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しおりを挟むプロローグ
「なあ、そろそろ、友だちやめないか?」
その言葉は、今まさに大好きなイチゴを味わおうと、期待を込めて大きな口を開けたときに聞こえた。
――ショートケーキの真っ白なクリームの上に載る、赤いイチゴは芸術品。
東野朱莉はそんな考えを持ち、イチゴをいつも最後まで大事に取っておく。そのため、それを口に入れる瞬間を邪魔されるのは、大変に許し難いことである。
「は?」
ぽかんと口を開けたまま、朱莉は訝しげに発言の主である三宮征司を見た。
彼は朱莉に目も向けず、缶ビールを片手に、眼鏡の奥の凛々しい目で新聞を読んでいる。シャツの首元のボタンを外して袖を捲り、ネクタイは緩められている。そしてソファに深く腰掛け、長い足を組んでいた。
外ではピシッと決めたスーツ姿。くつろいでますと言わんばかりのこの姿は、朱莉の前でのみ晒される。
一方の朱莉はソファの正面に置かれたローテーブルの前に座り、部屋着のスウェットワンピース一枚で、ケーキを食べつつ大好きな二時間ドラマを観ていた。
しかし、せっかくのドラマ鑑賞時間だというのに、征司の言葉のせいで、彼女の意識は断崖絶壁に犯人を追いつめたメイン俳優から逸れてしまった。代わりに、大学時代から十年間友だち付き合いをしている征司をじっと見つめる。
朱莉は、今の征司の発言について考えた。
どういう意味だろう。せっかくこれまで、気の合う友だち同士でいたというのに。こうして仕事帰りに征司が朱莉の部屋へ転がり込み、勝手に冷蔵庫からビールを出してソファに陣取っていても、それが普通に思えるほどの関係を築いてきた。
その関係を、突如「やめよう」などと言われてしまうとは……
ふたりは大学で同じゼミに所属していたことから親しくなった。
男前だが気取らない征司と、快活な朱莉。
ウマが合ったふたりは、なんでも相談し合える友だち関係を保ったまま大学時代を過ごし、同じ会社へ就職した。
知り合って十年。ふたりは今年で二十九歳になる。
背中を丸めながら赤いイチゴを口に入れた途端、朱莉の中でひとつの答えが出た。ミディアムロングの髪をふり乱す勢いで顔を上げた朱莉は、せっかくのイチゴをろくに噛みもせず呑み込んでしまった。
「なにっ? 絶交しようってことなの?」
朱莉の反応に、今度は征司が考え込む番だった。彼は口を付けようとしていた缶ビールをローテーブルに置き、眉を寄せて朱莉を見る。
「どうしてそんな答えになるんだよ」
「だって、友だちやめるんでしょう? 絶交ってことじゃない。どうして? 私、なんかした?」
自分になにか非があったのか聞き出そうとした朱莉だが、征司の答えを聞くよりも先に、ある考えが頭をよぎった。
「ああ、そうか。もしかして征司、彼女ができた? 女の子ってアレだよね、彼氏の女友だちとかって嫌がったりするもんね。そっかぁ、それじゃあしょうがないかな……。でもさぁ、絶交までしなくたって……」
「朱莉の、ドあほっ」
ひとり納得する朱莉の頭に、新聞がパコンと直撃する。それ自体は薄いものだが、丸めて叩かれれば充分に痛い。
両手で頭を押さえて「痛い~」と文句を言う朱莉を眺め、征司はフンッと鼻を鳴らした。
「違うだろっ。どうしてそういう方向に持っていくんだ、お前は」
「違うのぉ?」
朱莉は頭を押さえたまま目をまたたかせる。そしてその目は、征司の次の言葉を聞いた瞬間、大きく見開かれた。
「友だちやめて、大人の関係になろうって言ってんだよ」
「……はい?」
(なに言ってんのぉ!?)
