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ひかるの答えは……
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<side征哉>
谷垣くんが部屋に入ってくる瞬間、ひかるは隣に座る私の袖をそっと掴んだ。
少し震えているようなその仕草に不安が込み上げる。
私はひかるにひどいことをさせようとしているのではないか。
大丈夫とは言っていてもやはり怖がっているのではないか。
そんな思いでいっぱいになる。
「ひかる、もっと私の腕を掴んでいていいよ」
そういうと、ひかるは少しホッとしたように私の腕に縋りついた。
震えも止まっていることに私も安堵した。
上田くんと共に入ってくる彼は、以前仕事上で会った時よりも憔悴しているように見える。
元々線の細い彼だったが、ここ数日でかなり痩せたのかもしれない。
上田くんから促され、谷垣くんが我々の前にやってくる。
ひかるを驚かせるだけだから、土下座をしたり、大声を出したりすることはやめて欲しいと忠告していたおかげで、彼は静かに、そして、必死な様子で
「こ、この度は私の不注意で取り返しのつかない大怪我をさせてしまいましたことを心からお詫びいたします。本当に申し訳ありません」
と謝罪の言葉を述べ、深々と頭を下げた。
ガクガクと足を震わせながら、頭を下げ続けたままの彼にひかるはなんと返すだろうかと窺っていると、
「あ、あの……頭を、あげてください……」
と優しい声をかけていた。
その表情はとても柔らかく、先ほどまで不安がっていた様子とは雲泥の差だ。
ひかるの笑顔に彼もまた驚きを隠しきれない様子だ。
それはそうだろう。
これだけ大怪我を負わされた相手に、誰がこんな笑顔を向けるものか。
その女神のような微笑みに、彼は茫然とひかるを見つめていた。
「僕、感謝してるんです。あなたがすぐに救急車を呼んでくれたから、僕こうしてここにいられるんですよ。生まれて初めて、生きててよかったって……本当に思ってるんです」
この言葉はひかるの心からの言葉だろう。
生きていてよかった……きっとひかるの中に芽生えた初めての感情に違いない。
毎日、その日を乗り越えることだけを目標に生きてきたひかるの生活には決して現れなかった感情。
それを初めて知ることができたのだ。
谷垣くんは、ひかるの言葉をどこまで理解したかわからないが、ひかるの背景を全く知らなくても、今の言葉の重みにはきっと気づいたはずだ。
だからこそ、溢れ出る涙を抑えきれなかったのだろう。
そんな彼にさっと上田くんがハンカチを差し出し、肩をポンポンと叩く。
ハンカチを差し出すだけならともかく、上田くんが肩を叩いて宥めるなんて……そんなことをするタイプではなかったのだが、何か心境の変化でもあったのだろうか?
とはいえ、谷垣くんと依頼人以外の関係でもあるようには見えないし……気になるな。
後で少し話をしてみるとするか。
谷垣くんの気持ちが落ち着いたところで、ひかるに大事な話をしなければいけない。
「ひかる……。ひかるのこれからのことで大事な話があるのだが、聞いてくれるか?」
私の言葉に一瞬不安げな表情をしたが、健気にもひかるは小さく頷いてみせた。
「ひかるが嫌だと言うのなら断ってくれて構わない。正直な気持ちを教えてくれ」
そう前置きすると、谷垣くんはピクッと肩を振るわせた。
かわいそうだが、これを言わずにひかるに話をすることはできないからな。
「はい」
か細い声で返事をするひかるの手をそっと握りながら話を進める。
「ひかるがこれからまた歩けるようになるために、少しずつリハビリを始めようと思っている。以前は骨折が治ってからリハビリを開始すると言う考えもあったようだが、今はできるだけ早くリハビリを始めた方がその後の回復が早いと言われているんだ。ずっと動かさないでいると、筋力が落ちてそれこそ本当に歩けなくなってしまう。だから今のうちから少しずつリハビリを始めたい。ここまでは理解できるか?」
「はい。僕も早く自分でなんでもできるようになりたいです。お母さんや征哉さんに迷惑かけてばっかりなのは申し訳なくて……」
