19 / 36
急転
しおりを挟む
「……ミラレッタ」
「旦那様?」
ある日のことでした。私はいつものように仕事の手を止めて、旦那様のお迎えをしました。
いつも微笑んでくれる旦那様が、顔色を悪くしています。
「どうか、なさったのですか?」
「……」
旦那様はしばらく黙っていました。
言うに言えないことがあるのだと、すぐにわかります。私は無理に追求することはせず、旦那様の上着を受け取り、寄り添うようにダイニングに落ち着いて、ユンナにお茶を入れてもらいました。
気の利いた世間話でもできれば良いのですが、何も思いつきません。
そのうちに旦那様が口を開きました。
「これは……言わないほうがいいのかもしれない」
「……旦那様がそう、お考えなら」
「でも僕は君を知らない。君も僕を知らない。だから、できるだけ何でも話した方が良いのだろうと思う。だから」
それからまた、旦那様は考え込むように口を閉じました。
「はい。旦那様のことなら、なんでも聞いておきたいです」
「……うん。……前の妻のことだ」
「シェレンティさん、ですよね。なにか?」
少し不穏な気持ちになりました。
聞いた限りでは、シェレンティさんはたいへんに不安定な方のようでした。夫がメイドと良い仲になるのではないかと、何もないうちから心配しているような。
旦那様と別れて旦那様への執着をなくした方が良いのだろうと思うと同時に、それほど思う方と別れて立ち行くのかと、つい心配してしまったほどです。
「妊娠した、そうだ」
「えっ……」
私は絶句してしまい、旦那様を見つめました。
「……彼女との離婚は、君と結婚する三ヶ月前だ」
「三ヶ月……」
「もちろん離婚後は、第三者を交えた事務的な話し合いでしか会っていない」
「はい」
疑ってはいません。
正直ちらりと考えはしました。でも、誠実な旦那様を、まず疑わずに信じるのは当たり前のことでしょう。
旦那様は、少しほっとしたように肩の力を抜きました。
「だから妊娠が事実なら、すでに三ヶ月以上ということになると思う。……すまない、離婚からたった三ヶ月で再婚というのは、あまり外聞はよくない。だが私は早く結婚して、家庭を持ちたかった」
「はい、お伺いしました。ツベルフ子爵家にはもう、旦那様しかおられないので……」
「うん、それに、僕自身が寂しかった。だから考えなしなことをしてしまった。すまない。三ヶ月たてば妊娠の可能性はほぼないと思ったが、足りなかったようだ」
「……シェレンティさんが妊娠なさったなら、この結婚は……」
「それはない。君と離れるなど考えられない」
「ですが」
「それに……たとえ子供ができたとしても、シェレンティと僕では、上手くやっていけないと思う」
「そう……です、か……」
私は迷いました。
不感症で鈍感な私が、生まれて初めてほどに逡巡しました。
もしこれが他人事であるなら、離婚するべきだと思ったでしょう。生まれてくる子供のためにも、シェレンティさんとやり直すのが良いと。
私との結婚は披露宴が行われておりません。それほど知られていないのです。離婚によって発生する問題は最小限ですむでしょう。
ですが……。
シェレンティさんと旦那様が合わないというのは、確かにそうだろうと思うのです。
話を聞いただけの勝手な想像ですが、おふたりが幸せになれるだろうという想像ができなかったのです。
「……旦那様、まずはよく確認いたしましょう。妊娠のことも、それに、シェレンティさんのお考えもです」
「ああ……そうだな、そうだ。こちらでだけ考えていても仕方がない。ただ、君と離婚する気はないんだ」
「はい。……嬉しいです」
ですが状況がそれを許してくれるでしょうか。
シェレンティさんの親族は、妊娠したのであれば相手に責任を取ってもらおうと考えるはずです。
でも、どうあれ、旦那様がそう言ってくださることを嬉しく思いました。
