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   第一章 まさかの婚約破棄


「――今、なんとおっしゃったのですか、国王陛下?」

 自分の隣で絶句している父に代わり、シュトレーン侯爵家の一人娘、アイリスは震える声で問いかけた。
 淡く輝く柔らかな金髪に縁取られた面立おもだちは、楚々そそとした美しさに満ちている。深い海の色を写し取ったような大きな青い瞳は特に印象的だ。
 だが、アイリスはその瞳を大きく見開き、いつもは薔薇ばら色に輝く頬を真っ青にしている。
 季節は初春。寒さがなりをひそめ、春の花がほころび始める季節だが――彼女たちがいるガルディーン王国、国王陛下の謁見えっけんしつには、真冬の湖よりてついた空気が流れていた。
 動揺を抑えきれないアイリスの問いかけに対し、布張りの玉座に座る国王は、気まずそうに視線をらす。
 だが、ほどなくしてぞんざいな口調で問いに答えた。

「第二王子フィリップと、そなた……シュトレーン侯爵令嬢アイリスとの婚約を、破棄すると言ったのだ」

 破棄したい、ではなく、破棄――
 すでに決定事項として伝えられた内容に、アイリスは目の前が真っ暗になったように感じた。

(なぜ。いったいどうして……)

 ――アイリスが生まれたシュトレーン侯爵家は、ガルディーン王国において宰相などの要職を歴任してきた名門貴族だ。それもあって、アイリスは物心つく前に、この国の第二王子フィリップの婚約者と定められた。
 それ以降、王子の婚約者にふさわしくあれと厳しく教育されてきた。
 晴れて十八歳を迎え、本格的に結婚の準備を始めていた、その矢先のことである。
 ……とてもではないが「はい、そうですか」とすんなり認められる心境ではなかった。

「……恐れながら陛下、婚約破棄となった理由をお聞かせ願えませんか? フィリップ殿下の婚約者として、なにかわたしに至らぬところがあったのでしょうか?」

 勉強も礼儀作法も人一倍頑張ってきたつもりだが、自分でも気づかぬうちに、フィリップ殿下や陛下の逆鱗げきりんにふれることをしてしまったのだろうか?
 さらに顔色を青くさせるアイリスに、国王はきっぱり断言した。

「いいや。そなたに問題はない」

 アイリスはほっとするが、同時に戸惑いが大きくなる。
 視線でそれを訴えると、国王は深くため息をついた。

「……当事者であるそなたらには、話さぬわけにはいかぬな。だが、これは王族の威信にかかわることゆえ、他言無用とするように」

 王族の威信にかかわる……アイリスも同席する両親も、ゴクリと唾を呑み込んだ。
 玉座に背を預けた国王は、アイリスたちを見下ろしゆっくりと口を開く。

「そなたらも、フィリップが隣国ルピオンに留学していたのは知っておるな?」
「は、はい……芸術分野の見聞を広めるためと。留学からお戻りになり次第、挙式と伺っておりましたので、こちらでも準備を進めていた最中でした」

 ようやく衝撃から立ち直ったらしく、アイリスの父シュトレーン侯爵が頷いた。

「その留学先で、あろうことかフィリップは、現地の女優に熱を上げ――その女と結婚すると連れて帰ってきおったのだ!」

 唾棄だきするような国王の言葉もさることながら、伝えられた内容にアイリスも両親も大きく目をみはった。

流行はやりの小説でもあるまいし、王子と女優の結婚など許すはずがない。本来なら叩き出してやるところだが――問題は、その女優がフィリップの子を身ごもっているということだ!」

 国王の言葉に、アイリスの母はひっと喉を鳴らして気を失ってしまった。
 できることならアイリスも気絶してしまいたかったが、椅子の肘掛けを握ってかろうじて耐える。
 国王の話では、どうやら現在、その女優は国王直属の近衛兵監視の下、離宮に留め置かれているらしい。たとえ認められなくても、相手が王子の子を身ごもっているとなれば、下手へたに追い出すわけにはいかないのだろう。
 そして肝心のフィリップは、王城の自室で謹慎中とのことだった。この場に出てこられないのも、外部との接触を禁じられているからだという。

