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『つよがり王女は花婿に請う』リンク番外編
1 奮起
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本編最終話から九ヶ月後のある日のお話。
アンリエッタ視点。
********************************************
冬が深まり、新年まで残すところ一ヶ月となったある日のこと。
アンリエッタはその日も、最愛の息子であるアルノートとともに、子供部屋で午後を過ごしていた。
色々な事情があり、この邸ではなく王城で生まれることとなったアルノートは、多くの人々の祝福を受けてこの世に生まれてきた。
産後すぐの頃は身体が思うように動かなかったアンリエッタだが、息子の誕生から一ヶ月経った今は、ずいぶんともとの調子を取り戻している。
城から邸に戻ったのは十日前だが、邸の人々はアルノートの到着を今か今かと待ち構えていて、いざ顔を見せると目に入れても痛くないほどの溺愛ぶりだった。
もっとも、そんなアルノートを一番に可愛がり、鼻の下を伸ばすという表現が適切なほどに愛情を振りまいているのは、他ならぬこの子の父親なのだが……。
「お父様は今日もお帰りになれないそうよ、アル。……あなたもお父様に会えなくて、きっと寂しいわよね」
しかしアルノートはもごもごと口元を動かして、またスーッと眠ってしまう。
どうやら、寂しがっているのはこの子ではなく、自分のほうであるようだった。
アンリエッタは苦笑しつつ、ずれてしまった上かけを直してやる。
そうして飽きることなく我が子の寝顔を見つめていたのだが……突如、廊下に繋がる扉のほうがさわがしくなったと思ったら、次のときにはばんっと大きな音を立てて扉が開け放たれていた。
「アンリエッタ様! 申し訳ありませんけれど、しばらくこちらに置いてくださいませんこと!?」
そこに立っていたのは、鮮やかな赤毛が特徴的な、気の強そうなまなざしをした貴婦人だった。
どうやら侍女や家令を押し切って入ってきたらしく、美しい顔がわずかに上気し、藤色の瞳は活き活きと輝いている。
突然のことに驚いたアンリエッタだが、それはアルノートも同じだったらしく、オーランドと同じ紫の瞳をぱっちり開くと、火がついたように泣きだしてしまった。
「あっ、ご、ごめんなさい。わたくしったら」
さすがの貴婦人もばつが悪かったのか、わずかに首をすくめて揺り籠を見やる。
アルノートを抱き上げながら、アンリエッタはくすくす笑って、向かいの長椅子を示してして見せた。
「ふふ、お気になさらないでくださいな。ちょうどお腹が減ってしまったんでしょう」
断りを入れてからドレスの前を開き、アンリエッタは乳房を取り出す。食事の匂いをかぎ取ってか、アルノートは母親の乳頭に吸いつくと、途端に大人しくなった。
「……赤ちゃんがこうしているぶんには可愛いのに……」
授乳の様子を見つめながら、赤毛の貴婦人はため息混じりに肩を落とす。
げっぷをさせ、おしめが濡れていないかを確かめ、ゆっくり息子を揺り籠に戻したアンリエッタは、改めて貴婦人の向かいに腰を落ち着けた。
「いったいどうなさったの、ヴィオラ様? 連絡もなくいきなりこちらを訪ねていらっしゃるなんて……」
アンリエッタは改めて、赤毛の貴婦人をまじまじと見つめた。
膝の上で手を組んだ彼女は、唇を少し尖らせながら深々と頭を下げる。
「不作法で申し訳ないです。その……半ば衝動的に飛び出してきてしまったものだから」
アンリエッタは目を見張る。ヴィオラという名のこの貴婦人は、とても衝動的に行動を起こせる身分の人間にはないからだ。
なにせ彼女はこの国の王太子妃――王太子となった、あのレオンの花嫁なのだから。
レオンの誕生式典に合わせ、隣国フェルスースから嫁いできたヴィオラは、彼の国では第一王女の地位にあったという。
だが国元では地位にふさわしい扱いはされなかったようで、最初はこの国に馴染むこともひどく拒絶していた。
最終的にはレオンの努力の甲斐あって、花嫁となることを了承した彼女だが、一度決めたことには忠実らしく、今では王太子妃としてめざましい活躍を見せていると聞いている。
