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懇願
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「ひぃっ!?」
かくんと片足が落ち、王子は地面に顎をぶつけた。
「がっ!」
濡れた地面に這いつくばりながら、それでもしがみつけたのは幸いだった。しかし縋るべき地はさらさらと崩れ落ちていく。
「ひっ」
再び悲鳴をあげ、王子は体を引きずって前に逃げた。ざりざりと泥に擦れながら、どうにか危機を免れ、ようやくそこにある闇に呆然とする。
「な、な……っ」
リーリエはまだ踊っている。
そこには地面がある。
だが王子の背後にあったはずの町も、待たせているはずの馬もなかった。ただただ、真の闇があるばかりだ。
どこを見回しても同じだった。四方を消失の闇に囲まれている。
「どういうことだ……っ、なにを、なにをしたァ!」
王子はリーリエに叫んだ。踊る彼女のいる場所は、不自然にその形を残している。
否、その場所だけを残して、地面が崩れ落ちたようだった。
「リーリエ様!」
「ま、待て!」
マイラがリーリエに駆け寄り、身を投げるようにして地面に頭を擦り付けた。
「お助けください! お助けください、どうか、どうか!」
「何をしている! そのようなものにっ……」
だが叫ぶ足元がまた崩れ、王子は口をつぐんでその場から逃げた。
「どうか私のために……国のために、」
「祈らない」
リーリエが答えた。
マイラはそれでも諦めず、何度も頭を下げている。顔にひどく泥がつく。王子の愛した凛とした美しさはどこにもなかった。
「うっ」
また足元が崩れる。
リーリエのそばに行くしかない。リーリエも縁にいるというのに、なぜかその地面は全く崩れていかないのだ。
やわらかな雨に包まれた、彼女の姿がうっすら輝いているように見えた。
(そんな……馬鹿な……)
これではまるで、リーリエが聖女のようだ。
(そんなはずはない)
即座に王子は思う。神に選ばれし王子である己が選んだのはマイラだ。であればマイラが聖女なのだ。
こんな、ぬくぬくと教会にこもっていただけの女が、どうして聖女なのだ?
「……違う」
リーリエが聖女のはずはない。
謀られているのだ。リーリエが聖女であるはずがない。
(あの女が落ちないのならば、神に選ばれたこの俺が、落ちるはずがない……)
そうだ、全てはまやかしなのだ。
「この俺を、神が見捨てるはずがない。あの兄さえ押しのけて王になるべき者だ」
王子は自分に言い聞かせ、動揺を収めた。
「はは……」
いったい何を恐れていたのか。
泰然自若としていれば、何も起こらない。そのはずだ。
そうすればマイラにも何が重要なのかわかるだろう。自分は王であり、マイラはその自分が選んだ聖女なのだ。
あんな聖女と名ばかりの無能に頭を下げるなど、とんでもない。
そうだ、だから、
「うっ、あああああ!」
王子は滑り落ちていた。
がりがりと土の断面が体を擦り、頬を擦って血を流させた。踏むべき地がない。暴力的な勢いに流されながら、王子は必死で土に爪をたてた。
「ぃぐッ!」
あっけなく爪が剥がれる。
鋭い痛みが平面に走った。だがそれどころではない。ほとんど自由落下をしながら、無我夢中でひたすら土にしがみつく。
「うおっ、おあ、あああ!」
なんとか止まった。
「うぅっ」
全身が痛む。だが、思ったよりも落ちてはいない。見上げればそこに地上があり、王子は手を伸ばした。
「ふっ、ひっ……」
掴んだ地面もすぐに崩れ落ちる。
すぐそこが地上であるのに、這い上がれない。まるで泥の沼に落ちたようだ。
「マイラ! マイラ、助けてくれ……!」
落ちては上がりながら、そこにいるマイラに助けを求めた。たとえ細腕でも、いや、さきほど見せた力ならば、充分に自分を引っ張り上げてくれるはずだ。
「マイラ!」
叫べば泥が口に入る。
それでも繰り返し、ようやくマイラが振り向いた。
どうして未だにリーリエに平伏しているのか。わずかな怒りを感じたが、安堵もした。マイラなら助けてくれるはずだ。
「……は、はやく!」
しかしマイラは、まるでつまらないものを見たかのように、何の感情もない顔をそむけた。
「リーリエ様、どうか、どうか……」
そして壊れたように頭を下げて願っている。
「マ、マイラ」
馬鹿な。
そんな馬鹿な。
「どうか私達のために祈ってください……!」
自分を助けるよりも、そんなことが重要だというのか?
