夢のゆく先

梅咲あすか

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第一章

4-1

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 母が入院して一週間が過ぎた。
 あれから僕は魂の抜けたように無気力な日々を過ごしている。

「光志朗さん」

 絹子が僕の元へ着物を一式持ってきた。

「奥様にお着替えを持っていって頂けないでしょうか。光浩さんはまだ学校からお帰りにならなくて」
「ああ、わかった」
「……すみません。本来なら私がお持ちするべきところなのですが」

 絹子は瞼を伏せる。

「奥様の心労の原因が私なら、お顔を合わせるのもお嫌でしょうし」
「……母が言っていたことは気にしないでいいよ。あんな突拍子もない話、誰も信じていない」

 ──本当にそうか?
 本当に僕は、絹子のことを一瞬たりとも疑わなかっただろうか。

 母の絹子への当たりが強いのは昔からだった。
 絹子が身体で父に取り入っただとか根も葉もない話を光浩がしていたのを聞いたことがある。それも母が光浩に吹き込んだことだろう。

『本当の私をお知りになったら、光志朗さんは私のことを軽蔑なさるかもしれませんね』

 ふと、いつかの絹子の言葉が頭に浮かんできた。

「──光志朗さん、私ね、過保護な父親のもとから逃げ出して東京へやってきたとお話したことがあったでしょう」
「あ、ああ」

 絹子は着物を持ったまま、畳の上に正座した。逃げ場をなくした僕は彼女の正面に腰を下ろす。

「過保護というのは嘘です。父は微塵も私のことを見てはくれなかった。私の中に、私によく似た母親の面影を見ていました」

 絹子の母親は、彼女を産んで間もなくこの世を去ったと聞いている。

「幼い頃から私は母の代わりを強いられてきました」
「代わり」
「毎夜のように抱かれていたのです。実の父に」

 思わず僕は口元を抑えた。喉元へと胃液がせり上がってくる。

「それで逃げ出して東京へやってきたのです。周囲の人たちも見て見ぬふり、誰も助けてはくれませんでしたから」
「……警察には」
「幼かった私には警察に助けを求めるという発想がなかった。けれど漠然と、東京に行けば助かると思ったんです。東京にはたくさん人がいるから。誰かしら私を救ってくれるのではないかと」
「…………」
「だけどそう甘くはなかった。お金も尽きていよいよ死を意識し始めたとき、気がついたんです。身体を売れば私にもお金が稼げるんです。……ふふ、わざわざ逃げ出してきたのに本末転倒ですよね」
「絹ちゃん」
「私は旦那様に──あなたのお父上に取り入りました。この身体を使って」

 絹子は深呼吸したのち、深々と僕に向かって頭を下げる。

「……光志朗さん。ごめんなさい。私にとって光志朗さんだけが心の支えでした。それなのに私、今までずっと本当のことを言えなくて。こんな浅ましい自分をあなたに知られたくなかったんです。……奥様にも光浩さんにも申し訳が立ちません」
「絹ちゃん、顔を上げてくれ」

 僕は彼女の肩に手を置き、顔を上げさせた。

「きみが謝ることはない! 行くあてのなかったきみに僕の父がつけ込んだんだろう。僕の方こそ何も気が付かなくてすまなかった。もっと早くに知っていれば、何か──」

 何か彼女の助けになれていたかもしれないのに。
 彼女の境遇を思うと悔しくてやるせなくて仕方がなかった。僕は彼女の背を抱き寄せる。

「光志朗さん、私ね──」

 腕の中で絹子が小さく笑った。

「光志朗さんの書く小説にいつも救われていました。私にはあなたの想像力がうらやましい。頭の中できっとどこへだって行けるんでしょうね」
「絹ちゃん」

 同じような言葉をかけてくれた人がいた。
 僕の脳裏に彼の姿がよぎる。

「あなたの小説を読んでいるときだけは、こんな自分自身から離れて心が自由になれるんです。本当に――」

 絹子は僕から身を離して微笑んだ。

「本当にありがとうございました、光志朗さん。あなたのことが心から大切でした」


 〇


 翌朝、絹子は家から姿を消した。
 玄関には学ラン姿の光浩が目を腫らして座り込んでいる。

「……何だよ」

 光浩は不機嫌そうに僕に視線を向けた。

「なあ、絹ちゃんを知らないか」
「……出て行ったよ。世話になったと、それだけ言い残して。引き留めたけど無駄だった。そりゃそうだよな、僕もお母さんも絹子に酷い言葉ばかり浴びせてきたもんな。今になって引き留めるなんて、虫が良すぎる」
「……どこへ行くって?」
「知るかよ! 兄さんにも知らされていないようなことを僕が知るもんか!」

 光浩はガラガラと引き戸を開けて玄関を飛び出した。

「待て、どこへ行くんだ!」
「学校だよ! 馬鹿!」

 光浩の足音が遠ざかっていく。
 僕も学校へ行かなければならない時間だ。

 どうにか準備を終えて家を出たが、とても学校へ向かう気にはなれなかった。
 僕はうつろな目で町中を歩き回った。絹子を探していたのかもしれないし、そうじゃないのかもしれなかった。
 次第に自分自身の輪郭がぼんやりとぼやけていく。
 僕は果たして、誰に必要とされてここにいるのだろう。
 何のために生きて、何のために学校へ通うのだろう。

「疲れた……」

 道端のベンチにへたり込む。元々体力も気力もない方だ。
 僕は考えることを放棄した。
 喉が乾いている。けれど飲み物を買いに行くのも億劫だった。

 ──そのときだった。
 カラコロと、下駄の音が近づいてきた。

 僕は視線を上げる。その頬に冷たいものが触れた。

「そこのお兄さん、ラムネでもどう?」
「茜一! 茜一じゃないか!」

 彼は僕の隣に腰を下ろした。
 ご丁寧にラムネ瓶をよく振ると、僕の膝の上で勢いよくビー玉を押し込んで開栓する。

「うわっ、冷たっ! 溢れてるじゃないか!」
「あっはは!」

 僕は慌てて瓶に口をつける。
 屈託なく笑う彼の横顔を盗み見た。
 いつも思う。彼の笑顔はあどけない子供のようだ。つい先日見せた昏い瞳がまるで嘘であったかのように。
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