聞いている、としか言えないのは、ヴィオラがフェルスースへの旅から城へ戻るのと入れ替えるように、アンリエッタがこの邸に戻ってきたからだ。
同時にオーランドも再び城で働き始めてしまったため、アンリエッタが彼らのことを知る手段は手紙やカードしかなかったのである。
もっとも、オーランドから届けられる手紙を見ている限り、ヴィオラは王太子妃として文句ない働きをしているようだ。議会に参加するようにもなったし、視察などにも頻繁に足を運んで、精力的に活動していると聞いている。
その反動なのだろうか? 今のヴィオラはひどく疲れているようで、目元にはかすかに隈が浮いていた。
肌つやは悪くないし、髪も傷んでいる様子は見えないが、その表情は冴えない。
オーランドの手紙を見る限り、レオンとの仲が険悪になったわけでもなさそうだし……。
(けれど、衝動的に飛び出してきたというし)
ツンとすました面持ちから、つい高慢だと思われがちなヴィオラだが、その実とても責任感があり、ひどくまじめな性格をしていることをアンリエッタは知っていた。
そんな彼女がいきなり城を飛び出してきたなんてよっぽどのことだ。アンリエッタは一度席を立ち、それとなくヴィオラの隣に移動した。
「お城でなにかいやなことでもあったの? わたくしでよければ相談に乗りますわ」
アンリエッタもそうだったが、王子の妃であるということは並大抵なことではない。どんなに人当たりよく接しても、どこかで反発する人間というものはいるものだ。
今ではすっかり可愛い妹のように思っているヴィオラが、心ない中傷や噂に傷ついているようなら、すぐにでも力になってあげたい。
しかし、ヴィオラは悩ましい顔でふるふると首を振った。
「いいえ、ここ最近ではおおっぴらにわたくしを批判するような不届き者もいなくなりましたし、それなりに快適な生活は送っているのですが……」
「ですが?」
「レオン様が……」
言いかけたヴィオラは、一度ギリッと音がするほど奥歯を噛みしめた。
「レオン様が、あの軽薄男がっ、全然わたくしの言うことを聞いてくださらないんです! わたくしもう頭にきて、それでお城を飛び出してきたんですわ!」
「まぁ。レオン様と喧嘩でもしたの?」
ちょうどよくエリナとネリアがお茶を持って現れて、アンリエッタはとりあえず落ち着くようにとヴィオラの肩を撫でた。
差し出されたお茶を一息に飲み干したヴィオラは、くだを巻くときのレオンとそっくりな動作で、がちゃんとカップをソーサーに叩きつける。
「毎日毎日毎日毎日! あんなふうにされたらわたくしの身が持ちません!! 明日は公務で外出しなければいけないからとか、視察で疲れたから早く休みたいとか、ちゃんと頼んでいるにもかかわらず――あの軽薄王太子ったら、全然聞き入れようとしてくださらないんですわ!!」
「……まぁ……」
アンリエッタは、口元がひくりとなりそうになったのを慌てて誤魔化した。
詳細は聞かなくても、ヴィオラの怒り具合と内容から、なにが問題かは明白である。
ふたりのうしろではエリナと、ヴィオラの侍女であるネリアが、「王太子殿下ってそんなにすごいの?」「ええ、それはもう……敷布を片付けるこちらがいたたまれないくらいに」とひそひそ話している。
ふたりとも聞こえているわよ、とアンリエッタは声に出さずに目配せを送る。
しかし怒り心頭のヴィオラは気づかず、クッションに拳を叩きつけながら「ああ、いらいらする!」と大声で叫んだ。
眠りについた息子がまたあーあー泣きだし、アンリエッタは慌てて、エリナに揺り籠ごと乳母のところへ連れていくよう言い渡した。
「ええと、つまり……ヴィオラ姫が愛おしいあまり、レオン様が夜のあいだ、ずっと離そうとしてくださらないということね?」
一歩間違えばものすごいのろけ話だが、それにしてはヴィオラの瞳は深刻そのものの色をしていた。
「まったく、信じられないことだと思いませんか!? 一国の王太子ともあろうものが、一晩中ですよ? それも毎晩! おかげで午前中の予定は毎日潰れるばかりで、視察も公務も思ったように進みやしないし……っ」
ヴィオラの歯がぎりぎりと大きな音を立てる。
聞くひとが聞けばうらやましい話だろう。夫が一晩中自分を離してくれないなんて。
けれど大国の王太子妃として生きていくことを決意したヴィオラにとっては、夜の営みのせいで公務が後回しになってしまうことのほうが心苦しいようだ。