「お、俺は、俺は……神にえらば、えらばれ……っ」
手が滑る。
闇雲に土を掴んだ。
それは悪あがきと言うべき動きだったが、奇跡的に手が引っかかり、バルカスは這い上がっていた。
崩れ落ちる土に怯えながら、ずるずると突端を離れる。どうにか崩れない地面にたどり着けた。しかしそれもいつまで保つか。
「マイラ! くそ、なぜだ……!」
バルカスは平伏したマイラの肩を掴み、顔をあげさせた。
「……っ!」
そこにあるのは怯えた、恐怖に彩られた瞳だ。
「マイラ……」
「バルカス、あなたもお願いして!」
「……」
「リーリエが祈らなきゃ、私も、国も、母さんも、なにもかも、なにもかも、消えてしまう、私のせい……違う……、助けて……助けて、リーリエ様、どうか、祈って」
「嫌よ」
リーリエはあっさりと言って背を向けた。
「だめぇ……っ!」
マイラが悲鳴をあげる。
闇に飛び降りようとしていたリーリエの体に、抱きついて引き止める。リーリエは迷惑そうに嫌がったが、マイラは離れない。
それだけばたばたとしても、リーリエの足元の土は崩れない。
当たり前のように崩れない。
振り向けば闇が迫っていて、王子はぞっとした。
「そ……そうだ、やれるというなら、やってみよ。祈るのだろう。聖女ならば、祈って、国を救うのだろう!? やってみろ!」
「嫌」
「ふざけたことを! 聖女として力を示せば、もとの地位に戻してやると言っているのだ」
「ぜったいに嫌」
「この俺が言うのだ。それに、このままでは国は滅び、民は大陸に身一つで飛ばされることになるのだぞ!」
「知らない」
「お願い、リーリエ様、お願い、お願い……」
「いいから祈れ。祈れと言っている!」
マイラをしがみつかせたまま、リーリエが振り返った。
そして人形のように二人を見つめた。
かくんと片足が落ち、王子は地面に顎をぶつけた。
「がっ!」
濡れた地面に這いつくばりながら、それでもしがみつけたのは幸いだった。しかし縋るべき地はさらさらと崩れ落ちていく。
「ひっ」
再び悲鳴をあげ、王子は体を引きずって前に逃げた。ざりざりと泥に擦れながら、どうにか危機を免れ、ようやくそこにある闇に呆然とする。
「な、な……っ」
リーリエはまだ踊っている。
そこには地面がある。
だが王子の背後にあったはずの町も、待たせているはずの馬もなかった。ただただ、真の闇があるばかりだ。
どこを見回しても同じだった。四方を消失の闇に囲まれている。
「どういうことだ……っ、なにを、なにをしたァ!」
王子はリーリエに叫んだ。踊る彼女のいる場所は、不自然にその形を残している。
否、その場所だけを残して、地面が崩れ落ちたようだった。
「リーリエ様!」
「ま、待て!」
マイラがリーリエに駆け寄り、身を投げるようにして地面に頭を擦り付けた。
「お助けください! お助けください、どうか、どうか!」
「何をしている! そのようなものにっ……」
だが叫ぶ足元がまた崩れ、王子は口をつぐんでその場から逃げた。
「どうか私のために……国のために、」
「祈らない」
リーリエが答えた。
マイラはそれでも諦めず、何度も頭を下げている。顔にひどく泥がつく。王子の愛した凛とした美しさはどこにもなかった。
「うっ」
また足元が崩れる。
リーリエのそばに行くしかない。リーリエも縁にいるというのに、なぜかその地面は全く崩れていかないのだ。
やわらかな雨に包まれた、彼女の姿がうっすら輝いているように見えた。
(そんな……馬鹿な……)
これではまるで、リーリエが聖女のようだ。
(そんなはずはない)
即座に王子は思う。神に選ばれし王子である己が選んだのはマイラだ。であればマイラが聖女なのだ。
こんな、ぬくぬくと教会にこもっていただけの女が、どうして聖女なのだ?
