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1巻
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しおりを挟む「国王陛下に許可をいただいたとはいえ、男子禁制の後宮に立ち入る無礼をどうかお許しください。我が主であるクレイグ様が、どうしても花嫁となられるセシリア姫に真心をお届けしたいと仰せでして」
それを聞き、セシリアを罵倒していた王妃は慌てたように口をつぐむ。
黙り込んで返事をする気配のない王妃を見て、セシリアは静かに立ち上がった。
「確かにここはお求めの部屋で間違いありません。ですが王太子殿下の真心とは……?」
「王太子殿下のご命令により、王女殿下に贈り物を届けにまいりました。失礼ですが、あなた様がセシリア姫でお間違いございませんか?」
「はい」
「これはご無礼を。主人の妃となられる姫君にお会いできて光栄に思います。以後どうぞお見知りおきを……」
恭しく腰を折ったマティアスは、挨拶を終えると身体をさっと脇にずらす。
すると、彼のうしろからぞろぞろと兵士たちが部屋に入り込んできた。
口を引き結んでいた王妃が悲鳴を上げて飛び退く。
「ま、まぁ! これはいったいなんですのっ?」
兵士たちは、白い布に覆われた真新しい机や椅子などの家具類を次々と運び入れる。衣装を入れるための長櫃に至っては、なんと三つも運んできた。
「我が主は、花嫁となるセシリア姫に一流のものを使っていただきたいとお望みです。明日は長櫃に収める衣装をお持ちいたします。明後日は宝飾類、その翌日には小物を予定しております。さらにその翌日には――」
マティアスは笑顔で滔々と語り続けるが、その内容の半分もセシリアの耳には届かない。上質な家具にただただ唖然としてしまった。隣で王妃も同じような顔をしている。
いずれの家具も手の込んだ彫刻が施してあり、この城にあるどの家具よりも上等なものだとすぐにわかった。
――そして急ごしらえで用意された後宮の部屋は、あっという間に家具でいっぱいになる。
「では、本日はこれで失礼いたします」
マティアスは再び丁寧な礼をして、兵を率いて颯爽と部屋を出て行く。
あとに残されたセシリアたちは言葉もなく、積み上げられた家具を前に立ち尽くすのだった。
結局、その日の夕方、セシリアは再び部屋を移ることになった。なにせ贈られた家具だけで居間と寝室が埋まってしまったのだ。これではとても生活できない。
だが後宮内にこれだけの家具がすべて収まる空き部屋はなく、急遽セシリアには日常を過ごすための部屋と、贈り物を保管するための部屋が計四部屋与えられた。
この騒動は瞬く間に王宮中に広がり、セシリアがアルグレードに嫁ぐことがにわかに真実味を持って人々に伝わっていった。おかげで、それまでこの縁談自体なにかの間違いではないかと疑っていた者たちは急に掌を返し、彼女にへりくだるようになった。
(今までわたしのことなど見向きもしなかったのに、現金なものね)
嬉々として御用聞きにやってくる侍女たちに辟易しながら、ようやくひとりになったセシリアは大きなため息をついた。
王太子殿下からの贈り物が始まって、早一ヶ月。
最近では焼き菓子や生花になったとはいえ、それでも山ほど送られてくるのに変わりはない。
今日も兵士が十人がかりで大量の薔薇を運んできた。この部屋だけではとても飾りきれず、女官たち総出で後宮中に薔薇を生けて回ったほどである。
あまりの贈り物の量に、セシリアは一度「これ以上の贈り物は必要ない」と伝えようとした。
しかしそれは、アルグレードの文化を教える教師から厳しく止められた。
曰く、『古くからアルグレードには、花嫁となる女性に結婚まで欠かさず贈り物をするという慣習があります。大量の贈り物は、花婿にそれだけの財があると花嫁側に示し、嫁いでからも安泰であることを伝える儀式的な意味合いがあるのです。それを断っては、相手の文化を蔑ろにしていると思われてもおかしくありません』――とのことだ。
そう言われてしまっては断ることもできない。
そのうちセシリアは、贈り物だけで充分生活できるほどになってしまった。
