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初めての言葉
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「ブラックでよかったですよね?」
「ありがとう。覚えていてくれて嬉しいよ」
賢将さんは懐かしそうに匂いを嗅いでから、カップに口をつけた。
「ああ……卓くんのコーヒーの味だな。これを飲んでようやく日本に帰ってきたと実感したよ」
「そう仰っていただけて嬉しいです」
「お父さん。十年もお疲れさま。大変だったでしょう?」
「ああ。だがやりがいはあったよ。私たちが来たことで救えた命もいっぱいあった。もちろん救えない命もたくさんあったが、最後まで手を尽くしたおかげで、家族との最後の時間を作ってあげられた。残された家族に後悔の念ではなく、幸せを与えられたことで、私も秋穂への思いを少しずつ浄化できた。ずっと自分のせいだと後悔していたからな」
「お父さん……」
「絢斗にも心配かけたな。だが私はもう大丈夫だ。そう確信できたから日本に帰ってきたんだよ」
賢将さんの清々しい笑顔が、今の賢将さんの気持ちを表しているようでとても眩しく見えた。
「それでさっき話していた直くんのお父さんの話だけど……」
「ああ。そこまで詳しい話を聞いたわけじゃないけどな。彼が息子のことを大切に思っていたのは伝わってきたよ」
「そっか、それならよかった。ね、卓さん」
「ああ。直くんに話したらきっと喜ぶだろう」
もう私の実子にしたから彼と戸籍上の縁を結び直すことはできないが、それでも実の親が遠く離れていても大切に思ってくれていると知れば喜ぶはずだ。直くんにとって彼が生物学上の父親であることに変わりはないのだから。
「それにしても偶然話に聞いていたあの子が卓くんの子どもになっていたのには驚いたな」
「すみません、私の戸籍に入れるということは賢将さんにも関わることでしたね」
「いやいや、私にそんな伺いを立てる必要はない。私は喜んでいるんだからな」
「ああ。だって私にも孫ができたということだろう? 嬉しいに決まってる」
「賢将さん……」
さすが絢斗の父親だな。本当に器が大きい。賢将さんならきっと直くんを大切にしてくれることだろう。
<side昇>
絢斗さんのお父さんのことを、俺はずっと大おじさんと呼んでいた。けれど、絢斗さんのお母さんのことは秋穂さんだった。それが不思議だと思わないくらい、物心ついた時からその呼び方が普通になっていた。
今思えば、おばさんと呼ばれたくなかったのかも知れない。それくらい、秋穂さんは美人で優しい人だった。
うちの両親や、伯父さんたちと同じくらい、大おじさんと秋穂さんもすごく仲が良くて、いつも幸せそうだったから。秋穂さんが病気で亡くなってしまった時は、みんな大おじさんのことを心配していた気がする。
いつも笑顔だったのに、笑顔も見せることなく塞ぎ込んで……秋穂さんの四十九日を終えるまでほとんど家から出ることもなかったって聞いた。
それからすぐだった。大おじさんが海外で働くようになったのは。
時々、俺宛に大おじさんから絵葉書が届くことはあったけれど、返事は送るなと書かれていた。多分、あちこちに移動しているから受け取れない可能性を考えたんだろう。
俺は時折届く大自然の匂いを感じる絵葉書を見て大おじさんが元気だと安心していた。
それから十年。突然の直くんの発熱で、大おじさんが帰国していたことを知った。あまりにも久しぶりすぎて、大おじさんというよりは絢斗さんのお父さんという言葉が出てきてしまったけれど、顔を見たら、普通に大おじさんと呼んでいる自分がいた。
俺の想像以上に日に焼けていたけれど、笑顔は幼いときに見ていた時と同じ。それが一番嬉しかった。
あの大おじさんなら直くんのこともきっと優しくしてくれるだろう。そんな安心感もあった。
診察を終えて、しばらく直くんのそばで見守っていると、直くんがゆっくりと目を覚ました。
「の、ぼるさん……」
「直くん、どこか辛いところはない?」
「ぼく……どうして?」
「大丈夫、疲れのせいで少し熱が出ただけだよ。心配しないでいい」
「熱……」
「ちょっと測らせてね」
直くんの首筋に手を当てると、さっきよりは熱くない。どうやら落ち着いたみたいだ。
「熱は下がったみたいだね。もう一度診察してもらうからちょっと待ってて」
「えっ、診察? やっ、僕……病院はっ」
一気に混乱していく様子に、何か嫌な思い出があるとすぐにわかった。
慌てて直くんを抱きしめて落ち着かせる。
「大丈夫。病院には行かないよ。絢斗さんのお父さんがお医者さんなんだ。その人が来てくれているから診てもらうだけ。それなら安心だろう?」
「あやちゃんの、お父さん?」
「ああ。直くんのおじいちゃんだよ。だから大丈夫。ねっ」
ゆっくりと伝えると、さっきの混乱は落ち着いて行った。それほど直くんが絢斗さんを信頼しているということだ。
「この部屋に呼んでくる? それとも一緒にリビングに行こうか? どっちがいい?」
「あの、じゃあ一緒に……」
部屋で一人で待っているのが怖いんだろう。俺は直くんをタオルケットで包み、抱きかかえてリビングに連れて行った。
「伯父さん、直くんが起きたよ」
俺の声に3人が一気に振り向いた。その様子に直くんは一瞬ビクッと身体を震わせたけれど、一番最初に立ち上がった大おじさんが優しい笑顔で近づいてきたから直くんは目を逸らすことなく見つめて
