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第十話
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「今すぐ呼び戻してやりたいところだけど、貴方は嫌よね?」
「……はい、できれば。先程も私に気づいていなかったようなので」
「本当に――剣を振るうこと以外は駄目な男ね」
わざわざ夫がいるところにマリアーナを呼んだのは、離縁状を渡す前の最終確認だったのかもしれない。
冷や汗はかいたものの、妻の顔さえ覚えていない夫を見て、自分の行動は間違いなかったと思えた。
「でもこれで、貴方は自由よ。最後にもう一度、聖女候補に名乗りを上げる気はないかしら?」
「私は…やはり、立場や役目に縛られない環境で暮らしたいと思っています。普通に生活することが私の希望なんです」
言葉を濁すことなく自身の望みを伝えた。ここで押しきられるわけにはいかない。何のために全てを捨てて屋敷を出てきたのか。
マリアーナの願いはたった一つだ。しかし、ユリティアは右の頬に手を添えて難色を示した。
「普通ねぇ…。実際のところ普通というのが一番難しいのよ」
「そうでしょうか?」
「ええ、だって自分の人生が普通だったかどうかなんて、死ぬ間際にならないと分からないじゃない? 振り返って初めて気づくものよ。それとも貴方はそういった経験があるのかしら?」
「そ、それは…」
まさか、一度死んだことがある、などと口が裂けても言えない。頭がおかしいと、このまま神殿に閉じ込められたら大変だ。
マリアーナが返答に困っていると、ユリティアは降参するように両手を持ち上げた。
「まぁ、それは有り得ないわね。前世の記憶を持ったまま生まれ変わるなんて無理な話だわ。それでも貴方は普通の人生を歩みたいのでしょう?」
「……申し訳ありません」
「いいのよ。貴方が育った環境と白い結婚を考えれば当然の答えよ。気に病む必要はないわ」
期待はされていただろう。同時に、聖女の道を選ばない事も予想していたようだ。ユリティアは仕方なく肩を竦めた。
「ただ、貴方の治癒魔法はとても素晴らしいの。だから、貴方の力が必要になった時は貸してくれないかしら?」
「はい! それはもちろん!」
誰かの役に立てる、それは寂しく生きてきたマリアーナにとって最高の喜びだ。
力強く頷くと、ユリティアは柔らかく微笑んでくれた。鋭かった視線も、すでにない。
「まったく親子で逃げられてしまうなんて、ついてないわ」
「あ、…」
「これは他で鬱憤を晴らすしかないわね」
先程とは違い、悪い笑みを浮かべるユリティアに、何をするのかとは怖くて訊けなかった。
二人の話し合いが終わると、ユリティア自ら扉を開けてくれた。扉の横には護衛の騎士達が待ち構えていた。
「それじゃあ、また会いましょうね」
「はい、ユリティア様」
頭を下げて挨拶をすると、近くにいた騎士の一人が近づいてきた。
「出口までお送りしましょう」
「いいえ、心配には及びません」
勝手知ったる場所だ。迷わずに歩ける。丁重に断ると、騎士は残念そうに一歩後ろに下がった。
廊下に出たとき夫が横を通った。今度は一度もこちらを見ない。
マリアーナは拳を握り締め、すれ違い様「さようなら」と小さく呟いた。
一瞬、足音が止まったように聞こえたが振り返らなかった。マリアーナは光が射し込む廊下をひた歩いた。
さようなら。
一度も名前で呼び合わなかった旦那様。
神殿から外に出ると、見上げた空はどこまでも晴れ渡っていた。
これでようやく自由に、平凡な暮らしができる。
マリアーナは嬉しくなって両手を突き上げた。貴族の淑女が見たらはしたないと言われるだろう。
でも、咎める者は誰もいない。
これから先、不安がないわけじゃない。それでもマリアーナの顔には笑みが溢れていた。
「さーて、今日はなにしよー!」
