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1巻
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結局、彼にとって小春はライバルであり友人でしかなかったのだ。身体を重ねたことにも、深い意味などなかったに違いない。
もしかしたら、本当に冷えた身体を温めるのが目的だったのではないかとさえ思ってしまう。
『……本当にバカだ』
流れる涙を拭い、ズキズキと悲鳴を上げる胸の痛みに必死に耐える。
――颯都がイタリアで頑張るなら、友人として、自分は日本で頑張ろう。
小春は絵葉書を用意すると、颯都に返事を出した。
【頑張るよ、当たり前でしょう! 負けないからね!】
そうメッセージをつけて……
――それから一年に二回、春と秋に颯都から絵葉書が届くようになった。
相変わらず、メッセージは一言だけ。
【頑張ってるか?】
【過ぎちゃったけど、誕生日おめでとう!】
颯都から絵葉書が届くと、小春もすぐに返事を出した。
【頑張ってるよ!】
【イタリア生活一年だよ。よく続いてるね、すごい!】
【日本語忘れちゃってない?】
本当は、もっとたくさんいろいろ書きたかった。
就職したデザイン会社で頑張っていること。仕事のこと。大学で一緒だった仲間のこと……
けれど、それを書いたら、寂しがっていると颯都に思われるかもしれない。仕事が辛いんじゃないか。もしかしたら、颯都に会いたがっているのではないか。そう思われるのが、なんだか嫌だった。
そうして五年。一度も会うことなく葉書だけのやりとりが続いている。
イタリアの颯都は、今では新進気鋭のインテリアデザイナーとして注目を浴び、日本でも何度かメディアに取り上げられる有名人になった。
友人として、彼の活躍を素直に嬉しいと思う。
ただ……
こうしてときどき過去を思い出しては落ち込む自分が、未練たらしい人間のように思えて重いため息が出てしまう。
外に出て、すっきりと晴れ渡った空を見上げる。春の陽射しが目に眩しい。
「もう……四月の中旬か……」
毎年、四月になる前に届く颯都からの絵葉書が、今年はまだ届いていない。
なにかあったのではないかと心配したものの、雑誌の記事で、彼が独立することを知った。
きっとその準備で忙しいのだろう。落ち着いたら連絡がくるかもしれない。
そう思ってはいても、つい颯都はもう自分に絵葉書を送ってこないのではないかという不安が生まれる。
「……いい年して……」
思わず自嘲の笑みが浮かんだ。
どんなに割り切ったつもりでいても、未だに自分から葉書一枚出すことができずにいる。
意地を張ったまま、好きの〝す〟の字も言えなかった十二年間。
たった一度重ねた身体は心の突破口にはならず、彼への未練を強くしただけだった。
――いつまでたっても、彼を忘れられない。
小春は、ただの友人に戻ることも、素直に想いをぶつけることもできない自分を、もどかしく思った。
その日、仕事を終え小春が自宅マンションへ戻ったのは、二十一時を過ぎた頃だった。
五階建ての1LDKマンション。その五階に小春の部屋はある。
縦長のスペースに、パズルのように部屋をはめ込んだ造り。玄関を入ってすぐに十五畳のLDKがあるのが気に入っていた。
食事も仕事も、帰ってきて即座に始めることができる。この部屋のリビングは、もう一つの仕事部屋みたいになっていた。
「ただいまあ~」
小春は一人暮らしなので、当然返事はない。
はあっと大きな息を吐き、資料が詰まったショルダーバッグとともにソファーへ倒れ込む。
思っていた以上に身体が重く、このまま眠ってしまいたくなった。
(疲れ、溜まってんのかなぁ……)
だが、予想外にヒアリングに時間を取られてしまったため、今日の分の仕事をまだまとめられていなかった。
その他にも、今日中に見ておかなくてはならない資料がある。
……なにより、メイクを落とさずに眠るのはダメだ。
「翌朝てきめんに、肌に出るのよね……。曲がり角だからさぁ……」
自虐的な言葉は、自分で口に出す分には気にならないものである……
小春はソファーに横になったまま、郵便受けから無造作に掴んできたものを確認し始めた。
ダイレクトメールが三通。その一通一通の送り主を確認しながら、あいだに葉書が挟まっていないか確かめる。
……我ながら諦めが悪い。
「よっ!」と勢いよく起き上がり、手紙をテーブルに放った。
ビールでも飲んですっきりしたいところだが、まずはお仕事だ。
嘆息して立ち上がると、壁側のデスクに近づきノートパソコンの電源を入れる。
外出中、携帯に課長から新しい仕事についてのメールがきていた。
おそらく小春が担当することになるから、先に資料を小春のパソコンへ送っておくとのことだった。
「ハウスメーカーの委託かな……。それとも新築とか……」
新規の仕事で指名を受けた場合、いつもだったら現在受け持っている仕事のスケジュールとの相談から始まる。
こうして勤務時間外にわざわざ資料を送ってくるということは、すでにこの仕事を受けるのは決定事項なのだ。
