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第一章
007
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その日の夜。
アルメリアのもとに、紅薔薇が添えられた一枚のカードが届けられた。
「もともと陛下はお妃様にゆっくり旅の疲れを癒して欲しいとお考えでしたから。きっとそのあいだは、自由に羽を伸ばして欲しいという意味での伝言ですわ」
「……そうね。一国の王となればお忙しいのは当然だし、こうして伝言をくださるだけでも、ありがたいと思わなければね」
カードには、一週間ほど視察で城を留守にするという旨が短く記されていた。
署名はないが、カードが入っていた封筒は、赤い蝋で封をされていた。
そこに押されていた印は、薔薇を咥えた獅子――この国の国紋と同じものだ。
その印を使える人物と言えばただ一人、この国の王陛下に他ならない。
カードに綴られた流麗な文字が、陛下ご本人の手蹟はわからないが、たとえ代筆であろうとも、一介の妃に過ぎない自分に伝言をくれただけ、気遣われているのは確かなことであろう。
今はそれを喜ぶことにして、アルメリアは心配そうにたたずむミカに笑顔を向けた。
「この薔薇に合う一輪挿しの花瓶はあるかしら? できれば枕元において眠りたいのだけど」
「はいっ。すぐにお持ちいたします」
用事を言いつけられたミカはぱっと顔を輝かせ、すぐに居間を出て行った。
アルメリアはカードを丁寧に封筒にしまうと、薔薇を持って寝室へ向かう。
広々とした寝室は昨夜と同じように整えられ、敷布は新しいものに変えられていた。染みひとつない糊の利いた敷布をそっと撫でて、アルメリアは薔薇を抱えたまま寝台に乗り上がる。
薔薇から香るかぐわしい匂いを嗅いでいると、否応にも昼間でのことがよみがえる。
また寝台に横たわっていると、昨夜のことが快感とともに思い出されて、アルメリアは身体にわだかまる熱をため息とともに吐き出した。
(……昨夜、この部屋を訪ねたのは、あのルディオンだったのかしら……)
思わせぶりな口ぶりはそう疑わせるのには充分なものだったが、一介の騎士が、なぜ陛下の妃である自分のもとに……と思うと、漠然とした恐怖が背筋をすっと冷たくする。
この部屋の警護は万全だろうと思っていたが、警護する側の人間が忍んでくることがあるとは、ゆゆしき事態だ。
それとも……彼は護衛兵ではないのだろうか。
だとしたら可能性はひとつ。彼が、妃の部屋に正当に立ち入れる身分の人間である、ということ。
この場合、それに該当する人物はたったひとりしか存在しない。
「ルディオンが……彼が、この国の国王陛下……」
可能性は高いと思う。一目見ただけとは言え、彼の年格好は聞いていた国王陛下のそれにぴたりと当てはまるし、こうして紅薔薇を贈ってくるのも、昼間の邂逅を印象づけるためだと思えば納得がいく。
けれど……それならなぜ、彼はあのときに国王だと名乗ってくれなかったのだろう。
彼が告げたのは自分の名前だけ。それが本名であるかもわからない。
それに……
「とても……お優しそうな方に見えたのに」
これまでさんざん聞かされていた、恐ろしくて冷酷なイメージなど、ルディオンにはかけらも見当たらなかった。
強いて言えば、星空のような深い色合いの瞳が、暗い夜のようになにもかも呑み込んでしまいそうだと思ったくらいだ。
白皙の美貌とダークブロンドの髪と対比して、瞳の色だけが底なしのなにかのように、こちらをじっと見つめていたような気がする。
思い出すと、昨夜首を絞められたときに感じた、ぞくりとするような苦しさが這い上がって、アルメリアは無意識に喉元を押さえていた。