ドレスや装飾品に至っては、下手したらエメラルダより多く持っているかもしれない。今身につけているものも、すべて王太子殿下からの贈り物である。
「アルグレード王国がどれほどすごいのかは、もう充分すぎるほど理解できた気がするけれど」
本当に、結婚式まで贈り物を続けるつもりだろうか。
胸焼けを起こしたような気分になりながら、セシリアは教師が置いていった本を開いた。
その本はアルグレードの歴史について書かれたもので、本に載っていないことは教師が別に冊子を作ってくれている。
嫁ぐ前にきちんと目を通し、理解しておきなさいと言われていた。
淑女としての教育――礼儀作法やダンス、刺繍や詩作など――は一通り教わったので、『大陸会議』が終わるまでの残り一ヶ月は、主にアルグレードの歴史や文化を学ぶことに充てられている。
ある程度の知識はあったが、最近の流行や王家の人間関係などには疎い。冊子にはそういったことも記されていて、セシリアは既にそらんじられるほど読み返し、内容を頭に叩き込んでいた。
その中で、やはり目が行ってしまうのは、婚約者となった王太子殿下のこと。
アルグレード王国の王太子、クレイグ・アレンは、もとは国王の次男として生まれた。しかし今から二年前、不慮の事故で兄である王太子が亡くなり、クレイグが王太子となったらしい。
それ以前の彼は、軍人として国中を飛び回っていたようだ。アルグレードの国境付近に出没していた山賊を、クレイグ率いる一個師団が討伐したことは広く知られている。そのときの戦功により、彼は多くの勲章を受けていた。
国民からの人気も高く、現在アルグレード国王が病床にあることもあって、クレイグが戴冠する日も近いだろうと冊子には書かれている。
セシリアは舞踏会での堂々としたクレイグの姿を思い出した。今さらながらに、自分が本当に彼の妃になっていいのかと不安になってくる。
(王太子殿下はどうしてわたしをお選びになったのかしら? 子供の頃はともかく、エメラルダの侍女になってからは舞踏会に出ることもなかったし、先日のように出て行くことがあっても侍女の姿だから、誰もわたしを王女とは思ってもいなかったはずなのに、なぜ……)
そのとき、扉がコンコンとノックされる。
次の授業の教師がくるにはまだ少し早い。誰だろうと思いつつ、セシリアは「どうぞ」と声をかけた。
「失礼いたします、セシリア様。エメラルダ様がお越しです」
「え……」
用件を伝えて侍女はさっさと姿を消す。入れ替わるように現れたのは、舞踏会でもないのに完璧に身なりを整えた異母妹、エメラルダだった。
彼女に会うのはあの舞踏会以来、一ヶ月ぶりだ。
彼女は無言でそばにくると、身構えるセシリアをじろじろ眺め回し、フンと鼻を鳴らした。
「すっかり大国の妃気取りね。おまえのような卑しい生まれの娘、どれだけ恰好を取り繕ったところで、いずれボロを出すに決まっているのに」
……どうやら相変わらずの様子だ。
セシリアが黙っていると、エメラルダは赤く塗った唇の端をくいっと引き上げた。
「今日はね、あなたに忠告をしにきてあげたのよ。このわたしが直々に足を運んであげたのだから感謝するといいわ」
そう言って、エメラルダは手にしていた扇をパチンと閉じた。
「他でもないアルグレードの王太子殿下のことよ。あなた、殿下がどういう方かちゃんとわかっていて?」
まるでなにも知らないだろうとでも言いたげな口ぶりだ。セシリアは先ほどまで見ていた冊子にちらりと目をやり、静かに口を開いた。
「……武勇に優れた、民から慕われている方、と。戴冠も目前と聞いています」
「ふーん? まぁ、おまえにはそう言うかもしれないわね。周りも嫁ぐ相手に問題があるなんてわざわざ言わないでしょうし」
くすくすと笑うエメラルダの瞳には、隠しきれない愉悦が滲み出ている。侍女であったセシリアをいたぶっていたときに見せていた底意地の悪い光。セシリアはかすかに唇を噛みしめた。
「ここだけの話だけど、王太子殿下は表向き文武両道の完璧なお世継ぎと言われているけれど、実際は女遊びの激しい方らしいわよ? 軍にいた頃は行く先々で愛人を作っていたのですって。その方たちとは、今も縁が切れていないとか。英雄色を好むと言うけれど、そんな方に嫁がなければいけないなんて、ふふ、お気の毒様」