いきなり提案された、友だちやめて大人の関係になろうぜ案。
その衝撃に、朱莉はイチゴどころか、ケーキの味さえ忘れてしまったのだった……
第一章 トモダチ関係が変わる夜
突然の告白から一週間後――。そろそろ梅雨入りの予感がする六月初旬。
今日は、薄い灰色のベールが空一面を覆っている。
憂鬱な季節の前触れに、気持ちが沈む時期である。しかしそれとは別に、誠和医療メディカル営業課のオフィスには、張りつめた空気が漂っていた。
「つまりお前は、停滞を望むわけだな?」
オフィスに静かに響くその声は、ひどく冷たく聞こえる。
問いかけの形でありながら、返答を求めている気配はない。まるで断定しているかのような口ぶりだった。
「先月の営業成績を維持したいとは、それ以上を目指さないという意味にとれる。お前は先月の数字で満足してしまった。そういうことだろう」
上司である征司の言葉に、部下の顔から血の気が引いていく。ついさっきまで、先月の営業成績を自慢げに語っていた部下の口は、半開きになったままピクリとも動かない。
「それなら、お前にはこれ以上の成長を見込めない」
威圧感とともに言い渡された言葉に、部下は恐怖に引きつった表情を浮かべた。
「もももっ、申し訳ありませんっ、課長っ! す……、すぐ、……すぐっ、目標を立て直してまいります!」
声どころか膝まで震わせた部下は、深い礼をした直後、俯いたまま自分のデスクへと走っていく。
部下を恐怖に陥れた征司は、なにもなかったかのように中指で眼鏡のブリッジを上げ、ふうっと息を吐いた。そうしておもむろに周囲へ視線を向ける。彼の視界に入った課員たちがびくりと震えた。
そんな彼らの気持ちなど歯牙にもかけず、征司はひとこと言い放った。
「東野君、お茶」
「はい、課長」
朱莉の返事と共に、場の空気が少し和らぐ。営業課の鬼課長、三宮征司が営業アシスタントである東野朱莉にお茶を頼むのは、彼の機嫌が直った証拠なのだ。
征司がデスク上のパソコンに視線を移すと、課内の空気もやっと平常に戻る。
朱莉としては、事あるごとにお茶を要求する征司に不満はあるものの、専属お茶係を引き受けておかないと征司の機嫌はさらに悪くなってしまう。そうなれば、また、オフィスに先ほどのような緊張が走る。
医療機器や理化学機器の販売、輸出入、病院やそれに関連する施設設備のトータルプランニングを主な事業内容とし、創業百年という実績と信頼で全国主要都市に営業所を持つ、誠和医療メディカル本社。
征司と共にこの会社に入社して七年。寿退職が多いせいで、朱莉は女子社員の中ですでに古株扱いになっている。
そんな彼女はオフィスの平和を守るため、そして鬼上司であり親友でもある征司のために、彼ご希望のお茶を淹れるべく一日に何度も給湯室に出入りするのだ。
溜息まじりにデスクを離れようとすると、隣のデスクで新人の川原望美が、首をすくめてこちらを見ているのに気づいた。
本来ならば、お茶を淹れるのは新人である彼女の仕事。それなのに、大先輩にそんな仕事をさせていいものなのかと、気にしているのだろう。
(別に構わないのに)
そんな彼女を安心させようと、朱莉はにっこりと笑みを浮かべる。先輩の笑顔を見て、望美はホッとした表情をして仕事に戻った。
望美が気にする必要はない。征司のお茶淹れは、朱莉の仕事と決まっているようなものなのだ。
目に優しいアイボリーの壁に囲まれた室内には、営業担当やアシスタントを含め、二十人ほどの席がある。二台向かい合わせに三列並んだデスクの一角では、先ほど営業成績の件で叱責を受けた社員が、半べそをかきながらパソコンに向かっている。
彼は先月、根気よく営業を続けていた病院から、患者の輸送などに使う新型のナーシングストレッチャーを、まとめて契約してもらった。そのおかげで月の成績が一気に伸びたのだ。
彼は入社して三年だが、今までそんなに大きな数字を出したことはなかった。
本人はもちろん嬉しかっただろう。このレベルを自分の目標にして、毎月頑張ろうと目標を立てていたに違いない。
――しかし、鬼の三宮は、それを許さなかった。
それどころか考えが甘いと叱咤し、さらに上を目指せと気合いを入れたのだ。
(だけどさぁ……、もう少しくらい余韻に浸らせてあげたっていいんじゃない?)