うーん、とアンリエッタも思わず唸ってしまう。
実際のところ、高貴な家に嫁いだ女の最大の務めと言ったら、後継ぎとなる子供を産むことであるわけだから、レオンのしていることもあながち大声では責められない。
とはいえ、それは王女生まれのヴィオラだってわかっていることだろう。
わかっていながら、あえてこんなことを主張してくるということは……レオンに愛されることが、身体的な負担になっているということかもしれない。
現に少し叫んだだけでひどく疲れたらしく、再びため息をついたヴィオラは長椅子に沈み込んでしまった。
アンリエッタはよしよしとその背を撫でてやる。するとヴィオラはアンリエッタの膝に身を投げ出してきた。
普段、弱気なところを見せないヴィオラだが、時折こうやって子供のように甘えてくる。
こうやってみると、彼女がまだ十六歳の少女であることが胸に迫って、アンリエッタもついぎゅうっと抱きしめ返してしまった。
年の近い兄弟がいないアンリエッタにとっては、ヴィオラのこういう姿は可愛く思えて仕方ないのである。
(お姉様とも、世継ぎの従兄とも、それぞれ十歳近く離れているのですもの。ヴィオラ様のような妹ができて本当に嬉しい)
だからこそ、こうして甘えられると責める気持ちもなくなって、ついつい口元を緩めてしまうのであった。
――とはいえ、夫婦間のことに義姉と言えど口出ししていいかは微妙なところだ。
ひとの恋路を邪魔する者は馬に蹴られて死んでしまえということわざもある。これもそれに準じるのではないだろうか?
というより、もしヴィオラの言うことが誇張ではなく本当なら、レオンの体力(……精力?)も相当削られているような気が……
(……いいえ、きっとそんなことはないはずだわ。オーランド様のことを思えばなおのこと……)
オーランドだって、妊娠する前は朝までアンリエッタを求めてくることもざらにあった。
アンリエッタもアンリエッタで、求めてくれることがとにかく嬉しくて、ついつい夢中になって付き合ってしまったわけだが……ある意味、それが毎日ではなかったから、よい思い出として胸に残っているだけかも知れない。
と、そこまで考え、アンリエッタははたとあることに気がついた。
(もしかしてオーランド様がお城から帰ってこられないのは、レオン様とヴィオラ様が関係しているからじゃ……?)
まさかとは思うものの、あのレオンが、ようやく生涯を捧げるに値する女性を手に入れ、有頂天になっていることは間違いない。
新婚であることも理由に、公務をそっちのけでヴィオラと(むしろヴィオラ『を』?)楽しむ生活ばかり送っているのではないだろうか?
そしてそのしわ寄せが、王太子補佐官を任じられたオーランドに降りかかっているとしたら……。
「……アンリエッタ様? どうなさいましたの?」
黙り込んだアンリエッタに気づいて、ヴィオラが驚いたように顔を上げる。
ハッとしたアンリエッタは、慌てて笑みを取り繕った。
「あら、なんでもないのよ。とはいえ……うーん、そうねぇ。ここにくることは、王太子殿下に事前にお知らせしているの?」
「まさか。そんなことをしたら連れ戻されるに決まっています」
ヴィオラは確信に満ちた声できっぱり答えた(……どうやら「ヴィオラ『を』」が正解らしい)。
「どのみち、ちょうど明日と明後日は、このローフェルムを視察することになっているんですわ。ですからお願い! 五日……いえ、三日でもいいので、こちらに置いてくださいな。王城からは馬車ですぐの距離ですけど、往復するとなると時間もかかりますし――それにローフェルム公爵のご自宅でしたら、王太子殿下も無理に帰ってこいとは言わないと思います!」
送り返される危機を敏感に察してか、ヴィオラが身を乗り出すようにして訴えてくる。
もしヴィオラが公務を投げ出す形でやってきたとしたら、そこはやはりいさめるべきだと思ったが、彼女もそこまで無責任にはなれないらしい。
実はそのあたりが、アンリエッタがヴィオラを可愛く思う最大の理由である。
一応、この邸に滞在する立派な名目はあるし、ヴィオラ自身もひどく疲れているようで、義姉として数日はゆっくりさせてあげたい気持ちもある。
それに、もし先ほどまで考えていたことが真実なら、オーランドが邸に戻ってこられないのはレオンのせいだ。
(もし本当にそうだったら、わたくしだって、そうそう黙ってはおりませんわよ!)