となると大手ハウスメーカーの委託案件か、単価の高い新築だろう。
どんどん受信される新着メール。その中に【新案件お願いします!】と張り切ったタイトルを見つけ、メールを開いた。
何気なく読み始めたメールだったが、徐々に小春の目が大きく見開かれていく。
まさか……
半信半疑でメールに添付されてきた画像を開いた。
そこに写るのは、少々古びたチャペルの外観。
「やっぱり、あそこだ……」
スタンダードな三角屋根と、正面の丸窓のステンドグラス。昔と変わらない外観が懐かしく、小春は長いことその画像を眺めていた。
「そっかぁ……、新しくなるんだ」
さっきまでの疲れはどこへやら。気づけば、今日一番なくらい気持ちが盛り上がっていた。
小春に持ち込まれた仕事は、チャペルの改装に伴う内装のコーディネート。
外観から式場までを担当するメインデザイナーが、コーディネーターとして小春を指名したようだ。指名を受けるのはもちろん嬉しい。だがそれ以上に、小春はこのチャペルを担当できるのが嬉しかった。
築二十年のチャペル会館。
結婚式から披露宴までを執り行うことが可能で、広い庭でガーデンパーティーもできる。
それなりに利用者も多かったようだが、オーナー会社が事業縮小のために手放し六年前に閉館されていた。
その後、どこかの不動産会社が買い取ったと噂を聞いたが、閉館した状態で今に至る。
「よかった。取り壊しにならなくて……」
チャペルを見つめたまま、ぽつりと呟く。小春の脳裏に、颯都の姿が思い浮かんだ。
このチャペルは、学生時代に駅へ向かう通学路にあった。そしてそれは、颯都も同じだった。
小学校から大学まで腐れ縁が続いた二人は、通学途中、かなりの高確率でこのチャペルの前で顔を合わせ、ときに並んで歩きながら学校へ通った。
長いつきあいの中で、二人は友だちを交え遊びに行ったこともある。そんなときの待ち合わせ場所は、必ずこのチャペルの前だった。
一緒に、本物の結婚式を見たこともある。
中学三年の春。いつものごとくここで颯都と待ち合わせをした小春は、偶然、結婚式のガーデンパーティーに行きあった。
チャペル会館の周囲はたくさんの木々が植えられていて、中があまり見えないようになっている。しかし、その日は正面入口が開いていて中がよく見えた。
好奇心から中を覗いた二人は、遠目に幸せそうな新郎新婦を目にしたのだ。
一緒に見ているのが颯都だったからか、とても胸がドキドキしたのを覚えている。
けれど、そんな自分を颯都に見られ、『なに? おまえでも結婚式とか憧れたりするの?』とからかわれたら、と不安になった。彼に対しては、どうしても意地を張ってしまう。
ぐっと表情を引き締め隣の颯都を窺った小春は、そこで言葉を失った。
颯都はとても楽しげに結婚式の光景を見ていたからだ。
『誰かの幸せそうな顔って、いいよな』
『あ……うん、いいよね。こっちまで幸せになるし』
『こういう顔……させてやりたい……』
『誰に?』
何気なく言って、ハッとした。この状況で幸せな顔をさせてあげたい相手というのなら、それは未来の結婚相手に他ならない。
そのことに気づき、自分で言っておきながら顔が熱くなった。
『や、やだなぁ……、あんたも男だねぇ。そういうこと考えるんだ?』
焦ったあげく、小春は颯都をからかってその場を誤魔化そうとする。
すると颯都は、彼女のおでこをぺしっと叩いて笑った。
『当然だろ。あんなふうに笑ってもらえる仕事ができたら、最高だろう』
『そっ……そうだねっ! そ、それは私もそう思う』
彼が考えていたのは、将来の仕事のことだった。
なんとも颯都らしいと思いながら、小春は話を合わせてアハハと笑う。
『だろう? やっぱりおまえとは気が合うなぁ』
よっぽど嬉しかったのか、颯都は小春の背をバシバシと叩く。
『よしっ、負けねーぞっ。どっちが先にそんな仕事ができるか競争な』
『わ、私だって、負けないからね』
売り言葉に買い言葉のような約束は、漠然とした将来に対する希望。
なにになりたい、これをしたい……
中学三年生の二人には、まだハッキリと決まったものがあるわけではなかった。
けれど……
誰かに幸せを感じて笑ってもらえる仕事がしたい。
それが二人の新たな目標となった。
そんな将来の希望を語りあった特別な場所。小春にとって、このチャペルは思い出深い大切な場所なのだ。
「目標は、達成したよね。私たち」
小春の口元が自然とほころぶ。
あのとき二人で立てた、誰かに幸せを感じて笑ってもらえる仕事がしたいという目標。
そろってデザイナーとなった二人は、なにもない空間をデザインし、コーディネートすることで、たくさんの人を幸せな笑顔にする仕事をしている。
小春はパソコンの後ろへ手を伸ばし、棚から葉書ホルダーを取り出す。
アイボリーの革貼りの表紙をクラシカルな飾りが縁取っているそれは、一見すると外国の古書のようだ。そこに挟まっているのは、颯都から送られてきた十枚の絵葉書。
絵葉書の写真は、花や野菜、キャンドルや星空、眠る猫など様々だ。
せっかくイタリアにいるのだから、イタリアの観光名所を写した絵葉書を送ってくれればいいのに、と思ったこともある。
