獅子姫の婿殿

七辻ゆゆ

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「ヴェネッダ」

 いよいよこいつを叩きのめそうとしていたところ、エンゼンのねちっこい声とは違う、明瞭で優しい声に呼ばれた。
 少し冷えたとはいえ宴の場だ。ヴェネッダの他には、誰もそんな声を聞き取らなかったかもしれない。

 だがヴェネッダは剣先を下げてそちらを見た。
 そして少しだけ迷った。やっぱりこれを叩きのめした方がいいのではないか、と思ったからだ。

「遅いから迎えに来たよ」
「……ああ」

 しかし気づけば剣を収め、ヴェネッダはふらふらとリエレに近づいていた。
 これは顔がいいせいだ。顔がいいというのは問題だと考える。あるいはやはり飲み過ぎかもしれない。
 夫への侮辱を忘れ、夫の顔にやられているのである。あまりよくない。しかし、リエレはにこりと笑って、ヴェネッダの背に手を回した。

 決めていたことだ。
 なんなら何度も打ち合わせした。
 けれどヴェネッダは胸がうるさくなるのを感じた。何のための打ち合わせだろうか。いや、だって、それはそうだろう。

「怪我はない?」
「ない……」

 ただそれだけの返答で、甘えた声になってしまってはいないだろうか。
 向き合って、視線を合わせただけでだめなのだ。自分がこうも弱い女であったということを、ヴェネッダは初めて知った。恥ずかしい。
 恥ずかしいが、今はこれでいいのだ。

「無事で良かった、俺の姫」
「む……心配はいらない」
「そっか。姫が強くてとても嬉しい。でも気を付けて」
「わ、わかっている。私は婿殿の妻だから、無茶なことはしない」
「ありがとう」

 リエレが自然に笑って、ちょんと顔を近づけてきた。
 ヴェネッダはそれを知っていただけ、思わず身を引きそうになるのを耐えなければならなかった。
 それにはドラゴンを殴るより強い力が必要だ。ぎしぎし背が音をたてた気がする。我慢、我慢。別に嫌なのではない。ないが、だって、恥ずかしくてめちゃくちゃなのだ。

 我慢のかいあって、リエレの唇はそっとヴェネッダの頬に押し付けられた。

「う……」
「かわいいな、俺の姫様」
「そ……うん……」

 なにか全力で暴れ出したい衝動があったが、ヴェネッダは耐えた。とても耐えた。なんかいい匂いがする。なんてことはない、石鹸の匂いだ。
 グランノットの男からはしたことのない匂いだ。なぜだ?

 石鹸には悪い薬のような成分があるのかもしれない。こんなにくらくらするのはおかしい。
 ヴェネッダがそう思い始めたころ、邪魔が入った。

「おい」

 苦々しく、荒っぽい、よく知った声だ。ヴェネッダはそちらを見なかった。見なくてもわかっている。
 エンゼンだ。

(本当にかかった……)

 ヴェネッダは信じがたい気分で、目の前にいるリエレを見た。彼が言ったのだ『俺と姫がいちゃついていたら、必ず黙っていられなくなるはずだ』と。
 しかし問題はここからである。ヴェネッダの考えでは、ここに続く言葉は『さっさと帰れ』であろう。
 リエレの予測は違っていた。彼が言うには、必ず難癖をつけてくるそうだ。

「ふざけんな。うちのヴェネはそんなやつじゃねえんだよ。なんだそんな、そんな、らしくもねえことさせやがって!」

 確かに難癖つけてきたが、ヴェネッダは、まあ、そうだなと思った。らしくないことをしている自覚はある。恥ずかしい。
 しかしそれならさっさと帰れと言ってほしい。エンゼンには関係のないことなのだから。

「俺の前では、ずっとこうだけどな?」
「はぁ!?」
「ず、ずっとということは」

 ないと思う。いや、どうだろうか。わからない。
 ヴェネッダはこの婿のことを気に入っているので、なんとも言い切れない。そこまでデレデレはしていないと思うのだが。
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