伯爵夫人から平民に、マリアーナからマリに、立場も名前も変えた彼女の生活が、ここから始まった。
「……はい、できれば。先程も私に気づいていなかったようなので」
「本当に――剣を振るうこと以外は駄目な男ね」
わざわざ夫がいるところにマリアーナを呼んだのは、離縁状を渡す前の最終確認だったのかもしれない。
冷や汗はかいたものの、妻の顔さえ覚えていない夫を見て、自分の行動は間違いなかったと思えた。
「でもこれで、貴方は自由よ。最後にもう一度、聖女候補に名乗りを上げる気はないかしら?」
「私は…やはり、立場や役目に縛られない環境で暮らしたいと思っています。普通に生活することが私の希望なんです」
言葉を濁すことなく自身の望みを伝えた。ここで押しきられるわけにはいかない。何のために全てを捨てて屋敷を出てきたのか。
マリアーナの願いはたった一つだ。しかし、ユリティアは右の頬に手を添えて難色を示した。
「普通ねぇ…。実際のところ普通というのが一番難しいのよ」
「そうでしょうか?」
「ええ、だって自分の人生が普通だったかどうかなんて、死ぬ間際にならないと分からないじゃない? 振り返って初めて気づくものよ。それとも貴方はそういった経験があるのかしら?」
「そ、それは…」
まさか、一度死んだことがある、などと口が裂けても言えない。頭がおかしいと、このまま神殿に閉じ込められたら大変だ。
マリアーナが返答に困っていると、ユリティアは降参するように両手を持ち上げた。
「まぁ、それは有り得ないわね。前世の記憶を持ったまま生まれ変わるなんて無理な話だわ。それでも貴方は普通の人生を歩みたいのでしょう?」
「……申し訳ありません」
「いいのよ。貴方が育った環境と白い結婚を考えれば当然の答えよ。気に病む必要はないわ」
期待はされていただろう。同時に、聖女の道を選ばない事も予想していたようだ。ユリティアは仕方なく肩を竦めた。
「ただ、貴方の治癒魔法はとても素晴らしいの。だから、貴方の力が必要になった時は貸してくれないかしら?」
「はい! それはもちろん!」
誰かの役に立てる、それは寂しく生きてきたマリアーナにとって最高の喜びだ。
力強く頷くと、ユリティアは柔らかく微笑んでくれた。鋭かった視線も、すでにない。
「まったく親子で逃げられてしまうなんて、ついてないわ」
「あ、…」
「これは他で鬱憤を晴らすしかないわね」
先程とは違い、悪い笑みを浮かべるユリティアに、何をするのかとは怖くて訊けなかった。
二人の話し合いが終わると、ユリティア自ら扉を開けてくれた。扉の横には護衛の騎士達が待ち構えていた。
「それじゃあ、また会いましょうね」
「はい、ユリティア様」
頭を下げて挨拶をすると、近くにいた騎士の一人が近づいてきた。
「出口までお送りしましょう」
「いいえ、心配には及びません」
勝手知ったる場所だ。迷わずに歩ける。丁重に断ると、騎士は残念そうに一歩後ろに下がった。
廊下に出たとき夫が横を通った。今度は一度もこちらを見ない。
マリアーナは拳を握り締め、すれ違い様「さようなら」と小さく呟いた。
一瞬、足音が止まったように聞こえたが振り返らなかった。マリアーナは光が射し込む廊下をひた歩いた。
さようなら。
一度も名前で呼び合わなかった旦那様。
神殿から外に出ると、見上げた空はどこまでも晴れ渡っていた。
これでようやく自由に、平凡な暮らしができる。
マリアーナは嬉しくなって両手を突き上げた。貴族の淑女が見たらはしたないと言われるだろう。
でも、咎める者は誰もいない。
これから先、不安がないわけじゃない。それでもマリアーナの顔には笑みが溢れていた。
「さーて、今日はなにしよー!」
伯爵夫人から平民に、マリアーナからマリに、立場も名前も変えた彼女の生活が、ここから始まった。
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