けれど颯都のことだから、あえて日常の写真を使った絵葉書にしたのかもしれない。
遠い国にいることを感じさせないように……
年に二回、五年分の葉書は全部で十枚。一番新しいものは去年の秋に来た葉書だ。
【やっとやりたかったことができそうだ。報告を待っててくれ!】
見ただけで張り切っているとわかるメッセージが書かれていた。だが、今年の分がまだ届かない。
「……忙しすぎて、忘れてるのかな」
彼の言う、やりたかったことがなんなのかはわからない。だが、日本でも注目され始めている人だ。きっと、小春には想像もできない大きなことなのだろう。
「薄情だぞ。こらっ」
葉書に書かれた彼の一言をピンッと弾く。しばらくそこを見つめていたが、小春はホルダーを戻し、再びモニターに映るチャペルの画像に目を向けた。
頑張っているのならそれでいい。
自分も彼に負けないように仕事を頑張るだけだ。
翌朝、始業後のミーティングで、正式に課長からチャペルの改装案件が告げられた。
隣に座っていた晴美が、「頑張ってよー、小春センセッ!」と言って肘でつついてくる。
納得の雰囲気が広がる中、ただ一人不満の声を上げる人がいた。
「どういった基準で、加納さんが指名されたんですか?」
その一言で、ミーティング室の雰囲気を一気に凍らせたのは寺尾美波だった。
彼女は腕を組み、眉間にしわを寄せて課長に顔を向ける。
「ブライダル関連なら、ホテル部門も含めて私のほうがキャリアがあると思います。コンセプトからいっても、加納さんより私の専門のような気がしますけど」
確かに、ブライダル関連は高級感を得意とする美波の十八番だ。彼女の言うとおり、小春よりよっぽどキャリアもある。
自分の得意分野だと思うからこそ、美波は小春が指名されたことに納得がいかないのだろう。
課長は困ったように苦笑いを漏らし、しきりに時間を気にしている。
そろそろミーティングを切り上げなくてはならない時間だ。
コーディネーターによっては、午前中にクライアントと打ち合わせが入っている者もいる。
「寺尾さんの気持ちもわかるけど、今回はデザイナーから直々に加納さんを指名されたんだよ」
「その担当デザイナーって誰なんですか? どうせ、加納さん贔屓のハウスメーカーでしょう? 無理を聞いてもらいやすいって理由で適当な指名をされたんじゃ、仕事がやりにくくてしょうがないわ」
強硬な態度を見せる美波に室内の空気がザワッと動いた。
この気の強さと仕事に対するプライドは、彼女の優れたコーディネートにも繋がっていると小春は思っている。とはいえ、できれば揉め事は避けたいのが本音だ。
(でも……)
小春はミーティングテーブルの上で組んだ手に力を入れる。
この仕事は、絶対に手放したくなかった。どんなことがあっても、あのチャペルの改装にかかわりたい。
「大丈夫……?」
なにも言わない小春を、晴美は心配したのだろう。気遣うように小声で尋ねられ、小春は小さくうなずき、笑みを浮かべる。
そのとき、ミーティング室のドアがいきなり開いた。
「失礼。まだミーティング中でしたか? あとどのくらい待てば、俺はコーディネーターと会わせてもらえるのかな?」
突然部屋に入ってきたのは二十代後半の長身の青年だった。
襟足にかかる少し長めの黒髪。ジャケットにジーンズ。中にはラフなシャツを着ていた。人によってはだらしなく見えるスタイルだが、青年はまるでモデルのようにスッキリと着こなしている。
その姿を見た瞬間、小春は息を呑んだ。
同時に課長が青年に向かって頭を下げた。
「ああ、お待たせしてすみません。もう終わります」
「おとなしく待っていようと思いましたが、早く相棒に会いたくてね」
「ははは。これは随分と期待されているようだ」
課長は笑顔で小春を手で示した。
室内が大きなざわめきに包まれ始める。ここにいるみんなが、青年の正体に気づいたのだろう。
小春は目を見開き、青年を見つめたままゆっくりと立ち上がった。
すると青年は、足早に近づき……
「Ciao! カノ! 会いたかった!」
いきなり小春を抱きしめた。
「おまえの作品資料、全部見たぞ。凄いな、想像以上の成果を上げているじゃないか。パートナーはおまえしかいないって確信したよ!」
「ちょ……ちょっ……」
「限られた空間に、クライアントの夢と希望を詰めこんでトータルコーディネートする。その完成度が素晴らしい。想像以上だ。やっぱりおまえのセンスは最高だよ!」
「……いっ、一之瀬っ! どうしてここに!?」
小春は焦りに任せて青年の名を口にする。離せとばかりに彼のジャケットを後ろへ引っ張ると、颯都はにやりと笑った。
「五年ぶり。――カノ?」
ドキリと、痛いくらいに胸が高鳴った。
カノ、と、颯都だけの呼びかたにゾクゾクッと全身が粟立つ。心臓が勝手に早鐘を打ち始め、今にも眩暈を起こしそうだ。
彼が……目の前にいる。
この五年間、ずっと忘れられずにいた、颯都が……
「……どうして」
なぜイタリアにいるはずの彼が、ここにいるのだろう。
聞きたいこと、言いたいこと、いろんなことが頭の中でぐるぐる回り、上手く言葉が出てこない。
