広々としていたが、五人以上の人間が入ってくると、さすがに狭く感じられる。
レオーネは緊張しつつ、促されるまま一人がけの椅子に腰掛けた。
「顔色はそんなに悪くないわね。きちんと休めたようでよかったわ。――さて、いいですか、レオーネ・フィディオロス」
レオーネの向かいに腰掛けた王太后は、お茶を持ってきたメイドが下がるなり、やや表情を厳しくして切り出した。
「あなたのことは『王妃にふさわしい教育を施す』と銘打って王城に滞在させることにしますが、それはあくまで表向きの理由です」
王太后のまなざしがあまりに真剣なので、レオーネはゴクリと唾を呑み込む。
騎士になりたいなどと言える雰囲気ではない上、王太后の言葉の意味も気になって、彼女はおずおずと口を開いた。
「は、発言をお許しください、王太后様。あの『表向きの理由』ということは、なにか別に理由があるということですか?」
「その通り。あなたがここで為すべきことはただ一つ――国王陛下の御子を身ごもることです!」
「おっ……」
あまりの内容に、思わず喉を絞められた雄鶏みたいな声が出た。
(御子……、御子って、つまり子供のこと⁉ それを身ごもるって――⁉)
レオーネは危うく「冗談でしょ?」と叫びそうになった。
すんでのところで呑み込んだけれど、表情を取り繕うまではできない。
だがそれも無理からぬことだろう。
婚約も結婚もすっ飛ばして、いきなり妊娠しろだなんて……無茶な話にもほどがある!
(だいたい、陛下と恋仲だというのも、まったくの誤解なのに……‼)
「け、結婚していない相手と子供を作るのは、さすがに色々とどうかと……っ」
「そんなことは言われるまでもなくわかっています。ですが、これまでずっとお妃選びを避け続けている陛下のこと、子供でもできない限り、結婚を認めたりしないでしょう!」
扇をぱしんっと手のひらに打ち付けて、王太后が断言する。
あまりにきっぱりと言い切るのを不思議に思って、レオーネは恐る恐る質問をした。
「あの、なぜ陛下はお妃選びを避けているのでしょうか……? お妃様は陛下にとっても国にとっても、必要な存在だと思うのですが」
「無論、そのことは陛下も重々ご承知でしょう」
レオーネの問いに答えたのは王太后ではなく、彼女の傍らに腰掛けていた老宰相だった。
レオーネが目を向けると、彼は白い口ひげを撫でながらゆっくりと口を開く。
「しかし、陛下のお眼鏡にかなう令嬢がいないのです。王妃にふさわしい家柄の令嬢は全員すげなく追い返され、しつこく食い下がろうものなら、家族共々しばらく王宮に顔を出すなと言われる始末でしてな。結果的に、侯爵家以上の令嬢たちは、全員お妃候補から外れる結果となってしまいました」
バルコニーから緩やかに続く階段を下り、レオーネは舗装された石畳の道を歩く。
兄に言われた通り、大木を背にしたところに置かれたベンチに腰掛けると、ようやくほっと息がつけた。
相変わらずコルセットは苦しいが、酒と香水の匂いから解放されたことで、幾分か気分がマシになった気がする。人目がないのをいいことに、レオーネは背もたれに寄りかかってぐたっと力を抜いた。
「王都だとあんまり星が見えないわね。あちこち明かりがついたままだからかしら?」
見上げた藍色の夜空は、ぼんやりと煙っている感じがする。今日は朝から晴れていたのに、まるで曇りの日のようだ。
領地では曇りの夜は要注意だった。暗がりに紛れて、国境の向こうから他国の間諜や密売人などが入り込んでくることがあるのだ。
領地を任されている長兄ゴートは天気を読むのに長けているため、こうした夜には必ず警備を増やしていた。実際、曇りの日に怪しい人間を捕まえたことは数知れない。
日々そんな兄を見ているレオーネが、意識せず周りの気配を探ってしまうのは、もはや習慣みたいなものだった。
――と、そのときだ。おかしな気配を茂みの向こうから感じた。
レオーネはとっさにドレスの裾を片手でまとめ上げ、その場にさっと身を伏せる。姿勢を低くしたまま茂みへ近づき、向こうへ顔をのぞかせた。
――そこには、暗めの外套を着込んだ者が三人立っていた。
背恰好からして、全員大人の男だろう。外套だけなら防寒のためと言い訳できるが、フードまで被っているのはいかにも怪しい。
(こんな大勢の招待客が集まっている舞踏会の会場のすぐ側で、堂々と悪巧み――?)