まとまった大きな契約など滅多に取れるものではない。ちょうど病院側が入れ替えを検討しようとしていたところに運よく入り込めただけとはいえ、それだって、定期的に顔を出して説明を続けた彼が信用してもらえた証拠。立派な成果である。
(まあ、征司はそれ以上のことができる男だからね。このくらいで喜んでたら駄目だって、奮起させたいんだろうなぁ)
征司は入社時から要領も営業成績もいい、仕事ができる男だった。
新卒で営業部に配属されて以来、新規で大きな契約を何本もとり、真面目かつ堅実な仕事ぶりで大学病院からの信頼も厚い。いつもの厳しい表情は一見怖そうに見えるが、それはそれで男前だと、看護師たちにもウケがいい。
あっという間にエリートコースに乗った征司が課長に昇進したのは、昨年、二十八歳のとき。
彼の課長昇進に、不満をこぼす者など誰ひとりいなかった。
一方で朱莉は、征司と同じ大学を出て同時に入社したのに、特に役職に就いているわけでもない。朱莉より年上の女性社員がいない営業アシスタントたちの中で、古株と認識されているだけ。血気盛んなキャリアウーマンならば「男女差別だ!」と叫びかねない状況だが、なんといっても歴史のある会社だけに体質は古い。それを証明するように、女性の管理職はひとりもいない。
しかし、それがこの会社のやり方なのだと朱莉は割り切っている。
そして、古株の彼女には役割があった。
鬼課長のお守役――
仕事も容姿も完璧な鬼課長。そんな彼に意見ができる者は、課内では朱莉のみ。そのせいだろう。いつの間にか、そう呼ばれるようになっていた。
「はい、お茶どーぞ。課長様」
少々嫌みっぽい口調だったせいか、キーボードを打っていた征司の手がピタリと止まる。眼鏡の隙間からじろりと三白眼を向けられてしまった。とはいえ他の課員が恐れるその目つきは、朱莉にとっては特に恐怖を感じるものでない。いい男なんだからそんな目はしないほうがいいのに、などと同情してしまうくらいだ。
もっとも征司は朱莉を怖がらせようとしてそんな目をするわけではない。単なる彼の癖だった。
「ありがとう、東野君」
征司は中指で眼鏡のブリッジを上げ、礼を口にして湯呑みに手を伸ばす。お茶ならお茶、コーヒーならコーヒー。彼はその時々によって飲みたいものを明確に指定してくる。
征司にとっての「お茶」は、日本茶のことだ。そして指定された際には、彼お気に入りの熱湯玉露を淹れなければならない。これはネットショップのお茶屋さんから征司が個人的に購入しているものである。もちろん、会社の経費ではない。
湯呑みを傾ける彼は無表情だ。しかし、他の誰にも分からなくても、朱莉にだけは分かることがあった。
(おーおー、喜んでる喜んでる)
眉や目、口元の微妙な変化で、彼女には征司の機嫌が読める。
これもすべて、十年来の親友関係があってこそだろう。
満足そうな征司を確認してから、朱莉はお茶を淹れたあとに放置した急須などを片付けるべく、給湯室へ戻ろうとした。
しかし湯呑みに口を付けたまま、征司は朱莉に物言いたげな視線を向ける。
(な、なに……、なにが言いたいの?)
踵を返しかけた身体を戻し、さらに身を屈めて征司を覗き込む。
「なに?」
彼がこういう目をするのは、プライベートの話をしたいときである。朱莉は眉を寄せ、少しぞんざいな口調で尋ねた。ただしその声はとても小さい。
「ん……、朱莉さぁ、しばらく俺の部屋に来てないよな……」
「今週に入ってからは行ってないかなぁ。だって、ずっと征司がうちに来てたしさ。四日くらい……」
朱莉はそこでハッと、ある事実に気づく。四日間も行っていないということは、彼の部屋がとんでもないことになっている可能性がある。
「わ、分かった……。今日の帰りに行く。征司は? 残業になりそう?」
「んー、今日会う約束だったドクターがいたんだけど、緊急手術が入ったらしくて面会予定が延びた。少し残業すれば、すぐに帰れると思うけど……」
征司はそこまで言って言葉を濁し、なにか言いたそうな気配を匂わせる。
彼の言いたいことがよく分かる朱莉は、今日一日、鬼課長をご機嫌にさせるための魔法のひとことを唱えた。
「……分かった。……晩ご飯、ハンバーグでいい?」
――その瞬間、鬼の目尻が下がった。
彼はスーツから札入れを取り出すと、一万円札を一枚抜き出し、朱莉の手を取ってポンっと渡す。
「皆にアイスでも買っておいで。その他の買い物は、終業後に頼むよ」
課員達にアイスを買うために渡されたように聞こえるが、本当の目的は、夕飯の買い物をしてもらうことである。
夏の夜には、着流しで冷酒でもたしなんでいそうな鬼課長の好物。それが十年来の女友だちの作ったハンバーグであることは、朱莉以外の人間は誰も知らない。
もし言ったところで、冗談だと思われて笑われるだけだろう。
「ありがとうございますっ、かちょーっ」
朱莉は棒読みで礼を口にすると、オフィス内を見回し、一万円札を掲げて叫ぶ。
「みんなー、三宮課長がアイスを買ってくれるそーでーす!」
その途端、さっきの緊迫感などなかったがごとくオフィスは盛り上がる。
鬼の三宮を恐れる社員たちは、感謝の気持ちを込めて征司の機嫌をよくしてくれた朱莉を崇めた。
鬼課長のお守役の株が、大いに上がった瞬間だ。
「あーあ……」
仕事を終えて征司の部屋へやってきた朱莉は、深い溜息と共に室内を見回す。
いったい、これは何度めの溜息なのだろう。もう自分でも分からなくなった。
落胆したって解決しない。それは分かっている。
だが朱莉は、己の失念を悔やんでいた。
「どうして、四日間も放っておいちゃったんだろう……」
そう呟いて肩を落とした瞬間、手に持っている四十五リットル用の透明ゴミ袋の中で、ビールの空き缶がガラガラと音を立てる。
ゴミ袋の中身はすでに半分埋まっているものの、この中に入るべき缶は、まだ大量に存在しているのだ。
――この、荒野のような部屋の中に。
「少しは自分で片付けなさいよ、あのモノグサ男!!」
叫んではみるが、当のモノグサ男はまだ帰宅していない。特別な理由がない限り、彼の残業は毎日のことだった。
デザイナーズマンションの一室とは思えないほど散らかった部屋。ここがスッキリと片付き、テーブルに朱莉お手製のハンバーグの皿が載った頃――彼女の機嫌を取るためのイチゴショートケーキを土産に、この部屋の主は帰ってくるだろう。
鬼の三宮……いや、十年来の男友だち、三宮征司が。
「パンツくらい、脱いだら洗濯機に入れておきなさいよぉっ」
床の上には、ビールの空き缶、その下には新聞、さらにその下には放置されたトランクス。不自然な裏返り方から、明らかに脱いだまま放置されたものだと分かる。朱莉はトランクスを鷲掴みにすると、思い切り壁に投げつけた。
だが、どんなに怒りに任せてそれを投げつけようと、しょせんは布切れ。投げつけられたトランクスはパサリと壁に触れ、へろへろと床へ落ちた。
「ああ……、もう……」
朱莉の怒りに付き合ってくれる気配など、みじんも感じられないトランクスに引きずられ、彼女の勢いも萎えていく。
つい慌てて会社帰りにそのまま来てしまったが、ここまで散らかっているのだったら、一度自分の部屋へ帰って着替えてくればよかった。白いブラウスにクリームイエローのタイトスカートでは、汚れが気になって動きづらい。掃除なら、いつものスウェットワンピースで充分なのだから。
(思いっきり散らかってるなら、最初から散らかってるって言いなさいよ!)