「再度言うが、このことはこの場にいる者だけの秘密だ。王子が隣国で女優をはらませたなど、外聞が悪すぎる。知られれば王家の権威が失墜しかねない」

 それは確かにそうだろう。しかし……

(それだと、わたしが理由もなく、ただ一方的に婚約を破棄されたことになってしまう……)

 貴族の娘にとって、結婚は人生における重大事だ。
 娘本人と言うより、その生家にとって重要な意味を持つ。娘を少しでもいい家に嫁がせることができれば、姻戚によって家格を上げることができるからだ。
 だからこそ貴族の娘は、幼い頃より貴婦人教育をほどこされ、夫に忠実で貞淑な妻になることを求められるのだ。
 それが、結婚間近に王家から婚約破棄を申し渡されたとなれば……世間はアイリスをどう見るだろう。なにか殿下や陛下の気に障ることをしたのだと疑われることは、きっとまぬがれない。

(そんなことになったら、わたしには次の嫁ぎ先など見つからなくなる……)

 アイリスはとっさに、父に助けを求める視線を送っていた。
 父はアイリスの視線に気づくことはなかったものの、なんとかして陛下のお考えを変えようと身を乗り出して懇願こんがんする。

「し、しかし、陛下もその女優を歓迎しているわけではないのでしょう? ならば、予定通りアイリスと結婚し、生まれた子供を二人の子として引き取ってはいかがでしょうか? 女優は殿下の愛人ということにすれば……」

 父の提案に、アイリスは思わず息を呑む。
 確かにそれなら、アイリスは婚約破棄のき目を見ることはなくなるだろう。
 その代わり、夫に愛人がいることに目をつむって生活することになる。おまけに二人の子供を自分の子として育てるなんて……
 だが、それに対する心配は杞憂きゆうだった。国王が重苦しいため息をつき、首を横に振ったからだ。

「余も同じことを提案してみたが、フィリップががんとして受け入れぬのだ。自分は女優を一途に愛している。その愛を裏切るような真似はできぬと抜かしてな。まったく……」

 国王もそうとう参っているのだろう。片手に顔をうずめて肩を落とすさまは、一国の王とは思えぬほど小さく見える。
 しかし、アイリスと父侯爵に比べればまだマシなほうだ。最後の望みもたれて、二人は文字通り絶句したまま凍りついてしまった。

「侯爵家には後日、慰謝料を送る。すまぬが、それで此度こたびの話はなかったことにしてくれ。――もう下がってよい」

 国王陛下の言葉に、父はぎこちなく立ち上がってお辞儀する。つまり父は、国王陛下の決定をそのまま受け入れるということだ。

(嘘でしょう……?)

 呆然としたまま頭を下げるアイリスは、足下が崩れ落ちるような絶望に落とされる。
 あまりのことに口も利けないまま、侯爵家の三人は王城をあとにするのだった。


 侯爵家へ帰宅し、意識が朦朧もうろうとしたままの母が使用人によって運ばれる中、アイリスは父に呼びつけられて書斎へ入る。
 王城では極力感情を表に出さなかった父だが、さすがに家ではそうはいかないらしい。

「なんということだ。よりによって婚約破棄とは……! アイリス! おまえがフィリップ殿下をとりこにできていなかったから、殿下は女優ごときになびいてしまったのだぞ!?」

 文机ふづくえこぶしでドンッと叩いて、父が血走った目で怒鳴どなってくる。
 激昂げっこうする父から投げつけられた言葉に、アイリスは息を呑んだ。

(そ、そんな……。婚約破棄はわたしのせいだとおっしゃるの?)