薔薇の香りがいっそう強くなり、苦しさの中にも甘ったるい芳香を漂わせていく……
「お妃様、花瓶の用意が調いましたわ」
そのとき、ミカが楽しげな声を上げながら寝台に入ってきて、アルメリアはハッと身体を強ばらせる。
動揺を悟られないようゆっくり起き上がり、ありがとう、と薔薇を渡す手は、ほんの少し震えているような気がした。
「今日はもう休むわ。あなたも下がってよくてよ」
「はい、承知いたしました。ではお妃様、おやすみなさいませ」
「おやすみ、ミカ」
丁寧に挨拶して下がっていったミカを見送り、アルメリアは花瓶に活けられた薔薇をそっと見やる。
ミカが持ってきた花瓶は硝子製で、下へ行くにつれかすかな色がつけられていた。わずかな曲線がつけられた表面は複雑な形に削られていて、窓から差す月明かりに照らされて水晶のように光っている。
「……どのみち、答えを知るには一週間は待たないといけない」
ルディオンが国王陛下なら、視察から戻るのは一週間後のこと。
どんなに思い悩んだところで、それは変わらないのだから……と、自分の心に言い聞かせて、横になったアルメリアは、きつく瞼を伏せたのだった。
* *
それから一週間。アルメリアは当初の予定通り、ゆったりとした生活の中で、長旅の疲れを癒した。
とはいえ癒すほどの疲れはさほどなく、天気のいい日は積極的に庭に出て、薔薇の美しい景色を歩き回り、日差しの強い午後は居間の窓を全開にして、入り込んでくる風を感じながら、刺繍や読書を楽しんだ。
送っている生活自体はフォルランドにいた頃とさほど違わないが、一日中女官の監視を受けているようだったあのときと違い、今はミカを話し相手に、毎日を楽しく過ごすことができた。
ミカは下級貴族の家出身で、ここへは行儀見習いとして上がったのだそうだ。妃の侍女に選ばれたことを家族に手紙で報せたら、大層喜ばれたと嬉しそうに話してくれた。両親もまた娘の不器量を嘆いていて、女官ならともかく、お妃様の侍女になれるなんて思わなかったと驚いたそうだ。
この後宮で、美しさがそれほど重要な位置を占めることには驚きだった。なんでも、一昔前はお妃様につく侍女にも王が手をつける場合があったらしく、結果、懐妊して妃の末席に加えられた娘も存在したという話だった。
今でこそそんなことはないと言うが、これだけ大きな国の後宮だ。王が王なら、いつそういう状態に戻ってもおかしくはないだろうとアルメリアは漠然と思った。
(まぁ、今代に限ってはそうはいかないのでしょうけど)
なにせ国王が妙な性癖の持ち主で、後宮入りした妃はもれなく療養所行きとなっているのだ。
(……でも、あのルディオンが、そんなひどいことを女性にするとは到底思えないけれど……)
国王かもしれない謎の青年騎士、ルディオン。
薔薇の芳香を嗅ぐたびに思い出す。あの美貌の立ち姿を頭に描き、アルメリアはもう何度目になるかわからない疑問を胸に抱いた。
祖国にいた頃から、オスベリアの王は恐ろしく冷酷で、女にも容赦がない変質的な王だと言い聞かされていたのだ。父と兄の顔色と声音を思い出すと、とても嘘を言っていたとは思えない。
単なる噂が、彼自身の経歴によりいろいろと脚色されて、妙なふうにねじ曲げられて伝わった可能性もあるにはある。
だが、一国の王と王太子が、そういったことに踊らされるとは考えにくいのだ。父はともかく、あの兄が、である。
(今日でちょうど、伝言が届いてから一週間――)
まだ後宮に報せは届いていないが、予定では今日が国王ご一行の帰還日だ。
もしかしたら陛下の訪れもあるかも知れないと、アルメリアはその日、早めに就寝の支度をすることにした。