ひとより勘が優れているレオーネだから気づけたが、普通なら誰も気づかないだろう。それくらい、彼らは宵闇に溶け込んでいた。
レオーネはいっそう感覚を鋭くして耳を澄ませる。かすかだがぼそぼそという話し声が聞こえてきた。
「これが例の……ものを見つけるのは……、……少し……」
「では、引き続き……を……、……」
様子を窺っていると、一人が手を差し出し、もう一人へなにかを渡しているのが見えた。
さらに言葉を交わしたあと、三人のうち二人は建物から離れるように身を翻し、なにかを受け取った一人は城へ向かって歩き出す。
(なにかの取引かしら? 『ものを見つける』とか言っていたし)
――明らかに怪しい。
レオーネは城へ歩き出した一人がこちらに近づいてくるのを察し、思い切ってその前に飛び出した。
「――待ちなさい、怪しい奴! 国王陛下のお城でなにをしているの⁉」
いきなり立ちはだかったレオーネに、相手は驚いた様子で足を止めた。
飛び出したはいいものの、相手は武器を持っているかもしれない。レオーネは目についた枝をひっ掴み、力任せに折った。
そして、それを剣代わりにしっかり構える。
対する相手は、狼狽える様子もなければ逃げる様子もなく、両手を腰の脇に下げた状態で立ち尽くしている。
そのうちレオーネの大声に反応して、衛兵が鎧をガチャガチャ言わせながら走ってきた。
「なんの騒ぎだ! いったいなにがあった⁉」
きつい口調で問いただす衛兵たちに、レオーネが状況について答えようとする。
だがそれより先に、外套を着込んだ男が大きくため息をついた。男がフードに手をかけようとしたので、レオーネは慌てて声を張る。
「動くな! 外套は衛兵が預かるからそれまで……って、え?」
レオーネの声など聞こえないとばかりに、男は無造作にフードを払い、首もとの紐を解いて外套を脱いだ。衛兵の持つランプに照らし出されたその顔は、息を呑むほど整っている。
それと同時に、衛兵たちが「ひっ!」と喉の奥から小さな悲鳴を漏らした。
「こっ、これはっ、国王陛下!」
「――へ?」
衛兵たちの絶叫に、レオーネは間の抜けた声を出す。
ぽかんとする彼女の前で、衛兵たちは慌てて槍を引き、その場に膝を突いて深く頭を垂れた。
レオーネは大いに戸惑い、今一度男の顔をじっと見つめる。
ランプに照らされた漆黒の髪、高い鼻筋、気難しそうに引き結ばれた唇。そして印象的な紫紺の瞳――
「……ギ、ギルバート、さま……⁉」
記憶にある王太子時代の彼と、目の前の男の端整な顔立ちが合致した瞬間――レオーネは引き攣った声を上げて卒倒しそうになった。
「おい、おまえ! 恐れ多くも陛下のお名前を呼ぶなど……!」
「よい。面倒を起こすな」
衛兵が気色ばむのに、ギルバートは表情を変えることなく短く命令する。
その威厳ある声に、衛兵はすぐに「はっ」と引き下がった。
衛兵をたった一言で従える姿に、レオーネは背筋を震わせ息を呑む。
国王らしい言動に自然と畏怖を覚える一方で、彼女は大いにときめいていた。
(……なんていうか、まさに『ひとの上に立つために生まれてきた方』って感じがするわ!)
