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第四章 (王城 過去編)
閑話 侯爵家執事ヴォルフ <秘かな想いを貴方に> 前編
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「ふぅーーーっ」
旦那さまはぐったりとソファーに倒れ込んだ。
それもそのはず。
あんな眼光鋭い陛下と御顔立ちのそっくりなサンチェス公爵さま、お二人にずっと見つめられていたのだ。
寿命が縮む思いだろう。
「旦那さま、お疲れさまでございました」
背中にそっと触れると、旦那さまは
「あれでよかったのだろうか……」
とぽつりと呟いた。
やはり自ら勘当を言い渡したとはいえ、旦那さまにとってお嬢さまは世界にたったひとりの大事な娘だ。
今までスプーンよりも重いものは持たせたことがないほど可愛がってこられたのだ。
とはいえ、躾に関しては侯爵令嬢として外に出しても恥ずかしくないようにしっかりとなされていたはずなのに、どうしてあのように育ってしまったのか……。
それはやはり旦那さまの母君、前侯爵の奥さまの影響だろう。
男爵令嬢だった旦那さまの母君は、前侯爵に見初められ身分違いの恋を乗り越え結婚された。
それが男爵令嬢だった母君にとっては自分の人生で唯一の自慢だったのだろう。
女は自分より身分が高い者に望まれて結婚することが幸せだ。
そして、そのために努力を惜しんではいけないと自分が亡くなる直前までお嬢さまに散々言い聞かせ続けた。
確かに母君がお嬢さまに教えたことは間違いではない。
白い結婚になるよりは愛し合っての結婚が良いに決まっている。
しかし、お嬢さまはそれを湾曲して受け取った。
侯爵令嬢である自分より下の身分の者とは結婚する価値などない。
自分は王族や公爵にのみ愛されるべき人間なのだ。
そのためには邪魔者はどんな手を使っても全て排除する――と。
成人を迎え、侯爵令嬢であるお嬢さまには毎日のように縁談話が持ち上がったが、その偏った価値観で侯爵家以下の身分からの縁談はことごとく否の返事をし断り続けた結果、お嬢さまに縁談話は一切来なくなった。
そのことに頭を痛めた旦那さまが頭を下げ、陛下のお妃候補に名を連ねさせてもらったというのに、そのことがお嬢さまの偏った考えを助長させることになってしまったのは旦那さまが本当に御可哀想だった。
お嬢さまは自分が陛下のお妃候補になったというだけで自分が王妃になると思い込んでしまったのだ。
陛下に別のお妃が決まった時に王都まで乗り込んで武器を持ち込んで暴れ、王室騎士団に取り押さえられる事態になり、慌てて王都までお嬢さまを迎えに行った旦那さまの憔悴しきった顔は今でも忘れられない。
本来ならば赦されることなど有り得ないほどの反逆行為をしでかしたのだが、旦那さまのこれまでの功績に免じて陛下が御赦しくださったのだ。
溺愛されていると王都中で噂の王妃さまを襲おうとしたお嬢さまを御赦しくださるなんて……。
私には陛下がそれほどまでに旦那さまの功績に恩を感じてくださっていたのだと嬉しく思えた瞬間でもあった。
その事件の後、旦那さまはお嬢さまを屋敷に閉じ込め、自分がしたことの罪の重さを渾々と訴え続けた。
しかし、それが耳に入っていたのかどうか……。
今思えばお嬢さまの耳には何も入っていなかったのだろう。
私は前侯爵の執事をしていた父の影響で侯爵家で旦那さま――その頃はルークさまと呼んでいた――と共に幼少期を過ごした。
子どもの頃は一緒に勉強をし、遊び、共に寝ることもあった。
初めて会った時から、私に対していつも優しいルークさまに仄かな恋心を抱いていたが、如何せん私はただの執事の子。
父は伯爵家の三男であったが、それでもルークさまとの身分違いは言わずもがな。
私は一生ルークさまにお仕えできたらそれでいい……そう思っていた。
ルークさまは成人され、すぐに同じ侯爵家のアビーさまとご結婚された。