「ひかる。それは気にしないでいいと言っただろう? 私たちは家族なんだからな」
「はい。ごめんなさい……」
「ふふっ。謝らなくていいよ。ひかるが私たちのことを思って言ってくれるのは嬉しいよ。ありがとう」
ひかるの表情がふっと明るくなる。
それだけで幸せを感じるのだからな。
「話の続きだが、動けるようになるために身体の動かし方を教えてくれる先生を理学療法士というんだ。ひかるに専属の理学療法士をお願いしようと思っているんだが、どう思う?」
「僕の専属?」
「ああ、リハビリは毎日同じ人にお願いしたほうが、どれくらい良くなっているかを一緒にわかっていけるだろう? だから、専属の人を付けたいんだ」
「はい。僕も同じ人の方が嬉しいです」
「そうか。それでその理学療法士だが……彼・谷垣くんにお願いしようと思っているんだが、どうだろうか?」
「えっ? あの人、ですか?」
「ああ、彼は優秀な理学療法士でね、ひかるのようにもう歩けないかもしれないといわれた患者を何人も助けているんだそうだ。もし、ひかるが嫌じゃなければ彼にお願いしようと思っているんだが、ひかるの気持ちを教えてほしい」
谷垣くんは不安げにひかるを見つめているが、ひかるはなんと答えるだろう……。
ひかるの気持ちを無視してまで彼に専属になってもらうつもりはない。
あくまでもひかるの気持ちに寄り添うつもりだ。
ほんの少し私も緊張を隠せずにいると、ひかるはそんな部屋の空気を打破するように
「ぜひお願いしたいです!! 僕、精一杯頑張りますから、歩けるようになるように教えてください!!」
と明るい声で谷垣くんに声をかけた。
その瞬間、谷垣くんはまた大粒の涙を溢していた。
谷垣くんが部屋に入ってくる瞬間、ひかるは隣に座る私の袖をそっと掴んだ。
少し震えているようなその仕草に不安が込み上げる。
私はひかるにひどいことをさせようとしているのではないか。
大丈夫とは言っていてもやはり怖がっているのではないか。
そんな思いでいっぱいになる。
「ひかる、もっと私の腕を掴んでいていいよ」
そういうと、ひかるは少しホッとしたように私の腕に縋りついた。
震えも止まっていることに私も安堵した。
上田くんと共に入ってくる彼は、以前仕事上で会った時よりも憔悴しているように見える。
元々線の細い彼だったが、ここ数日でかなり痩せたのかもしれない。
上田くんから促され、谷垣くんが我々の前にやってくる。
ひかるを驚かせるだけだから、土下座をしたり、大声を出したりすることはやめて欲しいと忠告していたおかげで、彼は静かに、そして、必死な様子で
「こ、この度は私の不注意で取り返しのつかない大怪我をさせてしまいましたことを心からお詫びいたします。本当に申し訳ありません」
と謝罪の言葉を述べ、深々と頭を下げた。
ガクガクと足を震わせながら、頭を下げ続けたままの彼にひかるはなんと返すだろうかと窺っていると、
「あ、あの……頭を、あげてください……」
と優しい声をかけていた。
その表情はとても柔らかく、先ほどまで不安がっていた様子とは雲泥の差だ。
ひかるの笑顔に彼もまた驚きを隠しきれない様子だ。
それはそうだろう。
これだけ大怪我を負わされた相手に、誰がこんな笑顔を向けるものか。
その女神のような微笑みに、彼は茫然とひかるを見つめていた。
「僕、感謝してるんです。あなたがすぐに救急車を呼んでくれたから、僕こうしてここにいられるんですよ。生まれて初めて、生きててよかったって……本当に思ってるんです」
この言葉はひかるの心からの言葉だろう。
生きていてよかった……きっとひかるの中に芽生えた初めての感情に違いない。
毎日、その日を乗り越えることだけを目標に生きてきたひかるの生活には決して現れなかった感情。
それを初めて知ることができたのだ。
谷垣くんは、ひかるの言葉をどこまで理解したかわからないが、ひかるの背景を全く知らなくても、今の言葉の重みにはきっと気づいたはずだ。
だからこそ、溢れ出る涙を抑えきれなかったのだろう。
そんな彼にさっと上田くんがハンカチを差し出し、肩をポンポンと叩く。
ハンカチを差し出すだけならともかく、上田くんが肩を叩いて宥めるなんて……そんなことをするタイプではなかったのだが、何か心境の変化でもあったのだろうか?
