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1巻
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しおりを挟む「いったいなにをお考えですの、あなた! こんなの正気の沙汰ではございません!」
居間から金切り声が響いてくる。
モップとバケツを手にしたマリエンヌは、驚きのあまりつい立ち止まってしまった。
居間の扉がわずかながら開いている。これでは中の会話が筒抜けになってしまうと、マリエンヌは慌てて扉を閉めに向かったが――
「よりによって悪名高い成金などに、大切な娘を嫁がせようだなんて! とても賛成できませんわ!」
(え――娘を、嫁がせるですって?)
ドアノブを握ったマリエンヌは、そのままの姿勢で固まってしまった。
居間にはこの家の長であるリード伯爵とその妻バーバラ、そしてバーバラの産んだ娘マーガレットが集まっているようだ。
時折聞こえてくるすすり泣きはマーガレットのものだろうか。扉の隙間からはよく見えないが、妻と娘に責め立てられて、家長である伯爵はたじたじの様子だ。
「し、しかしバーバラ。成金とは言っても、相手はあのロークス商会の社長だぞ。彼は貴族にも顔が利くし、いい商売もたくさんしていると評判で……」
「そんなの、信じられませんわ! アルフレッド・ロークスの名前でしたらあたくしも知っていましてよ。『金を積んで王宮に出入りする恥知らず』としてですけどね!」
(アルフレッド・ロークスですって?)
とんでもない名前に、マリエンヌはぱっと口元を覆う。
彼のことなら、買い物以外でめったに街に出ることもないマリエンヌでさえ知っていた。
傾きかけていた会社を建て直し、若くして巨万の富を築いた新進気鋭のホテル経営者。時を同じくして不動産王とも呼ばれるようになったが、裏では金の貸し付けを行っているらしく、あまりよい評判は聞こえてこない。彼によって破産に追い込まれた家が少なからず存在しているせいだろう。
(もしかしてこの伯爵家も、彼にお金を借りて、返せない状況に陥っているとか……?)
あり得ない話ではない。
バーバラ夫人とマーガレットの浪費癖は筋金入りだ。
毎日のようにドレス職人や宝石商をこの邸に出入りさせ、身につけるものすべてに最新のモードを取り入れている。
伯爵はそんな妻子から目を背けるためか、最近では賭け事や大酒にどっぷりはまっているようだった。それでも貴族としての体裁を保つことができていたから、領地からの上がりでなんとか凌いでいるのだろうと思っていたけれど……
深く考える時間はなかった。「わああ!」という泣き声が聞こえたと思ったら、目の前の扉が音を立てて開かれたのだ。
「もうお父様なんて知らない! わたしは絶対、成金と結婚なんてしないんだから!」
「きゃあ!」
啖呵を切って飛び出してきたマーガレットが、マリエンヌに激突する。
はずみでふたり揃って廊下に倒れ込むと、マリエンヌの存在に気づいたマーガレットが、泣きはらした瞳を大きく見開いた。
「まあ、マリエンヌ! おまえ立ち聞きしていたのね!? なんて行儀の悪い……っ」
「す、すみませ……っ」
マリエンヌは慌てて立ち上がろうとする。
伯爵とバーバラ夫人はこちらを見てあっけにとられた顔をしていた。
しかし、マリエンヌと目が合った途端、バーバラ夫人がハッと鋭く息を呑む。
「――そうよ、この娘だわ! あなた、どうしてもマーガレットを結婚させたいというなら、この娘を使えばいいのよ!」
「え……」
ドレスを蹴り上げるようにして近づいてきたバーバラ夫人は、痛いほどの力でマリエンヌの腕を引っ張った。
「い、痛っ……!」
「年格好も同じくらいですもの。瞳の色こそマーガレットとは似ても似つかないものだけど、まあ成金風情の目を誤魔化す程度はなんとかなるでしょうよ」
「お、奥様……っ?」
バーバラ夫人のぎらぎらした笑顔に、マリエンヌは凍りつく。
夫人は立ちすくむ夫に向けて、勝ち誇った顔でこう宣言した。