 思いもよらない言葉に、ショックで足下がふらついてしまう。
 ――確かにフィリップは、こちらが手紙を出してもほとんど返事をくれなかったし、贈り物をくれることもなかった。婚約者として一緒に舞踏会へ参加しても、最初のダンスを踊ったあとは気の合う友人たちと楽しむばかりで、アイリスはずっと放っておかれていたのだ。
 それを寂しく思わなかったと言えば嘘になる。だが未来の王子妃として、夫となる方に忠実で貞淑な振る舞いを求められてきたアイリスは、フィリップにそれを伝えることができなかった。
 それでも彼は、夫婦として長い人生をともにする相手だ。だからこそアイリスは、これからじっくりと関係を深めていって、二人なりの幸せを築いていけたらいいと考えていた。
 ――けれどフィリップは、アイリスに対してそう思わなかったらしい。
 唇を震わせ立ち尽くすアイリスに、父は厳しく言い渡した。

「おまえはしばらく自室で謹慎していろ。しばらくその顔をわたしに見せるな。忌々いまいましい」

 ――このシュトレーン侯爵家で、父の言葉は絶対だ。アイリスはぎゅっと目をつむり、ぎこちなく一礼する。

「まったく、役に立たない娘だ」

 書斎を出る際、父の吐き捨てた一言が、いつまでもアイリスの耳にこびりついて離れなかった。


         * * *


 それからしばらくして、王家から正式に二人の婚約破棄が公表された。
 表向きは『王子側の都合により』とされたが、それ以上の理由がおおやけにされなかったため、アイリスの懸念けねん通り、様々な憶測を呼ぶことになった。
 さらには、フィリップが従者へ「アイリスは中身のないお人形のようで、一緒にいてもなんの面白味もなかった」と不満をこぼしていたことが広まると、事態は悪化の一途をたどる。
 ――確かに、アイリス・シュトレーンは花のような美しさを持つ淑女だった。しかし貴婦人として模範的すぎて、一緒にいると息が詰まる。
 ――新しい物好きで奔放ほんぽうなフィリップ殿下にとっては、かなり息苦しい相手だったのだろう。
 などと、周囲はさも婚約破棄の理由がアイリスにあったかのように、フィリップに同情しているという。
 久々に顔を合わせた父からそう聞かされたアイリスは、驚きと衝撃のあまりしばらく口を利くことができなかった。

「噂好きのやからから散々質問攻めにされた。婚約破棄だけでも家の恥だというのに、さらに面白おかしく噂されるなど……」
「面白おかしく……噂……?」

 父の口調から、それが決していい内容ではないと察し、アイリスはこわごわと尋ねてみた。
 親戚の付き合いで夜会に出席していた父は、怒りをぶちまけるように帽子を床に叩きつける。

「婚約破棄の原因は、おまえにあるのではないかという話だ……! 王家が婚約を破棄せざるを得ない事情――子をはらみにくい体質であるとか、すでに純潔を失っているのではないか、と噂されていると、懇切丁寧に教えられたんだぞ!」

 あまりにひどい憶測に、アイリスは真っ青になってよろめく。

「どうして……」
「王家の簡潔な公表は、フィリップ殿下があえて泥を被ることで、おまえの名誉を守ろうとしたのではないかと思われているそうだ。お優しい殿下が婚約破棄のせいで謹慎されていることに、多くの人間が心を痛めておる」
「そ、んな……」

 なんとも皮肉な話だ。婚約者がいながら留学中に女優をはらませたフィリップのほうが、世間から同情されているなんて。

「それだけ周囲がおまえに悪感情を持っていたということだ。そうでなければ我が侯爵家の一人娘が、そのような悪評をこうむるはずがない! おまえ、よもや噂されている通り、すでに純潔を失っているのではあるまいな!?」

 父にギロリとにらみつけられ、アイリスは氷水を浴びたように背筋をゾッと凍らせた。

「お父様、なにをおっしゃるのです!? 神に誓って、そのようなことはありません!」

 まさか実の父にまで不貞を疑われるなんて思ってもみなくて、アイリスは必死に首を横に振る。

「これまでフィリップ殿下の婚約者として、恥ずかしくない生活をしてきました。それはお父様もご存じのはずです。どうしてそんなことを……!」
「知ったことか! 女が言うことなどそもそも信用できん。そうでなければ、このような噂が立つはずがないだろう!」

 近くの戸棚をドンッと叩いて、父は口角泡を飛ばして怒鳴どなってくる。
 父の言葉に、全身が震えるのを止めることができない。アイリスは国王陛下から婚約破棄を告げられたとき以上のショックを受けて、その場にへたり込みそうになった。近くにあった長椅子の背に手をつき、どうにか身体を支える。

(お父様はもう、わたしの言葉を信じてはくださらないの……?)