「おじいちゃん……?」
と一言だけ声を発した。
「ありがとう。覚えていてくれて嬉しいよ」
賢将さんは懐かしそうに匂いを嗅いでから、カップに口をつけた。
「ああ……卓くんのコーヒーの味だな。これを飲んでようやく日本に帰ってきたと実感したよ」
「そう仰っていただけて嬉しいです」
「お父さん。十年もお疲れさま。大変だったでしょう?」
「ああ。だがやりがいはあったよ。私たちが来たことで救えた命もいっぱいあった。もちろん救えない命もたくさんあったが、最後まで手を尽くしたおかげで、家族との最後の時間を作ってあげられた。残された家族に後悔の念ではなく、幸せを与えられたことで、私も秋穂への思いを少しずつ浄化できた。ずっと自分のせいだと後悔していたからな」
「お父さん……」
「絢斗にも心配かけたな。だが私はもう大丈夫だ。そう確信できたから日本に帰ってきたんだよ」
賢将さんの清々しい笑顔が、今の賢将さんの気持ちを表しているようでとても眩しく見えた。
「それでさっき話していた直くんのお父さんの話だけど……」
「ああ。そこまで詳しい話を聞いたわけじゃないけどな。彼が息子のことを大切に思っていたのは伝わってきたよ」
「そっか、それならよかった。ね、卓さん」
「ああ。直くんに話したらきっと喜ぶだろう」
もう私の実子にしたから彼と戸籍上の縁を結び直すことはできないが、それでも実の親が遠く離れていても大切に思ってくれていると知れば喜ぶはずだ。直くんにとって彼が生物学上の父親であることに変わりはないのだから。
「それにしても偶然話に聞いていたあの子が卓くんの子どもになっていたのには驚いたな」
「すみません、私の戸籍に入れるということは賢将さんにも関わることでしたね」
「いやいや、私にそんな伺いを立てる必要はない。私は喜んでいるんだからな」
「ああ。だって私にも孫ができたということだろう? 嬉しいに決まってる」
「賢将さん……」
さすが絢斗の父親だな。本当に器が大きい。賢将さんならきっと直くんを大切にしてくれることだろう。
<side昇>
絢斗さんのお父さんのことを、俺はずっと大おじさんと呼んでいた。けれど、絢斗さんのお母さんのことは秋穂さんだった。それが不思議だと思わないくらい、物心ついた時からその呼び方が普通になっていた。
今思えば、おばさんと呼ばれたくなかったのかも知れない。それくらい、秋穂さんは美人で優しい人だった。
うちの両親や、伯父さんたちと同じくらい、大おじさんと秋穂さんもすごく仲が良くて、いつも幸せそうだったから。秋穂さんが病気で亡くなってしまった時は、みんな大おじさんのことを心配していた気がする。
いつも笑顔だったのに、笑顔も見せることなく塞ぎ込んで……秋穂さんの四十九日を終えるまでほとんど家から出ることもなかったって聞いた。
それからすぐだった。大おじさんが海外で働くようになったのは。
時々、俺宛に大おじさんから絵葉書が届くことはあったけれど、返事は送るなと書かれていた。多分、あちこちに移動しているから受け取れない可能性を考えたんだろう。
俺は時折届く大自然の匂いを感じる絵葉書を見て大おじさんが元気だと安心していた。
それから十年。突然の直くんの発熱で、大おじさんが帰国していたことを知った。あまりにも久しぶりすぎて、大おじさんというよりは絢斗さんのお父さんという言葉が出てきてしまったけれど、顔を見たら、普通に大おじさんと呼んでいる自分がいた。
俺の想像以上に日に焼けていたけれど、笑顔は幼いときに見ていた時と同じ。それが一番嬉しかった。
あの大おじさんなら直くんのこともきっと優しくしてくれるだろう。そんな安心感もあった。
診察を終えて、しばらく直くんのそばで見守っていると、直くんがゆっくりと目を覚ました。
「の、ぼるさん……」
「直くん、どこか辛いところはない?」
「ぼく……どうして?」
「大丈夫、疲れのせいで少し熱が出ただけだよ。心配しないでいい」
「熱……」
「ちょっと測らせてね」
直くんの首筋に手を当てると、さっきよりは熱くない。どうやら落ち着いたみたいだ。
「熱は下がったみたいだね。もう一度診察してもらうからちょっと待ってて」
「えっ、診察? やっ、僕……病院はっ」
一気に混乱していく様子に、何か嫌な思い出があるとすぐにわかった。
慌てて直くんを抱きしめて落ち着かせる。
「大丈夫。病院には行かないよ。絢斗さんのお父さんがお医者さんなんだ。その人が来てくれているから診てもらうだけ。それなら安心だろう?」
「あやちゃんの、お父さん?」
「ああ。直くんのおじいちゃんだよ。だから大丈夫。ねっ」
ゆっくりと伝えると、さっきの混乱は落ち着いて行った。それほど直くんが絢斗さんを信頼しているということだ。
「この部屋に呼んでくる? それとも一緒にリビングに行こうか? どっちがいい?」
「あの、じゃあ一緒に……」
部屋で一人で待っているのが怖いんだろう。俺は直くんをタオルケットで包み、抱きかかえてリビングに連れて行った。
「伯父さん、直くんが起きたよ」
俺の声に3人が一気に振り向いた。その様子に直くんは一瞬ビクッと身体を震わせたけれど、一番最初に立ち上がった大おじさんが優しい笑顔で近づいてきたから直くんは目を逸らすことなく見つめて
「おじいちゃん……?」
と一言だけ声を発した。
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