ご結婚後すぐに前侯爵が亡くなりルークさまが後を継がれ、レナゼリシア侯爵家の正式な当主となった。
アビーさま……奥さまはドレスや宝石よりも領地経営が楽しいという珍しい女性だったが、このレナゼリシア侯爵家を旦那さまと共に守り立てる素晴らしい女性だった。
身体が弱く、お子さまはパメラさまおひとりしか望めなかったが、後継となる子どもが生まれたことで安心したのか、その後は旦那さまと共に領地経営に勤しんでいた。
私は執事の職と兼任でお嬢さまの御世話係に任命された。
お二人の子の成長を間近で見ることに些か躊躇いもあったが、旦那さま自らのお願いだとあっては断る理由がない。
レナゼリシア侯爵家の後継者であるお嬢さまを一生懸命お世話してきたが、前述の通り、お嬢さまには私の言葉は一切響かず、あんな女性に育ってしまった。
もしかしたら、お嬢さまがあんな風に育ってしまったのは私のせいかもしれない。
旦那さまの子だと思って大切に大切に愛しんで育ててきたが、もっと厳しく育てた方がよかったのだろう。
今後悔してもあまりにも遅すぎるのだが……。
お嬢さまが事件を起こしたすぐ後に元々身体の弱かった奥さまが亡くなり、旦那さまへ後妻を求める声が上がり始めた。
この広大なレナゼリシア領を統治していくためには亡き奥さまのように二人三脚で守り立てていってくれる人が必要だ。
お嬢さまに縁談が来ない今、旦那さまに伴侶を求める方が手っ取り早いと思ったのだろう。
しかし、旦那さまはどんなにいい縁談にも首を縦には振らなかった。
旦那さまは奥さま――アビーさまを今でも愛していらっしゃるのだ。
死してなお、愛され続けるアビーさまが羨ましくて……どうしようもない旦那さまへの思いについ魔がさして、あの日私は旦那さまの下着を盗み出した。
我慢できない昂りを抑えるためにそれをおかずに自慰に耽っていたのを、あろうことかお嬢さまに見られてしまい、その日から私は御世話係からお嬢さまの下僕へと成り下がった。
それからはお嬢さまにどんなに無理難題を言われても
――お父さまにあのことを言うわよ
そう言われれば否とは言えなくなった。
たとえよからぬことを企んでいると思っても私はそれに従うことしかできない。
旦那さまにあんな邪な気持ちを抱いたことを知られたくないのだ。
もし知られて傍にいられなくなったら私はもう生きてはいけない。
それほどまでに旦那さまを愛しているのだ。
旦那さまに会えなくなるくらいなら、お嬢さまの言うことを聞くくらいどうとでもなる。
その一心だった。
お嬢さまは毎日旦那さまがシャワーに行かれた時に執務室に入りたいと言う。
本来ならば勝手に入れていい場所ではないが、お嬢さまに言われれば仕方がない
部屋の様子を覚えておいて、お嬢さまを部屋に入れる。
私はお嬢様が出てくるまで部屋の前で誰か来ないかを見張っている。
大体時間にして5分ほどだろうか。
お嬢さまが部屋から出た後に動かしたであろう箇所を片付ける、それが私の日課になりつつあった。
しかし、あの日は長かった。
もうすぐ旦那さまがシャワーから出てくる時間になってもお嬢さまは出てこようとしない。
痺れを切らして中に入ると、お嬢さまは一心不乱に何かを読み耽っていた。
「お嬢さま。そろそろ旦那さまが来られます」
声をかけると身体をびくりと震わせ、持っていた紙が手から滑り落ちた。
ひらひらと私の目の前に落ちてきた紙は、陛下からの先触れだった。
「お嬢さま。これを読まれたのですか?」
「ふん。いいじゃない。陛下がうちに来るっていうだけの話よ。大したことは書かれてないわ」
そそくさと執務室を出ていったお嬢さまを見送りながら、私はもう一度先触れを見直した。
今日陛下から届いた内容は、今度の視察に陛下の遠縁である遠国の公爵さまとその奥方さまを同行させる旨が記されていただけだ。
お嬢さまが気になるような点は特になかったと思うが……。
何をあんなに真剣に読まれていたのだろう?