まさかこんな至近距離でお会いできるなんて……と、感動に打ち震えそうになるが、あいにくのんきにときめいている場合ではない。
「おまえ、どこの娘だ? 見たところ王妃選びの宴にやってきた者らしいが」
レオーネはハッと我に返り、慌てて背筋をシャキッと伸ばした。
「は、はい。今宵の舞踏会に参加させていただいております、フィディオロス伯爵の娘、レオーネと申します!」
陛下にお会いできた嬉しさと、しでかしてしまった失態による恐慌のあまり、レオーネはドレスの裾をつまむ淑女の礼ではなく、胸に右の拳を当てる騎士の礼を取ってしまっていた。
おまけに淑女らしい蝶が舞うような囁き声ではなく、遠くまで指揮を飛ばせるような張りのある声で答えてしまう。
だがそのおかげで「ああ、フィディオロス将軍の娘か」とあっさり信じてもらえた。今ばかりは父や兄たちの教育に感謝するレオーネである。
「将軍の娘であろうと、陛下に得物を向けるなどとうてい看過できることでは……!」
衛兵の一人に言われ、レオーネは拳を握るのと逆の手で、未だ枝を持ったままであることに気づいて血の気が引いた。
「こ、これは違います! 陛下をどうこうしようとしたわけではなく……いや、怪しい者と思い込んでいたので、牽制のために……、えっと、あの……っ!」
焦るあまり、説明すればするほどに墓穴を掘っている気がする。
あわあわと手を振りながら目を泳がせるレオーネに、衛兵は厳しいまなざしで武器を向けてくる。
ギルバートは眉一つ動かさないが、それでもレオーネを不審人物と思っているのは明らかだ。腕を組んでじっと彼女を睨め付けてくる。
「舞踏会の参加者なら、付き添いの人間がいるはずだ。付き添いはどうした?」
「あっ……! 次兄が、会場に。わたしはその、人酔いを起こしてしまい、外で涼んでいたのです……っ」
ギルバートが顎を動かすと、衛兵の一人がすぐさま会場へ向かう。きっとセルダムを連れてくるつもりだろう。
もう一人の衛兵もなにやら指示を受けてどこかに走って行く。その結果、この場にはレオーネとギルバートだけが残された。
(どうしよう、陛下と二人きり……!)
ときめいている場合ではないが、まったく意識しないでいるというのも無理な話だった。
緊張と焦りでいっぱいいっぱいのレオーネに対し、ギルバートは冷たい視線を寄越してくる。
「わたしの行動に対し、臣下の娘であるおまえが口出しすることはできない。それはわかるな?」
「は、はい、もちろんです……っ」
「ならば今見たものは、いっさい他言無用。誰かに話せば即座に縄を打つ」
(ひ――っ!)
国王陛下の鋭い眼光を前に、レオーネは竦み上がる。
父や兄も本気で怒ったときはかなり怖いが、彼らの怒りが火山の噴火だとすると、ギルバートの怒りは猛吹雪か雪崩かといった感じだ。
――絶対零度のまなざしとは、こういうものを言うのだろう。
「場合によっては、おまえの父と兄も罪に問うことになるぞ」
「つ、罪?」
「おまえが間諜でないという証拠はないからな。フィディオロス家がなにかよからぬ企みをしていないとも限らない」
「そ、そんな……! フィディオロス家に限って、そんなことはありえません!」
そこはしっかり否定しなければいけないところだ。
将軍職にある父はもちろん、兄たちも全員陛下から剣を授かり、王国騎士になった忠臣だ。この国、ひいては陛下への忠誠心は人一倍あると自負している!
(わたしの軽率な行動のせいで、陛下への忠誠心を疑われるなんて……!)
後先考えずに飛び出したことが悔やまれる。
同時に、こんなことで疑いを持たれるなんて、という反発心が芽生えてきた。
「父を始め、兄弟もわたしも、陛下に忠誠を誓っています!」
「本当だな?」
不意にギルバートの長い指がレオーネの顎にかかる。そのまま顔を上向かせられ、至近距離で見つめられ、思わずレオーネは胸中で叫んだ。
(へ、陛下の顔がっ、大変にお綺麗なご尊顔がっ、ち、ち、近い――っ‼)
憧れの陛下に間近から見つめられるという状況に、詰問されている現実が吹っ飛びそうになる。
顔を真っ赤にして今にも目を回しそうなレオーネを、不信感いっぱいの表情で見つめるギルバートだったが……
「――まぁ! 陛下ったら、こんなところでなにをしているかと思えば……!」
突如、どこからか華やかな声が聞こえてきて、二人は揃ってそちらに目を向ける。
見れば、会場にいるはずの王太后が、口元を手で押さえ大きく目を見張っていた。そのうしろには美しいドレスに身を包んだ女性たちが、ずらりと付き従っている。
ほどなく彼女たちの背後から、先程どこかへ走って行った衛兵が弱り切った顔で姿を現した。
(だ、だ、だれ……っ?)