夕食を軽く済ますだけにして、そのぶん長く湯に浸かる。
アルメリアの気持ちを、言わずとも察してだろう。ミカは肌艶をよくするための乳白色の薬湯を浴槽に用意してくれた。
薔薇の花びらを浮かべた湯を掌ですくって、アルメリアはぱしゃりと顔を洗う。
果たして国王陛下は……ルディオンは、足を運んでくださるだろうか。
ただでさえ視察を終えたばかりの身だ。夜はゆっくり休みたいと思っているかもしれない。
気心の知れた妻のもとへ顔を見せるならまだしも、ただの一瞬、それも不意打ちのように言葉を交わしただけの相手だ。挨拶など後日でも構わないと思っているかもしれない。むしろそう考えるほうが自然だろう。
(でも……)
できればここへきてほしいという気持ちは捨てられない。兎にも角にも、彼が本当に国王なのかそうでないのか、それだけでもはっきりさせたかった。
すでにミカや女官長には、国王陛下がどのような方なのか質問しているが、ミカは困ったように「わたくしはご尊顔を拝したことがないのです。まだこちらに上がったばかりの新米で……」と答え、女官長には「私的な見解も入りますので、お答えしかねます。ご自分の目でお確かめになるのがよろしいでしょう」とけんもほろろにかわされてしまった。
そうやって謎のままにされると、気になってくるのが乙女心というものだ。
自分の中にも、まだ年頃の少女のような好奇心が残っていたのだと驚くと同時に、そんな落ち着きのない欲望を抱いてしまうことには恥じらいも感じた。
とはいえたいていの女は、夫となる男に対して、無関心のままでいられるはずはないと思うのだが……
長い入浴を終え、火照った身体を柔らかな絹で拭き取りながら、アルメリアはほぅっとため息をつく。
ガウンを着込んでふらふらと浴室を出ると、ミカはすぐに冷たい飲み物を用意してくれた。
それを少しずつ飲みながら、アルメリアはミカが髪を乾かしていくのを鏡越しに見やる。
ミカの目つきはいかにも真剣で、彼女もまた、今夜が勝負のときとわかっているような面持ちだった。
「……陛下から、お渡りの連絡はきていて?」
「いいえ……ですが、気まぐれにお顔をお見せする可能性もありますので」
そうね、と小さく頷き、支度の調ったアルメリアは静かに立ち上がった。
「寝室に入っているわ。ミカも、今日はもう休んでよくってよ」
「ですが……」
「大丈夫よ。それに、お渡りの連絡がないのなら、陛下がいらっしゃらない可能性も高いわ。それなのに遅くまで起きているのは大変ですもの。なにかあったら、備えつけの紐を引けばいいのでしょう?」
暗に、なにかあればすぐに呼ぶと伝えると、ミカも納得したように頷いた。
「かしこまりました。では、本日は下がらせていただきます」
「ええ。おやすみ」
ぱたん、と扉が閉ざされ、ひとりになったアルメリアはそっと息をつく。
火照った身体が冷えてくると、自然と緊張感も増して、みるみるうちに目が冴えていくようだった。
(これで陛下がお渡りにならなかったら、道化もいいところね)
落ち着かない心をそう自嘲しつつ、アルメリアは寝台に腰かけ、窓の外でちらつく星をぼうっと見上げる。
夏の夜空は明るく、藍色がどこまでも続いていくようだ。
その色を見ていると、否応なくルディオンの瞳が思い出されて、これから毎夜同じような思いに駆られるのだろうかと、少し怖くなる。まるで夜のあいだは、ずっと彼に囚われてしまうような錯覚に陥るほどだ。
(あなたはいったい何者なの? あなたが国王陛下だというなら、なぜあんな風にわたくしの前に姿を見せたの? なぜ……『不義の姫君』と呼ばれるわたくしのことを、妃に迎えようと思ったの?)