お嬢様が起こした事件から3年。
気になるといえば、その点か……。
この家に王妃さまがおいでになる。
あの事件のことを王妃さまがご存知かはわからないが、あれから初めてお会いするのだ。
お嬢さまは何かを企んでいないだろうか?
もし、何か起こそうと思っているのなら今度は止めなければいけない。
いくら旦那さまの功績があろうとも陛下の恩赦は二度はないだろう。
お嬢さまはともかく旦那さまに処罰が下るようなことはあってはならない。
私が旦那さまをお守りしなければ……。
「ヴォルフ。ここで何をしている?」
「あっ、旦那さま。は、はい。あの、今日の先触れを見直しておりました」
突然の声に驚いて思わず声が上擦ってしまったが気づかれてはいないだろうか?
「そうか。この地に陛下と王妃さまが来られるのは1年半ぶりだ。
しかも、遠縁の公爵さまと奥方さままでお連れになる。それだけ我が領地に目をかけてくださっていると言うことだ。
絶対に今回の視察は成功させなければいけない。わかっているな」
「はい。もちろんでございます」
「うむ。ならいいが……。ヴォルフ、お前……パメラをこの部屋に入れているようだが、何を考えている?」
「――っ!」
まさか気付かれていたとは……。
血の気がひく思いだった。
みるみるうちに青褪める私を見て旦那さまも驚かれたようだ。
「ヴォルフ、お前……パメラに何か脅されているのか?
お前が私に無断で事を起こすなどそれしか考えられん。
ヴォルフ、正直に言え。私はお前の言うことを信じる」
真っ直ぐな目で私を見つめる旦那さまは、幼少の時から何も変わってはいない。
変わったのは私だけだ。
旦那さまにも言えないことをして何とかやり過ごそうとさえ思ってしまった。
もうこれ以上、旦那さまに嘘はつけない。
「申し訳ございません。
私は……旦那さまをお慕いしております。
ですが、旦那さまが今でも奥さまを愛していらっしゃるのはわかっております。
ただ旦那さまのお傍に居させていただくだけで幸せでございました。
ですが……内に秘めておりました旦那さまへの思いを……お嬢さまに知られてしまいまして……それで……」
「それでパメラに言うことを聞けと脅されたのか?」
「申し訳ございません。旦那さまと奥さまを裏切るようなことを……」
私は床に座り込んで土下座をしながら謝り続けた。
しかし、許しを請うことはやめた。
私は許されざることをしたのだから、許してもらう必要はないのだ。
旦那さまと離れてしまうのは死ぬよりも辛いことだが、もうここには居られない。
「今日中にここを出ていきます」
力の入らない足を叱咤しながら必死に立ち上がろうとする私の前に旦那さまが立ちはだかった。
「なぜお前が出ていかなければいけないのだ?」
「えっ? ですが私は旦那さまに邪な思いを……」
「人の思いを制限することなどできるはずがなかろう? それに……」
旦那さまはしゃがみこんで私の手を取り、
「私はお前の気持ちが嬉しい」
とにこやかな笑顔を見せてくれた。
いつだって優しい旦那さまのことだ。
きっと私を傷つけないための方便だろう。
だって旦那さまは奥さまをずっと愛しているのだから……。
それでもその優しさが嬉しかった。
繋がれた手をグイッと引っ張られ、私は旦那さまの胸へと飛び込んだ。
「私にはヴォルフ、お前が必要だ。
これからもずっと傍にいてもらわなければ困る。
出ていくなどと言わないでくれ」
ああ、なんて優しいんだろう。
こんなことを言われてはこの手を離すことなど出来るはずがない。
「はい。旦那さま。
旦那さまが手をお離しになるその日まで私はお仕えさせていただきます」