かつては影を背負っていたレオンが、ヴィオラを得てから水を得た魚のように活き活きとし始めたのは知っている。
が、だからといって、公務をオーランドに押しつけて自分だけ楽しんでいるのは見過ごすわけにはいかない。
オーランドが帰ってこなくて、寂しい思いをしているのはアンリエッタなのだ。
(数日くらい、レオン様にわたくしと同じ気持ちを味わっていただくのも、いいかもしれないわ!)
かくしてアンリエッタは、可愛い義妹の手をぎゅっと握り返したのである。
「ええ、ヴィオラ様。どうぞこちらでゆっくりなさっていってください」
「アンリエッタ様……!」
ヴィオラも嬉しげな面持ちで大きく頷く。
まったく、新妻にこんな顔をさせるほど、レオンは無理を強いているというのだろうか?
思わず苦笑しながらも、アンリエッタは一応年長者らしくヴィオラに言い聞かせた。
「でも、お城の方々が心配されるといけませんから、一応使者は出しておきますからね。それはよろしいでしょう?」
ヴィオラは渋々とだが頷きを返す。
微笑んだアンリエッタは、ちょうど戻ってきたエリナに指示して、城へ使いを出すよう言いつけた。
用意ができるまでのあいだ、アンリエッタはさらさらとレオンとオーランドに手紙を書く。
最後にヴィオラにも一筆書かせて、アンリエッタは「さて」と片目をつむった。
「そうと決まったら、今日は女ふたりでゆっくりいたしましょう? たまにはそういう夜があっても罰は当たらないと思いますからね」
************************************************
番外編も含め完結!
と銘打っていたにもかかわらず、
また始めてしまって申し訳ありません。
本当は『つよがり王女は花婿に請う』のみに
掲載する話だったのですが、
アンリエッタ・オーランド視点で書いてみてもおもしろいと思い立ち、
それぞれのヒーロー・ヒロイン視点でお送りしていきます。
『つよがり王女は花婿に請う』にも
まったく同じストーリーが別視点で載っております。
ヴィオラ、そしてレオン視点で読みたい方は、
よろしければそちらも覗いていただけると嬉しいです。
アンリエッタ視点。
********************************************
冬が深まり、新年まで残すところ一ヶ月となったある日のこと。
アンリエッタはその日も、最愛の息子であるアルノートとともに、子供部屋で午後を過ごしていた。
色々な事情があり、この邸ではなく王城で生まれることとなったアルノートは、多くの人々の祝福を受けてこの世に生まれてきた。
産後すぐの頃は身体が思うように動かなかったアンリエッタだが、息子の誕生から一ヶ月経った今は、ずいぶんともとの調子を取り戻している。
城から邸に戻ったのは十日前だが、邸の人々はアルノートの到着を今か今かと待ち構えていて、いざ顔を見せると目に入れても痛くないほどの溺愛ぶりだった。
もっとも、そんなアルノートを一番に可愛がり、鼻の下を伸ばすという表現が適切なほどに愛情を振りまいているのは、他ならぬこの子の父親なのだが……。
「お父様は今日もお帰りになれないそうよ、アル。……あなたもお父様に会えなくて、きっと寂しいわよね」
しかしアルノートはもごもごと口元を動かして、またスーッと眠ってしまう。
どうやら、寂しがっているのはこの子ではなく、自分のほうであるようだった。
アンリエッタは苦笑しつつ、ずれてしまった上かけを直してやる。
そうして飽きることなく我が子の寝顔を見つめていたのだが……突如、廊下に繋がる扉のほうがさわがしくなったと思ったら、次のときにはばんっと大きな音を立てて扉が開け放たれていた。
「アンリエッタ様! 申し訳ありませんけれど、しばらくこちらに置いてくださいませんこと!?」
そこに立っていたのは、鮮やかな赤毛が特徴的な、気の強そうなまなざしをした貴婦人だった。
どうやら侍女や家令を押し切って入ってきたらしく、美しい顔がわずかに上気し、藤色の瞳は活き活きと輝いている。
突然のことに驚いたアンリエッタだが、それはアルノートも同じだったらしく、オーランドと同じ紫の瞳をぱっちり開くと、火がついたように泣きだしてしまった。
「あっ、ご、ごめんなさい。わたくしったら」