つらつらと考えているうちに、いつの間にか眠ってしまったのだろうか。
気づいたときには、アルメリアは枕に上半身を倒して、うつらうつらとまどろんでしまっていた。
そのことに気づいたのは他でもない。誰かにそっと抱え上げられ、寝台に静かに横たえられたからだ。
「ん……だれ……?」
慌てて瞼を押し上げたアルメリアは、瞬きを繰り返して暗闇に慣れようとする。
そうしてじっと目を懲らすと、すぐ近くに、宵闇に染まったダークブロンドが揺れていることに気がついた。
アルメリアのもとに、紅薔薇が添えられた一枚のカードが届けられた。
「もともと陛下はお妃様にゆっくり旅の疲れを癒して欲しいとお考えでしたから。きっとそのあいだは、自由に羽を伸ばして欲しいという意味での伝言ですわ」
「……そうね。一国の王となればお忙しいのは当然だし、こうして伝言をくださるだけでも、ありがたいと思わなければね」
カードには、一週間ほど視察で城を留守にするという旨が短く記されていた。
署名はないが、カードが入っていた封筒は、赤い蝋で封をされていた。
そこに押されていた印は、薔薇を咥えた獅子――この国の国紋と同じものだ。
その印を使える人物と言えばただ一人、この国の王陛下に他ならない。
カードに綴られた流麗な文字が、陛下ご本人の手蹟はわからないが、たとえ代筆であろうとも、一介の妃に過ぎない自分に伝言をくれただけ、気遣われているのは確かなことであろう。
今はそれを喜ぶことにして、アルメリアは心配そうにたたずむミカに笑顔を向けた。
「この薔薇に合う一輪挿しの花瓶はあるかしら? できれば枕元において眠りたいのだけど」
「はいっ。すぐにお持ちいたします」
用事を言いつけられたミカはぱっと顔を輝かせ、すぐに居間を出て行った。
アルメリアはカードを丁寧に封筒にしまうと、薔薇を持って寝室へ向かう。
広々とした寝室は昨夜と同じように整えられ、敷布は新しいものに変えられていた。染みひとつない糊の利いた敷布をそっと撫でて、アルメリアは薔薇を抱えたまま寝台に乗り上がる。
薔薇から香るかぐわしい匂いを嗅いでいると、否応にも昼間でのことがよみがえる。
また寝台に横たわっていると、昨夜のことが快感とともに思い出されて、アルメリアは身体にわだかまる熱をため息とともに吐き出した。
(……昨夜、この部屋を訪ねたのは、あのルディオンだったのかしら……)
思わせぶりな口ぶりはそう疑わせるのには充分なものだったが、一介の騎士が、なぜ陛下の妃である自分のもとに……と思うと、漠然とした恐怖が背筋をすっと冷たくする。
この部屋の警護は万全だろうと思っていたが、警護する側の人間が忍んでくることがあるとは、ゆゆしき事態だ。
それとも……彼は護衛兵ではないのだろうか。
だとしたら可能性はひとつ。彼が、妃の部屋に正当に立ち入れる身分の人間である、ということ。
この場合、それに該当する人物はたったひとりしか存在しない。
「ルディオンが……彼が、この国の国王陛下……」
可能性は高いと思う。一目見ただけとは言え、彼の年格好は聞いていた国王陛下のそれにぴたりと当てはまるし、こうして紅薔薇を贈ってくるのも、昼間の邂逅を印象づけるためだと思えば納得がいく。
けれど……それならなぜ、彼はあのときに国王だと名乗ってくれなかったのだろう。
彼が告げたのは自分の名前だけ。それが本名であるかもわからない。
それに……
「とても……お優しそうな方に見えたのに」
これまでさんざん聞かされていた、恐ろしくて冷酷なイメージなど、ルディオンにはかけらも見当たらなかった。
強いて言えば、星空のような深い色合いの瞳が、暗い夜のようになにもかも呑み込んでしまいそうだと思ったくらいだ。
白皙の美貌とダークブロンドの髪と対比して、瞳の色だけが底なしのなにかのように、こちらをじっと見つめていたような気がする。
思い出すと、昨夜首を絞められたときに感じた、ぞくりとするような苦しさが這い上がって、アルメリアは無意識に喉元を押さえていた。