私の言葉に旦那さまは安堵の表情をして、無意識のままに頬を伝っていた私の涙をそっと指で拭い取りながら、
「パメラが申し訳ないことをしたな。
人の気持ちを脅しの材料に使うなどとんでもない。
ヴォルフ……悪かったな」
と気遣ってくれた。
旦那さまはどこまで優しいのだろう。
私はせっかく拭い取ってもらった涙がまた溢れてしまっていた。
「それで今日はパメラはこの部屋で何をしていたのだ?」
「は、はい。熱心にこちらを見ておいででした」
私は手に持ったままになっていた陛下からの先触れを手渡した。
旦那さまはそれをじっくりと読んでから
「パメラはこの公爵さまの方によからぬ事を企んでいるのではないか?」
と眉を顰めた。
「まさか! 奥方さまもご一緒においでになると言うのにそんなこと……」
「ならば良いのだが……。ヴォルフ、パメラから何か言われたらすぐに私に報告してくれ」
「畏まりました」
それから数日はお嬢さまから何も言われる事はなかったが、明日陛下とお連れさまがおいでになるという最後の先触れが届くとお嬢さまはニヤリと笑って私に近づいてきた。
そして、明日陛下とお連れさまに出すハーブティーを公爵さまの奥方さまの分だけ濃くして出すように指示されたのだ。
ハーブティーに慣れない方の為に薄く淹れてはいるものの、本来なら濃く出す方が美味しい。
奥方さまにだけ美味しいハーブティーをお出しすることに何の意味があるのだろうか?
私は訳がわからなかったが、とりあえず旦那さまに報告しておくことにした。
「旦那さま、お嬢さまから……」
先程の話を詳しく報告すると、旦那さまは顎に手を当て『うーん』と考え込んで、『まさか……』と小さく呟いた。
「パメラから夜会の時に何かを頼まれるかもしれない。その時はすぐに報告してくれ!」
「か、畏まりました」
旦那さまの勢いに少し驚いたものの、旦那さまがお嬢さまの意図を感じ取ったらしいのはわかった。
お嬢さまは何を考えているのだろう。
この侯爵家での滞在が何とか無事に終わるのを祈るしかない。
旦那さまはぐったりとソファーに倒れ込んだ。
それもそのはず。
あんな眼光鋭い陛下と御顔立ちのそっくりなサンチェス公爵さま、お二人にずっと見つめられていたのだ。
寿命が縮む思いだろう。
「旦那さま、お疲れさまでございました」
背中にそっと触れると、旦那さまは
「あれでよかったのだろうか……」
とぽつりと呟いた。
やはり自ら勘当を言い渡したとはいえ、旦那さまにとってお嬢さまは世界にたったひとりの大事な娘だ。
今までスプーンよりも重いものは持たせたことがないほど可愛がってこられたのだ。
とはいえ、躾に関しては侯爵令嬢として外に出しても恥ずかしくないようにしっかりとなされていたはずなのに、どうしてあのように育ってしまったのか……。
それはやはり旦那さまの母君、前侯爵の奥さまの影響だろう。
男爵令嬢だった旦那さまの母君は、前侯爵に見初められ身分違いの恋を乗り越え結婚された。
それが男爵令嬢だった母君にとっては自分の人生で唯一の自慢だったのだろう。
女は自分より身分が高い者に望まれて結婚することが幸せだ。
そして、そのために努力を惜しんではいけないと自分が亡くなる直前までお嬢さまに散々言い聞かせ続けた。
確かに母君がお嬢さまに教えたことは間違いではない。
白い結婚になるよりは愛し合っての結婚が良いに決まっている。
しかし、お嬢さまはそれを湾曲して受け取った。
侯爵令嬢である自分より下の身分の者とは結婚する価値などない。
自分は王族や公爵にのみ愛されるべき人間なのだ。
そのためには邪魔者はどんな手を使っても全て排除する――と。