さすがの貴婦人もばつが悪かったのか、わずかに首をすくめて揺り籠を見やる。
アルノートを抱き上げながら、アンリエッタはくすくす笑って、向かいの長椅子を示してして見せた。
「ふふ、お気になさらないでくださいな。ちょうどお腹が減ってしまったんでしょう」
断りを入れてからドレスの前を開き、アンリエッタは乳房を取り出す。食事の匂いをかぎ取ってか、アルノートは母親の乳頭に吸いつくと、途端に大人しくなった。
「……赤ちゃんがこうしているぶんには可愛いのに……」
授乳の様子を見つめながら、赤毛の貴婦人はため息混じりに肩を落とす。
げっぷをさせ、おしめが濡れていないかを確かめ、ゆっくり息子を揺り籠に戻したアンリエッタは、改めて貴婦人の向かいに腰を落ち着けた。
「いったいどうなさったの、ヴィオラ様? 連絡もなくいきなりこちらを訪ねていらっしゃるなんて……」
アンリエッタは改めて、赤毛の貴婦人をまじまじと見つめた。
膝の上で手を組んだ彼女は、唇を少し尖らせながら深々と頭を下げる。
「不作法で申し訳ないです。その……半ば衝動的に飛び出してきてしまったものだから」
アンリエッタは目を見張る。ヴィオラという名のこの貴婦人は、とても衝動的に行動を起こせる身分の人間にはないからだ。
なにせ彼女はこの国の王太子妃――王太子となった、あのレオンの花嫁なのだから。
レオンの誕生式典に合わせ、隣国フェルスースから嫁いできたヴィオラは、彼の国では第一王女の地位にあったという。
だが国元では地位にふさわしい扱いはされなかったようで、最初はこの国に馴染むこともひどく拒絶していた。
最終的にはレオンの努力の甲斐あって、花嫁となることを了承した彼女だが、一度決めたことには忠実らしく、今では王太子妃としてめざましい活躍を見せていると聞いている。
聞いている、としか言えないのは、ヴィオラがフェルスースへの旅から城へ戻るのと入れ替えるように、アンリエッタがこの邸に戻ってきたからだ。
同時にオーランドも再び城で働き始めてしまったため、アンリエッタが彼らのことを知る手段は手紙やカードしかなかったのである。
もっとも、オーランドから届けられる手紙を見ている限り、ヴィオラは王太子妃として文句ない働きをしているようだ。議会に参加するようにもなったし、視察などにも頻繁に足を運んで、精力的に活動していると聞いている。
その反動なのだろうか? 今のヴィオラはひどく疲れているようで、目元にはかすかに隈が浮いていた。
肌つやは悪くないし、髪も傷んでいる様子は見えないが、その表情は冴えない。
オーランドの手紙を見る限り、レオンとの仲が険悪になったわけでもなさそうだし……。
(けれど、衝動的に飛び出してきたというし)
ツンとすました面持ちから、つい高慢だと思われがちなヴィオラだが、その実とても責任感があり、ひどくまじめな性格をしていることをアンリエッタは知っていた。
そんな彼女がいきなり城を飛び出してきたなんてよっぽどのことだ。アンリエッタは一度席を立ち、それとなくヴィオラの隣に移動した。
「お城でなにかいやなことでもあったの? わたくしでよければ相談に乗りますわ」
アンリエッタもそうだったが、王子の妃であるということは並大抵なことではない。どんなに人当たりよく接しても、どこかで反発する人間というものはいるものだ。
今ではすっかり可愛い妹のように思っているヴィオラが、心ない中傷や噂に傷ついているようなら、すぐにでも力になってあげたい。
しかし、ヴィオラは悩ましい顔でふるふると首を振った。
「いいえ、ここ最近ではおおっぴらにわたくしを批判するような不届き者もいなくなりましたし、それなりに快適な生活は送っているのですが……」
「ですが?」
「レオン様が……」
言いかけたヴィオラは、一度ギリッと音がするほど奥歯を噛みしめた。
「レオン様が、あの軽薄男がっ、全然わたくしの言うことを聞いてくださらないんです! わたくしもう頭にきて、それでお城を飛び出してきたんですわ!」
「まぁ。レオン様と喧嘩でもしたの?」
ちょうどよくエリナとネリアがお茶を持って現れて、アンリエッタはとりあえず落ち着くようにとヴィオラの肩を撫でた。
差し出されたお茶を一息に飲み干したヴィオラは、くだを巻くときのレオンとそっくりな動作で、がちゃんとカップをソーサーに叩きつける。