とはいえ、谷垣くんと依頼人以外の関係でもあるようには見えないし……気になるな。
後で少し話をしてみるとするか。
谷垣くんの気持ちが落ち着いたところで、ひかるに大事な話をしなければいけない。
「ひかる……。ひかるのこれからのことで大事な話があるのだが、聞いてくれるか?」
私の言葉に一瞬不安げな表情をしたが、健気にもひかるは小さく頷いてみせた。
「ひかるが嫌だと言うのなら断ってくれて構わない。正直な気持ちを教えてくれ」
そう前置きすると、谷垣くんはピクッと肩を振るわせた。
かわいそうだが、これを言わずにひかるに話をすることはできないからな。
「はい」
か細い声で返事をするひかるの手をそっと握りながら話を進める。
「ひかるがこれからまた歩けるようになるために、少しずつリハビリを始めようと思っている。以前は骨折が治ってからリハビリを開始すると言う考えもあったようだが、今はできるだけ早くリハビリを始めた方がその後の回復が早いと言われているんだ。ずっと動かさないでいると、筋力が落ちてそれこそ本当に歩けなくなってしまう。だから今のうちから少しずつリハビリを始めたい。ここまでは理解できるか?」
「はい。僕も早く自分でなんでもできるようになりたいです。お母さんや征哉さんに迷惑かけてばっかりなのは申し訳なくて……」
「ひかる。それは気にしないでいいと言っただろう? 私たちは家族なんだからな」
「はい。ごめんなさい……」
「ふふっ。謝らなくていいよ。ひかるが私たちのことを思って言ってくれるのは嬉しいよ。ありがとう」
ひかるの表情がふっと明るくなる。
それだけで幸せを感じるのだからな。
「話の続きだが、動けるようになるために身体の動かし方を教えてくれる先生を理学療法士というんだ。ひかるに専属の理学療法士をお願いしようと思っているんだが、どう思う?」
「僕の専属?」
「ああ、リハビリは毎日同じ人にお願いしたほうが、どれくらい良くなっているかを一緒にわかっていけるだろう? だから、専属の人を付けたいんだ」
「はい。僕も同じ人の方が嬉しいです」
「そうか。それでその理学療法士だが……彼・谷垣くんにお願いしようと思っているんだが、どうだろうか?」
「えっ? あの人、ですか?」
「ああ、彼は優秀な理学療法士でね、ひかるのようにもう歩けないかもしれないといわれた患者を何人も助けているんだそうだ。もし、ひかるが嫌じゃなければ彼にお願いしようと思っているんだが、ひかるの気持ちを教えてほしい」
谷垣くんは不安げにひかるを見つめているが、ひかるはなんと答えるだろう……。
ひかるの気持ちを無視してまで彼に専属になってもらうつもりはない。
あくまでもひかるの気持ちに寄り添うつもりだ。
ほんの少し私も緊張を隠せずにいると、ひかるはそんな部屋の空気を打破するように
「ぜひお願いしたいです!! 僕、精一杯頑張りますから、歩けるようになるように教えてください!!」
と明るい声で谷垣くんに声をかけた。
その瞬間、谷垣くんはまた大粒の涙を溢していた。
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