王太后様はとにかく、この女性の集団はいったい……
だがレオーネの戸惑いをよそに、こぼれんばかりに目を見開いた王太后が、みるみるうちに満面の笑みを浮かべた。
「今日どころか明日もお出ましにならないと聞いてがっかりしていましたが……、陛下が会場に足を運ばなかったのは、そこにいる娘と逢い引きするためだったのですね⁉」
「……あ」
(逢い引きぃいいいい⁉)
あまりのことに、レオーネは口をあんぐりと開けたまま固まる。
そんな彼女の周りを囲うようにして、王太后のうしろにいた女性たちが次々とレオーネの顔をのぞき込んできた。
「なるほど、こういうすれてなさそうな純朴な娘が陛下の好みだったのですね」
「どうりで侯爵家以上の令嬢たちには見向きなさらないわけだわ」
「みんな澄ましていて外面は完璧ですものね。でも陛下は、発展途上の娘をご自分で躾けるおつもりなのだわ」
「きゃあっ、なんだか背徳的な感じ!」
女性たちは思い思いのことを口にして、勝手にきゃいきゃいはしゃいでいる。
「申し訳ありません、陛下。わたしが駆けつけたときには、すでに王太后様は会場を飛び出しておられまして……」
そんな中、衛兵が申し訳なさそうにこそっと伝えてくる。どうやら彼は陛下に王太后を足止めしろと命じられていたらしい。
ギルバートは再び大きなため息をついた。
「……母上、それに姉上方も、勝手に盛り上がられては困ります」
――姉上方! ということはこの女性たちは……王女様ということだ!
高貴な方々に取り囲まれて、レオーネは再び倒れそうになった。
ありえない状況に、もうどうすればいいのかさっぱりわからない。
――とにかく逢い引きが誤解であることを説明しなくては……
その思いから必死に口を開こうとしたとき、今度は別の衛兵に連れられ、兄のセルダムが駆けつけてきた。
「陛下! それに王太后様っ……? 妹がなにかご迷惑をっ……?」
ずらりと並ぶ面々を見て、セルダムは真っ青になっている。慌ててギルバートの前に膝を突き頭を垂れてから、恐る恐る問いかけてきた。
だがギルバートが答える前に、王太后がなにかに気づいた様子で目を瞬かせる。
「あら、あなたは確か、フィディオロス将軍のところの息子よね? 何度か見たことがあるわ。あなたの妹ということは、この令嬢は将軍の娘なのね?」
視線で問われたレオーネはビクビクしながらも頷く。すると王太后は再び顔を輝かせて、ぽんっと手を打ち合わせた。
「まぁ、素晴らしいわ! フィディオロス将軍の娘なら言うことはないわね。将軍の献身と忠誠は前王陛下の頃から揺るぎないもの! 重鎮たちも反対することはないと思うわ」
父が褒められるのは嬉しいが、この状況で言われると、なにやら危機感めいたものを覚えて仕方がない。
歩み寄ってきた王太后は、キラキラした瞳でレオーネの手を取り言った。
「フィディオロス家のお嬢さん、わたくしの権限で王城にあなたの部屋を用意させます。あなたは今日から陛下の婚約者として、王城で暮らしなさい!」
「……えっ、えぇええええ――ッ⁉」
王太后に対し悲鳴を上げるのは失礼だとわかっている。でも、言われた内容が内容だけに、叫ばずにはいられなかった。
「そ、そんな……! 王太后様、誤解です、わたしは陛下と逢い引きなどしておりません……!」
慌てて言い募るレオーネをさらっと無視して、王太后はにっこりとギルバートに微笑みかけた。
「あなたも好いている者は近くに置いていたほうが安心でしょう? この子のことはわたくしにすべて任せてちょうだい!」
国王に、というよりは息子に言い聞かせる口調で、王太后はこれ以上ない笑顔で自分の胸元をぽんっと叩く。
言われたほうのギルバートは、うんざりした面持ちで口を開きかけた。
――が、なぜだか途中で口をつぐみ、少しのあいだ黙り込む。そして……
「……母上のお望みのままに」
と答えたではないか!