「毎日毎日毎日毎日! あんなふうにされたらわたくしの身が持ちません!! 明日は公務で外出しなければいけないからとか、視察で疲れたから早く休みたいとか、ちゃんと頼んでいるにもかかわらず――あの軽薄王太子ったら、全然聞き入れようとしてくださらないんですわ!!」
「……まぁ……」
アンリエッタは、口元がひくりとなりそうになったのを慌てて誤魔化した。
詳細は聞かなくても、ヴィオラの怒り具合と内容から、なにが問題かは明白である。
ふたりのうしろではエリナと、ヴィオラの侍女であるネリアが、「王太子殿下ってそんなにすごいの?」「ええ、それはもう……敷布を片付けるこちらがいたたまれないくらいに」とひそひそ話している。
ふたりとも聞こえているわよ、とアンリエッタは声に出さずに目配せを送る。
しかし怒り心頭のヴィオラは気づかず、クッションに拳を叩きつけながら「ああ、いらいらする!」と大声で叫んだ。
眠りについた息子がまたあーあー泣きだし、アンリエッタは慌てて、エリナに揺り籠ごと乳母のところへ連れていくよう言い渡した。
「ええと、つまり……ヴィオラ姫が愛おしいあまり、レオン様が夜のあいだ、ずっと離そうとしてくださらないということね?」
一歩間違えばものすごいのろけ話だが、それにしてはヴィオラの瞳は深刻そのものの色をしていた。
「まったく、信じられないことだと思いませんか!? 一国の王太子ともあろうものが、一晩中ですよ? それも毎晩! おかげで午前中の予定は毎日潰れるばかりで、視察も公務も思ったように進みやしないし……っ」
ヴィオラの歯がぎりぎりと大きな音を立てる。
聞くひとが聞けばうらやましい話だろう。夫が一晩中自分を離してくれないなんて。
けれど大国の王太子妃として生きていくことを決意したヴィオラにとっては、夜の営みのせいで公務が後回しになってしまうことのほうが心苦しいようだ。
うーん、とアンリエッタも思わず唸ってしまう。
実際のところ、高貴な家に嫁いだ女の最大の務めと言ったら、後継ぎとなる子供を産むことであるわけだから、レオンのしていることもあながち大声では責められない。
とはいえ、それは王女生まれのヴィオラだってわかっていることだろう。
わかっていながら、あえてこんなことを主張してくるということは……レオンに愛されることが、身体的な負担になっているということかもしれない。
現に少し叫んだだけでひどく疲れたらしく、再びため息をついたヴィオラは長椅子に沈み込んでしまった。
アンリエッタはよしよしとその背を撫でてやる。するとヴィオラはアンリエッタの膝に身を投げ出してきた。
普段、弱気なところを見せないヴィオラだが、時折こうやって子供のように甘えてくる。
こうやってみると、彼女がまだ十六歳の少女であることが胸に迫って、アンリエッタもついぎゅうっと抱きしめ返してしまった。
年の近い兄弟がいないアンリエッタにとっては、ヴィオラのこういう姿は可愛く思えて仕方ないのである。
(お姉様とも、世継ぎの従兄とも、それぞれ十歳近く離れているのですもの。ヴィオラ様のような妹ができて本当に嬉しい)
だからこそ、こうして甘えられると責める気持ちもなくなって、ついつい口元を緩めてしまうのであった。
――とはいえ、夫婦間のことに義姉と言えど口出ししていいかは微妙なところだ。
ひとの恋路を邪魔する者は馬に蹴られて死んでしまえということわざもある。これもそれに準じるのではないだろうか?
というより、もしヴィオラの言うことが誇張ではなく本当なら、レオンの体力(……精力?)も相当削られているような気が……
(……いいえ、きっとそんなことはないはずだわ。オーランド様のことを思えばなおのこと……)
オーランドだって、妊娠する前は朝までアンリエッタを求めてくることもざらにあった。
アンリエッタもアンリエッタで、求めてくれることがとにかく嬉しくて、ついつい夢中になって付き合ってしまったわけだが……ある意味、それが毎日ではなかったから、よい思い出として胸に残っているだけかも知れない。
と、そこまで考え、アンリエッタははたとあることに気がついた。
(もしかしてオーランド様がお城から帰ってこられないのは、レオン様とヴィオラ様が関係しているからじゃ……?)