「この娘をマーガレットとして差し出しましょう! それが一番よい方法ですわ。――なにせこの娘だって伯爵家の一員ですもの。少しは家のために役に立ってもらわないと困りますからね!」
†
マリエンヌの母はパン屋の娘で、街では評判の美人だった。
たまたま視察に訪れた若きリード伯爵に見初められ、愛人の地位に就いたが――幸せは長く続かず、娘を産むやいなや流行病であっけなく亡くなってしまった。
早くに母親を失った娘を不憫に思い、リード伯爵は愛するひとの忘れ形見であるマリエンヌを伯爵邸に引き取ることにしたのだった。
それに猛反発したのが、正妻であるバーバラ夫人だ。
バーバラ夫人は、さる侯爵家の令嬢で、生まれながらに姫君のように扱われてきた。
そのため、自分の生家である侯爵家より格下とされる家柄の伯爵とは、感性から価値観からなにひとつ合うところがなく、ただでさえ不満を抱いていたのだ。
ましてマリエンヌが引き取られたとき、バーバラ夫人のお腹には出産間近のマーガレットがいた。
妊娠中という難しい時期に、夫が愛人の娘を引き取るなど、彼女にしたら最悪の屈辱を受けたといっても過言ではない。
おかげでマリエンヌは、物心ついたときからメイドとして朝から晩まで働かされ、屋根裏部屋の中でも一番狭く、建て付けの悪い部屋で寝起きすることになったのだ。
対照的に半月違いで生まれたマーガレットは、蝶よ花よと育てられた。
マリエンヌは妹の着替えや入浴の世話にまで駆り出され、買い物以外では邸の外へ出ることも許されなかった。貴族令嬢としての教養を身につけるどころか、年頃の娘らしい楽しみを見いだすこともできずに生きてきたのである。
それが突然、現実は思いもしない方向へ転がり始めた。
美しいドレスにヴェールのついた帽子を合わせて、庭の一角に用意された席にちょこんと腰かけるマリエンヌは、どうしたらよいのかと途方に暮れる。
今日はマーガレットの求婚相手である不動産王、アルフレッド・ロークスの訪問日だった。結婚前に一度会いたいというロークス氏の意を汲み、リード伯爵が用意したお茶会の席なのである。
その席に、マリエンヌはマーガレットとして出るはめになってしまった。
(まさか本当にマーガレットの身代わりをさせられるなんて……)
数日前にバーバラ夫人に命じられたときは、なんの冗談かと唖然としたものだ。
父である伯爵も寸前まで「無理だ」と抵抗していたが、結局は妻に押し切られてしまった。
父の沈痛な面持ちがよみがえってくる。
『すまない、すまない、マリエンヌ。だが我が家にはどうしてもこの結婚が必要なのだ……恥ずかしい話だが、わたしはロークスに金を借りていてね。とてもすぐに返せる額ではないのだよ。途方に暮れていたとき、なんと向こうから、わたしの娘と結婚したい、そうすれば残りの借金は帳消しにすると言われてね……』
やはり父は多額の借金を負っていたのだ。
金額こそ聞かなかったが、とんでもない額であることは間違いない。
この結婚話に乗らなければ、家が破産することもあり得るだろう。
結婚の期日までにはマーガレットを説得する。だから今日だけは、妹の振りをしてなんとか乗り切ってくれ――父にまでそう頼み込まれては、マリエンヌとしても断れない。
(とはいえ、貴族の令嬢らしく振る舞うなんて、とても無理よ)
つい先ほどまで台所仕事をしていた身だ。読み書きと計算ならなんとかなるが、教養と呼べるものはなにも備わっていない。
(身代わりがばれたらどうなることか……)
まさに一巻の終わりだ。騙されそうになったとわかれば、きっと相手はこの家を破産まで追い込むに違いない。
(お父様が借金のことをバーバラ夫人にお話しくだされば、まだ違うかもしれない……ああ、でも奥様のことだから、貴族が成金に借金をすることのどこが罪なのかと、逆に開き直りかねないものね)
どうにも八方塞がりである。
マリエンヌは、もう何度目になるかわからない重たいため息をついた。
「……それにしても、ずいぶん遅いわね。約束の時間は過ぎているのに」