口を半開きにしたままうろたえる小春の肩をポンッと叩き、颯都は室内を見回す。そして、右手を自分の胸にあて、爽やかな笑顔を見せた。
「Buon giorno! 今回、チャペルホール・フェリーチェのリノベーションを担当します。デザイナーの……」
「一之瀬颯都先生っ!」
颯都が名乗る前に、室内で驚きの声が上がった。同時にわっと拍手が沸き起こる。
イタリアで活躍する颯都は、新進気鋭の日本人インテリアデザイナーとして、国内の雑誌にも紹介されている。ここで彼のことを知らない者はいないだろう。
「私は今回のリノベーションを、とても楽しみにしていました。早くコーディネーターと打ち合わせがしたくて、つい乗りこんでしまいましたが、怒らないでください」
そう言って、颯都は呆然とする小春に微笑み、その背をポンッと叩く。
「彼女が有能だということは皆さんご存じのとおりです。彼女をお借りすることで、きっと何十人ものクライアントが悔しがることでしょう。けれど、決して誰にも文句を言わせないものを完成させるとお約束します」
再び大きな拍手がミーティング室を満たす。
しかしそんな中、美波が席を立ち、颯都に近づいた。
「Piacere ――一之瀬先生」
そう言って右手を差し出す美波に、颯都は笑顔で「Piacere mio」と両手でその手を取った。
颯都がイタリアへ行ったあと、少しだけだがイタリア語について勉強したことがある。
Piacereとは、イタリア語で『はじめまして』。そして、颯都のPiacere mioは『こちらこそ、はじめまして』という意味だ。
「ご帰国されているとは存じませんでした。日本へは、この仕事のために?」
「この春から、日本に個人事務所を構えたのですよ」
「そうなんですか?」
美波は驚いた顔をする。だが、隣で聞いている小春も驚いた。独立すると話題になっていたのは知っていたが、まさかそれが日本とは思わなかった。
(か……帰ってくるなら……、連絡くらいくれても……)
驚きつつ、つい不満が湧き上がる。同時に、葉書に書いてあった【やりたかったこと】とは、このことだろうかと思った。
「では、今回のチャペルのお仕事は、先生の帰国第一弾ということですね?」
握られた右手を左手で包み、それを胸にあてる美波の頬が、どことなく赤い。
それもそのはずで、彼については、世界が注目する若手インテリアデザイナーという他に、その優れた容姿にも注目が集まっていた。
昔から整った容姿をしていたが、イタリアへ行って、それに磨きがかかったように見える。
それを証明するように、美波だけでなく、この場にいる女性全員が彼に見惚れていた。
「チャペルの改装については全面的に任されています。それで、腕のいいコーディネーターの目が欲しいと思い、今回加納女史を指名させてもらいました」
チラリと視線を向けられ、ドキッとする。しかし颯都を挟んだ向こう側から美波に睨まれた。
「もしかして、一之瀬先生と加納さんはお知り合いですか?」
「ええ。学生時代の同級生です。彼女のことは昔からよく知っているので、仕事もやりやすい」
「そうだったんですね。……ですが、人選ミスだと思います」
「人選ミス?」
室内に緊張が走る。先程課長にぶつけていた不満を、今度は小春を指名した颯都本人にしようとしているのがわかったからだ。
「チャペルなどのブライダル関係は、加納さんの得意分野ではありません。先生も彼女の実績をご覧になったならおわかりかと思いますが?」
「実績? ええ、見ましたよ。全て。穏やかで優しい空間を作るのが上手かった」
「チャペルという場所に、その感性は適切と言えないのでは? ブライダル関係で求められるのは、華やかさや豪華さといった、女性にとって最高のイベントを盛り上げられる感性ではありませんか?」
「華やかで豪華……。それこそ、貴女の得意分野ですね。寺尾美波さん」
颯都の言葉に、美波が息を呑む。
おそらく彼は、小春だけでなくここのコーディネーター全員の作品を見ているのだろう。もちろん、美波の実績も把握しているはずだ。
颯都が自分のことを知っていたことに気を良くした美波は、満面の笑みを浮かべる。しかしその表情は、次の彼の一言で固まった。
「ですが、それを承知で、私は加納女史を指名しました」
室内のざわめきがぴたりと止まった。
微笑みを浮かべる颯都の言葉を、誰もが固唾を呑んで待つ。
「今回改装するチャペルを、貴女は直接ご覧になったことがありますか?」
「近くを通りかかったことなら……」
「それはおそらく閉館してからでしょう。普通に機能していた頃は?」
「いいえ……」
小春の脳裏に、過去の思い出がよみがえる。
二人で覗き見た結婚式。幸せに包まれた新郎新婦の様子は、参列者全てを笑顔にしていた。
「あのチャペルは、どちらかといえばナチュラルでアットホームな雰囲気が売りです。そのため大切にすべきは、豪華さではなく、優しさや穏やかさです。――そう、たとえるなら、ローマの中心部に建つ小さな教会のような。有名な教会の陰になっていても、市民に愛され続ける場所。そんな素朴な温かさです。加納女史のコーディネートなら、それを再びあそこに取り戻すことができると確信しているのです」
