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第一章
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──雪に覆われた大地を少女は一人歩いている。
彼女の父親は明治維新の折、屯田兵としてこの北の大地に移り住んだ。そうして彼女の母親と出会い、この地を住処ときめる。
ところが病弱だった彼女の母親は、彼女を産んで間もなくこの世を去った。
母親に瓜二つに育った彼女を、父親や親戚たちは非常に過保護に育て上げる。
彼女はほとんど、外の世界を知らなかった。
彼女は歩いた。一歩一歩、深い雪に足を取られながら、けれども着実に歩んでゆく。
すべては自由のため。
ここではない広い世界へ向かって、突き進んでゆく。
〇
大正五年七月、東京。
僕は文机に散らばった原稿用紙の上で目を覚ました。
床に落ちていた金属製の丸眼鏡を掛け直す。――ちなみにこれは小遣いで買った伊達眼鏡である。
額にはうっすらと汗がにじんでいた。もうじき本格的な夏だ。けれどもつい先ほどまで、僕の心は確かに真冬の北の大地にあった。
一面の銀世界。たどたどしくも歩を進める一人の幼い少女。
僕は何度もその光景を頭に思い浮かべていた。
一心不乱に鉛筆を走らせる。雪の大地のように真っ白だった原稿用紙が、あっという間に黒鉛で黒く染まっていく。
やがて僕はカラリと鉛筆を机に投げると、散らばった原稿用紙をかき集めた。
物語が、完成した。すがすがしい笑みを浮かべる。
「はやく絹ちゃんに見せよう」
部屋の襖を勢いよく開けたところで、部屋の前に人が立っているのに気がつき、危うく声を上げそうになる。
「また作家気取りで小説でも書いてたの? 光志朗兄さん」
学ラン姿の弟の光浩が、軽蔑の視線をこちらに向けている。
僕は思わず原稿用紙の束を背中の後ろに隠した。
「妄想も大概にして、いい加減現実を見なよ。学校の試験の成績、とっても悪かったらしいね。お母さんが言ってたよ、小説ばかり読んでいるような人は頭が馬鹿になるって……」
光浩はにこりと笑った。人好きのする、愛嬌のある笑顔だ。
むろん、傍から見れば、の話である。
「まあ安心しなよ。この家を継ぐのは僕だ。兄さんのことはちゃんとこき使ってあげるから、せいぜい僕やこの家に恥をかかせない程度に勉強頑張ってくれよ」
「……けれどお父さんは僕に家を継がせたがっている」
「はっ、出たよ。長男だから、だろ? 馬鹿馬鹿しい。人には適材適所ってもんがあるんだ。たまたま僕より数年早く生まれたからって、優秀な僕を差し置いていつもぼんやりしてる兄さんに家を継がせるなんて、そんな理不尽なことがあってたまるかよ。お父さんにだって、必ず認めさせてやる……」
僕たちはしばらく無言で睨み合った。
僕は十九歳、今年高等学校の三年生になった。弟の光浩は三つ年下の中学五年生である。
――突如として、廊下の奥から硝子の割れる音が響き渡った。
僕たちが慌てて駆けつけると、母がものすごい形相で廊下の花瓶を床に叩きつけたのち、玄関へ向かって去っていくところだった。
「何があったの?」
光浩が、傍らに立っていた女中の絹ちゃん――絹子に尋ねる。
「いえ、私の口からはとても……」
「言えよ。僕たちはこの家の人間なんだぞ。知る権利があるだろ」
「……その、実は、旦那様が別荘に妾を囲われていることをお知りになり、奥様がお怒りに……」
「なんだって」
光浩が凄まじい嫌悪をあらわにした。
「別荘の場所を教えろ絹子。僕がその女を追い出してやる」
「わ、私も場所は存じておりません」
「嘘つけ! お前だってそうやってお父さんに取り入ってきたんだろ。そうじゃなきゃ素性の知れない孤児のお前なんか、この家で雇ってやる義理がないもんな」
「やめろ光浩!」
僕は光浩と絹子の間に割って入った。
「……夫婦間の問題だ。僕らにどうこうできることじゃない」
「……だってあんまりじゃないか。お母さんはあれだけお父さんに尽くしてきたのに。……お母さんが可哀想だ」
光浩はとぼとぼと母親の後を追っていった。
玄関の戸がバタンと音を立てて閉まるのを確認したのち、僕は絹子に向き直る。
「……で、知ってるんだろう。別荘の場所も、その妾のことも」
「……ええ」
「案内してくれ。僕が話をつけてくる。先に光浩に見つかれば、何がなんでも叩き出そうとするだろうからな」
「……でも、あなただって結局は彼を追い出すおつもりなんでしょう、光志朗さん」
「それはしょうがないじゃないか。…………ん?」
「彼にも帰る場所がないんです。私、自分を重ねて、同情してしまって。だからといって、私にできることなんて何一つないんですけれど」
「待ってくれ。……彼? 妾は男か?」
