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第一章

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    六



 ようやく一同が話を終えて、さて、新人のあいさつだ、と場の期待がふくらんでいた。しかし、その子が顔を上げた瞬間、ざわめいていた室内が、水を打ったように静かになった。
 持ち上った顔に、ヒーロー物の面がくっついていたからだ。正直に言うと、この時になってはじめて、新しい生徒に興味が湧いた。そうすると、いままで気がつかなかったものが、目に入った。彼の肩や腕や足の周りには、くろぐろとした大きな蛇の化け物が、巻きつけていた。もちろん、他の子供には見えていない。それは、彼の体中をはいまわり、時折こちらを警戒するように、舌をちろちろと出していた。
 座卓の下にもぐりこんでいた八枯れが、舌舐めずりをする音が聞こえる。おいおい喰う気か。いまはまずいな、と眉間に皺をよせて、八枯れの尻尾を軽く引いた。彼は、肩くらいまでのびた黒髪をゆらしながら、両手を腹の上で組んだ。
 「高橋つぐもです。十七歳。好きなものは、解剖。この私塾は、たまたま雑誌で見つけてお邪魔しただけです。まあ、よろしく」
 つぐものくぐもった声が、淡々とそれだけを言った。面の隙間から、黒い蛇の尻尾がのぞく。ゆらゆらと、左右にゆれて、畳の上にぼたり、と落ちた。札や塩が効かないのか、厄介だな。そう思い、口を開こうとした瞬間、純一がぼそぼそと余計なことをつぶやいた。
 「なんであいつお面なんだ。変なやつ」
 純一の言葉に、つぐもはゆっくりと首をかしげた。その動作は、機械仕掛けの人形のように無機質だった。不気味な一挙一動に、純一もついに口をつぐんだ。つぐもは、感情のこもっていない面の向こうで、「は」と、鼻で嘲笑した。
 「どうやら、この私塾も馬鹿のようだ。どれだけ馬鹿をよせ集めたって、馬鹿であることに変わりないのに、あんたらも幻想を持っているくちなのか?不憫だね。特にそこのあんたら、なに?男二人とも全然駄目だね。クソだ」
 反論しようと、前に乗り出したみのると純一を、さゆりとななこが両手で抑えた。それを愉快そうに眺めながら、つぐもは肩をゆらせて笑った。
 「ああ、純一?くんだっけ。つまんないね」
 「うるさい。なんでそれをお前が決めるんだ」
 「つまらないからつまらないって言っている。お前らみんな、つまらない。馬鹿だ」
 堪忍袋の緒が切れた。純一は、ついに無い左足をふんばって立ち上がると、ななことさゆりの手を振り払って、つぐもの襟首をつかんだ。
 「つまらなくはないです」
 純一が拳を振りおろそうとした瞬間、僕はようやく横やりを入れた。全員がこちらに顔を向ける。中でも、純一は熱心に、視線を投げてよこしてきた。しまったな、と頭をかいた。つぐもは首をかしげたまま、くぐもった声で笑った。
 「ぼく、仲良しごっこ嫌いなんだよね。鼻につくから」
 つぐもの挑発的な発言に、血が騒ぐ。もう少し大人の振る舞いを心がけるつもりだったが、それはもともと無理な話しだったのかもしれない。うっすらと微笑を浮かべると、座卓の上で組んだ手の甲の上に、顎を置いた。
 「つぐもくん?でしたか。お面くん、でも良いですけどね。名前など、僕にとっては記号に過ぎませんが、君にとっては重要な意味があるようですね」
 冷たい声ではっきりと言うと、ヒーローのお面に、嘲笑のまなざしをそそぐ。つぐもはぐっと、拳をにぎりしめた。震える指を押えながら、肩膝を立てて、純一の手を振り払った。
 「おや、余裕が消えましたね。そっちのほうが子供らしくて良い」
 僕は片手で口元をおおって、のど奥で笑った。
