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1巻
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しおりを挟む第二章 仮面舞踏会での出逢い
マリーベルの友人が主催者だという仮面舞踏会は、かなり盛況のようだった。馬車寄場に入った時点で多くの馬車と招待客が見えて、それなりの規模だということに驚く。
ようやく馬車を停めることができたので、アイリスは蔓草模様が入った仮面を身につけ、マリーベルと連れだって馬車を降りた。
「ずいぶんたくさんのひとが招待されているのね」
「ここのご主人が派手好きだからね。もちろん、その奥方であるわたしの友人も。夫婦で趣味が合った結果の催しって感じね」
会場となる広間へ歩きながら、アイリスはそっと前後を歩く人々に目を走らせる。もしかしたら誰かがアイリスに気づいて声をかけてくるのではないか、と不安がよぎった。
そんな従姉妹に気づいたのだろう。マリーベルが「大丈夫よ」と耳元で囁いてくれる。
「今日のあなたはとっても可愛い妖精姫よ。誰も気づきやしないわ。むしろ、そうやって猫背でこそこそしているほうが人目を引いちゃうわよ。もっと胸を張って堂々としていなさいな」
そう言われても……という心境だが、マリーベルの言うことはきっと正しい。アイリスはうつむきそうになるのをこらえて、ぐっと顎を上げた。
緊張しながら受付を済ませ、外套を預けて広々とした会場に入った瞬間――
アイリスは思わず息を呑んで、入り口に立ち尽くしてしまった。
「これは……、なんて、すごいの……!」
舞踏会は大盛況だった。高い天井とガラス張りの壁が覆う広間には、すでに五十人以上の人々が詰めかけ、仮面と思い思いの衣装で楽しんでいた。
シャンデリアがこれでもかと光り輝く中、皆が談笑したり踊ったり、酒と料理に舌鼓を打ったりと、この場を満喫している様子だ。
「見て、マリーベル。大昔の騎士の鎧姿をしている方がいるわ! あの鎧、素材はなにかしら……まさか本物というわけではないわよね?」
ガシャンガシャンと音を立てながら横を通り過ぎていく騎士を見て、アイリスは目を輝かせる。思わず従姉妹の袖を引っ張ると、マリーベルは苦笑して肩をすくめた。
「そんなの、わたしに聞かれてもわからないわよ。鎧の専門家じゃないんだから」
「あ、ねえ、向こうには男装した女性がいるわ。あの格好は乗馬服かしら。でもフリルをたくさん使っててとても素敵……!」
「ね? いろんな装いが見られるって言った通りでしょ?」
マリーベルの言葉に、アイリスは大きく頷いた。
本当にいろんな格好のひとがいた。何十年も前に流行した、ゴテゴテとしたドレスを着ている貴婦人もいれば、巻き毛のカツラをつけて、ヒールの高いブーツを履いた紳士もいる。
しかもよく見てみれば、完全に当時のままの格好というわけではない。最近になって考案されたレースを上手く取り入れたりして、それぞれが趣向を凝らした装いをしている。
見れば見るほど楽しくなって、アイリスは夢中で周囲を見回した。
同じように周囲に目を走らせたマリーベルは、ほっとした様子で息を吐く。
「よかった。誰もあなたとは気づいていないみたいね。まぁここまで妙な格好の人間だらけだと、現実のことなんてどうでもよくなるのかも。それが仮面舞踏会のいいところよね」
「ええ、そうね。……あ、マリー、あそこで手招きしている方がいるけど、知り合いかしら」
「ああ、そうだわ。この家の奥方よ。今日は修道女の格好をすると言っていたから間違いないわ。挨拶しなきゃ。あなたも一緒にくる?」
「……いいえ、遠慮しておくわ。なにがきっかけでわたしと知られるかわからないし……。なにか聞かれたら、田舎から出てきた遠縁の娘とでも言っておいてくれる?」
「……そうね。そのほうがいいかも。じゃあ挨拶に行ってくるけど、一人で大丈夫?」
「ええ、壁際で大人しくしているわ」
気遣わしげなマリーベルに微笑んで、アイリスは壁際に置かれた長椅子へ向かう。
舞踏会が始まったばかりということもあって、休憩用に置かれている長椅子に座っている者は皆無だ。おかげで広間全体を見渡せるいい位置に座ることができた。
みんな社交に忙しいのか、壁の花になっているアイリスになど目もくれない。おかげでアイリスは思う存分、人々の衣装を楽しむことができた。
仮面越しの狭い視野の中、目をこらして会場を眺めていると……
「――あなたは踊らないのか? せっかく魅力的なドレスを着ているのに」
不意に傍らから声をかけられて、アイリスは思わず息を呑んだ。
幼い頃から叩き込まれた淑女教育の甲斐あって、無様に飛び上がることはなかったが、顔を上げる動きはややぎこちなくなってしまう。
声のしたほうを見れば、どこか気怠そうな笑みを浮かべた紳士が立っていた。
黒の上下にマントを羽織って山高帽を被っている。このところ世間で流行しているという小説に出てくる、怪盗の格好だろうか?
いずれにせよ、長身の彼にとてもよく似合っている。少し浅黒い色の肌が黒い仮面と相まって、エキゾチックな雰囲気を醸し出していた。
(――貴族の方かしら? 知り合いではなさそうだけど)
もっとも仮面をしているから確証はないが。
アイリスは何事もなかったように長椅子へ座り直し、紳士に向かって口を開いた。
「ええ、踊るよりも、舞踏会の様子を眺めているほうが楽しいので」
「ほう、人間観察が好きということかな?」
「いいえ。ひとより衣装を見ております。皆様とても素敵な装いをしていらっしゃるので」
男は「なるほど」と呟きつつ、アイリスの全身に視線を走らせた。
「そういうあなたも、素敵な衣装を着ている。特に、頭を飾るそれはとても趣味がいい」
アイリスは目を瞠ってヘッドドレスにふれる。自分で作ったものを見ず知らずのひとに褒められて、胸の中に嬉しさが込み上げてきた。
「……ありがとうございます。これは自分で作ったものなのです」
「自分で……?」
紳士は興味を持ったのか、少しこちらへ顔を寄せてきた。
「ビーズとの合わせ方が面白いな。もしやこれとお揃いのドレスも自分で?」
再びアイリスの装いを頭からつま先までさっと一瞥した紳士が、さらに身を寄せながら聞いてくる。
その距離の近さに、アイリスはなんとなく落ち着かない気持ちになった。
今日のアイリスは、妖精姫をイメージしたハイウエストのシュミーズドレスを着ている。
シュミーズドレス一枚だとあまりに薄すぎて肌が透けてしまうので、コルセットを身につけ、腰元には布を巻いた。大きく開いたデコルテには草花を模したレースを縫い付け、ドレス全体に蔓草模様の刺繍を入れて豪華さを出している。
「ええ……そうです」
「それはすごい」
お世辞ではなく本当に感心したという声音で言われ、アイリスは目を見開いた。
貴族の世界では、貴婦人はハンカチーフやシャツの袖口に刺繍をすることはあっても、衣服や小物を作ることはほとんどない。それは仕立屋の仕事だからだ。貴族相手なら眉をひそめられてもおかしくないことだけに、紳士の言葉にひどく驚かされる。
彼が貴族なら、よっぽど心の広いひとなのかもしれない。もちろん、貴族でない可能性もあるけれど……
「では、あなたはデザイナーかなにかなのかな?」
「デザイナー?」
(仕立屋のことかしら……?)
聞いたことのない言葉に首をひねったアイリスは、こちらをのぞき込む紳士へ正直に答えた。
「いいえ、違いますわ」
「……ああ、失礼した。この場で職業を聞くのは無粋だったな。気を悪くさせたのなら謝罪しよう」
そう言って頭を下げられて、アイリスは面食らってしまった。軽くとはいえ、立派な紳士に頭を下げさせてしまい、どうしていいかわからない。
慌てて椅子から立ち上がり、気にしないでほしいと伝えようとすると――
「あら、アイリス? そちらの方は?」
友人への挨拶を終えたのだろう。マリーベルが戻ってきた。
怪盗の仮装をした男は、さっと身体を起こす。
「お連れの方が戻ってきたようだな。それでは、わたしはこれで失礼するとしよう」
なんとも言えない気持ちでアイリスは頷く。すると男は胸に手を当てて一礼しつつ、そっと耳元で囁いてきた。
「次はポーリーン子爵家で開かれる仮面舞踏会に参加する。今日と同じ格好で行くから、もし会えたときは――」
男は言葉の続きをあえて言わず、仮面の奥から意味ありげに微笑みかけてくる。アイリスがとっさに反応できずにいるうちに、彼はさっとマントを翻して、人混みの中へ消えていった。
呆然とその背を見送るアイリスに気づき、マリーベルがすまなそうな目を向けてくる。
「もしかして、お邪魔してしまったかしら?」
「あ……いいえ、いいのよ」
そう言いながらも、アイリスは男が去って行ったほうをじっと見つめる。
不思議なことだが、あんな短い会話を交わしただけなのに、彼はこれまで出会った誰よりも、強い印象をアイリスに残していった。
(次はポーリーン子爵の仮面舞踏会に参加すると言っていたけれど……)
そこに行けばまた会えるのだろうか? アイリスは、そんなふうに思った自分に驚いた。
アイリスはそっと頭に手をやる。
彼に褒められたヘッドドレスが、シャンデリアの明かりに照らされてキラキラと輝いていた。
仮面舞踏会のあと、怪盗の仮装の紳士のことが胸に残る一方で、アイリスは彼が口にした『デザイナー』という言葉も気になっていた。
(たぶん、ドレスや小物の装飾を考案するひとのことだと思うけど……)
折良く、マリーベルが新しいドレスを作るために懇意の仕立屋を呼ぶというので、アイリスは思い切ってその場に同席させてもらうことにした。
顔を知られている可能性を考え、頬にそばかすを描き、お下げ髪と縁の大きな眼鏡で変装する。
その甲斐あって、やって来た仕立屋はアイリスを侍女の一人と思ったようだ。おかげで彼女たちの仕事ぶりを自由に見学することができた。
作業の邪魔にならないよう気をつけながら、彼女はドレスの図案を広げた仕立屋に、「これはあなたが描いたものなの?」と問いかける。
「いいえ。こちらはわたくしどもの専属デザイナーが手がけたデザイン画ですわ」
「専属デザイナー……。そのひとたちが、こういうものを描くの?」
「はい。これまでマリーベル様にご注文いただいたドレスから、好みの傾向を導き出し、そこに最先端の流行を取り入れたデザインを考案させていただいております」
仕立屋が胸を張って告げる。アイリスは何枚かの図案を手に取り、熱心に見つめた。
「こういったものは、ドレスの作り方を知らないと描くのは難しそうね……」
思わず呟いたアイリスに、仕立屋は当然とばかりに頷いた。
「おっしゃる通りですわ。デザイナーは、誰よりも衣服の製法に精通している者がなるのが一般的ですから」
(なるほど……。わたしはこれまで、すでにできあがっているものを参考にしていたけれど、デザイナーは違うのね。どういったものを作るか、一から考えるのが仕事なのだわ)
「ここが提案してくるドレスは色使いが大胆で、とても気に入っているの。きっとセンスのいい方が図案を考えてくれているのね。仕上がりも丁寧だから、お友達にもお勧めしているのよ」
採寸を終えたマリーベルが会話に入ってくる。仕立屋は相好を崩して頭を下げた。
「伯爵夫人にそうおっしゃっていただけるなんて、感激の極みですわ。デザイナーやお針子たちも、喜びます。次のドレスはより美しいものをお渡しできるように、いっそう励みますわ」
「ええ、お願いね」
マリーベルの言葉に、うしろに控えていたお針子たちがどこか誇らしそうに微笑んでいた。
その表情を見て、アイリスの脳裏に自分の作った小物を受け取ってくれたメイドたちの笑顔がよみがえる。直した帽子を受け取ったときのマリーベルの顔も。