薔薇の香りがいっそう強くなり、苦しさの中にも甘ったるい芳香を漂わせていく……
「お妃様、花瓶の用意が調いましたわ」
そのとき、ミカが楽しげな声を上げながら寝台に入ってきて、アルメリアはハッと身体を強ばらせる。
動揺を悟られないようゆっくり起き上がり、ありがとう、と薔薇を渡す手は、ほんの少し震えているような気がした。
「今日はもう休むわ。あなたも下がってよくてよ」
「はい、承知いたしました。ではお妃様、おやすみなさいませ」
「おやすみ、ミカ」
丁寧に挨拶して下がっていったミカを見送り、アルメリアは花瓶に活けられた薔薇をそっと見やる。
ミカが持ってきた花瓶は硝子製で、下へ行くにつれかすかな色がつけられていた。わずかな曲線がつけられた表面は複雑な形に削られていて、窓から差す月明かりに照らされて水晶のように光っている。
「……どのみち、答えを知るには一週間は待たないといけない」
ルディオンが国王陛下なら、視察から戻るのは一週間後のこと。
どんなに思い悩んだところで、それは変わらないのだから……と、自分の心に言い聞かせて、横になったアルメリアは、きつく瞼を伏せたのだった。
* *
それから一週間。アルメリアは当初の予定通り、ゆったりとした生活の中で、長旅の疲れを癒した。
とはいえ癒すほどの疲れはさほどなく、天気のいい日は積極的に庭に出て、薔薇の美しい景色を歩き回り、日差しの強い午後は居間の窓を全開にして、入り込んでくる風を感じながら、刺繍や読書を楽しんだ。
送っている生活自体はフォルランドにいた頃とさほど違わないが、一日中女官の監視を受けているようだったあのときと違い、今はミカを話し相手に、毎日を楽しく過ごすことができた。
ミカは下級貴族の家出身で、ここへは行儀見習いとして上がったのだそうだ。妃の侍女に選ばれたことを家族に手紙で報せたら、大層喜ばれたと嬉しそうに話してくれた。両親もまた娘の不器量を嘆いていて、女官ならともかく、お妃様の侍女になれるなんて思わなかったと驚いたそうだ。
この後宮で、美しさがそれほど重要な位置を占めることには驚きだった。なんでも、一昔前はお妃様につく侍女にも王が手をつける場合があったらしく、結果、懐妊して妃の末席に加えられた娘も存在したという話だった。
今でこそそんなことはないと言うが、これだけ大きな国の後宮だ。王が王なら、いつそういう状態に戻ってもおかしくはないだろうとアルメリアは漠然と思った。
(まぁ、今代に限ってはそうはいかないのでしょうけど)
なにせ国王が妙な性癖の持ち主で、後宮入りした妃はもれなく療養所行きとなっているのだ。
(……でも、あのルディオンが、そんなひどいことを女性にするとは到底思えないけれど……)
国王かもしれない謎の青年騎士、ルディオン。
薔薇の芳香を嗅ぐたびに思い出す。あの美貌の立ち姿を頭に描き、アルメリアはもう何度目になるかわからない疑問を胸に抱いた。
祖国にいた頃から、オスベリアの王は恐ろしく冷酷で、女にも容赦がない変質的な王だと言い聞かされていたのだ。父と兄の顔色と声音を思い出すと、とても嘘を言っていたとは思えない。
単なる噂が、彼自身の経歴によりいろいろと脚色されて、妙なふうにねじ曲げられて伝わった可能性もあるにはある。
だが、一国の王と王太子が、そういったことに踊らされるとは考えにくいのだ。父はともかく、あの兄が、である。
(今日でちょうど、伝言が届いてから一週間――)
まだ後宮に報せは届いていないが、予定では今日が国王ご一行の帰還日だ。
もしかしたら陛下の訪れもあるかも知れないと、アルメリアはその日、早めに就寝の支度をすることにした。
夕食を軽く済ますだけにして、そのぶん長く湯に浸かる。
アルメリアの気持ちを、言わずとも察してだろう。ミカは肌艶をよくするための乳白色の薬湯を浴槽に用意してくれた。
薔薇の花びらを浮かべた湯を掌ですくって、アルメリアはぱしゃりと顔を洗う。
果たして国王陛下は……ルディオンは、足を運んでくださるだろうか。
