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第八話
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促されてソファーに腰を下ろしたマリアーナは、じっとテーブルの一点を見つめた。
目の前にいる女性と夫の所為で内心穏やかじゃない。まだ始まってもいない話し合いを考えると、不安で胃がキリキリしてくる。
「まずはお名前からよね。わたくしの名はユリティア。聖女の役目を仰せつかっているわ。それから聖女になると家名は棄てることになっているの。聖女が人種や身分に限らず常に平等である為なのよ」
名乗ってくれたユリティアは「次は貴方の番」と、右手を差し出してきた。爪先まで洗礼された綺麗な手だ。
「私は、マリと申します。このような場にお招き下さり…」
「はい、そこまで。ここは貴方とわたくしだけしかいませんわ。堅苦しい挨拶はご遠慮なさって」
深々と頭を下げる途中で止められた。同時に、冷や汗が額に滲む。
貴族として最低限のマナーは身に付けているだけに、切り返しの言葉が出てこない。平等なんて絶対無理だ。
「わたしくは貴方と仲良くお話がしたいの」
「……私は、聖女様とお話するような事は何もありません」
声が震えないよう意識しながら口を開く。乾いた唇がぱっくり割れてしまわないか心配になった。
「あら、そうかしら?」
「え…?」
「貴方にはなくても、マリアーナ・クロークスとしてはあるように思うのだけど」
まるで全てを見透かされている気分だ。声を交わすのは今日が初めてなのに、ユリティアはずっと前からマリアーナの存在を知っていたような口振りだった。
それもすぐに知れた。ユリティアがあっさり白状したのだ。
「わたくし、貴方のお母様を知っていますの」
「…母を、ですか?」
予想外の告白だ。
ーー聖女様が、私の母を知っている?
最初は疑ったが、元々聖女候補だった母親と、彼女の年齢を考えればありえなくもない話だった。
「ええ。彼女とは同期、みたいなものね。同じ聖女候補として、どちらが聖女になるか随分と揉めたわ」
「揉めたのですか?」
「ええ、そうよ。彼女にはわたくし以上の治癒魔法が使えたの。貴方の高度な治癒能力はお母様譲りなのね」
母親が治癒魔法に長けていたのは知っていたが、聖女よりとは知らなかった。目を丸くしてユリティアを見つめると、彼女は小さく笑った。
「でも魔力はわたくしの方が高かったのよ。本当にどちらが聖女になってもおかしくなかったわ。ただ……そうね、貴方のお母様はそれはそれは自由奔放で、あの性格が聖女に相応しくないとまで言われていたわ。わたくしもかなり振り回されましたのよ?」
「…………」
深々と頭を下げて謝罪するべきか。一体母親は何をしてしまったんだ。
「でも一番は聖女の地位を押し付けられたことかしら」
「母は、最初から聖女にはなれなかったと思います。私を生んでからすぐに家を出て行くような人です」
捨てられた、と。物心つく頃からそう言われてきた。
屋敷でも、魔力のない子供は居場所を見つけられず、存在を消しながら生活するしかなかった。
惨めだった自分を思い出して、スカートをぎゅっと握り締めた。マリアーナにとって母親は初めからいない存在だったのだ。
「…そうね。貴方にとっては酷い母親だったわね」
マリアーナの気持ちを汲んでくれたのか、ユリティアは苦々しく言った。
自分以上に母親のことを知っている人だ。マリアーナの視線に促されるように、ユリティアは母親の話をしてくれた。
「彼女は好きな方と一緒になるために聖女候補から下りたの。お相手は子爵家の次男で身分の差もあったわ。それでも聖女候補に名乗りを上げれば、彼と結婚してもいいと彼女の父親である侯爵に言われたそうよ。それなのに聖女になれなかった彼女に、貴方のお父様と侯爵は結託し、無理やり婚姻を結ばされたと聞いているわ」
「それじゃ母は、騙されて無理やり結婚させられたのですか?」
この国では、聖女の候補者というだけで名誉とされ、聖女候補を出した家は黙っていても名が知れ渡った。さらに、聖女ともなれば莫大な恩赦が支払われるという。
実に、貴族が欲しがりそうなものだ。マリアーナはため息を吐いた。
母親は嘘をつかれ、好きでもない相手と結婚して子を成したのか。そして生まれてきて子供は魔力がない、と鑑定され、彼女もまた居場所を失ったに違いない。
「それで、母は今…」
「安心してちょうだい。今はとある屋敷で治癒師として暮らしているわ。貴方のことをとても気にしていたけど、彼女自身深く傷ついているから…」
「……いいえ、無事ならそれで」
会えない、のか、会いたくない、のか。どちらにしても、母親の安否が確認できてホッとした。
安堵するマリアーナを見ていたユリティアは、己の手元に視線を移した。
聖女として美しくいることは、ユリティアにとって武器になった。
皆が聖女を拠り所にする。その聖女が綺麗でいることは当たり前なのだ。
しかし、日に日に迫ってくる老いは聖女でも止めることはできなかった。
「こんな事になるなら彼女が聖女になるべきだった、そう思うの。わたくしね、本当は聖女になりたくなかったのよ」
「そうなんですか? これだけ完璧に務めていらっしゃるのに?」
「完璧ではないわ。ただ、手を抜けない性格なの。でも、もし聖女にならなかったら、わたくしも自由に冒険して国中を見て回っていたかしら。だから貴方のお母様を心底恨んだわ」
「そ、それは…」
「嘘よ、嘘。羨ましいとは思ったけど、恨んでなんかいないわ」
いや、母親に振り回されたと言っていた。少なからず気儘に生きる母親を羨ましく思い、嫉妬していても不思議じゃない。
マリアーナは落ち着かず、笑って取り繕うこともできなかった。
目の前にいる女性と夫の所為で内心穏やかじゃない。まだ始まってもいない話し合いを考えると、不安で胃がキリキリしてくる。
「まずはお名前からよね。わたくしの名はユリティア。聖女の役目を仰せつかっているわ。それから聖女になると家名は棄てることになっているの。聖女が人種や身分に限らず常に平等である為なのよ」
名乗ってくれたユリティアは「次は貴方の番」と、右手を差し出してきた。爪先まで洗礼された綺麗な手だ。
「私は、マリと申します。このような場にお招き下さり…」
「はい、そこまで。ここは貴方とわたくしだけしかいませんわ。堅苦しい挨拶はご遠慮なさって」
深々と頭を下げる途中で止められた。同時に、冷や汗が額に滲む。
貴族として最低限のマナーは身に付けているだけに、切り返しの言葉が出てこない。平等なんて絶対無理だ。
「わたしくは貴方と仲良くお話がしたいの」
「……私は、聖女様とお話するような事は何もありません」
声が震えないよう意識しながら口を開く。乾いた唇がぱっくり割れてしまわないか心配になった。
「あら、そうかしら?」
「え…?」
「貴方にはなくても、マリアーナ・クロークスとしてはあるように思うのだけど」
まるで全てを見透かされている気分だ。声を交わすのは今日が初めてなのに、ユリティアはずっと前からマリアーナの存在を知っていたような口振りだった。
それもすぐに知れた。ユリティアがあっさり白状したのだ。
「わたくし、貴方のお母様を知っていますの」
「…母を、ですか?」
予想外の告白だ。
ーー聖女様が、私の母を知っている?
最初は疑ったが、元々聖女候補だった母親と、彼女の年齢を考えればありえなくもない話だった。
「ええ。彼女とは同期、みたいなものね。同じ聖女候補として、どちらが聖女になるか随分と揉めたわ」
「揉めたのですか?」
「ええ、そうよ。彼女にはわたくし以上の治癒魔法が使えたの。貴方の高度な治癒能力はお母様譲りなのね」
母親が治癒魔法に長けていたのは知っていたが、聖女よりとは知らなかった。目を丸くしてユリティアを見つめると、彼女は小さく笑った。
「でも魔力はわたくしの方が高かったのよ。本当にどちらが聖女になってもおかしくなかったわ。ただ……そうね、貴方のお母様はそれはそれは自由奔放で、あの性格が聖女に相応しくないとまで言われていたわ。わたくしもかなり振り回されましたのよ?」
「…………」
深々と頭を下げて謝罪するべきか。一体母親は何をしてしまったんだ。
「でも一番は聖女の地位を押し付けられたことかしら」
「母は、最初から聖女にはなれなかったと思います。私を生んでからすぐに家を出て行くような人です」
捨てられた、と。物心つく頃からそう言われてきた。
屋敷でも、魔力のない子供は居場所を見つけられず、存在を消しながら生活するしかなかった。
惨めだった自分を思い出して、スカートをぎゅっと握り締めた。マリアーナにとって母親は初めからいない存在だったのだ。
「…そうね。貴方にとっては酷い母親だったわね」
マリアーナの気持ちを汲んでくれたのか、ユリティアは苦々しく言った。
自分以上に母親のことを知っている人だ。マリアーナの視線に促されるように、ユリティアは母親の話をしてくれた。
「彼女は好きな方と一緒になるために聖女候補から下りたの。お相手は子爵家の次男で身分の差もあったわ。それでも聖女候補に名乗りを上げれば、彼と結婚してもいいと彼女の父親である侯爵に言われたそうよ。それなのに聖女になれなかった彼女に、貴方のお父様と侯爵は結託し、無理やり婚姻を結ばされたと聞いているわ」
「それじゃ母は、騙されて無理やり結婚させられたのですか?」
この国では、聖女の候補者というだけで名誉とされ、聖女候補を出した家は黙っていても名が知れ渡った。さらに、聖女ともなれば莫大な恩赦が支払われるという。
実に、貴族が欲しがりそうなものだ。マリアーナはため息を吐いた。
母親は嘘をつかれ、好きでもない相手と結婚して子を成したのか。そして生まれてきて子供は魔力がない、と鑑定され、彼女もまた居場所を失ったに違いない。
「それで、母は今…」
「安心してちょうだい。今はとある屋敷で治癒師として暮らしているわ。貴方のことをとても気にしていたけど、彼女自身深く傷ついているから…」
「……いいえ、無事ならそれで」
会えない、のか、会いたくない、のか。どちらにしても、母親の安否が確認できてホッとした。
安堵するマリアーナを見ていたユリティアは、己の手元に視線を移した。
聖女として美しくいることは、ユリティアにとって武器になった。
皆が聖女を拠り所にする。その聖女が綺麗でいることは当たり前なのだ。
しかし、日に日に迫ってくる老いは聖女でも止めることはできなかった。
「こんな事になるなら彼女が聖女になるべきだった、そう思うの。わたくしね、本当は聖女になりたくなかったのよ」
「そうなんですか? これだけ完璧に務めていらっしゃるのに?」
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「そ、それは…」
「嘘よ、嘘。羨ましいとは思ったけど、恨んでなんかいないわ」
いや、母親に振り回されたと言っていた。少なからず気儘に生きる母親を羨ましく思い、嫉妬していても不思議じゃない。
マリアーナは落ち着かず、笑って取り繕うこともできなかった。
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