成人を迎え、侯爵令嬢であるお嬢さまには毎日のように縁談話が持ち上がったが、その偏った価値観で侯爵家以下の身分からの縁談はことごとく否の返事をし断り続けた結果、お嬢さまに縁談話は一切来なくなった。
そのことに頭を痛めた旦那さまが頭を下げ、陛下のお妃候補に名を連ねさせてもらったというのに、そのことがお嬢さまの偏った考えを助長させることになってしまったのは旦那さまが本当に御可哀想だった。
お嬢さまは自分が陛下のお妃候補になったというだけで自分が王妃になると思い込んでしまったのだ。
陛下に別のお妃が決まった時に王都まで乗り込んで武器を持ち込んで暴れ、王室騎士団に取り押さえられる事態になり、慌てて王都までお嬢さまを迎えに行った旦那さまの憔悴しきった顔は今でも忘れられない。
本来ならば赦されることなど有り得ないほどの反逆行為をしでかしたのだが、旦那さまのこれまでの功績に免じて陛下が御赦しくださったのだ。
溺愛されていると王都中で噂の王妃さまを襲おうとしたお嬢さまを御赦しくださるなんて……。
私には陛下がそれほどまでに旦那さまの功績に恩を感じてくださっていたのだと嬉しく思えた瞬間でもあった。
その事件の後、旦那さまはお嬢さまを屋敷に閉じ込め、自分がしたことの罪の重さを渾々と訴え続けた。
しかし、それが耳に入っていたのかどうか……。
今思えばお嬢さまの耳には何も入っていなかったのだろう。
私は前侯爵の執事をしていた父の影響で侯爵家で旦那さま――その頃はルークさまと呼んでいた――と共に幼少期を過ごした。
子どもの頃は一緒に勉強をし、遊び、共に寝ることもあった。
初めて会った時から、私に対していつも優しいルークさまに仄かな恋心を抱いていたが、如何せん私はただの執事の子。
父は伯爵家の三男であったが、それでもルークさまとの身分違いは言わずもがな。
私は一生ルークさまにお仕えできたらそれでいい……そう思っていた。
ルークさまは成人され、すぐに同じ侯爵家のアビーさまとご結婚された。
ご結婚後すぐに前侯爵が亡くなりルークさまが後を継がれ、レナゼリシア侯爵家の正式な当主となった。
アビーさま……奥さまはドレスや宝石よりも領地経営が楽しいという珍しい女性だったが、このレナゼリシア侯爵家を旦那さまと共に守り立てる素晴らしい女性だった。
身体が弱く、お子さまはパメラさまおひとりしか望めなかったが、後継となる子どもが生まれたことで安心したのか、その後は旦那さまと共に領地経営に勤しんでいた。
私は執事の職と兼任でお嬢さまの御世話係に任命された。
お二人の子の成長を間近で見ることに些か躊躇いもあったが、旦那さま自らのお願いだとあっては断る理由がない。
レナゼリシア侯爵家の後継者であるお嬢さまを一生懸命お世話してきたが、前述の通り、お嬢さまには私の言葉は一切響かず、あんな女性に育ってしまった。
もしかしたら、お嬢さまがあんな風に育ってしまったのは私のせいかもしれない。
旦那さまの子だと思って大切に大切に愛しんで育ててきたが、もっと厳しく育てた方がよかったのだろう。
今後悔してもあまりにも遅すぎるのだが……。
お嬢さまが事件を起こしたすぐ後に元々身体の弱かった奥さまが亡くなり、旦那さまへ後妻を求める声が上がり始めた。
この広大なレナゼリシア領を統治していくためには亡き奥さまのように二人三脚で守り立てていってくれる人が必要だ。
お嬢さまに縁談が来ない今、旦那さまに伴侶を求める方が手っ取り早いと思ったのだろう。
しかし、旦那さまはどんなにいい縁談にも首を縦には振らなかった。
旦那さまは奥さま――アビーさまを今でも愛していらっしゃるのだ。
死してなお、愛され続けるアビーさまが羨ましくて……どうしようもない旦那さまへの思いについ魔がさして、あの日私は旦那さまの下着を盗み出した。
我慢できない昂りを抑えるためにそれをおかずに自慰に耽っていたのを、あろうことかお嬢さまに見られてしまい、その日から私は御世話係からお嬢さまの下僕へと成り下がった。
それからはお嬢さまにどんなに無理難題を言われても
――お父さまにあのことを言うわよ
そう言われれば否とは言えなくなった。
たとえよからぬことを企んでいると思っても私はそれに従うことしかできない。
旦那さまにあんな邪な気持ちを抱いたことを知られたくないのだ。
もし知られて傍にいられなくなったら私はもう生きてはいけない。
それほどまでに旦那さまを愛しているのだ。
旦那さまに会えなくなるくらいなら、お嬢さまの言うことを聞くくらいどうとでもなる。
その一心だった。
お嬢さまは毎日旦那さまがシャワーに行かれた時に執務室に入りたいと言う。
本来ならば勝手に入れていい場所ではないが、お嬢さまに言われれば仕方がない
部屋の様子を覚えておいて、お嬢さまを部屋に入れる。
私はお嬢様が出てくるまで部屋の前で誰か来ないかを見張っている。
大体時間にして5分ほどだろうか。
お嬢さまが部屋から出た後に動かしたであろう箇所を片付ける、それが私の日課になりつつあった。
しかし、あの日は長かった。
もうすぐ旦那さまがシャワーから出てくる時間になってもお嬢さまは出てこようとしない。
痺れを切らして中に入ると、お嬢さまは一心不乱に何かを読み耽っていた。
「お嬢さま。そろそろ旦那さまが来られます」
声をかけると身体をびくりと震わせ、持っていた紙が手から滑り落ちた。
ひらひらと私の目の前に落ちてきた紙は、陛下からの先触れだった。
「お嬢さま。これを読まれたのですか?」
「ふん。いいじゃない。陛下がうちに来るっていうだけの話よ。大したことは書かれてないわ」
そそくさと執務室を出ていったお嬢さまを見送りながら、私はもう一度先触れを見直した。
今日陛下から届いた内容は、今度の視察に陛下の遠縁である遠国の公爵さまとその奥方さまを同行させる旨が記されていただけだ。
お嬢さまが気になるような点は特になかったと思うが……。
何をあんなに真剣に読まれていたのだろう?
お嬢様が起こした事件から3年。
気になるといえば、その点か……。
この家に王妃さまがおいでになる。
あの事件のことを王妃さまがご存知かはわからないが、あれから初めてお会いするのだ。
お嬢さまは何かを企んでいないだろうか?
もし、何か起こそうと思っているのなら今度は止めなければいけない。
いくら旦那さまの功績があろうとも陛下の恩赦は二度はないだろう。
お嬢さまはともかく旦那さまに処罰が下るようなことはあってはならない。
私が旦那さまをお守りしなければ……。
「ヴォルフ。ここで何をしている?」
「あっ、旦那さま。は、はい。あの、今日の先触れを見直しておりました」
突然の声に驚いて思わず声が上擦ってしまったが気づかれてはいないだろうか?
「そうか。この地に陛下と王妃さまが来られるのは1年半ぶりだ。
しかも、遠縁の公爵さまと奥方さままでお連れになる。それだけ我が領地に目をかけてくださっていると言うことだ。
絶対に今回の視察は成功させなければいけない。わかっているな」
「はい。もちろんでございます」
「うむ。ならいいが……。ヴォルフ、お前……パメラをこの部屋に入れているようだが、何を考えている?」
「――っ!」
まさか気付かれていたとは……。
血の気がひく思いだった。
みるみるうちに青褪める私を見て旦那さまも驚かれたようだ。
「ヴォルフ、お前……パメラに何か脅されているのか?
