56 / 64
55話 握りしめた拳の行方は
しおりを挟む
ガンッ!
狭いトイレの中に黒野の身体が叩きつけられた音が反響した。
「お、おいっ! やめろよ! なんだよ突然……!」
黒野の取り巻きが狼狽したように声を上げる。
だが、俺は取り合わず、真っ直ぐ黒野の顔を見据えた。
生来の目つきの悪さも相まって、たぶん悪魔のような顔をしていたことだろう。
だけど、黒野は慌てるでもなく、怯えるでもなく、口元に薄ら笑いを浮かべて、俺を見据え返していた。
「あー……今の話、聞かれちゃった感じ?」
いつもどおりの調子で、これから世間話でもするように、そう尋ねてくる。
「お、俺――人呼んでくる!」
取り巻きがバタバタと駆けていく足音を聞きながら、俺は黒野に向かって言った。
「……最初から終わりまで、全部聞いてた」
「そっかぁ」
黒野は天井を仰ぎ見るようにしながら、大きなため息をつく。そして視線だけをこちらに向けると、再び薄ら笑いを浮かべて言った。
「まあ、落ち着けって。さっきの話は冗談半分で話盛っただけだよ」
「笑えない冗談だったよ」
俺が言葉を返すと、黒野は更に口元の歪みを強めた。
「つーかさ。俺がどんな風に恋愛しようと。それは俺の自由だから。お前にあれこれ言われる筋合いはないと思わない?」
「……それがお前の本性だったんだな」
「本性っていうかー。んー、そうだな。お前みたいな持たざるものには分からないだろうけど、俺みたいにゼンブ持ってる人生ってさ、案外退屈なんだよ」
「退屈――?」
「そ。だから恋愛はその暇つぶし。暇を潰すためには、色々と趣向を変えてみたいと思うのは当然じゃね?」
こいつは何を言ってるんだろう? 一瞬、理解できなかった。
だけどすぐに、ストンと胸に落ちるものがあった。
ああ、なるほど。そういうことなのか――
黒野にとって恋愛とは、ようは遊びなのだ。
俺が漫画やラノベを読むように、ゲームで遊ぶように。
気軽に手を伸ばし、飽きたら途中でやめて。また別のものに手を出す。
今日はFPSを遊んだ。明日はRPGで遊ぼう。
この漫画は、アニメはつまらない。ここで切ろう。
そんな感覚で、誰とでも付き合うことができる。飽きたら別れればいいだけのことだから。
確かに、それは個人の価値観の範囲なのかもしれない。
倫理的に褒められたものじゃないかもしれないが、別に法律に違反してるわけじゃない。
その振る舞いをしたうえで、本人が人間関係をコントロール出来ているのであれば、少なくとも第三者からアレコレ言われる筋合いはない――黒野のその主張も一理ある。
だけど、それでも、許し難い!
お前のその価値観で、詠が傷つきかねないことが。
「――まあ、青井が怒る気持ちもわかるよ。だって、お前、詠ちゃんのこと好きなんだもんな? 自分の好きな娘が、陰キャが必死こいて仲良くなった娘が、俺みたいなヤツに取られたらイヤだよな?」
黒野の言葉に、俺は思わず眉根を寄せた。
俺の表情を見た黒野は、更に愉快そうになって言葉を続ける。
「なあ、答えろって。彼女のこと好きなんだろ?」
黒野は挑みかかるような目で俺をまっすぐ見つめた。
ああ、そうさ。俺は、詠が――
言え。言うんだ!
ハッキリと!
「――ッ」
だけど、この期に及んで。
俺は、その気持ちを言葉にして、黒野にぶつけることができなかった。
なぜ。どうして。
どうして俺は自分の想いを言葉にすることができないんだ?