とはいえ、今更怒ってもしょうがない。
「早く片付けよっと……」
一度諦めてしまえば動きは速い。朱莉は手慣れた様子で缶を再び集め出した。
いったい、誰が信じてくれるというのだろう。
部下のネクタイの歪みひとつ許さない厳しい三宮課長――。モデル張りの容姿と仕事の堅実さで、女性からいつも好意的な眼差しを向けられている彼が……
実は、プライベートではコーヒーの一杯も淹れようとしない無精者だなどと……
「あいつ、ビール以外のものも、ちゃんと身体に入れてたのかしら」
そう呟く朱莉は、本や雑誌、新聞などを分別しながら、床に散らばっているゴミを集めていく。紙ゴミなどはあるが、食べ物のゴミが見当たらない。
(面倒くさがって食べてないと見た)
征司はこの四日間、昼は会社の社食で食べ、夜は朱莉の部屋で菓子やつまみに手を出していた。自分の部屋へ帰ってからは、ビールを飲んで寝てしまっていたというところだろう。この調子では、朝食も食べていないのかもしれない。
「朝ご飯抜いてるくせに、よく仕事で頭回るよね。『ご飯は一日の活力』って言ってたの、あいつなのにさ」
順調に片付けを進めていた朱莉の手が、ふと止まる。彼女の脳裏に、その言葉を聞いた日のことが甦る。
(もう、五年も前になるんだ……)
一瞬気持ちが暗くなったが、朱莉は勢いよく頭を振り、気を取り直して片付けを続行した。早く掃除を終わらせて、ハンバーグの用意に取りかからなくては。手を止めている暇はない。
十四階建てデザイナーズマンションの三階。そこに、征司の部屋はある。
造りは1LDKだが、面積はひとり暮らしにはもったいないほど広い。
学生時代はふたりとも大学近くのアパートに住んでいた。しかし就職する際、会社から遠すぎると考えて引越しをしたのである。
現在、朱莉が住むマンションは、征司のマンションから徒歩十分の位置。
『女のひとり暮らしは、なにかと大変だったり厄介だったりするだろ。もしものためにも、部屋は近くにしようぜ。……まあ、お前に限って、もしも、なんてないかもしんねーけど』
心配しているのかいないのか不明な征司の言葉に乗せられ、お互い行き来がしやすい物件を探していたところ、今のマンションを見つけた。
朱莉側は問題なかったが、入居当時まだ社会人一年生であった征司には、この部屋は贅沢な物件であった。朱莉はその点が気になり、彼女のマンションから徒歩三十分圏内で、なおかつ手ごろな家賃の別物件をすすめた。だが、「遠すぎる」と征司は納得しない。
朱莉は運転免許すら持っていないが、彼はその当時から車を所有していた。車を使えば、朱莉の部屋へ来るのに手間はかからないと言うと、逆に朱莉が征司の部屋に来づらくなるから駄目だと言う。
もしや、本気で女のひとり暮らしを心配してくれているのだろうか……
不覚にもときめいてしまった朱莉の胸の内を知ってか知らずか、結局彼は現在の部屋を契約し、大学時代に家庭教師のバイトなどで荒稼ぎをした貯金で、見事に新人時代を乗り切ったのだ。
その数年後、出世が早かった彼は、無理なく家賃を払えるようになった。
『朱莉の部屋と近いし、パソコンの調子が悪いだの男手が欲しいだのってときもすぐ行ってやれるし、便利だよなー』
かつて嬉しそうにそう口にした征司に、いつでも力になってやりたいのだという篤い友情を感じて、感動を覚えた。
