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約束の前に

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「八尋さん」

その声に振り向くと洗濯物の籠を持った女性が立っていた。

「あっ、景山かげやまさん。いつも母がお世話になっています」

看護師と介護士の資格を持った彼女には、もう随分長いこと専属で母の世話を頼んでいる。
気さくで明るい彼女のことは母も気に入っていて、彼女がいてくれるから私も安心して離れていられるんだ。

「もう、お帰りになるんですか?」

「ええ。全ての話は終わりましたから。あの、景山さんに一つお願いがあるんです」

「私に? なんでしょうか?」

「近々、母を転院させようと思っています」

「えっ? そうなんですか?」

「ええ。実はこの度、母と父が離婚することになりました。それで、もう母と接触させたくないと考えています。ですが、ここは元々父が探してきた病院でしたから、何かあれば母に会いに来るかもしれません」

逮捕されて、もう当分は出てくることはないだろう。
そして、出てきたとしても日の当たる場所は歩けないようにするつもりだけれど、万が一ということもある。
それに母にはもう何もかも忘れて、残りの人生を悔いなく生きてほしい。
そのためには彼女の存在が不可欠だ。

「なるほど。それで転院ですか」

「ええ。それで景山さんにも母と一緒に新しい病院について行って欲しいんです。引越し費用も全て私が負担しますので、母のことをお願いできませんか?」

「大丈夫です。八尋さん、私にお任せください」

「即決して、いいんですか?」

こんなにも即決してくれるとは思わなかったが、ありがたい。

「ええ。私は独り身で身軽ですから、引っ越しもすぐにできますし、何より私が靖子さんと離れたくないんです。靖子さんのことは最期まで私が面倒を見るつもりですよ」

「景山さん、ありがとうございます。もう転院先には話を通しているので、すぐにでも転院可能です。景山さんの了承を得るまで母にも内緒にしていましたから、一両日中に病院から母に転院の話があると思いますので、景山さんも一緒だと母を安心させてやってください」

「わかりました」

景山さんの笑顔にスッと肩の荷が下りたような気がした。
ああ、これでもう心配事は完全に無くなったな。

「そのほか、詳細が決定しましたら、いつものようにメールでご連絡します。新居も病院の近くに探していますので、後でURLをお送りしますね」

「ふふっ。さすが八尋さん。仕事が早いですね。八尋さんが見つけてくださった家なら安心です」

「そう仰っていただけるとホッとしますよ。では母のこと、よろしくお願いします」

そう言って、彼女と別れた。

病院を出ると、燦々と降り注ぐ太陽の光を感じた。
西表よりは随分と柔らかいが、久しぶりに一息ついた私の目には輝いて見えた。

安慶名さんたちとの約束の時間にはまだ早いが、他にも寄るところがある。
私は一足早く電車に乗って表参道に向かった。

久しぶりの電車は相変わらず混雑していたが、ピークの時間と比べれば空いている方に入るだろう。
平松くんはもっと混雑した時間に乗っていたのかと思うと、昔のこととはいえ心配になってしまう。
自分のことには驚くほど鈍感だから、本当に倉橋くんに誘ってもらって西表に移り住んでよかった。

遠く離れていてもいつだって頭の中は平松くんのことでいっぱいだ。
ああ、早く帰りたい。


その後一度の乗り換えをして、表参道に到着した私はある店を訪ねた。

「いらっしゃいませ」

「すみません、連絡をしていた八尋です」

「ああ、お待ちしていましたよ。それはお品物を拝見いたします」

私は胸元から例の時計を取り出し、店主が渡してくれたベルベットのケースにそっと置いた。

「大切なもののようですね」

「ええ。私の大事な人が父親から譲り受けた形見の品なんです」

「ああ。なるほど。だからでしょうね。とても愛着を持って使ってくださったのがよくわかります。私も大切に修理させていただきますね。一時間ほどで終わると思いますがお待ちになりますか?」

「いえ、後で受け取りにきます。よろしくお願いします」

一度その店を出て、自分が朝から何も食べていなかったことに気がついた。

もうすでにランチタイムの時間になっていたから並ぶのも面倒で目に入った定食屋に入ったが、

「いらっしゃいませ~。そちらのカウンターにどうぞ」

と奥さんらしい女性の元気な声に案内されて、席に着いた。

メニューを見て、一番最初に目に入った天ぷらと刺身の定食を頼み、ついでに味噌汁は豚汁にした。

考えてみたら、しっかりとした食事をとるのは東京に来て初めてかもしれない。
変なものを入れられているかもしれないと思うと食も進まなかったしな。

店に来て初めてかなり腹が減っていることに気づくなんて、相当気が張っていたのだろう。

「お待たせしましたー」

ほかほかと湯気が立っているご飯を一口食べると、いい炊き加減に顔が緩む。
そこからは勝手に手が動くという言葉が合うように、ひたすらに食べ続けあっという間に完食した。

食べ物を食べて力が漲るというのはこういうことを言うのだろう。

私は大満足のうちに店を出た。

また約束の時間までは余裕がある。
先に平松くんの服を選びに行こうか。

前もって安慶名さんから聞いていたおすすめの店はここからそこまで離れていない。
私は足取り軽く、その店に向かった。
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