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筆の森
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客は女性だった。おちくぼんだ目の下には、濃い隈が入っており、もう何日も眠れていないことがわかる。茶色に染めた髪の毛には、こしがなく、心と同じように、くたびれているようだった。タチバナは、女を座敷に上げて、指し向いになって座った。「君は自由だ」と言われた手前、俺は帰り損っていた。二人の様子を障子の隙間から、のぞきこんでいる。声はぎりぎり聞き取れるか、取れないかくらいだった。
しばらく、女の顔を見ていたかと思ったら、タチバナは落ちていた半紙を一枚取り上げた。女の前に、その半紙と筆を置いた。女は、少しとまどったように眉根をよせてから、すぐに何か思い当ったのか、おそるおそる筆を手にして、書きはじめた。
「彼の持ちものか何か、持ってきましたか」
おもむろにそのようなことを口にした。タチバナの顔には表情がない。女は、筆を動かしていた手を一度止めたが、顔を上げなかった。ただ、消え入りそうな声で、「はあ、一応」と煮え切らない言葉を返した。それでも、タチバナは平気だった。
「心の入ったものであれば何でも良いんです。身体の一部ならなおさら」
その言葉に、俺のほうがぎくり、とした。淡々と物事をすすめる、タチバナの目もとの涼しさと、先ほど見せたさびしそうな微笑みが、なぜ同居しているのか、不思議でならなかった。だけど、それ以上におちくぼんだ目を上げて、じっと、タチバナを見据える二つの鈍い光のほうが恐ろしかった。
「髪の毛を」
「へえ、それはまた」タチバナは何がおかしいのか、愉快そうに笑うと、正座していた足を少し崩した。「本気なのですね」
その言葉を聞いた途端、女の表情が変わった。下くちびるをぐっと噛みしめ、目頭が痙攣しはじめ、筆を持つ手がぶるぶると震えていた。それでも、やはりタチバナは平気なのだった。そうして、さびしい微笑を浮かべて、まばたきもせずに女を見つめていた。
「恥じておいでですか」
「なぜ」
「なあに、どうってことはないのですよ」
タチバナは努めて明るい声を出して、女から半紙を受け取り「では、髪の毛を」と、言って手を広げた。女は白いハンドバッグの中から、茶封筒を取り出して、タチバナの手のひらの上にそっと、置いた。触れただけで壊れそうな、細工物でも扱っているようだった。しかし、彼女の心境など、棚の上に置き忘れたタチバナは、平気で無遠慮な手つきで、中から髪の毛を取り出した。それを、女に書かせた半紙の中に入れて、丸めてしまう。静かに立ち上がると、先ほど磨っていた墨のなかに入れてしまう。半紙は徐々に、溶けてゆき、そのうちすっかり無くなってしまった。
「この紙は特別製でね。墨と相性がいいので、すぐ一つになるのです」
タチバナの言葉は針のように小さいが、包丁の刃よりも鋭く、彼女の胸の中心を貫いた。女は黙っていた。うつむいた顔は見えないが、髪の毛に隠れたその横顔には、影が射していた。
「そうして、この筆は彼のものになります」
そう言って、袖の中から取り出した黒い筆を、彼女に向かって見せた。
「彼の魂が、あなたに向かって語ります。一度きりですから、そのつもりでいてください」
「はあ、でも」
「なんですか」
「彼は死んでおりません」
そんなことは、わかっています。タチバナは、ため息をついた。心底からつまらなそうに女を見る。その瞳の怜悧さに、知れず鳥肌が立った。
「ただの比喩です。魂のようなものです。この筆は彼の魂であるかのように、あなたに語る、と言うことです」
「はあ」
女の気のない返事にも、いくらか気分を害したのか、ついに黙りこんだ。そうして、ぐるり、と囲んでいる筆の棚を一度見上げて、つぶやいた。
「ずいぶん近いように見えるだけ、なにもかも。その実は交わらないものなのさ」
その声は、かすかな風にのって、俺の鼓膜だけを震わせた。まるで、障子一枚へだてたこちら側だけは、未だ深い闇を知らない、朝霧のようだった。
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