「……違う」
リーリエが聖女のはずはない。
謀られているのだ。リーリエが聖女であるはずがない。
(あの女が落ちないのならば、神に選ばれたこの俺が、落ちるはずがない……)
そうだ、全てはまやかしなのだ。
「この俺を、神が見捨てるはずがない。あの兄さえ押しのけて王になるべき者だ」
王子は自分に言い聞かせ、動揺を収めた。
「はは……」
いったい何を恐れていたのか。
泰然自若としていれば、何も起こらない。そのはずだ。
そうすればマイラにも何が重要なのかわかるだろう。自分は王であり、マイラはその自分が選んだ聖女なのだ。
あんな聖女と名ばかりの無能に頭を下げるなど、とんでもない。
そうだ、だから、
「うっ、あああああ!」
王子は滑り落ちていた。
がりがりと土の断面が体を擦り、頬を擦って血を流させた。踏むべき地がない。暴力的な勢いに流されながら、王子は必死で土に爪をたてた。
「ぃぐッ!」
あっけなく爪が剥がれる。
鋭い痛みが平面に走った。だがそれどころではない。ほとんど自由落下をしながら、無我夢中でひたすら土にしがみつく。
「うおっ、おあ、あああ!」
なんとか止まった。
「うぅっ」
全身が痛む。だが、思ったよりも落ちてはいない。見上げればそこに地上があり、王子は手を伸ばした。
「ふっ、ひっ……」
掴んだ地面もすぐに崩れ落ちる。
すぐそこが地上であるのに、這い上がれない。まるで泥の沼に落ちたようだ。
「マイラ! マイラ、助けてくれ……!」
落ちては上がりながら、そこにいるマイラに助けを求めた。たとえ細腕でも、いや、さきほど見せた力ならば、充分に自分を引っ張り上げてくれるはずだ。
「マイラ!」
叫べば泥が口に入る。
それでも繰り返し、ようやくマイラが振り向いた。
どうして未だにリーリエに平伏しているのか。わずかな怒りを感じたが、安堵もした。マイラなら助けてくれるはずだ。
「……は、はやく!」
しかしマイラは、まるでつまらないものを見たかのように、何の感情もない顔をそむけた。
「リーリエ様、どうか、どうか……」
そして壊れたように頭を下げて願っている。
「マ、マイラ」
馬鹿な。
そんな馬鹿な。
「どうか私達のために祈ってください……!」
自分を助けるよりも、そんなことが重要だというのか?
「お、俺は、俺は……神にえらば、えらばれ……っ」
手が滑る。
闇雲に土を掴んだ。
それは悪あがきと言うべき動きだったが、奇跡的に手が引っかかり、バルカスは這い上がっていた。
崩れ落ちる土に怯えながら、ずるずると突端を離れる。どうにか崩れない地面にたどり着けた。しかしそれもいつまで保つか。
「マイラ! くそ、なぜだ……!」
バルカスは平伏したマイラの肩を掴み、顔をあげさせた。
「……っ!」
そこにあるのは怯えた、恐怖に彩られた瞳だ。
「マイラ……」
「バルカス、あなたもお願いして!」
「……」
「リーリエが祈らなきゃ、私も、国も、母さんも、なにもかも、なにもかも、消えてしまう、私のせい……違う……、助けて……助けて、リーリエ様、どうか、祈って」
「嫌よ」
リーリエはあっさりと言って背を向けた。
「だめぇ……っ!」
マイラが悲鳴をあげる。
闇に飛び降りようとしていたリーリエの体に、抱きついて引き止める。リーリエは迷惑そうに嫌がったが、マイラは離れない。
それだけばたばたとしても、リーリエの足元の土は崩れない。
当たり前のように崩れない。
振り向けば闇が迫っていて、王子はぞっとした。
「そ……そうだ、やれるというなら、やってみよ。祈るのだろう。聖女ならば、祈って、国を救うのだろう!? やってみろ!」
「嫌」
「ふざけたことを! 聖女として力を示せば、もとの地位に戻してやると言っているのだ」
「ぜったいに嫌」
「この俺が言うのだ。それに、このままでは国は滅び、民は大陸に身一つで飛ばされることになるのだぞ!」
「知らない」
「お願い、リーリエ様、お願い、お願い……」
「いいから祈れ。祈れと言っている!」
マイラをしがみつかせたまま、リーリエが振り返った。
そして人形のように二人を見つめた。
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