相手が早くくることを想定して、マリエンヌはすでにかなりの時間、この席に腰かけている。
パラソルの下にいるから日焼けこそしないが、コルセットに締めつけられているせいか、暑さがいつにも増して厳しく感じられた。
じっと座っていられる心境でもなく、マリエンヌはとうとう立ち上がった。
庭では連日、多くの薔薇が競うように美しい花弁を開かせている。その凛とした姿を見れば気も晴れるだろうと、ゆったり歩き始めた彼女は、ほどなく一輪の美しい白薔薇の前で足を止めた。
「まあ、一輪挿しにちょうどいいわ」
上を向いて花開くその薔薇は、花びらの枚数といい形といい、申し分のない美しさだった。
何枚かの葉とともに手折って、細い花瓶に挿して飾ったらどうだろう?
(緊張するお茶の時間も、少しは気持ちがほぐれるかもしれない)
マリエンヌは自然と笑みを浮かべながら、そっと花びらの下へと手を滑り込ませた。
「痛っ!」
指先に痛みを覚えたマリエンヌは慌てて手を引き抜く。
葉陰に潜んでいた棘に指をひっかけてしまったのだろう。人差し指の腹の部分に、じわじわと赤い染みが広がっていった。
白い手袋を染めていく鮮血に、マリエンヌは「大変!」と血相を変える。
(この手袋もマーガレットのものなのに! ああ、穴まで開いてしまったわ……っ)
迂闊な自分に歯がみしながら手袋から指を引き抜いたマリエンヌは、泣きそうになってしまった。
「どうしよう……」
途方に暮れたそのときだ。
いきなり視界の端に大きな手が現れたかと思うと、剥き出しになったマリエンヌの手を掴む。
「え?」
そのままぐいっと手を引っ張られ、マリエンヌは思わず振り返った。
「なっ――」
勢い余って帽子が落ちる。ヴェールも一緒に取り払われ、それまで陰っていた視界が一気に広く明るくなった。
入り込む日差しに目を細めたのは一瞬。
次の瞬間、マリエンヌは大きな瞳をさらにいっぱいに見開いていた。
「誰――っ?」
そこにいたのは、見上げるほどに背が高く、そして驚くほど美しい顔立ちをした紳士だった。
あまりに唐突な登場に、マリエンヌは息を呑む。
――いったいいつからそこにいたのだろう……?
呆然としていると、男の肉厚の舌が、官能的な唇からわずかにのぞいた。
その仕草にどきりとしたマリエンヌは、男の舌が自分の指先に押しつけられるのを感じ、小さく悲鳴を上げる。
温かな舌が、血の滲む指をぺろりと舐める。それどころか、まるで咥え込むように指先を吸い上げられ、痛みとも痺れともつかない不思議な感覚に襲われたマリエンヌは、腰をぶるりと震わせた。
「い、いや……っ」
慌てて手を引っ込め、胸元に抱え込む。
そのまま後ずさると、男はわずかに口角を引き上げた。それも片方だけ。皮肉めいた笑みだが、それがなぜかとてもよく似合う。
マリエンヌは声も出せないまま、じっと男の姿を見つめた。
(なんて……なんて、素敵なひと)
年齢はマリエンヌよりずっと上だろう。しかしすっと通った鼻筋や、頬から顎にかけてのラインは男らしく、力強さが垣間見える。なのに肉厚の唇や襟元からのぞく喉仏は信じられないほど官能的で、男性なのに『色っぽい』という表現がぴたりと当てはまった。
なにより美しいのは、銀色にも見える灰色の瞳。
髪と同じ色の長い睫毛が影を落としているのに、眼光の強さは少しも揺らぐことがない。
しっかりと整えられた黒髪からわずかに前髪がこぼれていて、マリエンヌは無意識に、こくりと喉を鳴らしてしまった。
知らず、頭の奧がぼうっとして、身体がふわふわと浮いているような気分になる。
胸の動悸だけが、駆け足になっていく。
相手もまた、そんなマリエンヌをじっと見つめている。
どれくらいそうしていたか……不意に、彼は紳士らしく目礼してきた。
「失礼。突然の無礼をお許しください、レディ」
――レディ。
一度として呼ばれたことがない伯爵令嬢としての敬称に、マリエンヌはハッと我に返った。
「い、いえ、こちらこそ不作法を……」
慌てて頭を下げたマリエンヌは、そこでようやく帽子がなくなっていることに気がついた。
(い、いけない。瞳の色に気づかれてしまう!)