仕事を頑張ってスピード出世したのも、朱莉の傍にいるための部屋代を捻出するためだったのではないか、とさえ思えてしまう。
――だがそれは……朱莉も征司の部屋へ通いやすいという意味……
つまり、いつでも呼び出せる。
いつでも食事を作りにきてもらえる。
いつでも掃除をしにきてもらえる。
そんな思惑が征司にあったかどうかは不明だが、朱莉はなにかと彼の世話を焼くことになったのだ。そして今日もまた、恐ろしいほど散らかっていた部屋を片付けた。ゴミだらけだった空間は、デザイナーズマンションの一室らしく、シンプルだが洗練された居住空間に変貌を遂げた。
「さすが私。手慣れたもんだわ」
掃除機片手に室内を見回し、朱莉はふんっと鼻を鳴らす。最初こそ四日間も放置してしまったことを後悔したものの、そこは征司の部屋をほぼ十年間片付け続けてきた彼女のこと。放置されたものを戻す場所など心得ている分、整理整頓も速い。
「今日は水曜だから……、二日置いて、次は土曜にでも見にくるか……」
次回の予定を呟きながら、掃除機を戻しに向かう。二日、もしくは三日置きに征司のハウスキーパーになるこの生活は、大学時代から続いている習慣のようなものだ。征司の無精ぶりに苛つくのは今更という感じである。
会社勤めを始めて彼が昇進してからは、散らかり具合もグレードアップしている。あまり態度には表さないが、それだけ仕事も忙しくなっているのだろう。
会社では鬼課長のご機嫌をとってくれるお守役。
そして、プライベートでも無精男のお守役が、すっかり当たり前になってしまった。
「もしもお土産忘れたりなんかしたら、ハンバーグ半分取りあげてやるんだから」
朱莉はひゃひゃひゃと、ひとり不気味な笑いを漏らしながらそう企む。直後、笑いを鼻歌に変えて、彼女はキッチンに常備している専用エプロンを身に付けた。
なんだかんだと文句は出るが、この生活は楽しい。それは、征司が気兼ねなく接することができる男友だちだからだ。
いつか彼に恋人でもできればこの役目は終わるのだろうが、今のところその気配はない。また、朱莉もそれは同様である。
まだしばらく、無精男のお守役は、続きそうだ。
「おーっ、いい匂いだなっ」
笑みを浮かべて征司が帰ってきたのは、ちょうどハンバーグが焼きあがった頃だった。
カバンを小脇に抱えてキッチンに入ってきた彼の右手には、高級洋菓子店のケーキの箱。朱莉は予想通りのお土産を確認し、ハンバーグを半分取りあげてやろうかという企みを、こっそりと頭から消す。
「ちょうど焼けたところだからさ、着替えといでよ。その間にテーブル用意するから」
「ああ、ほれ、ケーキ」
「わーい、サンキューっ」
朱莉は差し出されたケーキの箱を両手で受け取り、満面の笑みを浮かべる。自作のハンバーグより食後のケーキが楽しみな朱莉だが、そんな彼女に征司が何気なく言った。
「なんか、メシの時間に帰ってきて土産なんか渡してると、新婚家庭みたいだな」
その瞬間、朱莉の笑顔が固まる。が、すぐに気を取り直し、大笑いしながら彼の背中をバンバンと叩く。
「なに言ってんのよぉ、甘ったるいこと言っちゃって! どうした? なんか仕事で辛いことでもあった? 甘やかしてほしいのか? しょーがないなぁ、あとで耳掃除でもしてあげるよ!!」
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