俺は――
俺はその言葉を言う代わりに、黒野の胸ぐらをつかむ左手の力を弱めた。そのままダラリと腕を下ろす。さっきまで握り拳を作っていた右手も、だらしなく緩んでいった。
そして絞り出すような声で言った。
「頼む……詠を……彼女を傷つけるようなマネだけはしないでくれ。お願いだ」
蚊の鳴くような、弱々しい声だった。
「はあ?」
黒野の顔から笑みが消える。
代わりに心底軽蔑するような表情を浮かべた。
「なんだそれ? 気持ちワル……お前さぁ――」
黒野が何かを言いかけたところで、勢いよくトイレのドアが開いた。
俺も黒野もドアの方を向く。
「おい、黒野! 大丈夫か!?」
取り巻きが、クラスメイト達を何人か連れて中に入ってきた。
彼らの目に映った光景は、至近距離で向かい合う俺と黒野。
そして、黒野の胸元は、今しがたまで俺に掴まれていたせいで、シャツが伸びて大きく乱れていた。
この光景を見たクラスメイト達が――
「青井! お前何やってんだよッ!」
駆けつけた大柄なクラスメイトが、俺と黒野の間に割って入った。それに続いて、取り巻きが黒野の元に駆け寄る。
「黒野、大丈夫か、ケガしてないか!?」
「ああ、ヘーキ」
「何? 何があったん?」
「ケンカ?」
ザワつくその他のクラスメイトたち。
この光景を見た彼らが、俺が一方的に黒野に暴力を振るったと状況を察するのは、無理からぬ話だ。
「俺と黒野がトイレで用を足してたら、いきなりコイツが出てきて――問答無用で黒野を壁に叩きつけたんだよ! マジで意味わかんねーし!」
事情が分からぬクラスメイト達に、取り巻きが補足説明。コイツも嘘は一つもついていない。
「え、こわっ」
「なんでそんなことすんの?」
動揺が、そして俺に対する不信感が、真っ白な半紙に零された墨汁のように、じわりと広がっていく。
何か反論しようと思った。
だけど、なぜ自分がこんな行動をしたのか、上手く説明ができなかった。
いや、説明するのが怖かった。
「ごめん――」
俺は虚空に向かってつぶやく。
それは何に対する謝罪だったんだろうか。
黒野に手荒なマネをしたことに対する?
クラス会をぶち壊してしまったことに対する?
それとも。
とにかく俺は、一刻も早くこの場から離れたくて、逃げ去るようにトイレを後にする。
トイレの外に出ると、廊下に女子生徒達も集まっていた。
一様に困惑した顔を浮かべた中に、詠の姿もあった。
彼女は心配そうな表情でこちらを見つめている。
俺は彼女と視線を合わせることなく、俯きながらその場を離れた。
ごめん。
心の中でもう一度謝る。
それは、詠に対する謝罪の念だった。
今日一緒に帰る約束を破ってごめん。
詠も楽しんでいた、クラス会を台無しにしてごめん。
黒野の問いに、何も言えなくてごめん。
俺なんかが、こんな気持ちになってごめん。
狭いトイレの中に黒野の身体が叩きつけられた音が反響した。
「お、おいっ! やめろよ! なんだよ突然……!」
黒野の取り巻きが狼狽したように声を上げる。
だが、俺は取り合わず、真っ直ぐ黒野の顔を見据えた。
生来の目つきの悪さも相まって、たぶん悪魔のような顔をしていたことだろう。
だけど、黒野は慌てるでもなく、怯えるでもなく、口元に薄ら笑いを浮かべて、俺を見据え返していた。
「あー……今の話、聞かれちゃった感じ?」
いつもどおりの調子で、これから世間話でもするように、そう尋ねてくる。
「お、俺――人呼んでくる!」
取り巻きがバタバタと駆けていく足音を聞きながら、俺は黒野に向かって言った。
「……最初から終わりまで、全部聞いてた」
「そっかぁ」
黒野は天井を仰ぎ見るようにしながら、大きなため息をつく。そして視線だけをこちらに向けると、再び薄ら笑いを浮かべて言った。
「まあ、落ち着けって。さっきの話は冗談半分で話盛っただけだよ」
「笑えない冗談だったよ」
俺が言葉を返すと、黒野は更に口元の歪みを強めた。
「つーかさ。俺がどんな風に恋愛しようと。それは俺の自由だから。お前にあれこれ言われる筋合いはないと思わない?」
「……それがお前の本性だったんだな」
「本性っていうかー。んー、そうだな。お前みたいな持たざるものには分からないだろうけど、俺みたいにゼンブ持ってる人生ってさ、案外退屈なんだよ」
「退屈――?」
「そ。だから恋愛はその暇つぶし。暇を潰すためには、色々と趣向を変えてみたいと思うのは当然じゃね?」
こいつは何を言ってるんだろう? 一瞬、理解できなかった。
だけどすぐに、ストンと胸に落ちるものがあった。
ああ、なるほど。そういうことなのか――
黒野にとって恋愛とは、ようは遊びなのだ。
俺が漫画やラノベを読むように、ゲームで遊ぶように。
気軽に手を伸ばし、飽きたら途中でやめて。また別のものに手を出す。
今日はFPSを遊んだ。明日はRPGで遊ぼう。
この漫画は、アニメはつまらない。ここで切ろう。
そんな感覚で、誰とでも付き合うことができる。飽きたら別れればいいだけのことだから。
確かに、それは個人の価値観の範囲なのかもしれない。
倫理的に褒められたものじゃないかもしれないが、別に法律に違反してるわけじゃない。
その振る舞いをしたうえで、本人が人間関係をコントロール出来ているのであれば、少なくとも第三者からアレコレ言われる筋合いはない――黒野のその主張も一理ある。
だけど、それでも、許し難い!