お前が私に無断で事を起こすなどそれしか考えられん。
ヴォルフ、正直に言え。私はお前の言うことを信じる」
真っ直ぐな目で私を見つめる旦那さまは、幼少の時から何も変わってはいない。
変わったのは私だけだ。
旦那さまにも言えないことをして何とかやり過ごそうとさえ思ってしまった。
もうこれ以上、旦那さまに嘘はつけない。
「申し訳ございません。
私は……旦那さまをお慕いしております。
ですが、旦那さまが今でも奥さまを愛していらっしゃるのはわかっております。
ただ旦那さまのお傍に居させていただくだけで幸せでございました。
ですが……内に秘めておりました旦那さまへの思いを……お嬢さまに知られてしまいまして……それで……」
「それでパメラに言うことを聞けと脅されたのか?」
「申し訳ございません。旦那さまと奥さまを裏切るようなことを……」
私は床に座り込んで土下座をしながら謝り続けた。
しかし、許しを請うことはやめた。
私は許されざることをしたのだから、許してもらう必要はないのだ。
旦那さまと離れてしまうのは死ぬよりも辛いことだが、もうここには居られない。
「今日中にここを出ていきます」
力の入らない足を叱咤しながら必死に立ち上がろうとする私の前に旦那さまが立ちはだかった。
「なぜお前が出ていかなければいけないのだ?」
「えっ? ですが私は旦那さまに邪な思いを……」
「人の思いを制限することなどできるはずがなかろう? それに……」
旦那さまはしゃがみこんで私の手を取り、
「私はお前の気持ちが嬉しい」
とにこやかな笑顔を見せてくれた。
いつだって優しい旦那さまのことだ。
きっと私を傷つけないための方便だろう。
だって旦那さまは奥さまをずっと愛しているのだから……。
それでもその優しさが嬉しかった。
繋がれた手をグイッと引っ張られ、私は旦那さまの胸へと飛び込んだ。
「私にはヴォルフ、お前が必要だ。
これからもずっと傍にいてもらわなければ困る。
出ていくなどと言わないでくれ」
ああ、なんて優しいんだろう。
こんなことを言われてはこの手を離すことなど出来るはずがない。
「はい。旦那さま。
旦那さまが手をお離しになるその日まで私はお仕えさせていただきます」
私の言葉に旦那さまは安堵の表情をして、無意識のままに頬を伝っていた私の涙をそっと指で拭い取りながら、
「パメラが申し訳ないことをしたな。
人の気持ちを脅しの材料に使うなどとんでもない。
ヴォルフ……悪かったな」
と気遣ってくれた。
旦那さまはどこまで優しいのだろう。
私はせっかく拭い取ってもらった涙がまた溢れてしまっていた。
「それで今日はパメラはこの部屋で何をしていたのだ?」
「は、はい。熱心にこちらを見ておいででした」
私は手に持ったままになっていた陛下からの先触れを手渡した。
旦那さまはそれをじっくりと読んでから
「パメラはこの公爵さまの方によからぬ事を企んでいるのではないか?」
と眉を顰めた。
「まさか! 奥方さまもご一緒においでになると言うのにそんなこと……」
「ならば良いのだが……。ヴォルフ、パメラから何か言われたらすぐに私に報告してくれ」
「畏まりました」
それから数日はお嬢さまから何も言われる事はなかったが、明日陛下とお連れさまがおいでになるという最後の先触れが届くとお嬢さまはニヤリと笑って私に近づいてきた。
そして、明日陛下とお連れさまに出すハーブティーを公爵さまの奥方さまの分だけ濃くして出すように指示されたのだ。
ハーブティーに慣れない方の為に薄く淹れてはいるものの、本来なら濃く出す方が美味しい。
奥方さまにだけ美味しいハーブティーをお出しすることに何の意味があるのだろうか?
私は訳がわからなかったが、とりあえず旦那さまに報告しておくことにした。
「旦那さま、お嬢さまから……」
先程の話を詳しく報告すると、旦那さまは顎に手を当て『うーん』と考え込んで、『まさか……』と小さく呟いた。
「パメラから夜会の時に何かを頼まれるかもしれない。その時はすぐに報告してくれ!」
「か、畏まりました」
旦那さまの勢いに少し驚いたものの、旦那さまがお嬢さまの意図を感じ取ったらしいのはわかった。
お嬢さまは何を考えているのだろう。
この侯爵家での滞在が何とか無事に終わるのを祈るしかない。
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