哀れむような言葉ながら、それを告げるエメラルダの口元は楽しげに歪んでいる。
(女好き、ね)
その王太子殿下に選ばれずに泣きわめいていたのは誰だったかしら、とセシリアはつい考える。どうやらエメラルダは、都合よくそれを忘れているようだ。
それにしても……舞踏会で会った王太子殿下には、エメラルダの言うような印象は見受けられなかった。むしろ衆人環視の中、わざわざ膝をついて求婚してきた姿から、誠実な人柄がうかがえたのだけれど。
だが大国の王太子ともなれば、公の場で本性や腹の内を隠すことなど造作もないのかもしれない。
そんなことをぼんやり考えていると、エメラルダはさらにまくし立ててきた。
「それだけじゃないわ。大きな声では言えないけれど、あの方は、実の兄君を手にかけ王太子の座を奪ったという噂よ。なんでも離宮に滞在しているときを狙って、建物に火を放ったとか。なんて恐ろしい方なのかしら」
確かに、教師のまとめた冊子には前の王太子は火事で亡くなったと書かれていた。不慮の事故らしいが、そういった場合、暗殺や謀略などの噂が立つのは仕方ないように思える。
エメラルダはその噂をさも真実であるようにセシリアに伝え、ぶるりと大きく身震いした。
「その火事で王妃様もお亡くなりになったそうよ。国王陛下はかろうじてお命を繋がれたようだけど、大火傷を負われて、今は寝台から出ることも叶わないのですって。王太子殿下はそんな陛下に剣を突きつけ、王太子位を要求したそうよ。恐れ多いこと」
「……」
黙り込むセシリアに、エメラルダはわざとらしく眉尻を下げた。
「その様子じゃ、誰もおまえに王太子殿下がどのような方かを教えなかったようね。異国に嫁ぐおまえを慮ってのことかもしれないけれど、知らないほうが不幸だわ。そう思わないこと?」
「……そうですね」
ここで大げさな反応をしては、よけいにエメラルダの感情を煽りかねない。その思いから無表情で頷くが、これがエメラルダには気に入らなかったようだ。
一瞬、目元に深々とした皺を刻んだエメラルダだが、なにを思ってか、一度閉じた扇を再び広げ、ひらひらと振りながら唐突に話題を変えた。
「ところで、どうしておまえのような生まれの卑しい王女が、アルグレードの王太子殿下に選ばれたかわかる?」
まさにそのことを知りたいと思っていたセシリアがハッと顔を上げる。それを見たエメラルダはにんまり微笑んだ。
「さっき、王太子殿下には愛人が山ほどいると言ったでしょう? だからあの方にとって、妃にする女は誰でもよかったのよ。おまえを選んだ理由は、おまえになんの後ろ盾もないからだわ」
扇で口元を隠して、エメラルダは意味深なまなざしをセシリアに向けた。
「娘が大国の王太子妃になれば、当然その親族はこぞって権力を得ようと動き出すでしょう? けれどおまえには母もなく、これといった親戚もいない。お父様からもほぼ見捨てられた状態だったわ。だからこそ、王太子殿下にとってはこれ以上ない相手というわけよ。妃に後ろ盾がないということはつまり、舅や姑が自分の治世に口を出してこないということでしょう?」
あまりな物言いにあきれて、セシリアは言葉が出ない。だが、エメラルダはまだまだ続けた。
「つまり、王太子殿下はおまえ自身を見初めたのではないということよ。殿下が欲しているのは面倒が少なく、放っておいてもまったく問題がない相手というだけ。その条件に合うのが、たまたまおまえだったというだけなのよ」
……セシリアを傷つけようとする魂胆が見え見えだ。
しかし一方で、なるほどと納得できる部分もある。
(わたしに求婚してくるなんておかしいと思っていたけれど、そういう理由ならわからないでもないわ)
他の噂はどうあれ、これについてはあり得るような気がする。
セシリアは妙にすっきりした気分になった。求婚されてから今日までずっと疑問に思っていたことが解消され、ほっとしたのかもしれない。
それと同時に、少しだけ残念な気持ちになった。
(なんの理由もなくわたしを見初めた……なんて、そんな夢みたいなこと、本当にあるわけないわよね)