マリエンヌの瞳は深い琥珀色だが、マーガレットは明るい緑色だ。姿形は似せられても、こればかりは誤魔化しようがない。
マリエンヌは慌てて足下に目を落とす。幸い、帽子はすぐ近くの茂みに引っかかっていた。
ほっとして手を伸ばすが、先に紳士がひょいと帽子を取り上げてしまう。
「あ……」
「失礼」
彼は自然な仕草でマリエンヌの頭に帽子を乗せ、ヴェールを見栄えよく直してくれた。
「あ……ありがとう、ございます……」
離れる一瞬、彼の指先が耳たぶをかすめて、マリエンヌは声を上げそうになってしまう。
しかし紳士は笑みを深め、改めてマリエンヌの手を取った。
「ご挨拶が遅れました。わたしはアルフレッド・ロークス。あなたの求婚者です」
マリエンヌは目を見張る。噂の不動産王がこれほど美しいひとだったなんて……
「あ……ま、マーガレットと申します。はじめまして……」
貴婦人としての挨拶の仕方は一応教えられたが、身体が強ばってしまってうまくいかない。
なんとか少しだけ膝を曲げると、アルフレッド・ロークスは再びシニカルな笑みを浮かべた。
「なに、傷はさほど深くはない。こうして縛っておけばすぐに血も止まるだろう」
ロークスは懐からハンカチを取り出すと、それを手早くマリエンヌの指先に巻きつけた。
「あ、ありがとう……」
マリエンヌは指先を胸元に抱え込む。心臓が先ほどよりもさらに速い鼓動を刻んでいた。
彼女が緊張していることに気づいてか、ロークスはそっと腕を差しだしてくる。
「もしよろしければ、庭を案内していただきたいのだが。リード伯爵邸の薔薇園はそれは素晴らしいと聞いている」
「! ――はい、それなら喜んで」
マリエンヌは安堵し、やっと微笑むことができた。
リード伯爵邸の薔薇園は、王宮でも評判の素晴らしさを誇っている。
数代前の奥方が無類の薔薇好きで、当主は彼女のために大枚をはたいて庭を改造したそうだ。かつては王太子夫妻を招いてパーティーを開いたこともあるという。
マリエンヌもこの薔薇園が大好きだった。奧には東屋もあるし、今は壊れているが噴水もある。小さい頃は使用人の子供たちと一緒に、かくれんぼをして遊んだものだ。
時折バーバラ夫人に見咎められて、厳しいお仕置きを受けることもあったけれど……
「この薔薇は他国で開発された新種なんです。商船が海を越えて運んできたもので、この庭以外には、王宮にしか植えられていないとか」
「ではとても貴重なものなのだな。一口に薔薇と言っても奥深いものだ。ほんの少しの色の違いや花びらの違いで、実に多くの種類に分けられてしまうのだから」
「本当に。でもどの薔薇もそれぞれに魅力があって、とても素敵です」
足が向くまま薔薇園を歩きながら、マリエンヌは心が浮き立つのを感じる。
自分の好きなものを彼に知ってもらえるのがとにかく嬉しい。彼が実に興味深い様子で薔薇を見つめているから、なおのことである。
おそらくテラスでお茶を飲んでいただけなら、すぐに話題が尽きて困り果てていたことだろう。けれど薔薇のことなら、庭師と親しいマリエンヌは一日中でも語っていられる。