「ええ、彼ですよ」
絹子はおっとりした顔に笑みを浮かべると、僕の右腕をとった。
「彼に会ってくださいますか、光志朗さん。私が別荘の場所を案内します」
彼女の父親は明治維新の折、屯田兵としてこの北の大地に移り住んだ。そうして彼女の母親と出会い、この地を住処ときめる。
ところが病弱だった彼女の母親は、彼女を産んで間もなくこの世を去った。
母親に瓜二つに育った彼女を、父親や親戚たちは非常に過保護に育て上げる。
彼女はほとんど、外の世界を知らなかった。
彼女は歩いた。一歩一歩、深い雪に足を取られながら、けれども着実に歩んでゆく。
すべては自由のため。
ここではない広い世界へ向かって、突き進んでゆく。
〇
大正五年七月、東京。
僕は文机に散らばった原稿用紙の上で目を覚ました。
床に落ちていた金属製の丸眼鏡を掛け直す。――ちなみにこれは小遣いで買った伊達眼鏡である。
額にはうっすらと汗がにじんでいた。もうじき本格的な夏だ。けれどもつい先ほどまで、僕の心は確かに真冬の北の大地にあった。
一面の銀世界。たどたどしくも歩を進める一人の幼い少女。
僕は何度もその光景を頭に思い浮かべていた。
一心不乱に鉛筆を走らせる。雪の大地のように真っ白だった原稿用紙が、あっという間に黒鉛で黒く染まっていく。
やがて僕はカラリと鉛筆を机に投げると、散らばった原稿用紙をかき集めた。
物語が、完成した。すがすがしい笑みを浮かべる。
「はやく絹ちゃんに見せよう」
部屋の襖を勢いよく開けたところで、部屋の前に人が立っているのに気がつき、危うく声を上げそうになる。
「また作家気取りで小説でも書いてたの? 光志朗兄さん」
学ラン姿の弟の光浩が、軽蔑の視線をこちらに向けている。
僕は思わず原稿用紙の束を背中の後ろに隠した。
「妄想も大概にして、いい加減現実を見なよ。学校の試験の成績、とっても悪かったらしいね。お母さんが言ってたよ、小説ばかり読んでいるような人は頭が馬鹿になるって……」
光浩はにこりと笑った。人好きのする、愛嬌のある笑顔だ。
むろん、傍から見れば、の話である。
「まあ安心しなよ。この家を継ぐのは僕だ。兄さんのことはちゃんとこき使ってあげるから、せいぜい僕やこの家に恥をかかせない程度に勉強頑張ってくれよ」
「……けれどお父さんは僕に家を継がせたがっている」
「はっ、出たよ。長男だから、だろ? 馬鹿馬鹿しい。人には適材適所ってもんがあるんだ。たまたま僕より数年早く生まれたからって、優秀な僕を差し置いていつもぼんやりしてる兄さんに家を継がせるなんて、そんな理不尽なことがあってたまるかよ。お父さんにだって、必ず認めさせてやる……」
僕たちはしばらく無言で睨み合った。
僕は十九歳、今年高等学校の三年生になった。弟の光浩は三つ年下の中学五年生である。
――突如として、廊下の奥から硝子の割れる音が響き渡った。
僕たちが慌てて駆けつけると、母がものすごい形相で廊下の花瓶を床に叩きつけたのち、玄関へ向かって去っていくところだった。
「何があったの?」
光浩が、傍らに立っていた女中の絹ちゃん――絹子に尋ねる。
「いえ、私の口からはとても……」
「言えよ。僕たちはこの家の人間なんだぞ。知る権利があるだろ」
「……その、実は、旦那様が別荘に妾を囲われていることをお知りになり、奥様がお怒りに……」
「なんだって」
光浩が凄まじい嫌悪をあらわにした。
「別荘の場所を教えろ絹子。僕がその女を追い出してやる」
「わ、私も場所は存じておりません」
「嘘つけ! お前だってそうやってお父さんに取り入ってきたんだろ。そうじゃなきゃ素性の知れない孤児のお前なんか、この家で雇ってやる義理がないもんな」
「やめろ光浩!」
僕は光浩と絹子の間に割って入った。
「……夫婦間の問題だ。僕らにどうこうできることじゃない」
「……だってあんまりじゃないか。お母さんはあれだけお父さんに尽くしてきたのに。……お母さんが可哀想だ」
光浩はとぼとぼと母親の後を追っていった。
玄関の戸がバタンと音を立てて閉まるのを確認したのち、僕は絹子に向き直る。
「……で、知ってるんだろう。別荘の場所も、その妾のことも」
「……ええ」
「案内してくれ。僕が話をつけてくる。先に光浩に見つかれば、何がなんでも叩き出そうとするだろうからな」
「……でも、あなただって結局は彼を追い出すおつもりなんでしょう、光志朗さん」
「それはしょうがないじゃないか。…………ん?」
「彼にも帰る場所がないんです。私、自分を重ねて、同情してしまって。だからといって、私にできることなんて何一つないんですけれど」
「待ってくれ。……彼? 妾は男か?」
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