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『今日は調子が悪い』
「……」

 一行だけ、雑な記述を見て、私は息を止めました。
 そうです。アルバラート殿下は病を得て儚くなってしまいました。全身の気持ち悪さがスッと引いていきます。
 彼はもういません。

 冷え切った頭と身体で先を読み進めます。

『医者が言うには風邪だそうだ』

『もう3日になるが治らない。疲れが出ている、休養が必要だと医者が言う。横になっていても調子が悪く、疲れが増すばかりだというのに、どう治せというんだ。腹立たしい』

『ベッドで本を読むことも禁止された。ルアニッチェに教えることを学ばなければならないのに』

『いつまでも調子が悪い。寝てばかりいるからではないか?』

『起き上がるのもつらい』

『医者が変わった。いったい何なのだ、これは?』

『薬を飲み、休んでいればよくなると言うが、まるで変わらないではないか』

『侍女たちの様子がおかしい。忙しい父上が見舞いにきた。何も話すことなどないというのに、ずいぶん長く居座っていた。気味の悪いことをしないでほしい。重病人になった気分だ』

『ペンを持つのもつらい』

『治らない』

『医者が増えた。使えないやつらだ』

『この薬は毒ではないか?』

『飲みたくない』

『食事も面倒だ』

 力ない一行のみが並ぶようになって、私は息苦しくなりました。アルバラート殿下の病について詳しいことはわかっていません。病名もわからないまま、どうなるかわからない状況はつらいものだったでしょう。

『嫌だ、死ぬのか?』

『食事をしなければ』

『そんなばかな、どうして』

『死にたくない 死にたくない 死んでたまるか ルアニッチェ! ルアニッチェに会いたい ルアニッチェに教えないと 全部 僕のものだ 全部 僕が教えてやる ルアニッチェ 裏切り者 死にたくない まだ足りない 僕が死んだらどうなる ルアニッチェが僕を忘れてしまう 許せることではない 許さない 許さない許さない許さない許さない許さない許さないゆるさないゆるさない』

「ひっ」

 私は思わず後ずさり、救いを求めるように両手を組み合わせていました。
 日記帳の筆跡はどんどん乱れていき、最後にはページに叩きつけられたようなインクの染みになりました。これを最後にあとは空白が続くばかりです。

 そう、殿下は死んだのです。
 わかっていました。けれど病床の壮絶さをあまりに近くに感じました。殿下の興奮が、切れ切れの呼吸が伝わってくるようでした。そしてそれは死という氷にたどり着いたのです。

「……恐ろしいこと。殿下の魂、が、救われますよう……」

 震えながら祈りを捧げました。
 怖い。恐ろしい。私はまだ死にたくない。そんな自分の欲に醜さを感じながら、穢れから離れたいという気持ちに逆らえませんでした。

「ミラ」
「はい、お嬢様」

 人払いをした部屋から私が出ないので、ミラは扉の前で待ってくれていたのでしょう。呼ぶとすぐにやってきた彼女に、日記帳を指さしました。

「その……殿下の形見として頂いたの。しっかり仕舞っておいて」
「……では、宝物庫の使用許可を頂いてきます」
「ありがとう」

 手元に置いておきたくない気持ちを理解してくれたのでしょう。ミラは日記帳を慎重に両手で持って、足早に執務室の方へ向かいました。
 宝物庫には先祖代々からの品物が収めてあります。あれはただの日記帳ですが、王子のものであり、王妃様より賜ったのですから宝物と言っていいでしょう。

 目の前にアレがなくなったことに、私はほっとして体の力を抜きます。

「んっ……」

 緊張が続いていたせいか、めまいがしました。精神的なショックのせいかもしれません。気持ちの悪さと、死への恐れが胸にこびりついているようでした。
 日記が書けなくなるほど衰えたあと、殿下は安らぎを得られたのでしょうか。そうであればよいと思います。私のことを恨んだまま亡くなったなんて、ぞっとします。情のない話で申し訳ないのですが、やはり私にとって殿下はただの嫌な教師であり、理不尽な感情を向けられていたと思います。

(もう忘れよう。これからのことを考えないと……私は生きてるんだから)

 婚約者が亡くなったので、しばらくは喪に服すことになります。そのあとで新しい婚約者が決まるでしょう。侯爵家の娘が婚姻をしないというわけにはいきません。
 私はずっと勉学に励んできたというのもあり、恋をする自分というものを想像できません。きっとお父様がお決めになるでしょうね。

(恋……殿下は私に恋をしていたのかしら? あれが、あんなものが恋だというの?)

 私には理解できません。
 お話の中の恋しか知らないせいでしょうか。

(もしあれが恋だったとしても、恋する相手より、浮気相手と会いたくなるもの? まるで理解できない。きっと違うものだわ)

 忘れようと思ったそばから考えてしまっていました。
 私は努力して考えないようにして、庭園を散策してから部屋に戻りました。美しい花々を眺めたので、いくらか気分は晴れています。

 ですが自室に戻ってから、どうにも手持ち無沙汰になってしまいました。

「ふふ。急には変われないわね。勉強しましょうか」

 殿下についていくために勉強漬けの毎日でした。つらくはありましたが、子供の頃からそうなので、もう慣れてしまっているのです。学ぶことの中に楽しみを見出すこともできます。
 本当に、よい先生との出会いのおかげでしょう。王家に嫁ぐことがなくなっても、知識は無駄ではないと思えます。

 私はいつものように机に座り、片手で積み上げられた本の一番上を取りました。

「あら?」

 手触りが違います。ここに置いていた読みかけの本は確か、もっと柔らかい、くたびれたような表紙でした。これはしっかりとした、それにふさわしく厚みがある……。
 違和感がありながらも、私はそのままの流れで本を開きました。ページに書かれた文字が目に飛び込んできます。

『許さない』
「っ……きゃああああああ!」
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