(わたしも、こんなふうになにかを作って、誰かに喜んでもらえる生き方がしたい……)
ふと、そんな考えが頭に浮かぶ。と同時に、この先どうしようかと考え続けていた胸に、希望の光がぽっと灯った気がした。
アイリスはその気持ちのまま、思い切って、デザイナーとはどういう仕事か、どうやったらなれるかと仕立屋に質問する。
アイリスの勢いに驚きながらも、仕立屋は丁寧にその質問に答えてくれた。
曰く、デザイナーのほとんどが、幼い頃から仕立屋で修業を積んでいる者なのだという。お針子としてある程度の腕を認められてから、デザイナーのもとで勉強するのだそうだ。
つまり、幼い頃からその世界に入って学ぶしかデザイナーになる方法はないらしい。
それを聞いたアイリスは、がっかりする気持ちを抑えられなかった。希望の光が見えたと思った矢先に、躓いてしまった感じが否めない。
はぁ……と、大きなため息をついたところで、マリーベルに声をかけられた。
「そういえば、この前の仮面舞踏会、あなたずいぶん楽しんでいたでしょう? 今度はポーリーン子爵のところで同じような催しがあるのだけど、行く?」
「ポーリーン子爵の仮面舞踏会……」
その言葉で、真っ先にアイリスの頭に浮かんだのは、あの怪盗の仮装をした紳士のことだ。
彼は別れ際、次はポーリーン子爵の舞踏会に参加すると言った。
気づくとアイリスは、前のめりになってマリーベルの手を握っていた。
「是非行きたいわ、マリーベル……!」
「あらまぁ、よっぽど気に入ったのね」
そう言いながら、マリーベルは嬉しそうに破顔した。
「本当にあなたはドレスを見るのが好きね。仕立屋にも色々質問してたし……。まぁなんにせよ、元気が出てきたならよかったわ! やっぱり好きなものに囲まれるって大切よね」
うんうんと頷いているマリーベルを見つつ、アイリスはめまぐるしく頭を動かしていた。
もしかしたら、あの紳士は服飾やデザイナーについて詳しいのかもしれない。
貴族にとって、身につけているものを褒めるのは挨拶みたいなものだ。だけど、彼はもっと専門的な視点からアイリスのヘッドドレスを見ていた気がする。
(彼ならデザイナーのなり方について、なにか別の方法を知っているかもしれない……!)
「アイリス? なにぼうっとしてるの」
マリーベルに声をかけられ、アイリスはハッと顔を上げる。いつの間にか仕立屋たちは帰り支度を終え、部屋を出て行くところだった。
マリーベルと並んで仕立屋を見送りながら、アイリスは密かに胸を高鳴らせる。もしかしたら自分は今、これから進むべき道について考えるきっかけを得られているのかもしれない。
(あの紳士にまた会って詳しい話を聞ければ、自分のやりたいことがはっきり形になるかもしれないわ……!)
期待に胸を膨らませながら、アイリスは当日に向け「よし」と密かに気合を入れた。
そして、仮面舞踏会当日――
中世風の薄桃色のドレスを着て階段を下りてきたアイリスを、先に玄関で待っていたマリーベルが目を丸くして迎えた。
今日のアイリスの装いは、形こそ中世風のドレスながら装飾は凝った現代風という、変わっているがとても可愛らしいドレスだった。
ストンと自然な形に裾の広がるアイリスのスカートをまじまじと見て、マリーベルが尋ねてくる。
「アイリス、あなたのセンスって独特ね。バッスルのないドレスなんて、腰がスースーして落ち着かなくない?」
アイリスは髪飾りを整えつつ、ちょっと唇を尖らせた。
「そう言うけど、お隣のルピオンではバッスルのないドレスが主流なのよ? それにこのスカートは、とても動きやすくて楽なんだから」
実際、バッスルがないだけで驚くほど動きやすい。特に馬車の乗り降りの際など、感動して思わず笑ってしまったくらいだ。
タラップを上るのも座席に座るのも、いちいち姿勢を気にする必要がないのだ。スカートの膨らみを崩さないよう浅く座る必要もないから、馬車の揺れでバランスを崩すこともない。
(そう考えると、この国は装いでも女性の行動を制限しているみたいね……)
侯爵令嬢として、王子の婚約者として、常に厳しく行動を制限されてきたアイリスだからこそ、そんなふうに感じるのかもしれないが。
ほどなく会場となるポーリーン子爵家の屋敷に到着し、二人は先日と同じように連れ立って受付を済ませた。
先日の舞踏会に比べるとやや規模が小さいが、照明をあえて暗くして、妖しげな雰囲気を演出している。
