被虐の王と不義の姫君

佐倉 紫

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第一章

006

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「お妃様? 申し訳ございません、お茶が熱すぎましたか?」
「えっ?」

 お茶のカップを手に、ほぅとため息をついたアルメリアをどう思ってか、年若い女官が心配そうにこちらをうかがっている。
 アルメリアは慌てて微笑みを浮かべ、「そんなことはないわ」と首を振った。

「ごめんなさい、まだ長旅の疲れが抜けないみたいで……。ちょっと身体がだるいものだから」
「まぁ、それはいけませんわ。どうぞ無理はなさらず、おつらければ寝室でおやすみになってください」
「ありがとう、ミカ。あなたはとても優しい子なのね」

 自分よりいくらか年下の女官をそう労ってやると、ミカと呼ばれた彼女はぽっと、ぽっちゃりした頬を染めた。

「そ、そんな。優しいだなんて。それで言うなら、お妃様のほうがよっぽどお優しいです。こんなあたしを侍女に引き抜いてくださるなんて……」
「まぁ、どうしてそんなことを思うの? あなたは夕べもわたくしに丁寧に接してくださったわ。だからぜひともあなたを侍女につけたいと思ったのに」

 女官長に言われるまま、若い女官たちを受け入れたアルメリアだが、その中でもミカは一番の働き者のように思えた。
 アルメリアが指示する前に浴槽よくそうに湯を張り、髪も地肌まで丁寧に洗ってくれた。よけいな口を利かず黙々と働く姿勢には好感が持てたので、アルメリアは朝起きてすぐに、彼女を自分付きにして欲しいと女官長に願い出たのだ。

「だって、あたしはこんな体型だし、お妃様のようなお美しい方にお仕えするには、あまりに不器量ぶきりょうですから……」

 お仕着せのスカートをもじもじといじりながら、ミカはうつむきつつ苦笑した。
 どうやらこの後宮では、主人である妃だけでなく、彼女たちに使える女官も美しくなければいけないという暗黙の了解があるらしい。

 どこの国でも、城に仕える女官や近衛兵たちが、容姿も含め採用されていることはアルメリアも知っていたが、自身が修道院で奉仕していた経験もあるためか、彼女自身はそこまで外見にこだわろうとは考えもしなかった。

「外見が綺麗でも、心がみにくいひとはたくさんいるわ。逆に野の花のようにあるがままでも、心映えが美しいひともたくさんいるもの。あなたはきっと後者なのよ」
「それなら、お妃様は外見も心もどちらも美しい方に違いありませんわね」

 楽しげなミカの言葉に、アルメリアは面食らったが、あえて苦笑するだけに留めておいた。

「あの、ところでミカ。昨夜のことなんだけど……」
「はい? なにかございましたか?」
「ええ、その……わたしが眠っているあいだに、この部屋を誰かが訪ねなかったかしら?」
「夜のあいだにですか?」

 今度はミカが驚いた顔で、うーんと顎元あごもとに指を添えた。

「普通に考えて、夜、お妃様の部屋を訪れる方は、陛下しかあり得ないとは思いますが……」
「そっ、それはそうよね。ここは、後宮ですもの」

 カップをひっくり返しそうなほどどきっとしながら、アルメリアは頷いた。

「え。もしかして、昨夜……」
「い、いいえ。ちょっと寝付けなかったものだから……たぶん、こずえの音を足音かなにかと勘違いしたのかも。だって、陛下がお渡りになるという連絡はなかったはずでしょう?」
「はい。陛下がいらっしゃるときは、必ず奥宮から先触れが届く仕組みになっております。昨夜はそのような連絡はございませんでしたし、お妃様においては、旅の疲れを存分に癒して欲しいとのお言葉もございました」
「そう、ね。そうよね……」

 頷いてみせるものの、アルメリアは気が気ではない。
 昨夜は疲れていたせいか、結局自分にのしかかってきた誰かの正体を考えるまでに至らず、いつの間にかまた眠ってしまっていたのだ。

 目覚めたときのアルメリアの恰好はひどいものだった。上掛けは足下でくしゃくしゃに丸まり、夜着は太腿までめくれ上がって、指先は足のあいだに埋まったままだったのだ。
 早めに目覚めたからよかったものの、もしその場面をミカたちに見られていたらと思うと気が気ではない。

 当然、夜更けになにがあったかなど口に出せるはずもなく、アルメリアはすまし顔を装って甘いお茶をいただいた。

(けれど、昨夜のあれは本当に誰だったのかしら……?)

 いくら寝ぼけていたとは言え、顔も見えぬ身も知らぬ者に襲われかけて、快楽を感じてしまったなど恥以外のなにものでもない。
 体格からしておそらく男性だとは思うが、かつて叔父に抱かれていたときのような嫌悪感はひとつも感じられなかった。おそらく叔父と違って細身で、汗臭さをただよわせる年齢に達していない者なのだろう。

 それに、暗い中でも力加減ができる者――鏡台ドレッサーの鏡を見やり、アルメリアはそっと自分の首元に手を添える。

 真珠のネックレスが飾られた首は、昨日までとなんら代わらず白く細く保たれている。
 もし、相手がアルメリアを害するつもりで首を絞めたということなら、くっきりと痕が残るほどに強く締めつけられたはずだ。だが一夜明けたアルメリアの身体はどこにも異常はなく、痛みや苦しさも覚えなかった。

 むしろ久々にくすぶっていた欲求を発散させたせいか、今朝の寝覚めはいつもより爽やかでさえあったような気がする。
 そう考えたアルメリアは、そんな自分自身についぼっと頬を赤らめてしまった。

(欲求をくすぶらせていたなんて、修道院に入っていた身としては褒められたことではないわ……)

 その修道院では清廉潔白せいれんけっぱくに生きるために、いくら身体が疼く日があっても、限界まで耐え抜く生活を送っていた。
 欲望を感じることすら恥だとはわかっていたが、一度植え付けられた快感からはどうあっても逃れられないと、嫌々ながらも痛感したほどである。

(こんな状態で……陛下の前に出て、きちんとお相手をすることができるのかしら)

 とは言え、相手も精神患者を何人も出してきた、いわゆる変質者だ。それで言うなら、『不義の姫君』たるアルメリアとは似合いの間柄なのかも知れない。

(お兄様の言ったとおりに思えて……なんだか複雑だわ)

 再び沈み込んでしまったアルメリアをどう思ってか、ミカは「そうだ」と明るい表情で手を打ち合わせた。

「お茶をいただいたら、お庭を散策してみませんか? 後宮にはお庭がいくつもありますけれど、そのいずれも、王宮内のどこよりも美しいと評判ですの。お妃様もきっと気に入ると思いますわっ」

 主人の心を少しでも明るくしたい一心なのだろう。屈託くったくのないミカの笑顔に、アルメリアも素直に頷いた。

「そうね。お散歩をして、少し身体を動かすのもいいかもしれないわ」

 そうしてお茶を終えたアルメリアは、ミカの案内に従い、部屋からほど近い庭のひとつへと足を運んだ。

「まぁ、薔薇が見事なこと……」

 庭に出た途端ふわりと香ってきた芳香に、アルメリアは口元をほころばせる。
 ゆっくり視線をめぐらせれば、視界いっぱいに真っ赤な薔薇が広がっていて、アルメリアはついそちらへと足を向けていた。

「城に勤める交配師が、長年の研究によって生み出した新種の数々ですわ。ここは紅薔薇が一番美しい庭なので、紅の庭とも呼ばれていますの」
「素敵ね」

 どこまでも続く薔薇木を見やり、アルメリアは感嘆の声を漏らした。

「向こうには泉もありますよ。小さいですが東屋も」
「まぁ、素敵だわ。ちょっとそちらに行ってみましょうか」
「はいっ」

 綺麗に舗装ほそうされた石畳の上を歩きながら、アルメリアは薔薇の中を歩いて行く。
 緑と赤が広がる中、やがて白い東屋が見えてきて、アルメリアは「あそこね」と頷いた。
 そのとき、木陰からそっと騎士が顔を出して、「失礼いたします」とアルメリアに深々と頭を下げてきた。

「お散歩中に失礼いたします。あなた様は、昨日後宮にお入りになったお妃様とお見受けいたしますが……」
「ええ。あなたは、ここの護衛兵?」

 騎士は頷き、国王の妃となったアルメリアから心持ち視線を外しながら続けた。

「申し訳ございませんが、そちらの侍女の方をお借りしてもよろしいでしょうか? お妃様の身辺警護の件で、少々確認したいことがございます」
「ミカを?」

 アルメリアはもちろん、ミカも目を丸くしていたが、警護のために近しい侍女と話をしておく必要が彼らにはあるのかもしれない。

「今、こちらでうかがうことはできませんの?」
「使用人が使う通路のことなども入っておりますので、お妃様にはご遠慮いただきたく……」

 なんでも使用人たちの通路はいざというときの逃げ道や抜け道にもなるので、妃たちには教えられないのだそうだ。その通路を使って恋敵である他の妃のもとに忍び込み、毒を盛ったり火を放ったりという物騒な例が、この後宮にはあふれているらしい。
 今はアルメリアひとりしか住んでいない後宮だが、過去の事例が事例だけに、看過できない問題なのだろう。

 困ったように目を瞬かせるミカに、アルメリアは鷹揚おうように頷いて見せた。

「わたくしはそこの東屋で待っているわ。しばらく薔薇と泉を鑑賞させていただくから」
「ですが、お妃様をおひとりにするのは……」
「大丈夫よ。護衛兵以外で通りがかるひとなんていないでしょう? ここは後宮ですもの」

 他に妃もいないし、いたとしても女官が通りがかるくらいだ。危険なことはない。
 ミカは迷っていたようだったが、騎士が「すぐに済みますので」と請け負ったこともあり、アルメリアにくれぐれもここを離れないよう念押しして、騎士について歩いて行った。

 ふたりを見送ったアルメリアは、白い柱が並ぶ小さな東屋に入る。
 東屋の中心には石造りのベンチがひとつ置かれていて、彼女はそこにそっと腰かけ、小さな泉と、水面に浮かぶ薔薇の美しさを堪能たんのうした。

 風に乗って、甘やかな薔薇の匂いが鼻孔をくすぐる。その香りにも一幅の絵のような景色にも心が和んで、彼女は背もたれにもたれて、ほうっとため息をついた。

「――ここは気に入られましたか?」

 ふいに、静かな声が風とともに入り込んで、アルメリアはそっと顔を上げた。
 振り返ると、そこには腰に剣をはいた、すらりとした立ち姿の騎士が立っていた。

「……」

 ただよう風に、少し癖のあるダークブロンドが揺れている。
 こちらを見つめる藍色の瞳は星空のようで、明るさと暗さを両方備えた涼しげな美貌びぼうに、アルメリアはつい目を奪われてしまった。

「……あなたは」

 二、三度瞬き、アルメリアはそっと騎士の出で立ちを見やる。先ほどミカを迎えにきた騎士も、昨日まで一緒だったヴォルフも、色は違えどマントを羽織っていたが、目の前にいる彼は丈長の上着だけを着込んだ軽装だ。
 それでも剣は長く太い実用的なもので、しっかりした肩幅や大きな手足を見るに、やはり兵のひとりなのだろうと思えた。

「……護衛の騎士なのかしら。まだここへきたばかりなもので、わからないのだけど」

 アルメリアが尋ねると、彼は口元に小さく笑みを刻んだ。

「ルディオンという名です。あなたは、フォルランドからいらした姫君ですね」

 アルメリアは慎重に頷き、それとなくいつでも立ち上がれる体勢を取った。

「ご心配には及びません。これ以上は近づきませんから。……本日は、挨拶にうかがっただけです。もう戻りますので」
「挨拶?」

 やはり護衛兵かなにかなのだろうか。けれど彼は名前以外のことは語ろうとはせず――代わりに、アルメリアにとっては到底聞き逃せないことを口にした。

「宵闇の中で見たときは、眠り姫のように美しいと見惚れたものですが、明るい中で見るあなたは妖精のように可憐だ。……しばらくここを離れるのが惜しくなるくらいに」
「……っ」

 宵闇の中で、という言葉に、アルメリアは血の気を引かせた。

「あなた――」
「今日はこれで。ごきげんよう」

 ダークブロンドをさらりと揺らして、騎士は優雅に一礼する。
 アルメリアは慌てて立ち上がったが、彼はまるで羽でも生えているかのように、その場からすぐに立ち去ってしまった。

「……待って! あなたはいったい……」

 慌てて薔薇の茂みを越えるが、すでに騎士の姿はどこにもない。
 まるで最初からそこにいなかったかのような早業だ。

「……」

 ぞくっとするような冷たさを背筋に感じ、アルメリアは両肩をきつく抱きしめる。
 なぜだろう。乱暴なことを言われたわけでもないのに、柔らかく細められた藍色のまなざしを思い出すと、なにもかも見透かされているような、奇妙な心許なさを植え付けられる。

 風に揺れる薔薇を見るともなく見つめながら、アルメリアはルディオンと名乗った騎士のことを、じっと考え込んでしまった。
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