(へ、陛下、どうしてですか! さっきまでのアレは逢い引きじゃなく詰問でしたよね⁉)
しかしギルバートはもう話は終わりだとばかりに、さっさと建物のほうへ歩いて行ってしまう。
おかげで残された王太后と王女たちは、今まで以上にはしゃいだ声を上げた。
「まさかこんなに早く陛下のお妃候補が見つかるなんて!」
「国中の貴族の娘を集めて舞踏会を開いた甲斐がありましたね、お母様!」
「その通りね! おまけに白のドレスということは、今日が社交界デビューだったのね? つまり陛下は涼みにきたこの娘を見初めて、即迫ったということだわ。……あぁ、なんてロマンチックなの!」
王女たちと王太后は頬に手を当てうっとりしている。
レオーネは視線でセルダムに助けを求める。だがセルダムもなにがなんだかわからないらしく、戸惑い顔のまま膝を突いて固まっていた。
そうこうするうちに、王太后は満面の笑みでレオーネをぎゅっと抱きしめてくる。
「さぁ、そうと決まれば善は急げよ。すぐひとをやって、あなたを部屋に案内させます。明日からお妃教育を始めますからね。大丈夫、心配はいりません。わたくしが責任をもって、あなたを王妃にふさわしい立派なレディにしてみせますから。大船に乗ったつもりでいらっしゃい!」
「いえ、あの、ですから、わたしは陛下とそういう関係ではなく……!」
このままでは本当に取り返しがつかなくなってしまう、と控えめに抵抗を試みるが「またまた、そんなことを言って!」「照れているのね、可愛いわぁ」とまったく取り合ってもらえず、レオーネはあれよあれよという間に王城に引きずり込まれてしまったのだった。
第二章 国王陛下の不名誉な噂
王城に連れていかれるレオーネを慌てて追いかけてきた兄セルダムは、王太后から直々に、妹が王妃の筆頭候補になったと聞かされて、文字通り卒倒しそうになっていた。
「と、とにかくおれは、急いで父上にこのことを知らせてくる。レオーネが王妃の筆頭候補なんて……えらいことになった。そのあとは、領地の兄上にも伝えに行くから」
そう言って挨拶もそこそこに、セルダムは頭を抱えながら王城を出発していった。
これ以上ないほどふらつく兄を見送ったレオーネは、王太后の案内で王城の一室に通された。
どうやら貴婦人が使う部屋らしく、明るい色の壁紙と絨毯に彩られた、かなり広い部屋だ。
なにしろ、居間だけではなく、応接間や音楽室、衣装室までついている。浴室も当然のように完備されていて、一番奥まったところには天蓋付きの寝台が置かれた寝室があった。
客間にしては豪華すぎないか……?
あっけにとられるレオーネだったが、「疲れたでしょうから、今日のところはお休みなさいな」と言われ、質問する機会を逃してしまう。
詳細はまた明日、と言われればそれ以上食い下がることもできず、レオーネは困惑したまま、去って行く王太后を頭を下げて見送った。
部屋にいた世話係だという女性たちは、終始にこやかながら、「もっと狭い部屋のほうが落ち着くんですけど……」というレオーネのささやかな希望を、さらっと聞き流した。
それどころか、食い下がろうとしたレオーネを半ば強制的に浴室に押し込めて、どんな香りが好きかだとか、お気に入りの香油はあるかだとか質問攻めにしてくる。
「特になにも。それより、あの、部屋をですね……」
「ではこちらのバスソルトを入れますね! 香油はこちらを使いましょう!」
レオーネは早々に、これはなにを言っても無駄だと天を仰いだ。
いつもの三倍は長いだろう入浴を終え、ローブを着て居間に行くと食事が用意されていた。
食事を終えて一人にしてほしいと告げると、女性たちはすぐに退室していった。レオーネはようやくほーっと長々と息をつく。
こんな豪華な部屋を用意されたことから考えても、どうやら自分は本当に『ギルバート陛下のお妃候補』として滞在することになってしまったようだ。
(うぅ、どうしてこんなことに……)
王国騎士団の入団試験を目的としてきたのに、まさかお妃候補になってしまうとは。
天蓋付きのふかふかの寝台は、寝心地はとてもいいのだが、そもそもの居心地が悪いせいで、ちっとも眠気がやってこない。
おかげでレオーネは長い時間、寝台の上で悶々と過ごすはめになるのだった。
