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落ち着く香り

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平日の昼を過ぎた辺りなら、人も少ないかもしれない。
自分にそう言い聞かせて、小田切先生に教えてもらったタクシーを呼び、久しぶりに太陽が出ている時間に外に出た。

「おばあちゃんも一緒に行こうか?」

「ううん、大丈夫。一人で行ってみたい」

「そう? でも、ダメだと思ったら無理しないですぐに電話してちょうだい」

「うん、わかってる。ありがとう」

家のまえにタクシーが停まり、扉が開くよりも前に運転手さんが降りてきた。
センスのいいスーツに真っ白な手袋を身につけた爽やかな印象に警戒心が少し緩んでいくのを感じたけれど、

――っ、そうだ!
車の中で二人っきりになるんだ……。

そのことを思い出して、ちょっと怖い、かもと思ってしまった。

どうしよう……。
やっぱり今日は止めようか……。
自分でも不安定な感情にどうしていいかわからなくなる。

少し葛藤をしてしまったけれど、

「本日は私どもの車をお呼びいただきありがとうございます。小田切さまより、お送りいたします場所は伺っておりますので、ご安心くださいませ。さぁ、どうぞ」

と扉を開けてくれたので、少し恐怖は和らいだ気がした。

小田切先生が、ここまで配慮してくださっていたなんて……。
教えてもらったタクシーを呼んでよかった。

「扉お閉めいたしますね。お気をつけください」

「は、はい。ありがとうございます」

私の言葉に運転手さんは笑顔を見せると、さっと車に乗り込んだ。
おばあちゃんに見送られながら、車はゆっくりと走り出した。

運転手さんはそれからも話しかけてくることはなく、それでいてとても丁寧な運転をしてくれるので安心して乗っていられた。
しばらく走っていると車が住宅街の方に進み、タクシーが停まった。

「ここ、ですか?」

「はい。こちらが自家焙煎珈琲店 hajuハユです」

窓の外に、手入れの行き届いた庭と可愛らしいヨーロッパ調の建物が見える。
緑あふれる木々と綺麗な花、木漏れ日が差し込むテラスがなんとも美しい。
あのテラスでコーヒーを飲みながら本を読む姿を想像してしまって、思わず笑みがこぼれた。

ここだけまるで絵画の世界のような光景に

「綺麗……っ」

と心の声が漏れてしまった。

――あの店はきっと千鶴さんの憩いの店になると思います。

そう言ってくれた小田切先生の言葉が蘇る。
確かにここでなら、のんびりと時間を忘れて過ごしてみたいかも……。

「あ、おいくらですか?」

「もう代金はいただいております」

「えっ? でもそういうわけには……」

もう支払い済みだと聞かされてどうしようかと思ったけれど、ここで運転手さんに何かを言ったところで困らせてしまうだけだ。
タクシーの代金については、後で小田切先生にメッセージを送っておくとしよう。

扉を開けてもらい、お礼を言って外に出ると風に乗ってふわりと珈琲の香りが漂ってくる。
これでだけ癒される気がするな。

私が店の方に足を進めるのを確認してから、タクシーは走り去っていった。

レバーハンドルのついた少し重めの扉を開けると、カランカランと高いドアベルの音が響く。
ふふっ。
この店の雰囲気にあった音だ。可愛い。

天使がついた可愛いドアベルを見上げていると、

「いらっしゃいませ」

と優しい声が聞こえた。

「お好きなお席にどうぞ」

「あ、ありがとうございます。あの……」

「はい」

「あなたが……長瀬、さんですか?」

「いえ、私はここのスタッフです。オーナーはただいま席を外しておりますが、すぐに戻りますのでご安心ください」

「そうですか、わかりました」

優しい声をしていたから、てっきり長瀬さんだと思ってしまった。
残念。
って、なんで?
なんで今、残念だって思ったんだろう?

「こちらがメニューでございます」

「ありがとうございます」

そう返事はしつつも、私はあのコーヒーが飲みたくて仕方がなかった。

とはいえ、あれは長瀬さんがオリジナルで作ってくれたと言っていたから、注文しても長瀬さんがいないのなら受けてはもらえないだろう。
それともあのスタッフさんにも作れるのだろうか?

とりあえず、メニューをパラパラとめくっていると、シナモンロールが目に入った。
仕事に行き詰まった時、いつも会社近くのパン屋さんでシナモンロールとロイヤルミルクティを買っていた。
あれを食べると不思議とリラックスできて、気持ちの切り替えができていたことを思い出す。

コーヒーとの組み合わせで食べたことはないけれど、久しぶりに食べてみたいという気持ちが込み上げてきた。
考えてみれば、あの日以来生きていくために食事をとっていただけで、食べたいとは思ってなかった気がする。

久しぶりに感じた食欲を逃すのは勿体無い気がして、頼んでみようかと思っていると、

「んっ? これ……」

突然店内に漂ってきた香りに気がついた。

辺りを見回してみるけれど、残念ながら私の座っている位置からスタッフさんのいるカウンターは見えない。
自分がこの席を選んでしまったことを後悔しながら、その香りを楽しんでいると、誰かが近づいてくる気配を感じた。

「お待たせいたしました。オリジナルブレンドです」

カチャっと微かな音をたてながら、シンプルなのに温かみのあるコーヒーカップが目の前に置かれた。

「この香り、やっぱり……」

「覚えていてくださったんですね。千鶴さん」

「えっ……」

名前を呼ばれてそっと顔を上げると、さっきのスタッフさんとは違う人がトレイを持って立っていた。

「あ、じゃあ……あなたが」

「はい。長瀬です」

にっこりと微笑むその表情には何故か見覚えがある。
どこでだった?

すぐには思い出せないけれど、その柔らかな微笑みと優しい雰囲気に心が落ち着いていくのがわかった。
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