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後編

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 殿下と初めてお会いしたのは、婚約前の顔合わせの場でした。

「なんだこのパッとしない女は」

 殿下はそうおっしゃいました。
 えっ、とわたくしは思いました。

「殿下、紳士たれという陛下の言葉をお忘れですか! フィレイン嬢に謝罪なさってください」
「相手が美人なら俺も紳士になるさ。こんなのを丁寧に扱って何の得があるんだよ」

 殿下の視線はゴミを見るかのようです。
 呆然としていたわたくしは、じわりじわりと、胸の奥から感動があふれてくるのを感じました。

(側付きにあんなふうに言い返すなんて!)

 その頃のわたくしは教育係の侍女の言うがまま、おしとやかに、礼儀正しく、静かに微笑んでいるのが常でした。
 もとのわたくしは外で遊び回るのが好きな子供だったのです。
 でも、10歳を超えるとそれは許されなくなりました。今まで自由にさせていた代わりとばかりに、厳しい淑女教育を受けていたのです。

(どうしてそんなことが言えるの? 叱られるのが怖くないの?)

「フィレイン嬢はルベール家のご息女でです。陛下のお母上の妹君が嫁いだ家ですよ。そのように扱ってよいお方ではないのです!」
「ははっ、血統しか価値がないなどと言ってやるなよ。可哀想だろ」
「……殿下!」

 どうやら全く怖くないようです。
 なんて羨ましい。羨ましいけれど、決してわたくしにはできないことです。

 自分にできないことをやってのける。
 そんな殿下を、わたくしは好きになったのです。強い憧れとともにやってきた、初恋でした。





「……なるほどね。それにしても、そんなに厳しい教育を?」
「教育係がやりすぎていたようですわ。気づいた父が解雇したのですが、その頃にはもう、わたくしは人の顔色をうかがってばかりだったと思います」

 教育係というのは使用人なのです。
 使用人に従わされていたわたくしは、使用人に堂々とできなくなっていました。あの頃ほどではないですが、今でも強く出られないのです。

「ですからわたくしは、勉強だけは頑張りましたけれど、人に命令するだとか、人の上に立つだとか、そういったことが上手くないと思うのです……」
「それはうちとしてはありがたいよ。うちの使用人は代々仕えてくれている、気心の知れた者ばかりでね、母上も距離が近いんだ。女主人の威厳なんてちょっと見当たらない」
「ふふ。ここまでの間でよくわかりました。とても熱心に、庭の説明をしてくださいましたから」

 わたくしは今、新たな婚約者候補、ハンス様のお家に招かれています。
 ハンス様は輝かしい金髪もエメラルドの瞳もお持ちではありませんが、とてもお優しい方です。お声を聞いていると不思議に落ち着いた気分になれます。

 まるで殿下とは正反対のお方です。
 わたくしが殿下を大好きだったのは貴族の間では有名でした。ハンス様もそれをご存知のようで、どうして殿下と簡単に婚約解消したのかと聞かれていたのでした。

「では、この話はフィレイン嬢も前向きな気持ちであると考えて良いでしょうか?」
「……はい。望んでくださるのでしたら、ぜひ」

 ハンス様の家は貴族家には珍しく、商売をしていらっしゃいます。ですので実務能力をかわれて、わたくしとの結婚話が持ち上がったのでした。
 わたくしのほうが身分は高いですが、婚約破棄されて傷のついた令嬢であることと、父がわたくしの意思を尊重すると言ってくださったので、お話が進んでいます。

 王家から頂いた慰謝料で、正直なところ、結婚しなくとも生きていけるでしょう。
 ですが殿下から「やり直そう」という手紙が届きました。きっと周囲の圧力に負けてしまったのでしょうが、わたくしはそれを見て幻滅してしまい、自分の醜さを知ったのです。

 わたくしは勝手な夢を見て、それを殿下に押し付けていたのでしょう。
 もうわたくしも大人です。夢を見るだけでなく、現実の幸せを求めましょう。

「自分はモルダ殿下とは似ても似つきませんが……」
「ハンス様は、ハンス様なのがよいのです。……その、わたくしにも愛し愛されたいという気持ちがあります。けれどモルダ殿下に愛されたとしても、わたくし嬉しくなかったと思うのですわ」
「おや、それは意外ですね」

「すべての常識を破っていくのが、わたくしにとっての殿下でしたもの。ですから、わたくしとの婚約を破棄した、これこそ殿下だと喜んでしまったのです」
「それは……」
「きっと殿下のことを人間だと思っていなかったのですわ。勝手な理想を押し付けて、初恋におぼれていたのです。子供だったから、初恋はかなわない、かなってはいけないものだったのです」

 今朝見た新聞の記事を思い出しました。
 殿下はかねてからの夢を叶え、冒険の旅に出たという記事でした。そういうことになったのでしょう。
 殿下の素晴らしさは、残念ながら多くの人に理解されていませんでした。そういった人々との間を取り持つのも、婚約者であるわたくしの仕事でした。

 男爵家でしかないミシェさんには無理だったのでしょう。
 ただ、ともに旅をするならわたくしより適任に違いありません。

 殿下がこの結果を予測していたのかはわかりません。でも、どちらにしても殿下はやりたいことをやったでしょう。
 冒険者として剣を持ち、ミシェさんを守って魔物と戦う殿下の姿を思いました。きっと殿下なら、おとぎ話のような活躍ができるでしょう。
 まだ夢を見すぎでしょうか?

 でも夢は夢として、わたくしは現実を生きようと思います。
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