「あら、おまえ。もしかして王太子殿下に好かれているとでも思っていたの?」
ハッと我に返ったセシリアに、エメラルダは「無理もないわね」とかすかな同情が滲む声音で頷いた。
「あれだけ見目麗しい殿方に求婚されて、勘違いしない女はいないわ。真実を知って……さぞ気落ちしているでしょうね」
エメラルダはしんみりした面持ちでセシリアの手を取ってくる。
これまで一度としてなかった親しげな態度に、セシリアは逆に警戒心を抱いた。
さんざん語られた王太子殿下の悪い噂と相まって、今度はなにを言われるのだろうかと緊張する。
「ねぇ、いっそ、この求婚を断ってしまったらどうかしら?」
「はっ……? な、なにを」
予想だにしなかった言葉に、セシリアの声が裏返った。
「だって嫁いだところで、おまえは絶対幸せになんてなれやしないわ。自分を都合のいい相手としか見ていない殿方に嫁いでも苦労するだけじゃない」
……本気で言っているのだろうか。
異母妹の考えに唖然としつつも、セシリアは一度深呼吸をし、相手を刺激しないよう意識しながら口を開いた。
「それはできません。大国の申し出を断れるほど、この国は強くも大きくもありません。なにより陛下の命で、既に宰相が先方に承諾の返事をしているはずです」
「あら。正式な発表はこれからでしょう?」
「それでも、王太子殿下がわたしに求婚するところを大勢の方がご覧になっています」
それを覆す真似をするなどとんでもない。国同士の関係にヒビを入れるつもりかと言外に伝えるが、エメラルダはまったく聞き入れる気がないようだ。
「確かにそうだけど、でもあのときは『フォルカナの王女に求婚する』と知らされていただけだし、参加者のほうもおまえの顔や名前まで覚えてはいないでしょう。別の人間にすり替わっていたところでバレやしないし、それ以前に、この二ヶ月でいろいろと調整してそうなったのだろうと察してくださるはずよ。なにせ招待されている人々も皆、国を代表する要人ですもの。そのあたりの事情はよく心得ているはずだわ」
歌うようなエメラルダの台詞に、セシリアは頭を抱えたくなる。
エメラルダも一国の王女であるはずなのに、よくもまあ、こんな自分本位の考え方を並べられるものだ。
(というより、わたしに成り代わってアルグレードへ嫁ぎたいと思っていることがバレバレよ)
王太子殿下の悪口を吹き込むのも、結局はそれが目的だろう。
どう反論しようか、どうすれば角が立たないだろうかと頭を悩ませながら、セシリアは辛抱強く言葉を紡ごうとする。
「ですが実際にそんなことをすれば、国の信用問題に関わります」
「もう、そんな難しいことは宰相たちにでも任せておけばいいのよ!」
エメラルダがいら立った様子で反論してきた。
が、さすがのエメラルダも、セシリアの様子から芳しい答えは返ってこないと悟ったのだろう。「いいこと?」と扇の先を突きつけ、きついまなざしをセシリアに向けてきた。
「次の舞踏会で王太子殿下にお会いしたら、求婚を断ると直接殿下に伝えなさい。これはおまえのために言っているの。おまえが異国で心細い思いをしないようにという、わたしの気遣いなんだから。そこをしっかりわきまえるのよ!」
いいわね! と念押しして、エメラルダはドレスの裾を翻し靴音高く退室していった。
現れたときも唐突だったが、立ち去るときはもっと突然だ。まるで嵐が去ったような感覚を覚えて、セシリアはため息まじりに椅子に沈み込んだ。
しばらくぐったりと座り込んでいたが、やがて不安がチクチクと胸を刺激してくる。
(いくらこちらが常識を説いたところで、あんな様子のエメラルダが、おとなしく手を引くとはとても思えないのよね……)
近隣諸国にふたりの婚約が正式に発表されるのは、『大陸会議』を締めくくる舞踏会の席でと伝えられている。
国外からの来賓もいる中、求婚を断るなど常識的にあり得ないが、セシリアに本気で成り代わる気でいるエメラルダがなんの行動も起こさないとは考えにくい。
成り代わることが無理だとしても、セシリアを貶めるためになにかとんでもないことを引き起こして、結果的にアルグレードとのあいだに問題が起きる事態になったら……
(か、考えただけで頭が痛いわ)
セシリアは文字通り頭を抱え、先ほどとは比べものにならないほど深いため息を吐き出した。
「本当に、どうしてわたしがこんな目に遭わなくてはならないの」
半ばやけっぱちで呟くが、返事が返ってくることは当然ない。
「いったい、どうすればいいの……」
本気で途方に暮れながら、セシリアはひとり下唇を噛みしめていた。
どんなに悩んだところで時間が止まることはなく、気づけば舞踏会の日を迎えてしまった。
いろいろなことを考えすぎてすっかり疲弊した中、セシリアはあきらめにも似た気持ちで、舞踏会の準備のため部屋に詰めかけてきた侍女たちと向き合う。
ドレスは、昨日のうちに王太子殿下から届けられた贈り物だ。
これまで贈られてきたドレスの中でもひときわ豪華な仕立てで、一緒に入っていた宝飾品といい、これが婚約発表を兼ねた舞踏会のために用意されたものだと一目でわかる。
ご丁寧に、『これを着たセシリアがどれほど美しくなるのか楽しみにしている』と直筆で書かれたカードまで添えられていた。
たいていの令嬢ならきゅんとする心遣いだろう。だが、面倒極まりない自分の状況を思うと、気持ちは沈んでいく一方だ。
……とはいえ、いつまでも暗い気持ちを引きずっているセシリアではない。
気持ちの切り替えは彼女が生きていく上での必須項目だ。そうでなければ後ろ盾もなく後宮で暮らしてなどいられない。
エメラルダのもとで何年も侍女としてやってこられたのも、それがあってこそだった。
(本当に、我ながらよく耐えてきたわ)
二ヶ月前までの日々を振り返ると、凄絶すぎてなんだか笑いが込み上げてくる。
そんなセシリアになにを思ってか、姿見を運んできた侍女がはしゃいだ声を上げた。
「本当にお美しいですわ……! セシリア様、どうぞご覧になってください」
ちょうど着付けが終わり、裾などを整えていた侍女たちがさっと立ち上がって離れていく。
顔を上げたセシリアは、鏡に映った自分の姿にわずかに息を呑んだ。
ドレスは華やかな桃色で、シフォンが幾重にも重なる愛らしい意匠だった。広く開いた首元や細い手首を飾るのも、桃色の光沢を放つ大粒の真珠だ。
セシリアの長い銀髪は、一部だけを編み込みあとは背に垂らしている。
毎日のように手入れをした髪はつやつやで、ドレスの愛らしさと相まってセシリアをいつもより数倍美しく見せていた。
「大変お綺麗ですわ」
侍女たちもうっとりと感嘆のため息を漏らす。
すっかり変身したみずからに驚きつつも、セシリアは短く礼を言い、羽根飾りのついた扇を受け取った。
そして侍女たちを前後左右に従えて、舞踏会の開かれる大広間へ向かって歩き出す。
侍女を伴って会場入りする……こんな王女らしい扱いは生まれて初めてだ。
(でもきっと、これが最初で最後になるわね)
自嘲まじりの笑みを浮かべながら、大広間の入り口にたどり着いたセシリアは、煌々と明かりの灯る広間をじっと見つめた。
誰にも言わなかったが……エメラルダの訪問から今日まで、この求婚についてずっと考え続けてきた。
エメラルダに言った通り、こちらから断るなど常識的にあり得ないことだと重々承知している。
しかし……
「セシリア王女のご入場です!」
広間の入り口にいた案内係が、セシリアの姿に気づくなり大声を張り上げる。
既に会場入りしていた人々は、わっと拍手を贈って彼女を歓迎した。
華やかな音楽が流れる中、楽しげに会話をしていた人々が、わざわざ振り返って好意的な視線を向けてくれる。
婚約の発表はこのあとのはずなのに、既に周知の事実となっているのは間違いないようだ。心なし胃が痛くなってくる。
強張りそうになる口元をとっさに引き上げ、控えめな笑みを浮かべてはみたものの、内心はこの場から逃げ出したい思いでいっぱいだった。
(やっぱり、こんな中で求婚を断ったら大問題もいいところだわ)
改めてそれを思い知らされる。
と、人混みが割れて、ひとりの青年がまっすぐこちらに歩いてくる。ひときわ大きくなった拍手に、セシリアも自然とそちらに目を向けた。
そうして現れた青年の姿を目にした途端、思わず緊張も忘れて見入ってしまう。
(王太子殿下……!)