そう言って微笑んだ彼に、ギュッと、心を鷲掴みにされた気がした。
もしかしたら、本当に冷えた身体を温めるのが目的だったのではないかとさえ思ってしまう。
『……本当にバカだ』
流れる涙を拭い、ズキズキと悲鳴を上げる胸の痛みに必死に耐える。
――颯都がイタリアで頑張るなら、友人として、自分は日本で頑張ろう。
小春は絵葉書を用意すると、颯都に返事を出した。
【頑張るよ、当たり前でしょう! 負けないからね!】
そうメッセージをつけて……
――それから一年に二回、春と秋に颯都から絵葉書が届くようになった。
相変わらず、メッセージは一言だけ。
【頑張ってるか?】
【過ぎちゃったけど、誕生日おめでとう!】
颯都から絵葉書が届くと、小春もすぐに返事を出した。
【頑張ってるよ!】
【イタリア生活一年だよ。よく続いてるね、すごい!】
【日本語忘れちゃってない?】
本当は、もっとたくさんいろいろ書きたかった。
就職したデザイン会社で頑張っていること。仕事のこと。大学で一緒だった仲間のこと……
けれど、それを書いたら、寂しがっていると颯都に思われるかもしれない。仕事が辛いんじゃないか。もしかしたら、颯都に会いたがっているのではないか。そう思われるのが、なんだか嫌だった。
そうして五年。一度も会うことなく葉書だけのやりとりが続いている。
イタリアの颯都は、今では新進気鋭のインテリアデザイナーとして注目を浴び、日本でも何度かメディアに取り上げられる有名人になった。
友人として、彼の活躍を素直に嬉しいと思う。
ただ……
こうしてときどき過去を思い出しては落ち込む自分が、未練たらしい人間のように思えて重いため息が出てしまう。
外に出て、すっきりと晴れ渡った空を見上げる。春の陽射しが目に眩しい。
「もう……四月の中旬か……」
毎年、四月になる前に届く颯都からの絵葉書が、今年はまだ届いていない。
なにかあったのではないかと心配したものの、雑誌の記事で、彼が独立することを知った。
きっとその準備で忙しいのだろう。落ち着いたら連絡がくるかもしれない。
そう思ってはいても、つい颯都はもう自分に絵葉書を送ってこないのではないかという不安が生まれる。
「……いい年して……」
思わず自嘲の笑みが浮かんだ。
どんなに割り切ったつもりでいても、未だに自分から葉書一枚出すことができずにいる。
意地を張ったまま、好きの〝す〟の字も言えなかった十二年間。
たった一度重ねた身体は心の突破口にはならず、彼への未練を強くしただけだった。
――いつまでたっても、彼を忘れられない。
小春は、ただの友人に戻ることも、素直に想いをぶつけることもできない自分を、もどかしく思った。
その日、仕事を終え小春が自宅マンションへ戻ったのは、二十一時を過ぎた頃だった。
五階建ての1LDKマンション。その五階に小春の部屋はある。
縦長のスペースに、パズルのように部屋をはめ込んだ造り。玄関を入ってすぐに十五畳のLDKがあるのが気に入っていた。
食事も仕事も、帰ってきて即座に始めることができる。この部屋のリビングは、もう一つの仕事部屋みたいになっていた。
「ただいまあ~」
小春は一人暮らしなので、当然返事はない。
はあっと大きな息を吐き、資料が詰まったショルダーバッグとともにソファーへ倒れ込む。
思っていた以上に身体が重く、このまま眠ってしまいたくなった。
(疲れ、溜まってんのかなぁ……)
だが、予想外にヒアリングに時間を取られてしまったため、今日の分の仕事をまだまとめられていなかった。
その他にも、今日中に見ておかなくてはならない資料がある。
……なにより、メイクを落とさずに眠るのはダメだ。
「翌朝てきめんに、肌に出るのよね……。曲がり角だからさぁ……」
自虐的な言葉は、自分で口に出す分には気にならないものである……
小春はソファーに横になったまま、郵便受けから無造作に掴んできたものを確認し始めた。
ダイレクトメールが三通。その一通一通の送り主を確認しながら、あいだに葉書が挟まっていないか確かめる。
……我ながら諦めが悪い。
「よっ!」と勢いよく起き上がり、手紙をテーブルに放った。
ビールでも飲んですっきりしたいところだが、まずはお仕事だ。
嘆息して立ち上がると、壁側のデスクに近づきノートパソコンの電源を入れる。
外出中、携帯に課長から新しい仕事についてのメールがきていた。
おそらく小春が担当することになるから、先に資料を小春のパソコンへ送っておくとのことだった。
「ハウスメーカーの委託かな……。それとも新築とか……」
新規の仕事で指名を受けた場合、いつもだったら現在受け持っている仕事のスケジュールとの相談から始まる。
こうして勤務時間外にわざわざ資料を送ってくるということは、すでにこの仕事を受けるのは決定事項なのだ。
となると大手ハウスメーカーの委託案件か、単価の高い新築だろう。
どんどん受信される新着メール。その中に【新案件お願いします!】と張り切ったタイトルを見つけ、メールを開いた。
何気なく読み始めたメールだったが、徐々に小春の目が大きく見開かれていく。
まさか……
半信半疑でメールに添付されてきた画像を開いた。
そこに写るのは、少々古びたチャペルの外観。
「やっぱり、あそこだ……」
スタンダードな三角屋根と、正面の丸窓のステンドグラス。昔と変わらない外観が懐かしく、小春は長いことその画像を眺めていた。
「そっかぁ……、新しくなるんだ」
さっきまでの疲れはどこへやら。気づけば、今日一番なくらい気持ちが盛り上がっていた。
小春に持ち込まれた仕事は、チャペルの改装に伴う内装のコーディネート。
外観から式場までを担当するメインデザイナーが、コーディネーターとして小春を指名したようだ。指名を受けるのはもちろん嬉しい。だがそれ以上に、小春はこのチャペルを担当できるのが嬉しかった。
築二十年のチャペル会館。
結婚式から披露宴までを執り行うことが可能で、広い庭でガーデンパーティーもできる。
それなりに利用者も多かったようだが、オーナー会社が事業縮小のために手放し六年前に閉館されていた。
その後、どこかの不動産会社が買い取ったと噂を聞いたが、閉館した状態で今に至る。
「よかった。取り壊しにならなくて……」
チャペルを見つめたまま、ぽつりと呟く。小春の脳裏に、颯都の姿が思い浮かんだ。
このチャペルは、学生時代に駅へ向かう通学路にあった。そしてそれは、颯都も同じだった。
小学校から大学まで腐れ縁が続いた二人は、通学途中、かなりの高確率でこのチャペルの前で顔を合わせ、ときに並んで歩きながら学校へ通った。
長いつきあいの中で、二人は友だちを交え遊びに行ったこともある。そんなときの待ち合わせ場所は、必ずこのチャペルの前だった。
一緒に、本物の結婚式を見たこともある。
中学三年の春。いつものごとくここで颯都と待ち合わせをした小春は、偶然、結婚式のガーデンパーティーに行きあった。
チャペル会館の周囲はたくさんの木々が植えられていて、中があまり見えないようになっている。しかし、その日は正面入口が開いていて中がよく見えた。
好奇心から中を覗いた二人は、遠目に幸せそうな新郎新婦を目にしたのだ。
一緒に見ているのが颯都だったからか、とても胸がドキドキしたのを覚えている。
けれど、そんな自分を颯都に見られ、『なに? おまえでも結婚式とか憧れたりするの?』とからかわれたら、と不安になった。彼に対しては、どうしても意地を張ってしまう。
ぐっと表情を引き締め隣の颯都を窺った小春は、そこで言葉を失った。
颯都はとても楽しげに結婚式の光景を見ていたからだ。
『誰かの幸せそうな顔って、いいよな』
『あ……うん、いいよね。こっちまで幸せになるし』
『こういう顔……させてやりたい……』
『誰に?』
何気なく言って、ハッとした。この状況で幸せな顔をさせてあげたい相手というのなら、それは未来の結婚相手に他ならない。
そのことに気づき、自分で言っておきながら顔が熱くなった。
『や、やだなぁ……、あんたも男だねぇ。そういうこと考えるんだ?』
焦ったあげく、小春は颯都をからかってその場を誤魔化そうとする。
すると颯都は、彼女のおでこをぺしっと叩いて笑った。
『当然だろ。あんなふうに笑ってもらえる仕事ができたら、最高だろう』
『そっ……そうだねっ! そ、それは私もそう思う』
彼が考えていたのは、将来の仕事のことだった。
なんとも颯都らしいと思いながら、小春は話を合わせてアハハと笑う。
『だろう? やっぱりおまえとは気が合うなぁ』
よっぽど嬉しかったのか、颯都は小春の背をバシバシと叩く。
『よしっ、負けねーぞっ。どっちが先にそんな仕事ができるか競争な』
『わ、私だって、負けないからね』
売り言葉に買い言葉のような約束は、漠然とした将来に対する希望。
なにになりたい、これをしたい……
中学三年生の二人には、まだハッキリと決まったものがあるわけではなかった。
けれど……
誰かに幸せを感じて笑ってもらえる仕事がしたい。
それが二人の新たな目標となった。
そんな将来の希望を語りあった特別な場所。小春にとって、このチャペルは思い出深い大切な場所なのだ。
「目標は、達成したよね。私たち」
小春の口元が自然とほころぶ。
あのとき二人で立てた、誰かに幸せを感じて笑ってもらえる仕事がしたいという目標。
そろってデザイナーとなった二人は、なにもない空間をデザインし、コーディネートすることで、たくさんの人を幸せな笑顔にする仕事をしている。
小春はパソコンの後ろへ手を伸ばし、棚から葉書ホルダーを取り出す。
アイボリーの革貼りの表紙をクラシカルな飾りが縁取っているそれは、一見すると外国の古書のようだ。そこに挟まっているのは、颯都から送られてきた十枚の絵葉書。
絵葉書の写真は、花や野菜、キャンドルや星空、眠る猫など様々だ。
せっかくイタリアにいるのだから、イタリアの観光名所を写した絵葉書を送ってくれればいいのに、と思ったこともある。
けれど颯都のことだから、あえて日常の写真を使った絵葉書にしたのかもしれない。
遠い国にいることを感じさせないように……
年に二回、五年分の葉書は全部で十枚。一番新しいものは去年の秋に来た葉書だ。