 きっと父にとっては『娘が王子に婚約破棄された』という事実がすべてで、これまでしてきた努力やアイリス自身のことなど、どうでもいいことなのだ。
 父と一緒に部屋に入ってきた母も、アイリスを擁護することなく、ただ沈黙を貫いている。
 両親にとって、婚約破棄された自分はもう、娘としての価値などないのかもしれない。
 そう思った瞬間、アイリスの胸に深い悲しみが込み上げてきた。
 知らず涙がにじんで、頬をらしていく。だが声もなく泣く娘の姿すら視界に入れたくないとばかりに、父はさっと背を向けた。

「これほど醜聞にまみれ、この家に泥を塗ったおまえには、もはや求婚する者も、もらい受けてくれる者もいないであろうな」

 すれ違いざま吐き捨てられた言葉が、アイリスの心をさらに深く傷つけたのだった。


 それからのアイリスは、もはや生きているのか死んでいるのかわからない生活を送った。
 父は特に謹慎を続けろとは言わなかったが、どこかに行く気持ちも誰かと話す気力も起きず、じっと自室に引きこもっている……この家で、アイリスは今や完全に腫物はれもの扱いになっていた。
 専属のメイドたちさえ、食事や入浴のとき以外に寄りつくことはなくなった。
 一人でいると、気持ちはますます沈み込む一方である。

(まるで世界中が敵に回ったみたいだわ……)

 鏡に映った自分のひどい顔を見て、アイリスは力なく笑う。
 十八年間、ひたすら家や王家のために努力してきたけれど、その結果がこれほどみじめなことになろうとは……正直、思ってもみなかった。
 部屋に引きこもっていても、メイドたちの噂から、状況がどんどん悪くなっていることがうかがえる。
 今では貴族だけに留まらず、多くの民が第二王子の婚約破棄について噂していて、屋敷の前を新聞記者が陣取っているような有様だ。
 周囲に求められるまま、王子妃にふさわしい貴婦人であろうとした。だが婚約破棄となった途端、皆がアイリスを一方的に非難してくる。
 非難されるだけの問題がどこかにあったということだろうか? だとしたら、それはなんだったのだろう? いったい自分のなにがいけなかったのだろうか……?
 婚約破棄を言い渡されてから今日まで、何度となく自問してきたが、いまだ明確な答えは出てこない。いっそ世間が言うようにアイリスに問題があったのなら、自業自得じごうじとくだとあきらめもついたのだろうか?

(これから、いったいどうすればいいのかしら……)

 出口のない迷路をさまよい、アイリスは一人、部屋でため息を吐いた。
 そんなある日――
 心配した父方の従姉妹いとこであるマリーベルが、アイリスの見舞いにやってきた。

「お久しぶりね、アイリス。婚約破棄のショックで寝込んでいると聞いていたけど、ひとまずそういうわけではなさそうで安心したわ」
「マリーベル……」

 アイリスの自室に入ってきたマリーベルは、きちんとした格好で出迎えたアイリスを見て、ほっとした様子で胸を撫で下ろした。そして以前と変わらぬ親愛のこもった抱擁ほうようをしてくる。
 久々に感じるひとのぬくもりに、心身ともに弱っていたアイリスはつい泣きそうになった。