なにより、薔薇の中を歩くロークスの姿は、一幅の絵のように美しかった。
(わたしの歩調に合わせてくださるし、汚れるのも構わずハンカチを巻いてくださった……。いろいろ噂されているけれど、本当はとても優しい方なのかもしれないわ)
その発見が、なぜか嬉しくて仕方がない。
こうして横顔を見ているだけでもどきどきして、マリエンヌは何度も、自分の頬が赤くなっていないかを確かめなければならなかった。
(けれど、この方はどうしてマーガレットと結婚を……? いくら爵位を持たないとはいえ、この美貌でお金持ちなのだもの。恋い焦がれる女性は多いでしょうに)
なぜ「成金との結婚なんていやっ!」と泣き喚くようなマーガレットを花嫁にしたいのだろうか? そんなことを考えていると、不意にロークスの視線が薔薇からマリエンヌに移る。
ヴェール越しとはいえばっちり目が合い、マリエンヌの心臓はどきんと高鳴った。
「あ、あの……なにか?」
「いや……以前夜会で見かけたときと今とでは、あなたの印象がずいぶん違って見えたものだから」
――! マリエンヌの胸が、先ほどとは別の意味で跳ね上がった。
「ま、まあ……違うって、どんなところがですか?」
「今日のあなたは、とても優しげで清楚な令嬢に見える。夜会でのあなたは華やかで、居並ぶ男たちを喜んで従えていたから、よけいに不思議に思えてね」
「……」
背中を冷や汗が伝うのを感じる。
まさか妹が、邸の外でも女王様然と振る舞っているとは思いもよらなかった。『男たちを従えていた』なんていったいどんな状況なのか想像もつかないが、あの妹ならやりかねない。
(と、とにかく、なんとか誤魔化さないと)
さすがに今から傲慢に振る舞うのはおかしいだろうと判断したマリエンヌは、さらりととぼけることにした。
「その、今日はそんなことをする気分ではないんですの。……薔薇に囲まれているせいか、とても穏やかな気持ちでおりますし」
「――なるほど。夜と昼では、確かに気の持ちようは変わってくる。どうやらあなたには、夜には夜の、昼には昼の顔があるようだ」
「え、ええ」
納得してもらえたのだろうか?
上目遣いで確かめると、ロークスはなぜか例のシニカルな笑みを浮かべていた。
「ということは……夜にねだるべきことを、昼にねだるのは自重したほうがいいということか?」
「え……?」
ねだる……? 首を傾げるマリエンヌに、ロークスは内緒話をするように身をかがめてきた。
「先日、あなたはさる侯爵家の嫡男に口づけを与えていらっしゃいましたよね?」
(く、口づけっ?)
目を見開くマリエンヌとは対照的に、ロークスは楽しげに目を細めた。
「覚えておられませんか? それとも彼は、あなたのたくさんいる恋人たちのひとりに過ぎなかったのかな? 唇を与えた相手の顔など、いちいち覚えていないとでも?」
(えええ……っ?)
マリエンヌは真っ青になってしまう。
妹が口づけを済ませている事実も驚きなら、恋人がたくさんいるというのも信じがたいことである。
(と、というより、この方さっき、ねだるって……!)