【やっとやりたかったことができそうだ。報告を待っててくれ!】
見ただけで張り切っているとわかるメッセージが書かれていた。だが、今年の分がまだ届かない。
「……忙しすぎて、忘れてるのかな」
彼の言う、やりたかったことがなんなのかはわからない。だが、日本でも注目され始めている人だ。きっと、小春には想像もできない大きなことなのだろう。
「薄情だぞ。こらっ」
葉書に書かれた彼の一言をピンッと弾く。しばらくそこを見つめていたが、小春はホルダーを戻し、再びモニターに映るチャペルの画像に目を向けた。
頑張っているのならそれでいい。
自分も彼に負けないように仕事を頑張るだけだ。
翌朝、始業後のミーティングで、正式に課長からチャペルの改装案件が告げられた。
隣に座っていた晴美が、「頑張ってよー、小春センセッ!」と言って肘でつついてくる。
納得の雰囲気が広がる中、ただ一人不満の声を上げる人がいた。
「どういった基準で、加納さんが指名されたんですか?」
その一言で、ミーティング室の雰囲気を一気に凍らせたのは寺尾美波だった。
彼女は腕を組み、眉間にしわを寄せて課長に顔を向ける。
「ブライダル関連なら、ホテル部門も含めて私のほうがキャリアがあると思います。コンセプトからいっても、加納さんより私の専門のような気がしますけど」
確かに、ブライダル関連は高級感を得意とする美波の十八番だ。彼女の言うとおり、小春よりよっぽどキャリアもある。
自分の得意分野だと思うからこそ、美波は小春が指名されたことに納得がいかないのだろう。
課長は困ったように苦笑いを漏らし、しきりに時間を気にしている。
そろそろミーティングを切り上げなくてはならない時間だ。
コーディネーターによっては、午前中にクライアントと打ち合わせが入っている者もいる。
「寺尾さんの気持ちもわかるけど、今回はデザイナーから直々に加納さんを指名されたんだよ」
「その担当デザイナーって誰なんですか? どうせ、加納さん贔屓のハウスメーカーでしょう? 無理を聞いてもらいやすいって理由で適当な指名をされたんじゃ、仕事がやりにくくてしょうがないわ」
強硬な態度を見せる美波に室内の空気がザワッと動いた。
この気の強さと仕事に対するプライドは、彼女の優れたコーディネートにも繋がっていると小春は思っている。とはいえ、できれば揉め事は避けたいのが本音だ。
(でも……)
小春はミーティングテーブルの上で組んだ手に力を入れる。
この仕事は、絶対に手放したくなかった。どんなことがあっても、あのチャペルの改装にかかわりたい。
「大丈夫……?」
なにも言わない小春を、晴美は心配したのだろう。気遣うように小声で尋ねられ、小春は小さくうなずき、笑みを浮かべる。
そのとき、ミーティング室のドアがいきなり開いた。
「失礼。まだミーティング中でしたか? あとどのくらい待てば、俺はコーディネーターと会わせてもらえるのかな?」
突然部屋に入ってきたのは二十代後半の長身の青年だった。
襟足にかかる少し長めの黒髪。ジャケットにジーンズ。中にはラフなシャツを着ていた。人によってはだらしなく見えるスタイルだが、青年はまるでモデルのようにスッキリと着こなしている。
その姿を見た瞬間、小春は息を呑んだ。
同時に課長が青年に向かって頭を下げた。
「ああ、お待たせしてすみません。もう終わります」
「おとなしく待っていようと思いましたが、早く相棒に会いたくてね」
「ははは。これは随分と期待されているようだ」
課長は笑顔で小春を手で示した。
室内が大きなざわめきに包まれ始める。ここにいるみんなが、青年の正体に気づいたのだろう。
小春は目を見開き、青年を見つめたままゆっくりと立ち上がった。
すると青年は、足早に近づき……
「Ciao! カノ! 会いたかった!」
いきなり小春を抱きしめた。
「おまえの作品資料、全部見たぞ。凄いな、想像以上の成果を上げているじゃないか。パートナーはおまえしかいないって確信したよ!」
「ちょ……ちょっ……」
「限られた空間に、クライアントの夢と希望を詰めこんでトータルコーディネートする。その完成度が素晴らしい。想像以上だ。やっぱりおまえのセンスは最高だよ!」
「……いっ、一之瀬っ! どうしてここに!?」
小春は焦りに任せて青年の名を口にする。離せとばかりに彼のジャケットを後ろへ引っ張ると、颯都はにやりと笑った。
「五年ぶり。――カノ?」
ドキリと、痛いくらいに胸が高鳴った。
カノ、と、颯都だけの呼びかたにゾクゾクッと全身が粟立つ。心臓が勝手に早鐘を打ち始め、今にも眩暈を起こしそうだ。
彼が……目の前にいる。
この五年間、ずっと忘れられずにいた、颯都が……
「……どうして」
なぜイタリアにいるはずの彼が、ここにいるのだろう。
聞きたいこと、言いたいこと、いろんなことが頭の中でぐるぐる回り、上手く言葉が出てこない。
口を半開きにしたままうろたえる小春の肩をポンッと叩き、颯都は室内を見回す。そして、右手を自分の胸にあて、爽やかな笑顔を見せた。
「Buon giorno! 今回、チャペルホール・フェリーチェのリノベーションを担当します。デザイナーの……」