「私も旦那様といたいです。でも、その、私と旦那様では子供ができるかが怪しいでしょう。だから、もし旦那様の血がつながった子が生まれるのなら、それはおめでたいことだと思います」
「ミラレッタ……」
「だから旦那様、そんなに暗い顔を……あっ」
「ミラレッタ!」
旦那様がぎゅっと私を抱きしめました。私の中で達するときよりも強く、感情の高ぶりが押さえられていない力です。
触れ合えた代わりに旦那様の顔が見えません。私は手探りで旦那様の背中に手を回し、ゆっくりと呼吸をしました。
「君は素晴らしい人だ。僕にはもったいない……」
「まさか」
私はつまらない不感症の女です。元夫はそう言い続けていましたし、私はそれを否定することができませんでした。
元夫の言葉ひとつにいちいち傷つかなかったし、喜びもしませんでした。
でも、旦那様には違います。
「旦那様が愛してくれたからです」
こうして求められていることが、こんなにも嬉しい。だからこそ恐ろしいと思うのです。
「旦那様?」
ある日のことでした。私はいつものように仕事の手を止めて、旦那様のお迎えをしました。
いつも微笑んでくれる旦那様が、顔色を悪くしています。
「どうか、なさったのですか?」
「……」
旦那様はしばらく黙っていました。
言うに言えないことがあるのだと、すぐにわかります。私は無理に追求することはせず、旦那様の上着を受け取り、寄り添うようにダイニングに落ち着いて、ユンナにお茶を入れてもらいました。
気の利いた世間話でもできれば良いのですが、何も思いつきません。
そのうちに旦那様が口を開きました。
「これは……言わないほうがいいのかもしれない」
「……旦那様がそう、お考えなら」
「でも僕は君を知らない。君も僕を知らない。だから、できるだけ何でも話した方が良いのだろうと思う。だから」
それからまた、旦那様は考え込むように口を閉じました。
「はい。旦那様のことなら、なんでも聞いておきたいです」
「……うん。……前の妻のことだ」
「シェレンティさん、ですよね。なにか?」
少し不穏な気持ちになりました。
聞いた限りでは、シェレンティさんはたいへんに不安定な方のようでした。夫がメイドと良い仲になるのではないかと、何もないうちから心配しているような。
旦那様と別れて旦那様への執着をなくした方が良いのだろうと思うと同時に、それほど思う方と別れて立ち行くのかと、つい心配してしまったほどです。
「妊娠した、そうだ」
「えっ……」
私は絶句してしまい、旦那様を見つめました。
「……彼女との離婚は、君と結婚する三ヶ月前だ」
「三ヶ月……」
「もちろん離婚後は、第三者を交えた事務的な話し合いでしか会っていない」
「はい」
疑ってはいません。
正直ちらりと考えはしました。でも、誠実な旦那様を、まず疑わずに信じるのは当たり前のことでしょう。
旦那様は、少しほっとしたように肩の力を抜きました。
「だから妊娠が事実なら、すでに三ヶ月以上ということになると思う。……すまない、離婚からたった三ヶ月で再婚というのは、あまり外聞はよくない。だが私は早く結婚して、家庭を持ちたかった」
「はい、お伺いしました。ツベルフ子爵家にはもう、旦那様しかおられないので……」
「うん、それに、僕自身が寂しかった。だから考えなしなことをしてしまった。すまない。三ヶ月たてば妊娠の可能性はほぼないと思ったが、足りなかったようだ」
「……シェレンティさんが妊娠なさったなら、この結婚は……」
「それはない。君と離れるなど考えられない」
「ですが」
「それに……たとえ子供ができたとしても、シェレンティと僕では、上手くやっていけないと思う」
「そう……です、か……」
私は迷いました。
不感症で鈍感な私が、生まれて初めてほどに逡巡しました。
もしこれが他人事であるなら、離婚するべきだと思ったでしょう。生まれてくる子供のためにも、シェレンティさんとやり直すのが良いと。
私との結婚は披露宴が行われておりません。それほど知られていないのです。離婚によって発生する問題は最小限ですむでしょう。