ただでさえ視察を終えたばかりの身だ。夜はゆっくり休みたいと思っているかもしれない。
気心の知れた妻のもとへ顔を見せるならまだしも、ただの一瞬、それも不意打ちのように言葉を交わしただけの相手だ。挨拶など後日でも構わないと思っているかもしれない。むしろそう考えるほうが自然だろう。
(でも……)
できればここへきてほしいという気持ちは捨てられない。兎にも角にも、彼が本当に国王なのかそうでないのか、それだけでもはっきりさせたかった。
すでにミカや女官長には、国王陛下がどのような方なのか質問しているが、ミカは困ったように「わたくしはご尊顔を拝したことがないのです。まだこちらに上がったばかりの新米で……」と答え、女官長には「私的な見解も入りますので、お答えしかねます。ご自分の目でお確かめになるのがよろしいでしょう」とけんもほろろにかわされてしまった。
そうやって謎のままにされると、気になってくるのが乙女心というものだ。
自分の中にも、まだ年頃の少女のような好奇心が残っていたのだと驚くと同時に、そんな落ち着きのない欲望を抱いてしまうことには恥じらいも感じた。
とはいえたいていの女は、夫となる男に対して、無関心のままでいられるはずはないと思うのだが……
長い入浴を終え、火照った身体を柔らかな絹で拭き取りながら、アルメリアはほぅっとため息をつく。
ガウンを着込んでふらふらと浴室を出ると、ミカはすぐに冷たい飲み物を用意してくれた。
それを少しずつ飲みながら、アルメリアはミカが髪を乾かしていくのを鏡越しに見やる。
ミカの目つきはいかにも真剣で、彼女もまた、今夜が勝負のときとわかっているような面持ちだった。
「……陛下から、お渡りの連絡はきていて?」
「いいえ……ですが、気まぐれにお顔をお見せする可能性もありますので」
そうね、と小さく頷き、支度の調ったアルメリアは静かに立ち上がった。
「寝室に入っているわ。ミカも、今日はもう休んでよくってよ」
「ですが……」
「大丈夫よ。それに、お渡りの連絡がないのなら、陛下がいらっしゃらない可能性も高いわ。それなのに遅くまで起きているのは大変ですもの。なにかあったら、備えつけの紐を引けばいいのでしょう?」
暗に、なにかあればすぐに呼ぶと伝えると、ミカも納得したように頷いた。
「かしこまりました。では、本日は下がらせていただきます」
「ええ。おやすみ」
ぱたん、と扉が閉ざされ、ひとりになったアルメリアはそっと息をつく。
火照った身体が冷えてくると、自然と緊張感も増して、みるみるうちに目が冴えていくようだった。
(これで陛下がお渡りにならなかったら、道化もいいところね)
落ち着かない心をそう自嘲しつつ、アルメリアは寝台に腰かけ、窓の外でちらつく星をぼうっと見上げる。
夏の夜空は明るく、藍色がどこまでも続いていくようだ。
その色を見ていると、否応なくルディオンの瞳が思い出されて、これから毎夜同じような思いに駆られるのだろうかと、少し怖くなる。まるで夜のあいだは、ずっと彼に囚われてしまうような錯覚に陥るほどだ。
(あなたはいったい何者なの? あなたが国王陛下だというなら、なぜあんな風にわたくしの前に姿を見せたの? なぜ……『不義の姫君』と呼ばれるわたくしのことを、妃に迎えようと思ったの?)
つらつらと考えているうちに、いつの間にか眠ってしまったのだろうか。
気づいたときには、アルメリアは枕に上半身を倒して、うつらうつらとまどろんでしまっていた。
そのことに気づいたのは他でもない。誰かにそっと抱え上げられ、寝台に静かに横たえられたからだ。
「ん……だれ……?」
慌てて瞼を押し上げたアルメリアは、瞬きを繰り返して暗闇に慣れようとする。
そうしてじっと目を懲らすと、すぐ近くに、宵闇に染まったダークブロンドが揺れていることに気がついた。
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