「一之瀬颯都先生っ!」
颯都が名乗る前に、室内で驚きの声が上がった。同時にわっと拍手が沸き起こる。
イタリアで活躍する颯都は、新進気鋭の日本人インテリアデザイナーとして、国内の雑誌にも紹介されている。ここで彼のことを知らない者はいないだろう。
「私は今回のリノベーションを、とても楽しみにしていました。早くコーディネーターと打ち合わせがしたくて、つい乗りこんでしまいましたが、怒らないでください」
そう言って、颯都は呆然とする小春に微笑み、その背をポンッと叩く。
「彼女が有能だということは皆さんご存じのとおりです。彼女をお借りすることで、きっと何十人ものクライアントが悔しがることでしょう。けれど、決して誰にも文句を言わせないものを完成させるとお約束します」
再び大きな拍手がミーティング室を満たす。
しかしそんな中、美波が席を立ち、颯都に近づいた。
「Piacere ――一之瀬先生」
そう言って右手を差し出す美波に、颯都は笑顔で「Piacere mio」と両手でその手を取った。
颯都がイタリアへ行ったあと、少しだけだがイタリア語について勉強したことがある。
Piacereとは、イタリア語で『はじめまして』。そして、颯都のPiacere mioは『こちらこそ、はじめまして』という意味だ。
「ご帰国されているとは存じませんでした。日本へは、この仕事のために?」
「この春から、日本に個人事務所を構えたのですよ」
「そうなんですか?」
美波は驚いた顔をする。だが、隣で聞いている小春も驚いた。独立すると話題になっていたのは知っていたが、まさかそれが日本とは思わなかった。
(か……帰ってくるなら……、連絡くらいくれても……)
驚きつつ、つい不満が湧き上がる。同時に、葉書に書いてあった【やりたかったこと】とは、このことだろうかと思った。
「では、今回のチャペルのお仕事は、先生の帰国第一弾ということですね?」
握られた右手を左手で包み、それを胸にあてる美波の頬が、どことなく赤い。
それもそのはずで、彼については、世界が注目する若手インテリアデザイナーという他に、その優れた容姿にも注目が集まっていた。
昔から整った容姿をしていたが、イタリアへ行って、それに磨きがかかったように見える。
それを証明するように、美波だけでなく、この場にいる女性全員が彼に見惚れていた。
「チャペルの改装については全面的に任されています。それで、腕のいいコーディネーターの目が欲しいと思い、今回加納女史を指名させてもらいました」
チラリと視線を向けられ、ドキッとする。しかし颯都を挟んだ向こう側から美波に睨まれた。
「もしかして、一之瀬先生と加納さんはお知り合いですか?」
「ええ。学生時代の同級生です。彼女のことは昔からよく知っているので、仕事もやりやすい」
「そうだったんですね。……ですが、人選ミスだと思います」
「人選ミス?」
室内に緊張が走る。先程課長にぶつけていた不満を、今度は小春を指名した颯都本人にしようとしているのがわかったからだ。
「チャペルなどのブライダル関係は、加納さんの得意分野ではありません。先生も彼女の実績をご覧になったならおわかりかと思いますが?」
「実績? ええ、見ましたよ。全て。穏やかで優しい空間を作るのが上手かった」
「チャペルという場所に、その感性は適切と言えないのでは? ブライダル関係で求められるのは、華やかさや豪華さといった、女性にとって最高のイベントを盛り上げられる感性ではありませんか?」
「華やかで豪華……。それこそ、貴女の得意分野ですね。寺尾美波さん」
颯都の言葉に、美波が息を呑む。
おそらく彼は、小春だけでなくここのコーディネーター全員の作品を見ているのだろう。もちろん、美波の実績も把握しているはずだ。
颯都が自分のことを知っていたことに気を良くした美波は、満面の笑みを浮かべる。しかしその表情は、次の彼の一言で固まった。
「ですが、それを承知で、私は加納女史を指名しました」
室内のざわめきがぴたりと止まった。
微笑みを浮かべる颯都の言葉を、誰もが固唾を呑んで待つ。
「今回改装するチャペルを、貴女は直接ご覧になったことがありますか?」
「近くを通りかかったことなら……」
「それはおそらく閉館してからでしょう。普通に機能していた頃は?」
「いいえ……」
小春の脳裏に、過去の思い出がよみがえる。
二人で覗き見た結婚式。幸せに包まれた新郎新婦の様子は、参列者全てを笑顔にしていた。
「あのチャペルは、どちらかといえばナチュラルでアットホームな雰囲気が売りです。そのため大切にすべきは、豪華さではなく、優しさや穏やかさです。――そう、たとえるなら、ローマの中心部に建つ小さな教会のような。有名な教会の陰になっていても、市民に愛され続ける場所。そんな素朴な温かさです。加納女史のコーディネートなら、それを再びあそこに取り戻すことができると確信しているのです」
そう言って微笑んだ彼に、ギュッと、心を鷲掴みにされた気がした。
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