ですが……。
シェレンティさんと旦那様が合わないというのは、確かにそうだろうと思うのです。
話を聞いただけの勝手な想像ですが、おふたりが幸せになれるだろうという想像ができなかったのです。
「……旦那様、まずはよく確認いたしましょう。妊娠のことも、それに、シェレンティさんのお考えもです」
「ああ……そうだな、そうだ。こちらでだけ考えていても仕方がない。ただ、君と離婚する気はないんだ」
「はい。……嬉しいです」
ですが状況がそれを許してくれるでしょうか。
シェレンティさんの親族は、妊娠したのであれば相手に責任を取ってもらおうと考えるはずです。
でも、どうあれ、旦那様がそう言ってくださることを嬉しく思いました。
「私も旦那様といたいです。でも、その、私と旦那様では子供ができるかが怪しいでしょう。だから、もし旦那様の血がつながった子が生まれるのなら、それはおめでたいことだと思います」
「ミラレッタ……」
「だから旦那様、そんなに暗い顔を……あっ」
「ミラレッタ!」
旦那様がぎゅっと私を抱きしめました。私の中で達するときよりも強く、感情の高ぶりが押さえられていない力です。
触れ合えた代わりに旦那様の顔が見えません。私は手探りで旦那様の背中に手を回し、ゆっくりと呼吸をしました。
「君は素晴らしい人だ。僕にはもったいない……」
「まさか」
私はつまらない不感症の女です。元夫はそう言い続けていましたし、私はそれを否定することができませんでした。
元夫の言葉ひとつにいちいち傷つかなかったし、喜びもしませんでした。
でも、旦那様には違います。
「旦那様が愛してくれたからです」
こうして求められていることが、こんなにも嬉しい。だからこそ恐ろしいと思うのです。
1,653
お気に入りに追加
2,337
あなたにおすすめの小説
身代わりの公爵家の花嫁は翌日から溺愛される。~初日を挽回し、溺愛させてくれ!~
湯川仁美
恋愛
姉の身代わりに公爵夫人になった。
「貴様と寝食を共にする気はない!俺に呼ばれるまでは、俺の前に姿を見せるな。声を聞かせるな」
夫と初対面の日、家族から男癖の悪い醜悪女と流され。
公爵である夫とから啖呵を切られたが。
翌日には誤解だと気づいた公爵は花嫁に好意を持ち、挽回活動を開始。
地獄の番人こと閻魔大王(善悪を判断する審判)と異名をもつ公爵は、影でプレゼントを贈り。話しかけるが、謝れない。
「愛しの妻。大切な妻。可愛い妻」とは言えない。
一度、言った言葉を撤回するのは難しい。
そして妻は普通の令嬢とは違い、媚びず、ビクビク怯えもせず普通に接してくれる。
徐々に距離を詰めていきましょう。
全力で真摯に接し、謝罪を行い、ラブラブに到着するコメディ。
第二章から口説きまくり。
第四章で完結です。
第五章に番外編を追加しました。
【完結】嫌われ令嬢、部屋着姿を見せてから、王子に溺愛されてます。
airria
恋愛
グロース王国王太子妃、リリアナ。勝ち気そうなライラックの瞳、濡羽色の豪奢な巻き髪、スレンダーな姿形、知性溢れる社交術。見た目も中身も次期王妃として完璧な令嬢であるが、夫である王太子のセイラムからは忌み嫌われていた。
どうやら、セイラムの美しい乳兄妹、フリージアへのリリアナの態度が気に食わないらしい。
2ヶ月前に婚姻を結びはしたが、初夜もなく冷え切った夫婦関係。結婚も仕事の一環としか思えないリリアナは、セイラムと心が通じ合わなくても仕方ないし、必要ないと思い、王妃の仕事に邁進していた。
ある日、リリアナからのいじめを訴えるフリージアに泣きつかれたセイラムは、リリアナの自室を電撃訪問。
あまりの剣幕に仕方なく、部屋着のままで対応すると、なんだかセイラムの様子がおかしくて…
あの、私、自分の時間は大好きな部屋着姿でだらけて過ごしたいのですが、なぜそんな時に限って頻繁に私の部屋にいらっしゃるの?
【完】あの、……どなたでしょうか?
桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー
爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」
見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は………
「あの、……どなたのことでしょうか?」
まさかの意味不明発言!!
今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!!
結末やいかに!!
*******************
執筆終了済みです。
【完結】胃袋を掴んだら溺愛されました
成実
恋愛
前世の記憶を思い出し、お菓子が食べたいと自分のために作っていた伯爵令嬢。
天候の関係で国に、収める税を領地民のために肩代わりした伯爵家、そうしたら、弟の学費がなくなりました。
学費を稼ぐためにお菓子の販売始めた私に、私が作ったお菓子が大好き過ぎてお菓子に恋した公爵令息が、作ったのが私とバレては溺愛されました。
お飾り公爵夫人の憂鬱
初瀬 叶
恋愛
空は澄み渡った雲1つない快晴。まるで今の私の心のようだわ。空を見上げた私はそう思った。
私の名前はステラ。ステラ・オーネット。夫の名前はディーン・オーネット……いえ、夫だった?と言った方が良いのかしら?だって、その夫だった人はたった今、私の足元に埋葬されようとしているのだから。
やっと!やっと私は自由よ!叫び出したい気分をグッと堪え、私は沈痛な面持ちで、黒い棺を見つめた。
そう自由……自由になるはずだったのに……
※ 中世ヨーロッパ風ですが、私の頭の中の架空の異世界のお話です
※相変わらずのゆるふわ設定です。細かい事は気にしないよ!という読者の方向けかもしれません
※直接的な描写はありませんが、性的な表現が出てくる可能性があります
【完結】妹に全部奪われたので、公爵令息は私がもらってもいいですよね。
曽根原ツタ
恋愛
ルサレテには完璧な妹ペトロニラがいた。彼女は勉強ができて刺繍も上手。美しくて、優しい、皆からの人気者だった。
ある日、ルサレテが公爵令息と話しただけで彼女の嫉妬を買い、階段から突き落とされる。咄嗟にペトロニラの腕を掴んだため、ふたり一緒に転落した。
その後ペトロニラは、階段から突き落とそうとしたのはルサレテだと嘘をつき、婚約者と家族を奪い、意地悪な姉に仕立てた。
ルサレテは、妹に全てを奪われたが、妹が慕う公爵令息を味方にすることを決意して……?
【完結】余命三年ですが、怖いと評判の宰相様と契約結婚します
佐倉えび
恋愛
断罪→偽装結婚(離婚)→契約結婚
不遇の人生を繰り返してきた令嬢の物語。
私はきっとまた、二十歳を越えられないーー
一周目、王立学園にて、第二王子ヴィヴィアン殿下の婚約者である公爵令嬢マイナに罪を被せたという、身に覚えのない罪で断罪され、修道院へ。
二周目、学園卒業後、夜会で助けてくれた公爵令息レイと結婚するも「あなたを愛することはない」と初夜を拒否された偽装結婚だった。後に離婚。
三周目、学園への入学は回避。しかし評判の悪い王太子の妾にされる。その後、下賜されることになったが、手渡された契約書を見て、契約結婚だと理解する。そうして、怖いと評判の宰相との結婚生活が始まったのだが――?
*ムーンライトノベルズにも掲載
最初から勘違いだった~愛人管理か離縁のはずが、なぜか公爵に溺愛されまして~
猪本夜
恋愛
前世で兄のストーカーに殺されてしまったアリス。
現世でも兄のいいように扱われ、兄の指示で愛人がいるという公爵に嫁ぐことに。
現世で死にかけたことで、前世の記憶を思い出したアリスは、
嫁ぎ先の公爵家で、美味しいものを食し、モフモフを愛で、
足技を磨きながら、意外と幸せな日々を楽しむ。
愛人のいる公爵とは、いずれは愛人管理、もしくは離縁が待っている。
できれば離縁は免れたいために、公爵とは友達夫婦を目指していたのだが、
ある日から愛人がいるはずの公爵がなぜか甘くなっていき――。
この公爵の溺愛は止まりません。
最初から勘違いばかりだった、こじれた夫婦が、本当の夫婦になるまで。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる