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ヴェネッダは目を覚ました。窓の外はまだようやく明るくなり始めたばかりで、邸は静まり返っている。
夫婦の寝室だ。大きなベッドの片端で、リエレが背を向けて眠っている。ここに来てからずっとそうだ。
なんならヴェネッダは自室で寝た方がいいとも言われたが、なんとなく押し切っている。別に何もしなくたって一緒にいたっていいだろう。夫婦なのだ。
しかしリエレの睡眠を考えれば、一人にさせてあげたほうがいいのかもしれない。
でも一緒にいれば話ができるし、キスだってできる。
「……」
昨夜のことを思い出してヴェネッダは頬を手で押さえた。
(どうしよう。キスしてしまった。……どうしようもこうしようも、ないんだが)
たったあれだけの接触、おまけにもうずいぶん前のことだ。それが朝になっても落ち着かない。
(ベニラがのろけてくるのもわかるな。これは誰かに言いたくて仕方がないが、かといって誰にでも言えることでもない)
彼女が「いつもありがとう」と菓子など持ってくるのもわかる。これは、言う相手がいないと困る。でも良かった。ベニラがいるのだから、ヴェネッダだってのろけてやればいいのだ。
(む、今は忘れよう)
ヴェネッダは音をたてないよう注意しながら部屋を出て、庭で素振りをした。ドラゴンに対するには筋力強化が欠かせない。
(だが昨日の婿殿は、まったく非力だとは思えなかった)
コツがあれば重い相手も投げ飛ばせる。
ヴェネッダはそれについて少し考えたが、自分が相手にするのはドラゴンだ。人間を相手にするのとはわけが違う。どれだけコツを磨いても、ドラゴンを投げ飛ばすことはできないだろう。
しかしヴェネッダはドラゴンに登るコツならわかっている。これは戦士たちの中で特別な技能だ。
先代までは、もっとドラゴンをひるませ、弱らせていた。ヴェネッダは先代よりあきらかに非力だが、ドラゴンを森に追い返す時間は早くなっている。弱点に、眉間に入れる一撃が思いのほか効くからだ。
自分が女で、身軽だからこそだと思っていたが、ヴェネッダは女にしては大きい。ヴェネッダくらいの男はいるが、ドラゴンに登るのが得意だという者はいないのだ。
「コツ、か……」
であれば次代のために教えておくべきかもしれない。
そんなことを考えながら、ヴェネッダは朝の鍛錬を終わらせた。邸に戻って、働き始めた使用人に聞く。
「父上の調子はどうだろう? 会えるだろうか」
「特に連絡は入っておりませんね。少々お待ちください」
「そうか」
ヴェネッダの父、辺境伯は足を痛めて引退した。そして立ち上がれない生活が今までと違いすぎたせいか、年を経るほどあちこちの調子を崩してしまった。胃も力をなくしているのか食事量が減り、ひどく痩せている。
必要不可欠な書類の処理だけで精一杯の状態だ。
話をするなら、まだ元気な朝のうちの方が良い。
「お会いになるそうです」
「わかった。すぐに行く」
娘でありながら気軽に会えない、それが今の彼だ。本来ならすでに次代に地位を譲っているべきだろう。
そうできなかったのは、彼に娘しかいないせいだ。
何の成果もない娘にあとを継がせては、揉め事になるのが目に見えている。婿が必要なのだ。
しかしヴェネッダは選びかね、そして父も、直接相手を見定められない状態だった。
「……父上」
「うん、ヴェネッダ、久しぶりだ」
「どうかそのままで」
「いや、少しでも起き上がらせてくれ。まだ寝込む年ではないよ」
ヴェネッダは父の背中を支えて起き上がらせた。やはり、前に見た記憶より痩せてしまっている。
「リエレ殿のことだろう?」
「……うん。その、父上の判断は正しかったと思う。彼はとても……良い男だ。だが、問題がある」
「話しておくれ」
父の手が、娘の頭を撫でた。ほんの幼い頃にそうしたように、ヴェネッダは父に頭を押し付ける。もちろん力はかけられない。
「彼の母上が王都を出られないでいる」
「……なるほど、手をかけてもいない王子を送り込んでどう制御するつもりかと思ったが、そういうことか」
「私は迎えに行きたい」
「ふむ……」
父は考え込むように目を細めた。
「……リエレ殿を婿にと言われたさい、王家はやはり水源の利用についてほのめかしてきた。最初は受けるわけにはいかないと感じた。これは取引ではないからだ。なぜかわかるか?」
「取引ではない……」
「そうだ。取引とは、互いに相手の欲しいものを出し合うことだ」
「婿殿が必要なかったから?」
「そういうことだ。つまりは、こちらに得るものがない。王家はいつでも、何度でも、また水源をもって脅せるのだから、この件を受けても良いことはひとつもない」
「……む」
ヴェネッダは唸って頷いた。
確かに、まったく取引ではない。水源の利用を保証するようなものが必要だが、王家はそれを差し出さなかった。
「だからこれは、取引ではなく搾取だ。だが実際には、私はリエレ殿に価値があると感じたから、引き受けた。王家からすれば、どうだろう?」
「脅しに屈したと思った……?」
「そうだ。どう脅されてもドラゴンを追いやるなど我々はしないが、王家からすれば、このまま上手く揺さぶっていけば、いずれそうできると感じたはずだ。脅しに屈しはしたのだから」
「……」
「つまりね、ヴェネッダ。リエレ殿の母上はリエレ殿にとっての弱点だが、我々に対する脅しの材料ではない。おまえがリエレ殿の母上を求めるほど彼に入れ込んでいると知れば、むしろ大喜びだ。母子共々グランノットに根付かせようしても不思議はない」
ヴェネッダはじっくりと考えて頷いた。王家にとって、グランノットは水源さえ押さえておけば良い相手なのだ。そしてリエレは押し付けた王子にすぎない。
「しかしリエレ殿を王家のよいように使うために、母上は必要だ。だから、別のものを提示させるといい」
「別のもの……」
「それはリエレ殿にとって必要のないものでいい。王家は彼を理解していないはずだ。……だから上手くやりなさい、ヴェネッダ。強引な手段を取る必要はないんだ」
「……ありがとう父上、すぐに戻る」
まだ飲み込めたわけではない。
ただこれ以上、父の貴重な時間を無駄にするわけにはいかない。言われたことを頭に刻み込んで、ヴェネッダは父に感謝と別れの挨拶をした。
夫婦の寝室だ。大きなベッドの片端で、リエレが背を向けて眠っている。ここに来てからずっとそうだ。
なんならヴェネッダは自室で寝た方がいいとも言われたが、なんとなく押し切っている。別に何もしなくたって一緒にいたっていいだろう。夫婦なのだ。
しかしリエレの睡眠を考えれば、一人にさせてあげたほうがいいのかもしれない。
でも一緒にいれば話ができるし、キスだってできる。
「……」
昨夜のことを思い出してヴェネッダは頬を手で押さえた。
(どうしよう。キスしてしまった。……どうしようもこうしようも、ないんだが)
たったあれだけの接触、おまけにもうずいぶん前のことだ。それが朝になっても落ち着かない。
(ベニラがのろけてくるのもわかるな。これは誰かに言いたくて仕方がないが、かといって誰にでも言えることでもない)
彼女が「いつもありがとう」と菓子など持ってくるのもわかる。これは、言う相手がいないと困る。でも良かった。ベニラがいるのだから、ヴェネッダだってのろけてやればいいのだ。
(む、今は忘れよう)
ヴェネッダは音をたてないよう注意しながら部屋を出て、庭で素振りをした。ドラゴンに対するには筋力強化が欠かせない。
(だが昨日の婿殿は、まったく非力だとは思えなかった)
コツがあれば重い相手も投げ飛ばせる。
ヴェネッダはそれについて少し考えたが、自分が相手にするのはドラゴンだ。人間を相手にするのとはわけが違う。どれだけコツを磨いても、ドラゴンを投げ飛ばすことはできないだろう。
しかしヴェネッダはドラゴンに登るコツならわかっている。これは戦士たちの中で特別な技能だ。
先代までは、もっとドラゴンをひるませ、弱らせていた。ヴェネッダは先代よりあきらかに非力だが、ドラゴンを森に追い返す時間は早くなっている。弱点に、眉間に入れる一撃が思いのほか効くからだ。
自分が女で、身軽だからこそだと思っていたが、ヴェネッダは女にしては大きい。ヴェネッダくらいの男はいるが、ドラゴンに登るのが得意だという者はいないのだ。
「コツ、か……」
であれば次代のために教えておくべきかもしれない。
そんなことを考えながら、ヴェネッダは朝の鍛錬を終わらせた。邸に戻って、働き始めた使用人に聞く。
「父上の調子はどうだろう? 会えるだろうか」
「特に連絡は入っておりませんね。少々お待ちください」
「そうか」
ヴェネッダの父、辺境伯は足を痛めて引退した。そして立ち上がれない生活が今までと違いすぎたせいか、年を経るほどあちこちの調子を崩してしまった。胃も力をなくしているのか食事量が減り、ひどく痩せている。
必要不可欠な書類の処理だけで精一杯の状態だ。
話をするなら、まだ元気な朝のうちの方が良い。
「お会いになるそうです」
「わかった。すぐに行く」
娘でありながら気軽に会えない、それが今の彼だ。本来ならすでに次代に地位を譲っているべきだろう。
そうできなかったのは、彼に娘しかいないせいだ。
何の成果もない娘にあとを継がせては、揉め事になるのが目に見えている。婿が必要なのだ。
しかしヴェネッダは選びかね、そして父も、直接相手を見定められない状態だった。
「……父上」
「うん、ヴェネッダ、久しぶりだ」
「どうかそのままで」
「いや、少しでも起き上がらせてくれ。まだ寝込む年ではないよ」
ヴェネッダは父の背中を支えて起き上がらせた。やはり、前に見た記憶より痩せてしまっている。
「リエレ殿のことだろう?」
「……うん。その、父上の判断は正しかったと思う。彼はとても……良い男だ。だが、問題がある」
「話しておくれ」
父の手が、娘の頭を撫でた。ほんの幼い頃にそうしたように、ヴェネッダは父に頭を押し付ける。もちろん力はかけられない。
「彼の母上が王都を出られないでいる」
「……なるほど、手をかけてもいない王子を送り込んでどう制御するつもりかと思ったが、そういうことか」
「私は迎えに行きたい」
「ふむ……」
父は考え込むように目を細めた。
「……リエレ殿を婿にと言われたさい、王家はやはり水源の利用についてほのめかしてきた。最初は受けるわけにはいかないと感じた。これは取引ではないからだ。なぜかわかるか?」
「取引ではない……」
「そうだ。取引とは、互いに相手の欲しいものを出し合うことだ」
「婿殿が必要なかったから?」
「そういうことだ。つまりは、こちらに得るものがない。王家はいつでも、何度でも、また水源をもって脅せるのだから、この件を受けても良いことはひとつもない」
「……む」
ヴェネッダは唸って頷いた。
確かに、まったく取引ではない。水源の利用を保証するようなものが必要だが、王家はそれを差し出さなかった。
「だからこれは、取引ではなく搾取だ。だが実際には、私はリエレ殿に価値があると感じたから、引き受けた。王家からすれば、どうだろう?」
「脅しに屈したと思った……?」
「そうだ。どう脅されてもドラゴンを追いやるなど我々はしないが、王家からすれば、このまま上手く揺さぶっていけば、いずれそうできると感じたはずだ。脅しに屈しはしたのだから」
「……」
「つまりね、ヴェネッダ。リエレ殿の母上はリエレ殿にとっての弱点だが、我々に対する脅しの材料ではない。おまえがリエレ殿の母上を求めるほど彼に入れ込んでいると知れば、むしろ大喜びだ。母子共々グランノットに根付かせようしても不思議はない」
ヴェネッダはじっくりと考えて頷いた。王家にとって、グランノットは水源さえ押さえておけば良い相手なのだ。そしてリエレは押し付けた王子にすぎない。
「しかしリエレ殿を王家のよいように使うために、母上は必要だ。だから、別のものを提示させるといい」
「別のもの……」
「それはリエレ殿にとって必要のないものでいい。王家は彼を理解していないはずだ。……だから上手くやりなさい、ヴェネッダ。強引な手段を取る必要はないんだ」
「……ありがとう父上、すぐに戻る」
まだ飲み込めたわけではない。
ただこれ以上、父の貴重な時間を無駄にするわけにはいかない。言われたことを頭に刻み込んで、ヴェネッダは父に感謝と別れの挨拶をした。
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