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第四章
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しおりを挟む五
しばらくして、ようやく揺れはおさまったが、店内の混乱は容易に冷めるはずがなかった。
テーブルの下で、泣きだす女や、子供の声に続いて、男たちのなぐさめる声が後を追った。それでも、暗闇の中で窮屈な場所に、長いこと押し込められているせいか、人々は次第に苛立ちを募らせて言った。
なにより、環境が悪い。空調がきかず、蒸している。明かりが、ぼんやりとしているため、人の顔もはっきり見えない。携帯電話はつながらず、情報を取ることもできず、また家族の安否確認などもできない。交通も遮断されているため、すぐに店を出ることも出来ず、不安な薄暗い闇の中で、座っているしかないのだ。
苛立ちや、不安は伝染してゆく。先ほどまで、子供の泣き声をあやしていた母親や、幼い子供らの不安そうな声に同情していた男たちが、いまでは苛立ちを隠しもせずに、舌打ちをしていた。
膝をゆらし、机をコツコツと叩きながら「おい、どうなってるんだ。何が起こったんだ」と、歩きまわっていた店員をつかまえては、怒鳴った。ウェイトレスも半ば涙目になりながら、「申し訳ありません、わかりません」と、頭を下げることしかできず、客の不安や動揺をどうにかなだめようと、「落ち着いてください」をくりかえし言い続けている。
僕らも、元の通りソファに座り直した。東堂などは、苛立つ男たちを睨みつけて「まったく、パニックしてるのは、みんな一緒だってのに、肝っ玉の小さい野郎ども」と、悪態をついていた。それに苦笑をもらすだけで、なんとも言えなかった。
ふと見下ろせば、八枯れは毛づくろいをして、あくびをもらしているだけだった。まったく、こいつはいつでも吞気だから、うらやましい。
「ぐずぐずしとると、状況が悪くなるぞ」
黄色い双眸を細めて、にやにやとしている。なんだ、こちらの悪態でも聞こえたのか、とため息をついた。靴の先で、尻をつついてやった。
「わかってるよ」
小声で応えると、混乱しきっている店内を見回した。東堂、と名前を呼んだ。なによ、と答えた彼女の顔色は、非常灯の青い光に照らされて、石膏像のように青白かった。関根くんに聞こえないよう、耳に口をよせてつぶやいた。
「僕は、例の片をつけなくちゃいけない。あとを頼めるか?」
一度、不機嫌そうに表情を歪ませてはいたが、何を思ったのか、にや、と笑って「仕様がない。貸し一つよ」と、愉快そうにつぶやいた。こんなときまで、自分の利害を忘れない彼女の態度に、感服のため息をついて、立ち上がった。まあ、邪植と似たようなものだと思えば、可愛いものかもしれない。
苛立ちが熱気となってうずまく、薄暗い店内から外へと飛び出した。いまの混乱した状況じゃ、他人の行動などさほど目に入らないのか、すんなりと外に出ることができた。なによりこんな薄暗さじゃ、誰が誰だかわかりゃしない。加えて、みんな自分のことで頭がいっぱいなのだ。
階段を降りて、外に出てみると、店よりも混乱した雑踏の波が、眼前に広がっていた。行き交う人の表情は暗い。陰鬱で、苛立った怒りを内に押しこみ、黙っている。車を捨てて、帰路に向かう男たちが群れを成して、さまざまな方向へ歩いて行っている。交通整理を行っていた警備員や、警察官、そばの駅からかけつけてきた駅員などに、状況を問いただす人々が、いくつも円をつくっていた。
空を見上げると、厚い紫の雲におおわれていた。雨あがりの空は、やけに不気味だった。頬にあたる風はつめたい。やけに、湿っぽい匂いがする。陽はだいぶ傾いてきているため、赤い太陽が、ビルの向こうに姿を消そうとしていた。何も見えなくなる前に、動かなくてはならない。
赤い斜陽を顔に受けながら、まるで、彼岸の景色のようだな、と鼻を鳴らす。ふと、ふくらはぎに当たった、くすぐったさに視線を下げると、八枯れが尻尾をからめて、黄色い双眸を細めた。
「見当はついとるのか」
「さあね」僕は、ポケットに手をつっこんで、歩きだした。雑踏にまぎれて、住宅街の方向に足を進める。「だいたい、お前が探せって言うから出たんだ。訳のわからない状況に、辟易しているのはこっちだぜ」
「人のせいにするな」
「鬼だろ」
「どこに行く気じゃ」
「わからないけど。人目は避けるはずだ。街を離れよう」
眉間に皺をよせて、空を仰いだ時だった。厚い紫の雲の上を、白い透明の尾が線を引くように飛んでいた。あ、と思わず声をもらした。空を見上げたまま、小走りになった。一つ二つ角を曲って、雑踏を抜けると、暗い路地へと入りこんだ。
腐ったみかんの皮や、酔っ払いの吐いたゲロ、犬のうんこに、干物や生肉の混ざったごみが散乱しているのを飛び越えて、川沿いに出た。そうして、上空を旋回していた、白い尾を見上げて微笑を浮かべた。
「来てくれたのか、錦」
赤と金と白のうろこが、沈みかけた斜陽に照らされて、きらきらとかがやいていた。ゆらゆらと尾を振りながら、こちらへと降りてくる。錦は、青く透明な双眸を細めて、長い鬚を空になびかせて、うなずいた。
「赤也、探しました」
そう言って、川の水面に浮かんだ錦は、僕を見上げて口元を上げた。ほんの少し、笑ったように見えて、ついこちらも笑みを浮かべる。少し遅れて、追いついてきた八枯れは、錦の顔を見るや否や「げ」と、苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「お前もいたのですか、愚猫」と、言いながら錦は冷ややかな視線を、八枯れに送った。八枯れが反論しようと、前に乗り出したとき、厚い雲が晴れた。ゆれる水面に浮かんだ、橙色の半月を見つめ、ハッとした。
「そういうことか」
はは、と小さく笑って、川の欄干に乗り出した。それに首をかしげた錦の顔が、水面に映る半月と共に、ゆれていた。
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