なんとなく身の危険を感じ、マリエンヌは慌ててロークスから距離を取った。
「――なるほど。昼のあなたは貞淑なのか。昼と夜の顔が違うのもまた一興だ」
灰色の瞳にきらりと不思議な光が宿る。
直後、マリエンヌの肌がぞっと粟立った。よくわからないが、このままでは危険だと本能的に感じる。
(一緒にいてはいけない――)
マリエンヌはとっさに、ドレスの裾を持ち上げて、薔薇の茂みをかきわけるように奧へと走り出した。
だが男の長い足で追いかけられては逃げ切ることなど到底できず――蔓薔薇で囲まれた東屋が見えたところで、とうとう捕まえられてしまう。
「わざわざ人気のないところに逃げるとは。やはり、飢えていたのか?」
「は、離して……っ」
マリエンヌは必死に身をよじるが、体格差がありすぎる。
あっという間に東屋の円柱に背を押しつけられ、顎をきつく掴まれた。
「逃がさない――」
彼の吐息が唇にかかる。
肉厚の唇と柱のあいだで押しつぶされながらも、マリエンヌは恐怖ではなく別の衝動で震えてしまった。
「んぅ――…っ!」
かぶせるように唇を重ねられ、マリエンヌは白い喉を反らしてきつく目をつむる。
押しつけられた彼の唇はあまりに熱く、見た目よりずっと柔らかかった。
抵抗しなければいけないのに、手足は震えるばかりでうまく力が入らない。
それどころか角度を変えて何度も口づけられるうちに、ひとりで立っていることも難しくなってきた。
「んっ……! や、やめ……っ」
なんとか顔を逸らし声を漏らすも、その隙をついて温かな舌をねじ込まれてしまう。
口の中で自分以外のものがうごめく感覚に、マリエンヌの身体は火を入れられたように熱くなる。
「はふ……、んっ、ん……っ」
身をよじろうとすると、抵抗するなとばかりにきつく抱き寄せられる。
背中は柱に、胸から腿まではぴたりとロークスに合わさり、衣服越しに感じるぬくもりに頭の芯がくらくらした。
「ん……、ふ、ぅ……っ」
くちゅくちゅと濡れた音が口元から立つ。
思わず息を止めると、ロークスはわずかに顔を上げて、唇は合わせたまま囁いた。
「呼吸を止めるな。鼻で息をするんだ」
「ぅんん……っ」
深呼吸する間もなく、再び舌がねじ込まれる。
熱くぬめる舌はマリエンヌの口内を自在に駆け回る。歯列の裏や頬の柔らかいところを突いたり舐めたりと忙しい。
不思議なことに、そうされると身体の奥底が疼くように震えて、気づけばマリエンヌは彼の腕にしがみついていた。
(だめっ。抱きつくなんていけないわ。突き飛ばさなくちゃ……っ)
唇同士の口づけは特別なもの。そんなことは子供でも知っている。
こんなふうに一方的に奪われていいはずがないのに――
(なのに……どうして、少しもいやじゃないの……?)
いけないことなのに、彼の舌がマリエンヌの舌を探り当て、舌先同士が絡まり合った途端に、はねのけなければという理性も吹き飛んでしまった。
「んンっ……、はっ、…んん……っ」
狭い口の中では、逃げようとしてもすぐに絡め取られてしまう。
もうなにも考えられなくなり、マリエンヌはひたすら彼から与えられる口づけを受け止めた。
しまいには足腰が砕けそうになって、気まで遠くなってくる。
だが彼の大きな掌が顎から離れ、首筋をたどって胸にたどり着いたとき、マリエンヌはハッと我に返った。
「い、いやっ!」
慌てて彼の胸を押し返すも、力はほとんど入らない。
ロークスはゆっくり顔を上げた。
しっかり撫でつけられていた髪がはらりと目元に落ちてくる。長い口づけで少し腫れた唇を、彼は舌先でぺろりと舐めた。
その仕草を見たマリエンヌは、自分の唇が舐め取られたような錯覚を覚えてしまう。ぞくぞくする疼きが這い上がり、マリエンヌは慌てて顔を逸らした。
助けを求めなければ……そう思いつつも、火照った身体は少しも言うことを聞いてくれない。
そうこうするうち、不敵な笑みを浮かべたロークスは、そっとその場にかがみ込む。
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