お前のその価値観で、詠が傷つきかねないことが。
「――まあ、青井が怒る気持ちもわかるよ。だって、お前、詠ちゃんのこと好きなんだもんな? 自分の好きな娘が、陰キャが必死こいて仲良くなった娘が、俺みたいなヤツに取られたらイヤだよな?」
黒野の言葉に、俺は思わず眉根を寄せた。
俺の表情を見た黒野は、更に愉快そうになって言葉を続ける。
「なあ、答えろって。彼女のこと好きなんだろ?」
黒野は挑みかかるような目で俺をまっすぐ見つめた。
ああ、そうさ。俺は、詠が――
言え。言うんだ!
ハッキリと!
「――ッ」
だけど、この期に及んで。
俺は、その気持ちを言葉にして、黒野にぶつけることができなかった。
なぜ。どうして。
どうして俺は自分の想いを言葉にすることができないんだ?
俺は――
俺はその言葉を言う代わりに、黒野の胸ぐらをつかむ左手の力を弱めた。そのままダラリと腕を下ろす。さっきまで握り拳を作っていた右手も、だらしなく緩んでいった。
そして絞り出すような声で言った。
「頼む……詠を……彼女を傷つけるようなマネだけはしないでくれ。お願いだ」
蚊の鳴くような、弱々しい声だった。
「はあ?」
黒野の顔から笑みが消える。
代わりに心底軽蔑するような表情を浮かべた。
「なんだそれ? 気持ちワル……お前さぁ――」
黒野が何かを言いかけたところで、勢いよくトイレのドアが開いた。
俺も黒野もドアの方を向く。
「おい、黒野! 大丈夫か!?」
取り巻きが、クラスメイト達を何人か連れて中に入ってきた。
彼らの目に映った光景は、至近距離で向かい合う俺と黒野。
そして、黒野の胸元は、今しがたまで俺に掴まれていたせいで、シャツが伸びて大きく乱れていた。
この光景を見たクラスメイト達が――
「青井! お前何やってんだよッ!」
駆けつけた大柄なクラスメイトが、俺と黒野の間に割って入った。それに続いて、取り巻きが黒野の元に駆け寄る。
「黒野、大丈夫か、ケガしてないか!?」
「ああ、ヘーキ」
「何? 何があったん?」
「ケンカ?」
ザワつくその他のクラスメイトたち。
この光景を見た彼らが、俺が一方的に黒野に暴力を振るったと状況を察するのは、無理からぬ話だ。
「俺と黒野がトイレで用を足してたら、いきなりコイツが出てきて――問答無用で黒野を壁に叩きつけたんだよ! マジで意味わかんねーし!」
事情が分からぬクラスメイト達に、取り巻きが補足説明。コイツも嘘は一つもついていない。
「え、こわっ」
「なんでそんなことすんの?」
動揺が、そして俺に対する不信感が、真っ白な半紙に零された墨汁のように、じわりと広がっていく。
何か反論しようと思った。
だけど、なぜ自分がこんな行動をしたのか、上手く説明ができなかった。
いや、説明するのが怖かった。
「ごめん――」
俺は虚空に向かってつぶやく。
それは何に対する謝罪だったんだろうか。
黒野に手荒なマネをしたことに対する?
クラス会をぶち壊してしまったことに対する?
それとも。
とにかく俺は、一刻も早くこの場から離れたくて、逃げ去るようにトイレを後にする。
トイレの外に出ると、廊下に女子生徒達も集まっていた。
一様に困惑した顔を浮かべた中に、詠の姿もあった。
彼女は心配そうな表情でこちらを見つめている。
俺は彼女と視線を合わせることなく、俯きながらその場を離れた。
ごめん。
心の中でもう一度謝る。
それは、詠に対する謝罪の念だった。
今日一緒に帰る約束を破ってごめん。
詠も楽しんでいた、クラス会を台無しにしてごめん。
黒野の問いに、何も言えなくてごめん。
俺なんかが、こんな気持ちになってごめん。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。
スタジオ.T
青春
幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。
そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。
ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる