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もっと……キスが欲しい
しおりを挟む<side志摩>
話の流れで思わず尚孝さんに告白をしてしまった。
こんなこともいつもの自分なら信じられない。
綿密に計算して確実に良い返事がもらえるように仕向けていくのが会長秘書として培ってきたノウハウなのに。
それを活かすこともできず、自分の思いを突っ走って告白してしまうなんて……。
しかも少しでも断られる未来を無くしたくて、友達からでもなんて言ってしまった。
縋り付くような真似をして恥ずかしいと思いつつ、どうしても断られたくなかったのだ。
もし友達からとでも言ってくれたら、今度は間違えないように全ての能力を使って尚孝くんの気持ちを私に向けよう。
まぁ、たとえここで断られたとしても、私は決して諦めないけれど。
目で訴えかけながら、尚孝さんを見つめると、真っ赤な顔で
「あの、じゃあ……友達、から……」
と言ってくれた。
「よしっ!!!」
「わぁっ!!」
尚孝さんの言葉が嬉しすぎてつい抱きしめてしまっていた。
驚く尚孝さんの声に我に返ったが、せっかく腕の中にいるのに離したくないと思ってしまう。
「すみません、あまりにも嬉しすぎて……。もう少しだけこのままでいても良いですか?」
「あの……友達、からでも抱き合ったりは、普通ですか?」
「えっ?」
「あ、いえ。友達からでも、なんて言いましたけど……僕……友人も多い方ではないので……友達同士ではどこまでするのが普通なのかなって……」
「ふふっ。真面目ですね、尚孝さんは。それは人それぞれでしょう。何もスキンシップをしないのが友達だという人もいれば、手を繋ぐことや、こうして抱きしめることも友達だという人もいます。要はお互いに嫌でなければ、どれをしたって普通ですよ。私は友人関係を維持するにも愛情は必要だと思っていますから」
「友人にも、愛情?」
「ええ。一緒にいて心地良い空間を生み出せるのも相手に愛情を持っているからでしょう?」
そういうと、尚孝さんは大きく頷いた。
少なくとも尚孝さんの中に私と一緒にいて心地良いと思ってくれる気持ちがあるということだ。
「今、私に抱きしめられていて、尚孝さんは嫌ですか?」
「いや、ではないです……」
「ふふっ。なら、私たちの中ではこれが普通です。良いですか?」
「は、はい……」
少し戸惑い気味の声が聞こえるけれど、もう言質はとった。
私の腕の中にぴったりおさまる尚孝さんの感触をたっぷりと味わってから、ゆっくりと離した。
「どうでした?」
「えっ、あの……ドキドキしました、けど……」
「けど?」
「離れた今は少し寂しいです」
「くっ――!!!」
まだほんのり赤い顔で、そんなことを笑顔で言われて嬉しくないわけがない。
ああ、尚孝さんもひかるさんと同じ無自覚に煽ってくるタイプか……。
会長同様に翻弄されそうだな。
ふふっ。それが楽しいと思ってしまうのはもうすっかり尚孝さんに嵌まっているからなのだろうな。
<side志摩>
ひかるさんが一番好きだと言っていたゾウの餌やりを終えて、次に会長が連れて行ったのはぬいぐるみショップ。
ここで何か贈り物を買うつもりなのだろう。
二人で店に入って行って、しばらくして出てきたひかるさんの膝の上には少し大きめのぬいぐるみが乗せられている。
「やっぱりゾウさんでしたね。可愛らしくてひかるさんにお似合いです」
「ありがとうございます」
嬉しそうなひかるさんとは対照的に少し考え込んだ会長の様子が気になるが、ここで聞くのは憚られる。
後でメッセージででも聞いてみようか。
「では、そろそろ帰りましょうか」
駐車場に戻ると、行きと同じように助手席に尚孝さんが乗ってくれた。
今日は本当に来てよかった。
誘ってくれた会長には感謝しないといけないな。
そのまま会長のご自宅に戻りながら尚孝さんとのドライブデートを楽しむ。
「尚孝さん、この後のご予定は何かありますか?」
「いえ、あとは電車に乗って帰るだけです」
「それなら、私が車でご自宅までお送りしますよ」
「えっ、でもそんなの悪いですよ」
「ご自宅はどのあたりですか?」
そういうと無防備な彼は細かい住所を教えてくれた。
「ああ、そこなら通り道ですし、一緒の方向に帰るなら問題ないですよ。ご実家ですか?」
「いえ、ひかるくんの専属PTになって父の会社を退職したと同時に一人暮らしを始めたんです。まだ慣れないですが、意外とひとりも気楽でいいなあと思っています」
「いつもはご自宅で何をなさっているんですか?」
「そうですね、今はひかるくんの進捗状況をまとめるのが日課になっていて、それを終わらせたら映画を見たり本を読んだりして過ごしています」
「へぇ、どんなものが好みですか?」
私の問いかけになんでも答えてくれる尚孝さんは、きっと私が今何を考えているかなんて想像もしていないだろう。
こんな狼に無防備に情報を与えてはダメだと後でじっくりと教えておかなくてはな。
<side尚孝>
会長とひかるくんをご自宅で下ろすと、ひかるくんに涙の痕が見えた。
何も言わずに帰ってきたが、どうにも気になって、
「何か……あったんでしょうか?」
車に乗ってから、なんとなく感じた違和感を唯人さんに尋ねてみた。
「尚孝さんも気付きました?」
「はい。ひかるくんが泣いていたように見えたので……心配ですね」
「大丈夫ですよ。会長と大奥さまがついていらっしゃいますから」
唯人さんが僕の手をそっと握ってくれる。
今日何度も握ってくれたその優しい温もりに不安な気持ちが一気に解消されていく気がする。
「そうですね……。会長も未知子さんも、ひかるくんのことを本当の家族だと思っていらっしゃいますから」
「では行きましょうか」
唯人さんはにっこりと微笑むとそのまま車を走らせた。
あの時口頭で住所を教えたけれど、唯人さんはナビを使うこともなく、あっという間に僕のマンションに辿り着いた。
東京中の地図が頭に入っているんだろうかと驚いてしまうほどの滑らかな運転にドキドキしてしまう。
僕はあの日、事故を起こしてからハンドルを握ることが怖くなった。
次期社長として継ぐためには大型免許は必須だと言われて免許を取りにいったものの、元々乗用車の運転すら苦手意識のあった僕には大きな車を運転することは恐怖以外の何ものでもなかった。
それでもあの日は緊急事態。
大型車を運転できる人が急病になり、それでも運搬しないといけなくて僕がハンドルを握った。
最善の注意を払って慎重に運転していたつもりだったけれど、身長の低いひかるくんと未知子さんの姿が運転席からは死角になっていて見えなかった。
気づいたのは何かにぶつかったと感じた時。
急いでブレーキを踏んだけれど、その時にはもうひかるくんの足の上をタイヤが通ってしまっていた。
あの時の感触は一生忘れることはない。
だからあの日からハンドルを握れなくなった。
幸いなことに一人暮らしをしていたマンションから貴船邸までは電車で通うことができた。
あの事故を起こした日から弁護士の上田先生の車や父の車に乗ることはあったけれど、助手席であっても怖いと思う気持ちは拭えなかった。
けれど、唯人さんの助手席はずっと心地よかった。
安心感で包まれているようなそんな気がした。
もしかしたら、僕の心はずっと唯人さんを特別だとわかっていたのかもしれない。
そんなことを思いながら僕のマンションに着いた
僕をマンションの前で下ろそうとする唯人さんとなんとなく離れがたくて
「あ、あの……このマンション。お客様用の駐車場があるんです。もし、よかったら……その、うちでお茶でも飲んで行かれませんか?」
と声をかけてみた。
「いいんですか?」
「え、ええ。散らかってますが……。あ、でも予定があるのなら無理には――」
「行きます! 予定は何もありませんから。駐車場はどちらですか?」
「え? あ、はい。あちらです」
僕が案内すると、すぐにお客様用駐車場を見つけた唯人さんは鮮やかなハンドル捌きであっという間に車を停めてしまった。
その滑らかな運転に驚いている間に、唯人さんはさっと運転席から降り、助手席に回って扉を開け僕に手を差し出した。
それがあまりにも自然で僕は無意識にその手を取ってしまった。
唯人さんは嬉しそうに僕を立たせると、
「じゃあ行きましょうか」
と笑顔で入口の方に向かっていった。
「あ、あの……狭い部屋ですがどうぞ」
「お邪魔します」
玄関で靴を脱ぐ動作すらかっこいい。
そういえば……とふと気づく。
一人暮らしを始めたこのマンションに誰かを入れるのは初めてだ。
上田先生に送っていただいた時はマンションの下だったし、父に至っては来たこともない。
初めて入る人が唯人さんだなんて……それに気づいてしまって少し緊張してしまった。
「尚孝さん?」
「あ、すみません。ぼーっとしてしまって。そのまま奥に入ってもらったらリビングですから。好きなところに座ってください。僕、コーヒーでも淹れますね」
緊張を隠すように急いでキッチンに向かい、コーヒーを落とす。
インスタントではなく、ドリップなのは僕のこだわり。
心を落ち着けたい時にはいつもドリップコーヒーの落ちる音を聞くのがいい。
そっとリビングに目をやると、唯人さんがソファーに腰を下ろしているのが見える。
僕の部屋に唯人さんがいる、その事実だけで胸が熱くなる。
ぼーっと見惚れていると、
「尚孝さん? コーヒー運びましょうか?」
と唯人さんが立ち上がって僕の元に近づいてきた。
「あ、いえ。大丈夫で――あつっ!!」
「大丈夫ですか?! すぐに冷やしましょう!」
慌ててコーヒーを淹れようとして、熱くなっている場所に触れてしまった。
声をあげるとすぐに唯人さんがすぐに僕の隣に回り込み、水で冷やしてくれた。
包み込まれるように抱きしめられ、心臓が痛くなるほど鼓動が速い。
このドキドキを流れていく水音が消してくれるのが助かる。
そうでもないと、あまりにも速い鼓動が唯人さんに伝わってしまいそう。
センサー式の水道から離れるとピタッと水が止まる。
唯人さんは僕の手をまじまじと見つめ、
「よかった、水脹れにはならなそうですね。尚孝さんの綺麗な手が傷にならなくてよかったです」
とホッとしたように笑った。
「ゆい、とさん……っ」
その笑顔に吸い込まれるように僕が見上げると、そっと唯人さんの唇が落ちてきた。
チュッと重なり合うだけの優しいキス。
けれど、僕にとっては人生で初めての体験だった。
一瞬何が起こったのかもわからず、ただ茫然として唯人さんの顔が離れていくのを見つめていた。
離れたのにまだ熱い唇をそっと指でなぞる。
唯人さんの唇の感触が指にまで伝わってきてドキドキが止まらない。
「あ、あの……」
やっとのことで声を振り絞ると、今度はたくましい胸に包み込まれる。
「尚孝さん、今自分がどんな顔してるかわかりますか?」
「えっ……」
もしかしたら間抜けな顔を晒していたんだろうか?
恥ずかしい……っ。
「もっと、キスが欲しいって言ってますよ」
「――っ、そんなこと……っ」
そんなことないってそう言いたかったのに、唯人さんに見つめられると思わず目を瞑ってしまう。
でも、それはキラキラ輝く唯人さんが直視できないだけ。
なのに、
「ほら」
と唯人さんの唇が重なると何も考えられなくなる。
「んんっ……んっ」
重なり合うだけのキスが何度も角度を変えられてまるで唇を食べられているみたいだ。
気づけばそのキスにすっかり翻弄されてしまっていた。
唇を軽く噛まれるのが気持ちよくてたまらない。
もっとしてほしい……っ、
けれど、その思いとは裏腹にどんどん息苦しくなっていく。
いつの間にか掴んでいた唯人さんの服を引っ張ると、ゆっくりと唇が離れていった。
「あっ……」
息苦しさは無くなったけれど、今度は寂しさが募る。
一体僕はどうしてしまったんだろう……。
「その顔ですよ。そんな顔されると、またキスしたくなります」
「ゆい、とさん……っ」
まだ呼吸が整わないまま、目の前の唯人さんに抱きつくと、
「ああ……っ、もうっ。可愛すぎて離せないな」
と強く抱きしめられる。
「はな、さないで……っ」
「――っ!! いいんですか? もう友達からなんて、言えなくなりますよ」
そう言われて思いだす。
――あの、じゃあ……友達、から……
唯人さんからの告白に自分がそう返したことを。
「友達だと、キスはできないですか?」
「ふふっ。そうですね。一度ならまだ事故とでも言えるでしょうが、二度、三度となればそれは友達ではないでしょう? 尚孝さんはお友達とキス、しますか?」
そう尋ねられて首を横に振る。
そんなことしていたら、今までファーストキスもまだなんてあるわけない。
「でも……唯人さんとは、キス……したいです」
「そう思ってくれているということは、もう自分の気持ちもわかっているでしょう? 尚孝さんは私が好きなんですよ」
笑顔で見つめられながらそう言われて、一気に顔が赤くなる。
「尚孝さん、改めて言わせてください。あなたが好きです。私の恋人になってください」
まっすぐな目で見つめられて、真剣に愛を告白される。
そんなことが自分の人生に起こるなんて思ってもなかった。
しかもこんな素敵な人に。
「僕、なんかが隣にいてもいいんですか?」
「何言ってるんですか。尚孝さんだからそばにいたいんです。ずっと私の隣で笑顔を見せてください!」
「唯人さん……っ、はい。僕を恋人にしてください!」
「ああっ尚孝さんっ!! よかった!! 嬉しいです!!」
唯人さんが僕をギュッと抱きしめる。
ああ、あんなにもクールな唯人さんが、僕の言葉にこんなにも感情を露わにしてくれるなんて……。
僕は、本当に愛されているみたいだ。
話の流れで思わず尚孝さんに告白をしてしまった。
こんなこともいつもの自分なら信じられない。
綿密に計算して確実に良い返事がもらえるように仕向けていくのが会長秘書として培ってきたノウハウなのに。
それを活かすこともできず、自分の思いを突っ走って告白してしまうなんて……。
しかも少しでも断られる未来を無くしたくて、友達からでもなんて言ってしまった。
縋り付くような真似をして恥ずかしいと思いつつ、どうしても断られたくなかったのだ。
もし友達からとでも言ってくれたら、今度は間違えないように全ての能力を使って尚孝くんの気持ちを私に向けよう。
まぁ、たとえここで断られたとしても、私は決して諦めないけれど。
目で訴えかけながら、尚孝さんを見つめると、真っ赤な顔で
「あの、じゃあ……友達、から……」
と言ってくれた。
「よしっ!!!」
「わぁっ!!」
尚孝さんの言葉が嬉しすぎてつい抱きしめてしまっていた。
驚く尚孝さんの声に我に返ったが、せっかく腕の中にいるのに離したくないと思ってしまう。
「すみません、あまりにも嬉しすぎて……。もう少しだけこのままでいても良いですか?」
「あの……友達、からでも抱き合ったりは、普通ですか?」
「えっ?」
「あ、いえ。友達からでも、なんて言いましたけど……僕……友人も多い方ではないので……友達同士ではどこまでするのが普通なのかなって……」
「ふふっ。真面目ですね、尚孝さんは。それは人それぞれでしょう。何もスキンシップをしないのが友達だという人もいれば、手を繋ぐことや、こうして抱きしめることも友達だという人もいます。要はお互いに嫌でなければ、どれをしたって普通ですよ。私は友人関係を維持するにも愛情は必要だと思っていますから」
「友人にも、愛情?」
「ええ。一緒にいて心地良い空間を生み出せるのも相手に愛情を持っているからでしょう?」
そういうと、尚孝さんは大きく頷いた。
少なくとも尚孝さんの中に私と一緒にいて心地良いと思ってくれる気持ちがあるということだ。
「今、私に抱きしめられていて、尚孝さんは嫌ですか?」
「いや、ではないです……」
「ふふっ。なら、私たちの中ではこれが普通です。良いですか?」
「は、はい……」
少し戸惑い気味の声が聞こえるけれど、もう言質はとった。
私の腕の中にぴったりおさまる尚孝さんの感触をたっぷりと味わってから、ゆっくりと離した。
「どうでした?」
「えっ、あの……ドキドキしました、けど……」
「けど?」
「離れた今は少し寂しいです」
「くっ――!!!」
まだほんのり赤い顔で、そんなことを笑顔で言われて嬉しくないわけがない。
ああ、尚孝さんもひかるさんと同じ無自覚に煽ってくるタイプか……。
会長同様に翻弄されそうだな。
ふふっ。それが楽しいと思ってしまうのはもうすっかり尚孝さんに嵌まっているからなのだろうな。
<side志摩>
ひかるさんが一番好きだと言っていたゾウの餌やりを終えて、次に会長が連れて行ったのはぬいぐるみショップ。
ここで何か贈り物を買うつもりなのだろう。
二人で店に入って行って、しばらくして出てきたひかるさんの膝の上には少し大きめのぬいぐるみが乗せられている。
「やっぱりゾウさんでしたね。可愛らしくてひかるさんにお似合いです」
「ありがとうございます」
嬉しそうなひかるさんとは対照的に少し考え込んだ会長の様子が気になるが、ここで聞くのは憚られる。
後でメッセージででも聞いてみようか。
「では、そろそろ帰りましょうか」
駐車場に戻ると、行きと同じように助手席に尚孝さんが乗ってくれた。
今日は本当に来てよかった。
誘ってくれた会長には感謝しないといけないな。
そのまま会長のご自宅に戻りながら尚孝さんとのドライブデートを楽しむ。
「尚孝さん、この後のご予定は何かありますか?」
「いえ、あとは電車に乗って帰るだけです」
「それなら、私が車でご自宅までお送りしますよ」
「えっ、でもそんなの悪いですよ」
「ご自宅はどのあたりですか?」
そういうと無防備な彼は細かい住所を教えてくれた。
「ああ、そこなら通り道ですし、一緒の方向に帰るなら問題ないですよ。ご実家ですか?」
「いえ、ひかるくんの専属PTになって父の会社を退職したと同時に一人暮らしを始めたんです。まだ慣れないですが、意外とひとりも気楽でいいなあと思っています」
「いつもはご自宅で何をなさっているんですか?」
「そうですね、今はひかるくんの進捗状況をまとめるのが日課になっていて、それを終わらせたら映画を見たり本を読んだりして過ごしています」
「へぇ、どんなものが好みですか?」
私の問いかけになんでも答えてくれる尚孝さんは、きっと私が今何を考えているかなんて想像もしていないだろう。
こんな狼に無防備に情報を与えてはダメだと後でじっくりと教えておかなくてはな。
<side尚孝>
会長とひかるくんをご自宅で下ろすと、ひかるくんに涙の痕が見えた。
何も言わずに帰ってきたが、どうにも気になって、
「何か……あったんでしょうか?」
車に乗ってから、なんとなく感じた違和感を唯人さんに尋ねてみた。
「尚孝さんも気付きました?」
「はい。ひかるくんが泣いていたように見えたので……心配ですね」
「大丈夫ですよ。会長と大奥さまがついていらっしゃいますから」
唯人さんが僕の手をそっと握ってくれる。
今日何度も握ってくれたその優しい温もりに不安な気持ちが一気に解消されていく気がする。
「そうですね……。会長も未知子さんも、ひかるくんのことを本当の家族だと思っていらっしゃいますから」
「では行きましょうか」
唯人さんはにっこりと微笑むとそのまま車を走らせた。
あの時口頭で住所を教えたけれど、唯人さんはナビを使うこともなく、あっという間に僕のマンションに辿り着いた。
東京中の地図が頭に入っているんだろうかと驚いてしまうほどの滑らかな運転にドキドキしてしまう。
僕はあの日、事故を起こしてからハンドルを握ることが怖くなった。
次期社長として継ぐためには大型免許は必須だと言われて免許を取りにいったものの、元々乗用車の運転すら苦手意識のあった僕には大きな車を運転することは恐怖以外の何ものでもなかった。
それでもあの日は緊急事態。
大型車を運転できる人が急病になり、それでも運搬しないといけなくて僕がハンドルを握った。
最善の注意を払って慎重に運転していたつもりだったけれど、身長の低いひかるくんと未知子さんの姿が運転席からは死角になっていて見えなかった。
気づいたのは何かにぶつかったと感じた時。
急いでブレーキを踏んだけれど、その時にはもうひかるくんの足の上をタイヤが通ってしまっていた。
あの時の感触は一生忘れることはない。
だからあの日からハンドルを握れなくなった。
幸いなことに一人暮らしをしていたマンションから貴船邸までは電車で通うことができた。
あの事故を起こした日から弁護士の上田先生の車や父の車に乗ることはあったけれど、助手席であっても怖いと思う気持ちは拭えなかった。
けれど、唯人さんの助手席はずっと心地よかった。
安心感で包まれているようなそんな気がした。
もしかしたら、僕の心はずっと唯人さんを特別だとわかっていたのかもしれない。
そんなことを思いながら僕のマンションに着いた
僕をマンションの前で下ろそうとする唯人さんとなんとなく離れがたくて
「あ、あの……このマンション。お客様用の駐車場があるんです。もし、よかったら……その、うちでお茶でも飲んで行かれませんか?」
と声をかけてみた。
「いいんですか?」
「え、ええ。散らかってますが……。あ、でも予定があるのなら無理には――」
「行きます! 予定は何もありませんから。駐車場はどちらですか?」
「え? あ、はい。あちらです」
僕が案内すると、すぐにお客様用駐車場を見つけた唯人さんは鮮やかなハンドル捌きであっという間に車を停めてしまった。
その滑らかな運転に驚いている間に、唯人さんはさっと運転席から降り、助手席に回って扉を開け僕に手を差し出した。
それがあまりにも自然で僕は無意識にその手を取ってしまった。
唯人さんは嬉しそうに僕を立たせると、
「じゃあ行きましょうか」
と笑顔で入口の方に向かっていった。
「あ、あの……狭い部屋ですがどうぞ」
「お邪魔します」
玄関で靴を脱ぐ動作すらかっこいい。
そういえば……とふと気づく。
一人暮らしを始めたこのマンションに誰かを入れるのは初めてだ。
上田先生に送っていただいた時はマンションの下だったし、父に至っては来たこともない。
初めて入る人が唯人さんだなんて……それに気づいてしまって少し緊張してしまった。
「尚孝さん?」
「あ、すみません。ぼーっとしてしまって。そのまま奥に入ってもらったらリビングですから。好きなところに座ってください。僕、コーヒーでも淹れますね」
緊張を隠すように急いでキッチンに向かい、コーヒーを落とす。
インスタントではなく、ドリップなのは僕のこだわり。
心を落ち着けたい時にはいつもドリップコーヒーの落ちる音を聞くのがいい。
そっとリビングに目をやると、唯人さんがソファーに腰を下ろしているのが見える。
僕の部屋に唯人さんがいる、その事実だけで胸が熱くなる。
ぼーっと見惚れていると、
「尚孝さん? コーヒー運びましょうか?」
と唯人さんが立ち上がって僕の元に近づいてきた。
「あ、いえ。大丈夫で――あつっ!!」
「大丈夫ですか?! すぐに冷やしましょう!」
慌ててコーヒーを淹れようとして、熱くなっている場所に触れてしまった。
声をあげるとすぐに唯人さんがすぐに僕の隣に回り込み、水で冷やしてくれた。
包み込まれるように抱きしめられ、心臓が痛くなるほど鼓動が速い。
このドキドキを流れていく水音が消してくれるのが助かる。
そうでもないと、あまりにも速い鼓動が唯人さんに伝わってしまいそう。
センサー式の水道から離れるとピタッと水が止まる。
唯人さんは僕の手をまじまじと見つめ、
「よかった、水脹れにはならなそうですね。尚孝さんの綺麗な手が傷にならなくてよかったです」
とホッとしたように笑った。
「ゆい、とさん……っ」
その笑顔に吸い込まれるように僕が見上げると、そっと唯人さんの唇が落ちてきた。
チュッと重なり合うだけの優しいキス。
けれど、僕にとっては人生で初めての体験だった。
一瞬何が起こったのかもわからず、ただ茫然として唯人さんの顔が離れていくのを見つめていた。
離れたのにまだ熱い唇をそっと指でなぞる。
唯人さんの唇の感触が指にまで伝わってきてドキドキが止まらない。
「あ、あの……」
やっとのことで声を振り絞ると、今度はたくましい胸に包み込まれる。
「尚孝さん、今自分がどんな顔してるかわかりますか?」
「えっ……」
もしかしたら間抜けな顔を晒していたんだろうか?
恥ずかしい……っ。
「もっと、キスが欲しいって言ってますよ」
「――っ、そんなこと……っ」
そんなことないってそう言いたかったのに、唯人さんに見つめられると思わず目を瞑ってしまう。
でも、それはキラキラ輝く唯人さんが直視できないだけ。
なのに、
「ほら」
と唯人さんの唇が重なると何も考えられなくなる。
「んんっ……んっ」
重なり合うだけのキスが何度も角度を変えられてまるで唇を食べられているみたいだ。
気づけばそのキスにすっかり翻弄されてしまっていた。
唇を軽く噛まれるのが気持ちよくてたまらない。
もっとしてほしい……っ、
けれど、その思いとは裏腹にどんどん息苦しくなっていく。
いつの間にか掴んでいた唯人さんの服を引っ張ると、ゆっくりと唇が離れていった。
「あっ……」
息苦しさは無くなったけれど、今度は寂しさが募る。
一体僕はどうしてしまったんだろう……。
「その顔ですよ。そんな顔されると、またキスしたくなります」
「ゆい、とさん……っ」
まだ呼吸が整わないまま、目の前の唯人さんに抱きつくと、
「ああ……っ、もうっ。可愛すぎて離せないな」
と強く抱きしめられる。
「はな、さないで……っ」
「――っ!! いいんですか? もう友達からなんて、言えなくなりますよ」
そう言われて思いだす。
――あの、じゃあ……友達、から……
唯人さんからの告白に自分がそう返したことを。
「友達だと、キスはできないですか?」
「ふふっ。そうですね。一度ならまだ事故とでも言えるでしょうが、二度、三度となればそれは友達ではないでしょう? 尚孝さんはお友達とキス、しますか?」
そう尋ねられて首を横に振る。
そんなことしていたら、今までファーストキスもまだなんてあるわけない。
「でも……唯人さんとは、キス……したいです」
「そう思ってくれているということは、もう自分の気持ちもわかっているでしょう? 尚孝さんは私が好きなんですよ」
笑顔で見つめられながらそう言われて、一気に顔が赤くなる。
「尚孝さん、改めて言わせてください。あなたが好きです。私の恋人になってください」
まっすぐな目で見つめられて、真剣に愛を告白される。
そんなことが自分の人生に起こるなんて思ってもなかった。
しかもこんな素敵な人に。
「僕、なんかが隣にいてもいいんですか?」
「何言ってるんですか。尚孝さんだからそばにいたいんです。ずっと私の隣で笑顔を見せてください!」
「唯人さん……っ、はい。僕を恋人にしてください!」
「ああっ尚孝さんっ!! よかった!! 嬉しいです!!」
唯人さんが僕をギュッと抱きしめる。
ああ、あんなにもクールな唯人さんが、僕の言葉にこんなにも感情を露わにしてくれるなんて……。
僕は、本当に愛されているみたいだ。
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