まさかとは思うものの、あのレオンが、ようやく生涯を捧げるに値する女性を手に入れ、有頂天になっていることは間違いない。
新婚であることも理由に、公務をそっちのけでヴィオラと(むしろヴィオラ『を』?)楽しむ生活ばかり送っているのではないだろうか?
そしてそのしわ寄せが、王太子補佐官を任じられたオーランドに降りかかっているとしたら……。
「……アンリエッタ様? どうなさいましたの?」
黙り込んだアンリエッタに気づいて、ヴィオラが驚いたように顔を上げる。
ハッとしたアンリエッタは、慌てて笑みを取り繕った。
「あら、なんでもないのよ。とはいえ……うーん、そうねぇ。ここにくることは、王太子殿下に事前にお知らせしているの?」
「まさか。そんなことをしたら連れ戻されるに決まっています」
ヴィオラは確信に満ちた声できっぱり答えた(……どうやら「ヴィオラ『を』」が正解らしい)。
「どのみち、ちょうど明日と明後日は、このローフェルムを視察することになっているんですわ。ですからお願い! 五日……いえ、三日でもいいので、こちらに置いてくださいな。王城からは馬車ですぐの距離ですけど、往復するとなると時間もかかりますし――それにローフェルム公爵のご自宅でしたら、王太子殿下も無理に帰ってこいとは言わないと思います!」
送り返される危機を敏感に察してか、ヴィオラが身を乗り出すようにして訴えてくる。
もしヴィオラが公務を投げ出す形でやってきたとしたら、そこはやはりいさめるべきだと思ったが、彼女もそこまで無責任にはなれないらしい。
実はそのあたりが、アンリエッタがヴィオラを可愛く思う最大の理由である。
一応、この邸に滞在する立派な名目はあるし、ヴィオラ自身もひどく疲れているようで、義姉として数日はゆっくりさせてあげたい気持ちもある。
それに、もし先ほどまで考えていたことが真実なら、オーランドが邸に戻ってこられないのはレオンのせいだ。
(もし本当にそうだったら、わたくしだって、そうそう黙ってはおりませんわよ!)
かつては影を背負っていたレオンが、ヴィオラを得てから水を得た魚のように活き活きとし始めたのは知っている。
が、だからといって、公務をオーランドに押しつけて自分だけ楽しんでいるのは見過ごすわけにはいかない。
オーランドが帰ってこなくて、寂しい思いをしているのはアンリエッタなのだ。
(数日くらい、レオン様にわたくしと同じ気持ちを味わっていただくのも、いいかもしれないわ!)
かくしてアンリエッタは、可愛い義妹の手をぎゅっと握り返したのである。
「ええ、ヴィオラ様。どうぞこちらでゆっくりなさっていってください」
「アンリエッタ様……!」
ヴィオラも嬉しげな面持ちで大きく頷く。
まったく、新妻にこんな顔をさせるほど、レオンは無理を強いているというのだろうか?
思わず苦笑しながらも、アンリエッタは一応年長者らしくヴィオラに言い聞かせた。
「でも、お城の方々が心配されるといけませんから、一応使者は出しておきますからね。それはよろしいでしょう?」
ヴィオラは渋々とだが頷きを返す。
微笑んだアンリエッタは、ちょうど戻ってきたエリナに指示して、城へ使いを出すよう言いつけた。
用意ができるまでのあいだ、アンリエッタはさらさらとレオンとオーランドに手紙を書く。
最後にヴィオラにも一筆書かせて、アンリエッタは「さて」と片目をつむった。
「そうと決まったら、今日は女ふたりでゆっくりいたしましょう? たまにはそういう夜があっても罰は当たらないと思いますからね」
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番外編も含め完結!
と銘打っていたにもかかわらず、
また始めてしまって申し訳ありません。
本当は『つよがり王女は花婿に請う』のみに
掲載する話だったのですが、
アンリエッタ・オーランド視点で書いてみてもおもしろいと思い立ち、
それぞれのヒーロー・ヒロイン視点でお送りしていきます。
『つよがり王女は花婿に請う』にも
まったく同じストーリーが別視点で載っております。
ヴィオラ、そしてレオン視点で読みたい方は、
よろしければそちらも覗いていただけると嬉しいです。
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