会場にも黒っぽい格好をしているひとが多いようだった。その中にいると、薄桃色のアイリスのドレスは少し目立つかもしれない。
だが今日に限ってはそのほうが都合がよかった。主催者に挨拶してくると言うマリーベルと別れ、アイリスはゆっくりと人混みの中を歩き始める。
装いは新しくしたけれど、仮面は前と同じものだ。そうすれば、相手もきっとアイリスに気づきやすい。
アイリスは、さりげなく人混みに目を走らせた。
ほどなく、マントを翻してこちらへ歩いてくる人影に気づく。
アイリスは立ち止まって、彼が近づいてくるのをじっと見つめた。ほどよい距離で彼が足を止めたのを合図に、ドレスの裾をつまんでお辞儀をする。
「こんばんは。またお目にかかれて嬉しいです」
「こちらこそ――今日は中世風のドレスなのだな。……いや、ルピオン風のドレスと言ったほうがいいか?」
彼がスカートの形を見ながらそう言ったので、アイリスは目を瞠った。
日常的にドレスを身につけている女性ならまだしも、男性がスカートの形を見ただけで、ルピオン風のドレスと言い当てたことに驚いた。
やはり彼は服飾に詳しいのかもしれない……
アイリスは期待に胸を膨らませつつ、慎重に問いかけた。
「あなたは、ルピオンの流行をご存じでいらっしゃるのですか?」
「ああ。仕事でルピオンに出向くことが多くてね」
「お仕事で……」
どんな仕事なのだろう? 貴族であれば、外交関係と思うところだけれども。
「だがそのドレスは、形こそルピオンのドレスに近いが、かなり華やかだ。ルピオンのものは実用第一で飾り気がないからな」
「そう、なのですね……。わたしはファッション雑誌で見ただけで、ルピオンのドレスを直接目にしたことがないもので」
アイリスは会話をしながら、仮面越しに相手を観察した。
「あの、礼儀に反していたら申し訳ありません……。あなたがどのようなお仕事をなさっているか伺っても? もちろん、無理なら結構ですが」
「そんなに恐縮することはない。わたしは、ただのしがない商人だよ」
「商人……」
彼はなんでもないことのように言うけれど、隣国にまで足を運ぶ商人が『しがない』ということはないのではないだろうか。
アイリスはじっと相手の目を見つめる。とはいえ相手も仮面をつけているから、表情を読み取るのは難しいのだけれど。
でもこうして見ると、なんとも端整な顔立ちをした男性だ。仮面をつけていても、彫りの深い顔立ちまでは隠せない。
すっと通った鼻梁や、男らしい顎のライン。緩く弧を描く唇も彫像のようで、ぱっと見ただけでもかなり目立つ。
癖の強い黒髪は艶やかで、着ている服の仕立てもいい。
身につけるものや立ち姿によって、自分がどう見えるのか、きちんとわかっているひとなのだと感じられた。
だからだろうか。装いだけでも隙のなさが伝わってきて、アイリスは無意識にこくりと唾を呑み込んでしまう。
「今日のドレスは、この日のためにあつらえたのか?」
「……ええ、古着を仕立て直しましたの。先日の仮面舞踏会には華やかな格好をした方が多かったので、フリルやレースを流行りのものに変えたんです」
「よく似合っている。着心地は?」
「着心地……そうですね、バッスルのないドレスはとても動きやすいです」
自分のスカートを見下ろし、裾を少しつまんで持ち上げながら、アイリスは説明する。
具体的には? と聞かれ、立ったり座ったりするのが非常に楽であると伝えた。
「馬車に乗ったときに特に実感しました。邪魔な膨らみがないぶん、乗り降りが楽ですし、深く腰かけることもできます。バッスルがあると立ち上がるにも、誰かの手を借りなければいけませんから」
貴婦人たるもの、使用人を使うのは当たり前という価値観の中で育ったが、色々と便利な道具が登場している世の中で、今のままの生活がずっと続くとはとうてい思えない。
「ふぅん。貴婦人というのは見た目以上に苦労しているのだな。自分で経験できないことだけに、なかなか興味深い話だ」
顎に手を当てて感心している紳士に、アイリスは思わず苦笑する。
アイリスとて、今までだったら絶対にそんな苦労話など口にしなかっただろう。どんなに動きにくい格好をしていても優雅に振る舞うのが、貴婦人の嗜みなのだから。
仮面をつけているからなのか、アイリスも饒舌になっていた。