ゆったりと歩いてきたのは、アルグレード王太子クレイグ・アレン殿下だ。
先日は濃紺の軍服を着込んでいた彼だが、今宵は装飾もきらびやかな礼服を纏っている。
色は紺を基調としていて、おそらく軍服と同じで瞳の色に合わせた配色なのだろう。
真っ白なタイに留めている宝石も紺色だ。手の込んだ刺繍は金色で、釦も飾緒も同じ色に統一してある。重厚感を保ちながらも、実にきらびやかな装いだった。
(本当に、心臓に悪いくらい美しい方だわ)
礼服に合わせて整えられた茶褐色の髪も、その隙間からのぞく紺色の瞳も、なにもかもが輝いて見える。
そんな彼にじっと見つめられ、セシリアは魅入られたようにその場で固まってしまった。
(い、いけない、いけない)
ぽうっと見とれている場合ではない。軽く頭を振ったセシリアは、手を伸ばせば届く距離で立ち止まった王太子殿下に慌てて向き直った。
「久しぶりだな、セシリア。元気にしていたか?」
王太子殿下の端整な顔に笑みがあふれる。熱っぽいまなざしで見つめられ、セシリアは喜びよりも恐れ多さにくらくらした。
「はい。おかげさまで……。殿下もお元気そうで嬉しく思います。あの、贈り物をありがとうございました。このドレスも……」
「特注で作らせたものだが、想像以上によく似合っている。まるでここだけ花が咲いたみたいだ」
会場にはたくさん生花が飾られている上、着飾っているご婦人も多くいるのに、そんな賛辞を贈られると大げさすぎて身がすくむ。
だが言っている本人は大真面目らしい。目を細めて「本当に綺麗だ」と呟くその表情に嘘は見当たらなかった。
(は、恥ずかしいにもほどがあるわ……!)
彼の視線だけで耳まで真っ赤になりそうである。
「よろしければ、ダンスをご一緒願えますか?」
「よ、喜んで……」
緊張のあまりどもりながら、セシリアは差し出された大きな手にぎくしゃくとみずからの手を重ねた。
それを待っていたように 楽団がワルツを奏で始める。人々がさーっと動いて、広間の中央をふたりに譲った。
「こうしてともに踊れる日を指折り数えて待っていたんだ」
セシリアをしっかりホールドし、王太子殿下が感慨深そうに囁いてくる。
どこか色気さえ感じられる声音に、危うく腰が抜けそうになった。動揺したせいか、うっかりステップを間違えそうになる。
よろめきかけたところをすかさずたくましい腕に支えられて、男のひとの力強さについどきっとさせられた。練習相手の女教師では、決して得られなかった安心感もある。
「大丈夫か?」
「は、はい……」
腰を抱いてくる腕にも心なし力が込もった気がして、それまで以上に迫ってきた異性の気配に、否応なくどきどきしてくる。
おまけに彼のリードはとても軽やかで、まだまだダンスに慣れないセシリアでも自然と身体が動く、実に完璧なものだった。
(緊張するのは仕方ないとしても、こんなふうに誰かと踊れるなんて夢のようだわ)
曲に合わせてくるりとターンしながら、セシリアは自然と笑みを浮かべる。
するとクレイグがまぶしいものを見るように目を細めた。
「そうやっていつも笑っていてほしい。おまえが微笑むだけでおれは幸せを感じられるんだ。嫁いだあとも、おまえがいつでも笑顔でいられるために努力すると誓おう」
なんとも熱烈な台詞に、セシリアは思わず目を見開く。本当なら真っ赤になって恥じらうところだが、セシリアは不思議と冷静さを取り戻すことができた。
(さすがは大国の王太子殿下、口説き文句も一流だわ……)
こんなことをさらりと言えるあたりに、彼の社交性の高さがうかがえる。長くひとりで暮らし、その後も侍女として生活していたセシリアにはとうてい真似できない芸当だ。それだけに、彼とは住む世界が違うと意識させられる。
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