――もしかして王宮で起きたことは全部夢で、目が覚めたら伯爵家の屋敷にいるかも。
という期待をして眠りに落ちたわけだが、その期待も虚しく、レオーネは寝心地最高の寝台の上で目を覚ました。
重たいため息をつきつつ起き上がり、毎朝の日課である体操を黙々と行う。ちょうどそれが終わった頃に、世話係の女性が起こしにやってきた。
ぬるま湯で洗顔し、化粧水や乳液をひたすら顔に擦り込まれたあと、朝食が用意してある居間へ案内される。
とにかく食べないと体力も気力も保たないと思ったレオーネは、カリカリのベーコンや卵料理、焼きたてのパンやサラダ、スープをしっかり胃に収めた。
もともと何日か王城に滞在する予定だったので、数日分のドレスやアクセサリーは持ってきていた。それらは昨夜のうちに部屋へ運び込まれたらしい。衣装室に吊るされていたドレスはいずれも見覚えのあるものだ。そこから適当なものを選んで身支度を行う。
そうしてすべての用意が整い一息ついたところで、王太后から「今からそちらに向かう」という連絡があった。
昨日は結局、逢い引きは誤解だということをきちんと伝えられなかった。自分には騎士になりたいという志もある。それを今度こそしっかり話さねばと、レオーネは意気込んだ。
ほどなく、王太后が部屋にやってくる。彼女だけでなく、王女様方、そして老齢の宰相も一緒に入室してきた。
客室の居間はかなり広々としていたが、五人以上の人間が入ってくると、さすがに狭く感じられる。
レオーネは緊張しつつ、促されるまま一人がけの椅子に腰掛けた。
「顔色はそんなに悪くないわね。きちんと休めたようでよかったわ。――さて、いいですか、レオーネ・フィディオロス」
レオーネの向かいに腰掛けた王太后は、お茶を持ってきたメイドが下がるなり、やや表情を厳しくして切り出した。
「あなたのことは『王妃にふさわしい教育を施す』と銘打って王城に滞在させることにしますが、それはあくまで表向きの理由です」
王太后のまなざしがあまりに真剣なので、レオーネはゴクリと唾を呑み込む。
騎士になりたいなどと言える雰囲気ではない上、王太后の言葉の意味も気になって、彼女はおずおずと口を開いた。
「は、発言をお許しください、王太后様。あの『表向きの理由』ということは、なにか別に理由があるということですか?」
「その通り。あなたがここで為すべきことはただ一つ――国王陛下の御子を身ごもることです!」
「おっ……」
あまりの内容に、思わず喉を絞められた雄鶏みたいな声が出た。
(御子……、御子って、つまり子供のこと⁉ それを身ごもるって――⁉)
レオーネは危うく「冗談でしょ?」と叫びそうになった。
すんでのところで呑み込んだけれど、表情を取り繕うまではできない。
だがそれも無理からぬことだろう。
婚約も結婚もすっ飛ばして、いきなり妊娠しろだなんて……無茶な話にもほどがある!
(だいたい、陛下と恋仲だというのも、まったくの誤解なのに……‼)
「け、結婚していない相手と子供を作るのは、さすがに色々とどうかと……っ」
「そんなことは言われるまでもなくわかっています。ですが、これまでずっとお妃選びを避け続けている陛下のこと、子供でもできない限り、結婚を認めたりしないでしょう!」
扇をぱしんっと手のひらに打ち付けて、王太后が断言する。
あまりにきっぱりと言い切るのを不思議に思って、レオーネは恐る恐る質問をした。
「あの、なぜ陛下はお妃選びを避けているのでしょうか……? お妃様は陛下にとっても国にとっても、必要な存在だと思うのですが」
「無論、そのことは陛下も重々ご承知でしょう」
レオーネの問いに答えたのは王太后ではなく、彼女の傍らに腰掛けていた老宰相だった。
レオーネが目を向けると、彼は白い口ひげを撫でながらゆっくりと口を開く。
「しかし、陛下のお眼鏡にかなう令嬢がいないのです。王妃にふさわしい家柄の令嬢は全員すげなく追い返され、しつこく食い下がろうものなら、家族共々しばらく王宮に顔を出すなと言われる始末でしてな。結果的に、侯爵家以上の令嬢たちは、全員お妃候補から外れる結果となってしまいました」
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