 「お面、なるほど、顔ですか。君の嫌いな単語ですね。だから、ヤクザみたようにつっかかって来た訳ですね。幼稚なものだ。自我の肥大化した子供ほど動物に近いものはありません。取扱いには、注意しなくちゃ。うっかりすると、噛まれて狂犬病になる。いいね、純一くん」
 そうして純一を巻き込んでみたが、顔色を青くして軽く首を振っただけだった。つぐもはついに立ち上がると、ずかずかと座卓の前まで歩いて来た。一同は、すっかり黙り込んでしまった。
 「なに?あんたやる気?」
 低い声で、怒りを抑えこんでいる。しかし、足元で黒い蛇が頭をもたげていた。いまにも食いついて来そうなところを、座卓の下で八枯れが身構えて、牽制している。これ以上はまずいな、と首を振って両手を上げてみせた。降参のポーズだ。
 「いえいえ、とんでもない。なかなか小難しそうで、面倒な子どもだな、と言うのが本音です。僕に逆らうのは一向、構いませんが、生徒同士で傷をつっつきあうのは、やめましょうね。ましてや殴りあいは論外だ。やるなら、論理の上で正々堂々と、やってください。スポーツやゲームにも、ルールがあるでしょう。ルールを守るなら、いくらでも、厳しいことを言って良いです。でも、そうでないならここも、君の居場所にはなり得ませんよ」
 「どういう意味?」
 「君は不登校でしょう?居場所が欲しいのなら、少しは我慢を覚えてください」
 それでも、ようやく血の上がった頭が冷えてきたのか、つぐもはしばらく黙りこんだのち、その場に座り込んだ。僕とつぐものやりとりを、見守っていた生徒たちも、ホッと息をついていた。
 「あんたみたいな先生でも、ルールなんか守るんだ?」
 未だ警戒の解けていない低い声で、ぼそぼそとつぶやいていた。僕は、苦笑を浮かべて、背もたれに体重をあずけた。
 「ええ。一応、集団の中で生きる動物なのでね。必要最低限には守っています」
 「それって、どんなルール?」
 しばらく宙空を見据えてから、まっすぐにつぐもを見つめた。
 「自分の心が決めたルールです」
 「心?」
 「ええ。君のナイフはよく切れる。純一くんは今や、虫の息です」
 息はしてます。と、純一に言われ、みんなは声を上げて笑いだした。緊張の糸が途切れて、場の雰囲気がやわらかくなる。
 僕は微笑を浮かべて、一人一人の顔を眺めた。
 「ある程度の暴言は、そこに思いやりがあれば、まあ、いいでしょう。論争で、やさしく言え、と言うのもあんまり酷です。しかし、不当に存在を殺すことだけは、絶対に許しません。怒ります。相手がどんな人間でも。子供でも、老人でも、僕は大人気と言う窮屈な鎧をぬいで、殴りかかります。先ほどのようにね」
 そう言って、つぐもにやわらかな視線を送る。彼は、指先をいじりながら、ささやくようにつぶやいた。
 「それが先生のルールだからですか?」
 「まあそうです」
 「そんなことをして、ぼくが死んだらどうするの?」
 「そりゃ無いです」
 きっぱりとした口調に、つぐもはまたゆるやかに首をかしげた。
 「君が君を殺さない限りは、大丈夫です。先ほどは、純一くんを連れて死のうとしていた。心中ですね。それは憎しみだ。怒りならいい。怒りは死に対抗する、健康的な感情ですから。でも憎悪は人を殺します。そりゃ駄目だ」
 肩をすくめて見せると「もう授業の終わる時間です」と、みのるに袖を引っ張られ、ああそうか、苦笑を浮かべた。
 「今日はもう終わります。次はそこのつぐもくんに、司会進行してもらいます。ではさようなら」
 ため息をつくと、座卓の上で頬づえをついた。忘れていた右肩の痛みに、口元を歪める。


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