「ひどい顔色よ。こんな暗い部屋に閉じこもって、身体によくないわ」

 マリーベルはアイリスの頬を両手で包んで、じっと顔をのぞき込んでくる。
 アイリスは「ええ、そうね」と微笑んだが、マリーベルはかすかに眉をひそめた。

「……事情はお察しするけど、屋敷の中まで暗すぎよ。あなたたちももっと愛想よく笑いなさい」

 マリーベルはため息をつき、無表情でお茶を運んできたメイドに文句を言う。
 相変わらずの従姉妹いとこの様子に微苦笑して、アイリスは彼女を長椅子にうながした。

「仕方ないわ。あれからずっとお父様の機嫌が悪いのだもの。笑い声どころか、くしゃみをしただけでも怒られるのよ」
「伯父様も変わらないわね。そういうところがうちの父と合わないのよ、きっと」

 マリーベルはやれやれ、とばかりに肩をすくめる。

「ふふっ。マリーベルったら」

 従姉妹いとこの大げさな仕草に、アイリスはついくすくすと笑ってしまった。
 マリーベルはほっとしたように口元をやわらげる。

「よかった。まだ笑える気力は残っていたわね。そうやってもっと笑っていればいいのよ、アイリス。だってあなたはなにも悪くないんだから。堂々としていたらいいわ」

 その言葉に、アイリスは驚いて息を呑んだ。

「マリー……あなたはわたしが悪いとは思わないの? 世間の噂では、わたしに非があったと言われているのに」
「あいにくとわたしは、あなたと十八年も付き合ってきたのよ? ひとに言われるまでもなく、あなたがどんな人間かはよぉく知っているの。真面目すぎるほど真面目なことも、王子妃になるために頑張ってきたことも、すべてね。そんなわたしが、根も葉もない噂ごときに惑わされると思って?」

 ふふんと得意げに微笑まれて、アイリスは胸の奥がじわじわと温かくなるのを感じた。本当に久々に感じる喜びの感情に、彼女の口元にも自然と笑みが浮かぶ。

「……ありがとうマリー。本当に、ありがとう……」
「なによ、大げさね。それより聞いてよ。この前うちのひとったらね……」

 マリーベルはさっさと話題をらして、いつも通り自分の夫のことや最新の流行のことなどを話し始める。これまでの鬱々うつうつとした時間を忘れ、アイリスも年頃の女性らしい世間話を楽しんだ。
 が、それからしばらくした頃。マリーベルが突如として立ち上がり、寝室に続く扉に歩いて行く。

「マリーベル? どうしたの……」

 驚いて声をかけた次の瞬間、マリーベルが開いた扉の向こう側から、二人のメイドが部屋に倒れ込んできた。

「――主人の会話に聞き耳を立てるなんて、恥を知りなさい! わたしの家のメイドだったら、紹介状を書かずに叩き出してやるところよ!」

 慌てて逃げ出すメイドたちにフンッと鼻を鳴らして、マリーベルは憤然ふんぜんと扉を閉めた。

「まったく、侯爵家に仕える者としての誇りはどこへ行ったのかしら!?」
「……もしかしたら、お父様がわたしを見張るように命じたのかもしれないわ。わたしはもう信用されていないから」

 ぷりぷりと怒っているマリーベルに、アイリスが寂しげに言った。

「はぁ!? なんてことを言うのアイリス……っ」

 いくらなんでも侯爵がそんなことをするわけない、という顔をしていたマリーベルだが、アイリスの神妙な面持おももちを見て口をつぐんだ。
 そのままなにかを考え込むようにしたあと、「よし決めた」と手を叩く。

「――いいわ。アイリス、あなた、うちにいらっしゃい。こんな重苦しい雰囲気の屋敷に閉じこもっていても、いいことなんて一つもないもの!」
「え、マリーベルの家に?」

 突然の提案に、アイリスは目をまたたいた。

「部屋に閉じこもっているだけなら、どこにいたって同じでしょう? それならうちのほうが断然いいわよ。人目を気にせず羽を伸ばせるわ」
「でも迷惑になるんじゃ……」
「いいえ、ちっとも。うちはわたしと夫の二人きりだし。使用人たちも信用できるわ。ね、そうしましょう?」

