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第百五十五話 昆虫採集【中編】

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 馬車は半日掛けて目的地に着いた。マルカッツエ山に隣接する山村は、山から流れる川を利用するため集落が点在している。その牧歌的な風景は、どこか日本の農村を思い起こさせた。

 馬車から降りた俺たちは、山村の小さな宿屋で休息を取る。伯爵家が使う馬車には乗せて貰ってはいたが、長時間の揺れに腰は悲鳴を上げていた。ダブリンの体調に合わせてゆっくりと、走っていたにも関わらずこの様である。

 宿まで迎えに来た(山の)案内人に、果物トラップを仕掛けて貰うように依頼した。標高が高い山なので、ダブリンが登れる範囲で、カナブンやクワガタムシが好む大木に塗りつけて、夜中にそこを案内する段取りを付けた。木の幹に甘い蜜を塗って、昆虫を集めるトラップはこの世界でも常識であったが、果物と酒を招集剤として使うという知識はまだ知られていなかった。

「お客人、こう言っちゃ悪いけどこんなもんでクワガタムシが集まるとは到底思えんが……ハチミツを塗らなくてもいいんじゃろうか?」

「ハチミツ代わりだ、特に問題はない。樹液の出ていない木に、しっかりと塗りつけてくれ。沢山の樹液が出ている木は、採集時に案内を頼む」

 俺は穏やかな表情で、果物トラップの要点を説明した。それでも不安な表情を見せる案内人は、まだ何か言いたそうにしながら無言のまま頭を下げた。

「心配するでない。もし虫が捕れなくても、そちのせいにはしないでおじゃる」

 それを聞いて安心したかのように、小さな溜息をついてから、案内人はトラップを仕掛けるために山へと向かった。

             *      *      *

 真夜中近くになり、宿屋から出立する。もう少し早く山に入りたかったが、トラップの効果を考えると、これぐらい時間は最低空けたからだ。滞在時間は、今日を入れて二日なのでなんとか成果を挙げたいところだ。

「さっそく出発でおじゃる」

 ダブリンがメンバーに檄を入れた。

「案内人よ……この山には、危険な獣はいるのか?」

「この山はオオカミが出ますぞ。ただし、これだけ沢山で山には入るのであれば、全く問題はないですじゃ。彼らのテリトリーさえ犯さなければ、無理に襲ってくることはまずありませんぞ」

 俺はそれを聞いて、小鬼や中鬼より賢い生き物だと素直に感心した。

 山に登りながら、案内人のガイドでめぼしい木々を調べるが、大きな成果が中々得られなかった。大型の甲虫が樹液を吸っていれば、テンションが上がるが、小さな虫や蝶しか木には止まっていなかった。

「おっちゃん氏、なんだか嫌な予感がするでおじゃるよ」

「ハハハ、予感ではなく甲虫の活性が悪いな! とりあえず、トラップを仕掛けて貰った場所まで、もう少し登るしかないだろう」

「ハヒ~、ハヒ~、ハヒ~、ハヒ~」

 ダブリンの荒い息遣いが、耳に大きく響く。

「もう少し頑張れ!」

 そう言うくらいしか、俺にはできなかった。

「フハー、しんどいでおじゃる……」

 ダブリンが大きな溜息をついた。

「案内人がこの山を先に往復しているのを考えれば、俺としては楽させて貰ってるわ」

 俺は汗だるまになった彼を見かねて、小休止を取ることにした。

「お宝が埋まっている所まで、あと少しだぞ」

「期待してよいでおじゃるか?」

 そう言って、俺を値踏みするかのように見る。

「なんとか一匹……ってとこかな」

 俺は頭を掻きながら、ダブリンに向けて苦笑いを浮かべた。

 山を登りながら二時間ほど虫を探したが、今のところ成果は芳しくない。案内人の話ではここら辺りから、俺の用意したトラップを仕掛けた樹木が二十本ほどあるという。

「あの木がそうですわ」

 案内人は大木を指差した。するとさっきまで俺の横で、息を切らしていたダブリンが、真っ先に掛けだした。この元気がどこまで続くのかと、生暖かい目で見守ることにする。

「おっちゃん氏! 早く来るのでおじゃる」

 ダブリンは何事も無かったかのように、けろりとして言う。

「ああ、そう急かさなくてもいいだろう……」

 木に擦り込まれた果物トラップを覗くと、沢山の虫が集まっていた。

「マダラオニクワガタを捕まえたのは、初めてじゃ」

 ダブリンは黒点の入ったクワガタムシを手に持って、子供のような笑顔をする。

本命テナガオオクワガタはいたのか?」

「残念ながらここにいるのはこいつと、雑魚カブトムシばかりじゃのう」

 腹を揺らして答える。

「これだけ、甲虫が集まったから期待は持てるな」

「そうでおじゃるな! 早く次の木を案内せよ」

「へい、伯爵様っ」

  いい年したおっさんたちが、森の中を駆け回っている。トラップを仕掛けた木を、二本三本と順に調べていったが、残念なことに成果があったのは最初の一本だけであった。あと残りの数本になると、ダブリンはもう体力の限界とばかりに

「ここで待っておるから、何か見付けたら呼んでたもう」

 と、完全に人任せの状態に入った。果物トラップの成果は出ているので、後は当たりを引くだけだ。そう思いながら案内人の示す木を期待して調べるが、見つかるのは小型の甲虫しか採れない。かなり期待はしていたが現実は無情だった……。

「一応、虫は集まっているんだが……」

 ガッカリしながら、木に塗り込んだ餌を美味しそうに吸っている雑魚を眺める。するとその中に赤い色の虫が目に入る。もしや……

「ダブリン! 早く来てみろ」

 俺はキャサリンに汗を拭いて貰っている彼を手招きして呼んだ。ダブリンは蘇ったゾンビのように、必死な形相で腹をタプタプと揺らしながら走ってきた。

「つ、捕まえたんでおじゃるか!?」

「ここを見てみろ」

 俺はトラップに小さな甲虫が集まる幹を指差した。

「おっちゃん氏……騙したでおじゃるのか!!」

 丸っこい身体をぷるぷると揺らしながら怒りを露わにする。

「フフフ、おたくの目は耄碌もうろくしたのか《え》」

「ぬおおおお! まさか、まさかの……」

 ダブリンが大きく息を吸い込み、もう一度トラップを覗き込んだ。

「ああ、譲ってやるから早く捕まえな」

 ダブリンが素早くその小さな赤い虫を捕らえた。

「フヒヒ、これはテナガオオクワガタの雌なのじゃ」

「初めて見たから断定は出来んが、小さいなりにこの前足の長さから見て間違いないと思いたいな」

 大きさは三センチあまりの小さなクワガタムシの雌であったが、体長と同じぐらいの前足が伸びており、赤い体色は標本のクワガタムシとそっくりであった。俺はダブリンの手を叩き、小さな勝利を称え合う。

  最後の木を確認し終えたときは、森の中がうっすらと明るくなり、小さな鳥たちが鳴き出していた。

「一応の成果はあったので疲れは半減だが、ここから帰るのは一苦労だな」

「心配しなくていいでおじゃる」

 そういって、彼が指差した・・・・先には大型のテントが幾つも森の中に設置されていた。

「この金持ちめ」

 二人で顔を見合わせ、フヒヒヒと笑う――
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