「ここだけの話、優雅に笑いながら、実は裾をどこかに引っかけないかとヒヤヒヤしているんですの。でもこのドレスならそうした心配はいりませんわね。きっと最近導入され始めた自動車にも楽に乗れるんじゃないかしら?」
言い終えた瞬間、アイリスは「しまった」と思った。
きちんと考えを聞いてもらえる嬉しさから、必要以上に喋りすぎてしまったかもしれない。
慌てて口をつぐんで、仮面の奥から相手を窺う。
しかし彼は、特に気分を害した様子もなく「なるほど」と頷いていた。
「我が国で自動車の普及が遅いのは、バッスルつきのドレスが理由かもしれないな。なにせ自動車の乗り口は馬車より狭い。乗ったところで座席に浅く腰かけるしかない女性には、あまり乗り心地がいい代物ではないのだろうからな」
アイリスは驚きのあまり仮面の奥で目を見開いた。お喋りをたしなめられるどころか、アイリスの言葉に対し、逆に自らの考察を述べてくるなんて。
これが父だったら、『女が知ったような口を利くな』と叱り飛ばされたことだろう。
アイリスの戸惑いに気づいたのか、仮面の奥で、彼の目がふっと和らいだ気配がした。
「どうやらあなたは、先見の明をお持ちのようだ。特に女性ならではの着眼点が素晴らしい」
「……買い被りすぎですわ」
「謙遜する必要はない。あなたは賢く、そして美しい。今日のドレスもとても似合っている」
過剰なくらいの褒め言葉をもらって、なんだか落ち着かない。
だが今日の目的を思い出し、アイリスは気持ちを奮い立たせた。
話を切り出すなら、今をおいてないかもしれない。意を決して、相手を正面から見つめた。
「……実は、あなたに聞きたいことがあるのです。先日、『デザイナー』という言葉をあなたから聞いて、初めてそういうお仕事があると知りました」
「ほう?」
「それで、あの……不躾なお願いで恐縮なのですが、『デザイナー』について詳しく教えていただけないでしょうか?」
仮面越しでも相手が目を丸くしたのがわかって、アイリスは恥ずかしさに薄く頬を染める。
だがここでうつむいていては話が進まない。アイリスはさらにもう一歩踏み込んだ。
「自分でも少し調べてみたのですが、幼い頃から仕立屋で働いているひとがなるもの、としかわからなくて……」
男は顎に手を添え、しげしげとアイリスを眺めてきた。
「どうしてそれをわたしに聞くのだ?」
「……あなたは先程、商人だとおっしゃいましたが、服飾についても詳しいのではないですか? そんなあなたなら、デザイナーという仕事についてもご存じではないかと思ったのです」
「つまり、あなたはデザイナーになりたいと?」
そう問われ、アイリスは大きく目を見開いた。
(デザイナーに、なる? わたしが……?)
女性にドレスを提供するデザイナーという仕事に興味を持ったのは確かだ。だが幼い頃から仕立屋での修業が必要と聞いて、自分がデザイナーになるのは無理だと、無意識のうちにあきらめていた。
だが彼の口振りでは、なりたいと思えばなれるという感じがしてくる。
先日仕立屋に会ったときに抱いた希望が大きくなるのを感じ、アイリスは深く息を吸い込んだ。
「……なれますでしょうか? その道について勉強したこともない、わたしのような者でも――」
自分で言うのもなんだが、これまで王子妃になるための勉強はずっとしてきたが、それ以外のことはさっぱりなのだ。
このドレスを作ってくれたお針子たちの速く正確な手つきを思い出し、果たして自分にできるのかと不安になる。それ以前に、誰から技術を学べばいいのかもわからない。
途方に暮れて思わず唇を噛みしめたとき、目の前にすっと男性の手が差し伸べられた。
「……ひとの目もあることだし、とりあえず一曲お相手いただけるかな?」
踊りながら話そうということだと理解して、アイリスはおずおずと彼の手を取った。
空いているスペースに行くと、ちょうど新しい曲が流れてくる。向かい合ってホールドの形を取り、曲に合わせて同時に足を踏み出した。
(……やっぱり、この方は貴族じゃないかしら?)
ほんの少しステップを踏んだだけで、アイリスには、彼が幼い頃からダンスを習ってきたひとだとわかった。
貴族でなくても、決められたステップさえ覚えれば、ダンスは誰にでも踊れる。
だが大人になってから習った者と、幼少期から習ってきた者とでは、やはり足捌きや目線の使い方に差が出るのだ。
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