 ……確かに、このままここにいても気が滅入めいる一方で、なに一つ状況が変わることはないだろう。
 それに、変わらないマリーベルの明るさにふれて、落ち込んだ気持ちが軽くなったのも事実だ。アイリスは少し考え、従姉妹いとこの申し出を受けることを決意した。
 善は急げとばかりに、マリーベルから父への取り次ぎを頼まれて、アイリスは久々に自室を出て父のいる書斎へ向かう。
 会うことは了承してくれた父だが、二人が入室しても手元の新聞から顔を上げようとはしなかった。
 見るからにこちらを拒絶した態度に、アイリスは言葉が出てこなくなる。そんな彼女の気持ちを察してか、マリーベルからアイリスを家に引き取りたいと申し出てくれた。

「今はなにかと外が騒がしいことですし、しばらくアイリスをわたしの屋敷で預からせてもらえませんか」
(お父様は許してくれるのかしら……)

 アイリスはマリーベルの横でうつむき、じっと身を硬くする。

「好きにするがいい」

 すると、すぐに父は素っ気なく頷いた。
 アイリスは、喜びにぱっと顔を上げる。だが続く父の言葉によって、その喜びは一瞬にして砕け散った。

「いっそのこと、そのまま修道院にでも入ってしまえ。アイリス、おまえはもはやこの侯爵家の汚点でしかない。親戚の家に置くことすらいとわしい」
「――……っ」

 思っていた以上に冷たい言葉を浴びせかけられて、アイリスは凍りついたように動けなくなった。


(修道院……)

 それはつまり、家も家族も、社会的な地位もすべてを捨てろと言われているも同然のことだ。事実上の勘当宣言と言ってもおかしくない。

(婚約を破棄され悪評にまみれたわたしは、お父様にとってもう娘でもなんでもないと……?)

 あまりに無情な言葉に、目の前が真っ暗に閉ざされていく。
 言葉もなく立ち尽くすアイリスの隣で、同じように呆然としていたマリーベルだが、一足先に我に返って猛然と口を開いた。

「伯父様、いくらなんでもあんまりなお言葉ですわ……!」

 だが父は不機嫌そうに眉をひそめただけでなにも言わない。アイリスはそっとマリーベルのドレスの袖を引っ張った。

「アイリス……!」
「マリー、いいの」

 自分のためにマリーベルまで父の怒りを買ってはいけない。アイリスはちらりと父に視線を向けた。
 父は新聞に目を落としたまま、話は終わったといった様子で二人を見ることすらない。アイリスは震える唇を噛みしめた。

(わたしの居場所は、もうこの家のどこにもないんだわ……)

 父の冷たい言葉が頭の中でこだまする。
 こんなにも自分が父からうとまれ、いらない存在になっていたという事実に心が凍りついていく。

「……失礼します」

 震える声で挨拶あいさつするアイリスの隣で、唇を引き結んでマリーベルも一礼する。
 書斎を出るまでなんとか気丈に振る舞っていたアイリスだったが、扉が閉まった瞬間、ふらりと身体をよろけさせた。

「アイリス!」

 言葉もなく震える身体を、マリーベルがしっかりと支えてくれる。

「……大丈夫よ、あなたにはわたしがいるわ……!」

 マリーベルの言葉に、アイリスはあふれ出しそうになっていた嗚咽おえつを、なんとか呑み込むことができた。それでも震えは収まらず、マリーベルの腕にすがりついてのろのろと歩を進める。
 やっとのことでアイリスの自室に戻ると、マリーベルはすぐにメイドへ荷造りを指示した。
 そして当座の着替えと愛用の品をまとめさせているあいだに、アイリスをメイドが着ているような簡素なドレスに着替えさせる。
 家の周りには今日も記者や野次馬が押しかけているらしく、彼らをやり過ごすために必要な変装らしい。
 言われるまま着替えたアイリスは、うつむきながらマリーベルのあとに続く。
 おかげで裏口につけられた馬車に乗るまで、アイリスの正体に気づかれることはなかった。

「すぐに出してちょうだい」

 馬車に乗り込むやいなや、マリーベルはすぐさま御者に命じる。


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